平手打ち
井上は、すでに赤城を確保していた。
「倉持さん、お待たせしました」
「おお、井上」
後部座席に、二つの気配が滑り込む。
鋭い眼光の刑事。
そして、呼吸の浅い、困惑した男。
「赤城さん。奥さんからお聞きですね。身辺を警護します」
倉持が、無機質な名刺を突き出す。
「井上。署に着くまで、接触する人間はすべて不審者だと思え。赤城を死守しろ」
「了解」
重い駆動音。
セダンが再び、悪意の街へ滑り出す。
バックミラーの向こう。
井上が低い声で、赤城に安全を説いている。
隣の倉持の眼球は、通行人や対向車をすべて監視していた。
(これが、私の全力。国家権力も、被害者も、すべて動かした)
氷室は静かに振り向く。
眼鏡を、一瞬だけ外した。
レンズの剥がれた生の視界。
対象の頭上に、冷酷な因果が浮かび上がる。
赤城 晴馬(24) 余命:0日 倫理:高
11時52分。
一日の半分が、死へ向かって反転しようとしていた。
(どうする、社長。ここまでは私のコントロール下だぞ)
◇ ◇ ◇
11時52分。
同時刻。
情報システム部の暗闇。
グリ、グリ。
自分への個人チャット。
『また、決済がエラーになっています。再発防止を求めます』
「あれ、まただ、なんでだろう? まあいいや。クソババア~、いま忙しいんだあ~」
橋本は深くは考えない。
作業に戻る。
液晶に映し出された、アイドルグループの写真。
狂いもなく合成されている。
並ぶ顔はすべて、福止屋の女性社員。
「ミオが~、グループから卒業します~」
遠藤葵のSNSを開く。
グリ、グリ。
レンズに向かって、悪戯っぽく突き出されたピースサイン。
白い歯を覗かせ、眩しそうに目を細め、画面の向こうのこちら側に、まっすぐな光を投げかけてくる。
傷付けないように。
丁寧に、丁寧に。
遠藤葵と、背景のノイズ。
その境界線にある、わずか1ピクセルの色の滲み。
橋本はペンツールを握る手に力を込め、滑らかに、その輪郭を切り落としていく。
「アオイちゃ~ん」
手探りで、最後のポテトチップスを口に放り込む。
首を傾げた。
パリ。
「……あれ」
キーボードの周囲に堆積した、スナック菓子の空袋。
それらを雑に払い除け、新品の袋を探す。
無い。
どこにも、無い。
「……クソババア」
いつもなら、そこにストックがあるはずだった。
「わかったよ、やればいいんでしょ」
橋本は福止静子の個人チャットを睨みつけた。
拳を握りしめ、そして開く。
じわり、と。
液晶画面のブルーライトを掻き消す、純白の光が漏れ出した。
「ミオ、ごめんね……」
力を込めて握りつぶした。
◇ ◇ ◇
赤信号。
重苦しい沈黙が、パトカーの車内に満ちている。
「今のところ異常は――」
言い終わるより早く、倉持はバックミラーに違和感を見た。
振り返る。
後部座席。
井上の指先が、ホルスターのロックを外した。
吸い込まれるように、黒い銃身へと伸びていく指。
「馬鹿野郎ッ、井上ッ!!」
倉持の怒声。
「え? ……あ、ああッ!?」
井上の顔が、困惑に歪む。
自分の右手が、銃を引き抜こうとしている。
井上は左手を重ねて強引にホルスターを抑え込んだ。
「そ、そんな、何だこれは……」
背後から突き刺さる、鋭いクラクション。
信号は青に変わっている。
「井上……ッ! お前、正気に――」
――パンッ!
強烈な衝撃。
氷室の平手打ちが、倉持の頬を殴りつけていた。
「なッ!?」
「見ろッ!! お前の左手だッ!」
倉持の視線が、己の左手へと滑り落ちる。
――頭が、理解を拒絶した。
しっかりと、ハンドルを握っていたはずだった。
倉持の左手は、すでに拳銃のグリップを正確に握り込んでいる。
世界が、運悪く違う物を掴ませようとしている。
自身の両手を見つめ、凍りつく二人の刑事。
座席の奥で、赤城がガタガタと震えていた。
狂ったように鳴り響くクラクション。
「ふざけるなッ! 指でも、両手でも、齧りついてでもよく見てろッ!」
倉持がアクセルを床まで踏み込む。
軋むハンドルを、骨が鳴るほど両手で握りしめた。
もう、その目に疑いはない。
実在する殺人犯と相対した、刑事の冷酷な眼光がそこにあった。




