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パスタの気分


指先が、吸い寄せられる。


幸福:低


その文字が、氷室の瞳に焼き付いて離れなかった。




【運命の改竄】


――生存:高橋 英子(34)




確定。


世界の因果を書き換えた。


轟音を立てて、世界が逆再生を始めた。


飛び散った血の海が床へ吸い込まれ、肉を引き裂いた刃が時間を逆行する。


「……ぁ」


女店主の手元。


そこにあるのは刃物ではない。


明滅するスマートフォン。


震える手が、それを掴み取る。


氷室は、己の左手に目を落とした。


掌にある、冷徹な金属の感触。


女店主が自らの喉を貫くはずだった、あのカッターナイフ。


一瞬。


時空の隙間で、女店主と視線が交錯した。


魂を素手で掴まれたような感覚。


氷室の余命が、根こそぎ削り落とされていく。


境界線が崩壊し、視界が急速に暗転した。




◇ ◇ ◇




翌朝。


8時12分。


「──体調不良のため、少し遅れます」


受話器の向こうの白鳥に、冷淡な嘘を吹き込む。


改竄された現実を淡々と、テレビが報じていた。


『一家4人死亡。奇跡的に生き残った妻は──』


悲劇のヒロインとして祭り上げられる、女店主。


それを見届けた。


いつもの通勤路。


福止亭の前に、人だかりができていた。


規制線の傍らに無造作に置かれた、白い献花。


それだけが、昨夜の「真実」の残骸だった。


視線を逸らし、遠回りを選ぶ。


「本当は、あの妻がやったんじゃないの?」


「結局、生き残った奴が一番得するのよね」


すれ違いざま、鼓膜に這いよる陰湿な囁き。


野次馬たちの、無自覚で無責任な悪意。


(……得する? 何も知らないくせに)


憤りを噛み締めると、氷室は通り過ぎた。




庶務フロア。


「あ、先輩……」


後輩の遠藤葵が、今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしている。


「どうすれば、こんな偶然に巻き込まれるのよ」


白鳥の呆れたような溜息。


「刑事さん。お弁当の件、担当はすべて彼女──氷室さんです」


白鳥の隣に、見慣れない初老の男。


泥を噛んだ靴底が、清潔なカーペットに容赦なく擦りつけられる。


差し出された警察手帳。




福止警察署 刑事課 倉持 剛




「突然お邪魔して申し訳ない。こういう者です」


低く、濁った声。


名刺を受け取る指先を、男の鋭い視線が射抜いた。


「氷室さん。お忙しいところ悪いが、少し時間をいただけますかね」


笑顔に、温度が一切ない。


窓のない、狭い会議室。


テーブルに、誰かが用意した冷めたお茶が二つ。


パイプ椅子が、ギィと不快な音を立てる。


倉持は深く腰掛け、お茶を豪快に喉へ流し込んだ。


「このビルは空調が効きすぎている。喉が渇く」


背筋を、冷たい汗が伝う。


(知らない、すべては夢。そう思え、私)


「さて、氷室さん。あんた、昨日あの弁当屋に電話したね」


「はい」


「何か、変わったことはなかったかね」


会話はしていない。


繋がらなかった。


だが、倉持は容赦なく言葉を重ねる。


「若いやつらは『無理心中』で片付けたがっている。だが、俺の眼にはそうは見えない。壁の血飛沫、あれはもっと『低い位置』からだ」


カシン、カシン。


倉持の指先。


古いライターの金属音が静寂を刻む。


「まるで、何もない床から突然刃物が生えてきて、そこに自ら喉笛を叩きつけにいったような……そんな不自然な角度だ」


倉持の視線が、氷室を突き刺す。


「あんた、さっきから指先が震えてるね」


(……しまっ、た)


「何を隠してる、氷室」


餓えた犬のような、ニィとした笑み。


「……お弁当が届かないので、掛けました。でも、繋がりませんでした」


倉持の眉が、不快そうに歪む。


「繋がらない? 1分23秒。会社との通話が記録されているが?」


心臓が、跳ねる。


因果の改竄。


氷室の行動まで、書き換えられている。


当然、氷室にその記憶はない。


「あんたは不思議な人だ。なぜ嘘をつく? それとも、別の『隠しごと』で頭がいっぱいなのか?」


声が出ない。


喉が、物理的に塞がれたように。


「今日は帰るよ。ここで連れて行っても、会社のタヌキどもがすぐに弁護士を寄こす」


倉持はドアに手をかけ、振り返らずに言い放った。


「その名刺、大事に持っておいてくれ」


バタン、と重い閉鎖音。




(……最悪だ。完全に疑われた)


肩を落とし、自席に戻る。


「氷室先輩、大丈夫でした……?」


心配そうに覗き込む遠藤に、機械的に会釈を返す。


「氷室さん、これどういうこと?」


白鳥の、新たな尋問が始まる。


上長の追及を無難に受け流しながら、思考の針を動かす。


──大型案件の受注(言得洲企画)。


あの凄惨な血の海に、なぜ会社の日常が噛み合っている。


(あの案件は、何だ?)


白鳥の視線を正面から受け止める。


(この女のアカウントなら、正社員のデータにアクセスできる)


「氷室さん、聞いてるの?」


「私が電話した時は普通でした、とだけ答えました」


白鳥の瞳から、急速に熱が失われる。


「あら、それだけ。驚かせないでよ」


興味を失った背中が、自席へ戻っていく。




◇ ◇ ◇




同時刻。


情報システム部。


その暗闇の中に蠢く、影。


覗く個人チャット。


『ちょっとお願い。白鳥のパソコンを覗きたい。10分、部屋から連れ出せる?』


氷室から遠藤へ。


『ええっ、白鳥さんのですか…!? ちょっと心臓バクバクしてますけど、先輩の頼みならやります……!!』


計画は動く。


だが。


グリ、グリ。


マウスのホイールが、無機質に回る。


「アオイちゃんって、本当にいい子だよね~。ユイのお願いは、絶対に聞くんだあ~」


グリ、グリ。


粘つく指先が、ホイールをなぞる。


リアルタイムに、追いかける。


この会社の女性社員に、秘密など存在しない。


次に表示されるメッセージを照らし出した。


『11時にお願い。ランチで返すから』


「ん~、アオイちゃんは~」


ポテトチップスを掴む。


ボリッ、ボリッ


「今日は、『パスタ』の気分だよねえ~?」




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