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もうすぐ22時。
氷室は、暗がりに潜むビルの非常階段に向かっていた。
鉄扉のレバーを引く。
鍵は、掛かっていない。
氷室は静かに眼鏡を外した。
瞬間、ぼやけていた世界が鋭利に切り裂かれる。
超高解像度の視界。
夜風に舞う木の葉の微細な欠片さえ。
今の氷室の眼から逃れることはできない。
――代わりに。
網膜の奥がチリチリと音を立てる。
視力の寿命がガリガリと削られていく。
(……急がないとね)
足元を確かめながら、静かに階段を上る。
その時、不自然に煌めくものが視界を過った。
足元に僅かに微かに光る、細い糸のようなもの。
それは意志を持つかのように、暗い階段の上へと伸び、繋がっている。
氷室は、その奇妙な光の糸を追いかけた。
階段を踏み締め、気付けば5階にまで達していた。
フロアへ通じる扉を開く。
当然、施錠はされていない。
皮手袋ごしに、ドアノブの冷たさが伝わる。
ギィ、と微かな音を立てて扉をあけた。
(……有能だな、白鳥)
目の前に広がったのは、底の知れない闇。
両目が、焼けるように痛む。
氷室はふと確信した。
この光の糸は、自分が進むべき道と一致している。
氷室はポケットから、白鳥から受け取ったICカードを取り出し、センサーへと翳した。
ピッ、と電子音が小さく響く。
ロックが解除された。
ゆっくりと、闇の奥への扉が開いた。
――社長室。
光の糸は、漆黒のデスクの上に鎮座するパソコンへと絡みついていた。
電源は落とされていない。
青白い光が、氷室の潰れかけた瞳を刺す。
パスワード入力画面。
氷室の指先が、迷いなくキーボードの上で踊った。
『17270315_100B』
――ログイン成功。
最近使用したファイルに素早く目を通す。
すべてファイルサーバー上に格納されている。
氷室はポケットから、新品のUSBメモリを4本取り出した。
手際よく、本体のソケットへ次々と差し込んでいく。
データ量が膨大すぎる。
ファイルサーバー内の中身を4つに分割し、一斉にダウンロードを開始した。
画面に広がる、4本のプログレスバー。
5%……。
10%……。
網膜がチリチリと焼ける。
互いに競い合うようにして緑色のバーが伸びていく。
『操作してるの、誰?』
突如、画面中央に飛び込んできたポップアップ。
社内用の個人チャット。
氷室は動じない。
(ああ、コイツ、この時間でも監視しているのか。――橋本だな)
予測はついていた。
氷室の指先は、即座にキーボードの上を走る。
『私よ』
静子になりすまし、素っ気ない返信を打ち込む。
プログレスバーは、20%……25%……。
『は~い』
画面の向こうから、緊張感のない返信。
氷室は額を伝う冷や汗を、手の甲で静かに拭った。
『じゃあ見回りは、しませ~ん、クソババア~』
氷室の頭脳が、その言葉を鋭く捕らえる。
(……見回り? リモート監視じゃない。コイツ、今、このビルの中にいる)
背筋を冷たいものが伝う。
思考を巡らせる間に、最後のプログレスバーが100%に達した。
氷室は差し込まれたUSBを、一つずつ確実に引き抜く。
手のひらでマウスを掴む。
元あった位置に寸分の狂いもなく戻した。
静かに社長室を後にする。
外階段への扉を開けた。
ここから先の後処理と施錠は、白鳥の役目。
痕跡は、一切ない。
ポケットに収まった4本のUSB。
確かな反撃の実感をその指先に覚えながら、地上の扉を押し開けた。
冷たい夜気に触れながら、外した眼鏡をかけ直す。
何事もなかったかのように、氷室は静かに歩き去った。
網膜の奥では、まだチリチリとした痛みが、不気味に燻り続けていた。




