福止警察署・刑事課
福止屋本社前。
11時02分。
「30分後に来る。こっちはこっちでやらせてもらう」
「わかった」
氷室は倉持の車を降りた。
一度も、振り返らない。
背後でセダンのエンジン音が遠ざかっていく。
見上げる福止屋本社ビルは、光を反射しない灰色のコンクリートの塊。
三ヶ月に一度の深夜清掃は、来週。
堂々とすべての部屋の鍵を開け、部外者を隅々まで動かせる機会はそこまで来ない。
(遅いな。だが、日程変更は難しいか……)
氷室は、小さく溜息を吐き出した。
早足で通路を抜け、庶務課の扉を押し開ける。
「おはよう」
標的は社長だけではない。
――電話に出た男、橋本。
あの声を、氷室の耳は記憶している。
「白鳥、情報システム部はどこにある?」
デスクで伝票をめくっていた白鳥が、目を瞬かせた。
「……そういえば、どこでしょう。知らないです」
氷室は、隣の遠藤に視線を送る。
「あれ、確かにですね……。知らないです」
首を横に振る。
白鳥が手を止めると、画面に座席表を表示した。
商品企画、物流管理、営業。
総務、経理、人事、庶務。
首を傾げる白鳥。
座席表に情報システム部は無かった。
氷室はポケットからスマートフォンを取り出し、社内チャットを開く。
検索欄に、あの名前を打ち込んだ。
『橋本』
ヒットしたのは、顔写真のない無機質な初期アイコン。
ステータスは――オンライン。
「この社員、見たことは?」
画面を白鳥に見せる。
「……いえ、ありません」
(会社の中に、居ない……?)
あるいは、どこかに隠れているのか。
「氷室さん、見つけました」
白鳥が画面の向きを変える。
表示される過去の座席表。
紙に手書きされた座席表の電子データ。
一点を覗き、現在の座席とほぼ変わらない。
現在の商品企画部の先、隠された『電算室』。
「ちょっと見てくる」
氷室は、静かに席を立った。
廊下に出ると、中央の階段を下る。
目的の2階。
廊下に出ると、座席表が示す西側のエリアへ向けて、革靴の音を響かせた。
商品企画部を通り過ぎ、廊下の突き当たりへ向かう。
図面上では、ここに「情報システム部」のドアがあるはずだった。
だが、氷室の前に現れたのは、「行き止まり」。
(……隠したか)
氷室は、壁に手のひらを当てた。
指先で、トントン、と小突く。
返ってきたのは、奥に抜ける軽い音。
(ああ、間違いない。この向こうは、空洞だ)
氷室は壁に耳を押し当てた。
――静寂。
呼吸すら邪魔だった。
瞼を閉じ、闇の中で聴覚だけを尖らせた。
その瞬間。
『そこに居るの、誰?』
氷室の心臓が、跳ね上がった。
悲鳴を上げる余裕すらない。
氷室は跳びのこうとして足をもつれさせ、そのまま後ろへ尻餅をついた。
この薄い壁のすぐ向こう。
わずか数センチ先から、響いた。
忘れもしない、あの声。
――橋本。
氷室は這いつくばるようにして壁から距離を取る。
背筋に、べっとりと冷や汗が伝う。
静かに立ち上がると、来た道を戻った。
破裂しそうな心音が、耳の奥でうるさく打ち鳴らされていた。
庶務課の扉を開ける。
室内の冷房が、汗ばんだ肌を急激に冷やした。
(……ああ、心臓に悪すぎる)
デスクに戻ると、そのまま突っ伏した。
深い溜め息が漏れる。
開放された氷室の頭脳に、すぐさま疑問が浮かぶ。
(――橋本は、どこからあの場所に入った?)
顔を上げると、白鳥が心配そうにこちらを見ていた。
「白鳥、パソコンを少し貸してくれ」
「あ、はい。……大丈夫ですか? 顔色、すごく悪いですけど」
「ああ、大丈夫」
白鳥が席を立つと同時に、その椅子に滑り込む。
総務の管理フォルダを開いた。
最新のフロア見取り図、そして当時の構造図面。
画面をスクロールする。
――無い。
どこをどう見ても、隠し通路も、非常階段も存在しない。
あの行き止まりは、文字通りの終着点だ。
真下の1階は、社外の警備会社が入る位置。
真上の3階は、人事課が占有するオフィス。
挟まれたあの場所は、どこにも繋がっていない。
氷室はディスプレイから目を離す。
すぐ隣、人事課とを隔てる薄い壁を睨みつけた。
ふいに、壁に掛けられた無機質な時計を捉える。
11時46分。
「……しまっ、た」
約束の30分は、とうに過ぎ去っていた。
(倉持たちは――)
胸を突く、嫌な予感。
氷室は倉持の個人携帯へダイヤルした。
耳元で、電子音が空虚に響く。
コール音すら鳴らない。
網膜の裏に、あの実直な中年刑事の顔が浮かぶ。
――繋がらない。
庶務課の隅、スチール棚の上に置かれた小さなブラウン管テレビ。
氷室はデスクからリモコンを拾い上げ、電源ボタンを強く叩いた。
液晶が明滅し、冷たい光が灯る。
天気カメラの映像から、急に静止画のニュース画面へと切り替わった。
女性アナウンサーの、感情を排した声が室内に流れた。
『本日午前11時ごろ、福止市の交差点で、パトカーなど警察車両2台が衝突する事故があり、乗っていた警察官4人が死亡しました』
指先から、プラスチックの塊が滑り落ちた。
床に落ちる乾いた音が、やけに大きく響く。
白鳥と遠藤が、驚いたようにテレビを見上げた。
『死亡したのは、福止警察署・刑事課の倉持剛さん(48)ら、あわせて4人です』
『警察によりますと、交差点で、現場に急行中だったパトカーと、別の捜査に向かっていた覆面パトカーが出合い頭に衝突。その弾みで2台はガードレールに激突し、大破したということです』
画面に映し出されたのは、原形を留めないほど歪んだ2台の鉄の塊だった。
ドアの隙間。
引きちぎられた警察の書類が風に舞っている。
(しまった、迂闊だった……ッ)
偶然の事故はない。
福止静子の、強制的な口封じ。
「電話を、掛けさせては駄目だった……。甘すぎた。クソが……ッ」
氷室は力なく、冷たい床に膝をついた。
胃の底からせり上がる、強烈な嫌悪感。




