揉み消せる
11時12分。
遠藤は頭を抱えていた。
その背後。
無情にも庶務課の扉が開く。
「お疲れ様です、沢渡です」
「あ、えと、お疲れ様です」
遠藤が引きつった笑みを浮かべた。
「その、ちょっと、諸々ありまして……警――」
白鳥が、鋭く遮る。
「社長が昼食をご用意されています。店へ向かいましょう。気まぐれですが、沢渡さんには思い入れがあるようで」
白鳥の笑みには、微塵の曇りもない。
「あの静子社長が、ですか? 私、成績が良くないのに、驚きです」
沢渡は困惑しつつも、頬を緩めた。
「さあ、急ぎましょう」
促されるまま、沢渡が歩き出す。
遠藤は焦燥を抱えたまま、二人の背を追った。
会社の前。
シルバーの乗用車が滑り込んでくる。
開くドア。
白鳥は、わずかに目を細めた。
フロントガラス越しに、運転席の男を値踏みする。
私服。
その強靭な体躯は、狭い車内で窮屈そうに縮こまっていた。
男が身体を丸めると、内ポケットから黒い手帳を取り出した。
警察章が、無機質に光る。
「陣内です。倉持さんと氷室さんから、沢渡さんを案内するよう指示されています」
チリ、と端末からノイズが走った。
『氷室だ』
室内に響く、聞き慣れた、冷徹な声。
『白鳥、沢渡をそこに乗せろ』
その一言が、張り詰めた空気を静かに弛緩させた。
「沢渡さん。会社の手配した車です。どうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
何も知らない沢渡が、覆面パトカーのシートに深く身を沈める。
その背後。
一人の女性警官が息を切らせて駆け寄ってきた。
「すいません、陣内さん、お待たせ、しました」
「綾瀬さん、警護をお願いします」
短く応じ、綾瀬が後部座席に滑り込む。
「こんにちは、沢渡さん。綾瀬です。あなたの警護を担当します」
「え?」
状況が飲み込めない沢渡。
白鳥が静かに、しかし有無を言わせぬ調子で告げた。
「大丈夫よ、沢渡さん。あとは警察の方が説明してくれる。まずは話を聞いて」
白鳥は陣内と綾瀬に一礼した。
バンッ、とドアが閉じられる。
駆動音。
タイヤがアスファルトを噛み、車が発進した。
曲がり角の向こうへ、排気ガスの臭いを残して消えていく。
「行っちゃいましたね……」
遠藤の呟き。
「ええ。私たちの役割を果たしましょう。氷室さんの分の仕事、分担して終わらせましょう」
「あ、はい! ありがとうございます!」
◇ ◇ ◇
11時22分。
氷室は、窓ガラスの向こうを見つめていた。
通り過ぎて行く、無数の人達。
「氷室。疑うのは後だ、見解を聞きたい」
倉持の視線は前方から動かない。
「警察が、殺人犯になると思うか?」
「なる」
即答。
「へえ。俺が相手でもか?」
「白鳥の事件を覚えているか。三年前の付き纏い事件。犯人がたまたま泥酔し、偶然落ちていた包丁を拾い、運悪く白鳥が現れて――」
脳裏に警告が走る。
(待て。白鳥が死ぬのは、改竄する前の因果だ)
「……運悪く、男が自殺する。そういうことだ」
「まるで見てきたような言い草だな」
「見ていた」
赤信号。
倉持は煙草を咥え、火をつけた。
狭い空間に、チリチリとした熱と煙が充満する。
「あんた、もう隠さないのか」
「ああ。犯人は社長だ。調べを進めている」
煙が吐き出される。
「それで、俺に何を求めている。氷室」
「二つ。一つは、被害者を先回りして救出してほしい」
「ああ。それは警察の仕事だ」
「もう一つ。社長のパソコンから、データをすべて抜き出したい。会社にも警察にもバレずにやる方法を教えろ」
倉持が、喉の奥で大きく笑った。
「お前さん、大した度胸だな。あのビルの中でやれば一発で検知される」
車が発進する。
加速重圧が体にのしかかる。
「無理なのか?」
「いや、できる。というより――」
倉持の唇が、飢えた犬のように吊り上がった。
「俺なら、揉み消せる」
「……警察の言葉か」
「捜査協力と言ってほしいね。その社長を引っ張るためのな」
「そうか。だがまだ確証がないから、協力はしない、と?」
「そういうことだ。氷室、俺を信じさせてみろ」
強い制動。
車が停止する。
新東邦物産。
「陣内、赤城は?」
『沢渡の説得に応じました。退社してそちらに向かいます』
「よし」
氷室の脳細胞が、最悪の確率を演算し続ける。
「留置所で、殺人事件は起こせるか?」
「まず無理だな」
倉持が、灰皿に吸殻を押し付けた。
チリ、と不快な焦げ茶の匂いが漂う。
「独居房は強化ガラスだ。拳銃を撃ち込んでも割れん。それを5分置きに留置係が見回る。殺人どころか、自殺すらできん隔離空間だ」
「そう。なら、何事もなく終わったら信じて貰えないか?」
「何事もなく終わらないと、確信している顔だな」
氷室の口角が、滑らかに吊り上がる。
二人が乗る、無機質なセダン。
そのフロントガラスの向こう。
近付いてくる、二つの影。




