白い壁
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。
ぼやけた世界。
瞬きを繰り返しても鮮明にならない。
眩しいのか、それとも暗いのか。
それすら、氷室には判別できなかった。
(……どこだ、ここは)
「ああ、良かった……! 氷室さん、起きましたか」
白鳥の声がした。
背中に伝わる硬い布の感触。
ここがベッドの上であることを教えてくれる。
「ここは、どこだ」
手探りでベッドの柵を掴み、強引に上体を起こす。
「会社の向かいにある病院です。氷室さんが倒れてから……丸3日、意識が戻らなかったんですよ」
3日。
氷室は眉間に皺を寄せる。
「待て。……今日は、何曜日だ?」
声のする方へ振り向く。
(……ああ。大分、持っていかれたな)
白鳥の輪郭はわかる。
だが、その表情までは視えなかった。
――集中しろ。
奥歯を噛み締めた瞬間、世界の解像度が跳ね上がる。
白鳥 美砂(33) 余命 62年 27日 8時間23分7秒
死因:老衰
倫理:中(晩年:高)
幸福:中(晩年:高)
運命:祝福されている
「くっ、……」
目に激痛が走り、思わず視線を床へ落とす。
白鳥の瞳にある色彩の数。
一つ残さず数え切れそうなほどの異常な情報量。
頭が焼き切れそうだった。
「氷室さん!? 大丈夫ですか!?」
「……私の眼鏡を、持ってきてくれ」
差し出された眼鏡を身につける。
慎重に、白鳥の方へ振り向いた。
「今日は木曜日です。先生は、このまま詳しい検査入院を――」
「白鳥。周りに、誰かいるか」
声のトーンを極限まで落とす。
「え……っ? いえ、ここは個室ですから、誰も……」
「いま何時だ。今日は深夜にビルの清掃があるな? 社長のPCからデータを抜く。――今日だ」
滲んだ視界の先。
白鳥の影が小さく俯くのが見えた。
「……いま16時17分です。はい、3か月に一度の全館清掃の日です」
氷室は自分の手を顔の前に掲げた。
至近距離まで近づける。
かろうじて手のひらの皺が見える。
「白鳥、検査入院はいい。時間がない、よく聞け。私はほとんど目が見えていない。お前の協力が必要だ」
「……っ、はい……」
(待て。迂闊に動きすぎるな。この3日間、敵が動いていないはずがない)
「私が眠っている間、会社で何か変わったことはあったか」
「何もありません。いつも通りに仕事をしていました。刑事さんたちも、社長たちも、何も……」
(私にトドメを刺しにこなかった? まだ気付かれていない。だが、考えろ。電話一本で人を殺す相手だぞ。しかも相手は得体のしれない情報システム部だ)
「白鳥、社用のPCはすべて覗かれていると思え。会社支給の端末でのやり取りは一切禁止だ。私物のスマホでも、社内のWi-Fiには絶対に繋ぐな」
「わかりました」
「これから言うことをメモしろ。社に戻ったらすぐに実行するんだ。……頼んだぞ、白鳥」
「はい、任せてください!」
パタン、と扉が閉まり、白鳥の気配が消える。
氷室はすぐさま、ベッドから足を下ろした。
帰宅の準備を始める。
白い壁際を、手のひらで伝うようにして歩く。
視界はおぼつかない。
だが、手探りでも、動けさえすればいい。
病室を出て、無機質な廊下を進む。
その異変に気づいた看護師。
慌てた足音で駆け寄る。
「え、ちょっと! ダメですよ、安静にしてないと!」
「動ける、十分だ」
「ダメですって! 氷室さん? 3日間も意識がなかったんですよ!? 今動いたら、また倒れて頭を打つかもしれないんですよ?」
氷室は、すっと右手を突き出してそれを制した。
時間が、ない。
「自分の意志で帰る。医師の診断は好きにしろ」
「えっ……」
「お金は後で払う。請求書を送れ。急いでいる」
氷室は冷徹に言い放つ。
呆然とする周囲を無視して、病院を後にした。
外の乾いた空気が、執念で焦げ付いた肌を冷やす。
(……待たせたな、静子。お前を安全な場所から引き摺り下ろしてやる)
外は屋内より、歩き方が分からなかった。
(私に止めを刺せなかったのが、お前の運命だ)
氷室の、おぼつかない足元。
だが、確実に運命を前へと進めていた。




