カチチ
夕方。
閉め切った部屋の隙間。
血のような西日が差し込んでいた。
「ごめん、涼子。最近バタバタしててさ」
受話器の向こう。
親友の声は、今にも消え入りそうなほどだった。
『ううん、大丈夫……』
かすかに、呼吸が切れている。
「結果はどうだった?」
『……心臓病だった。医者は、早期発見で運が良かったって言うけど』
「そう。それなら安心だね」
『……ユイ、私、結婚を止めようか悩んでる』
指先で弄んでいたUSBメモリの金属面。
赤い西日が反射して、潰れかけた網膜を刺す。
スロットに差し込む。
残された指が、本命を掴む。
「どうして?」
『彼にこれ以上、負担をかけたくないの。……私の周り、不幸ばかりで。あ、ごめん……』
スピーカーから漏れ出す、湿った嗚咽。
本当なら、今すぐこの親友に駆けつけて、抱きしめたかった。
だが、氷室の胸は、もう何の感情も呼び起こさない。
壊れた硝子のような瞳。
もう、他人の痛みが分からない。
『彼のね、お姉さんとお兄さん……立て続けに亡くなったの。それで、今度は私。これ以上、彼を悲しませられないよ……』
涼子の語る事実。
氷室の頭脳で急速に並べ替えられていく。
婚約者とその一族を襲う、連続死。
そして、涼子の突然の発病。
繋がる。
世界が、明確な殺意を持っている。
『福止め死』だ。
『ユイ、一つだけ教えて?』
「どうした?」
――くるくる。
指先で弄ぶ冷たい鋼を、しっかりと掴む。
『ユイ、本当に変わってない?』
「ああ、変わらないよ」
短い、張り詰めた沈黙。
『……ユイはさ、私が検査を受ける前に、心臓の病気を言い当てたよね』
受話器の向こうから、冷たい疑惑が滴り落ちる。
『私の婚約者……真壁悠人がさ。すごく、不思議がってるの。なんで分かったんだって』
真壁悠人。
面識のない、あの、営業。
因果の糸が、氷室の身辺へ明確に収束していた。
『悠人くんのお兄さんは、ユイの自宅前で事故。お姉さんの英子さんは、ユイの近くのお弁当屋さん。……おかしいよ。ユイの周りで、不幸が起きすぎてる』
『ねえ、ユイ。本当のことを教えて』
「何だ?」
『いま、誰と話してるのか分からない。……怖いよ』
指先で弄んでいた、それ――カッターナイフを、強く握りしめる。
金属の冷たさが、手のひらに食い込む。
カチ。
カチ、カチ。
暗い部屋に、刃がせり出す金属音だけが響く。
『ユイ……変わっちゃったよ』
「ああ。そうだな」
取り繕うための仮面は、もう摩耗して消えた。
自分の唇から漏れる声すら、どこか遠い他人のもののように聞こえていた。
「涼子。正直に言う。もう、分からないんだ。眼も、自分が誰なのかも」
崩壊を始めた肉体と、世界に喰われた精神。
「怖がらせてごめん。だから、いまは会えない。でも、心配するな」
氷室の瞳に、昏い光が宿る。
「もう少しで、みんな幸せにするから」
指を滑らせ、通話を切る。
泥のような静寂。
左手の中にある、カッターナイフ。
真壁英子を狂わせ、死へ叩き落とした、あの狂気の残滓がここにある。
カチチッ。
押し上げていたスライダーを戻し、刃を収める。
明日。
これで、殺す。




