一家心中
鉄錆の匂い。
粘りつく、他人の温い血。
確率、ゼロ。
絶対に起きるはずのない惨劇。
それが寸分の狂いもなく、百回連続で成立した。
偶然ではない。
明確な殺意。
『一人だけ救える』
氷室結衣の脳裏に響く。
今日一日の記憶が呪いのように駆け巡る。
◇ ◇ ◇
給湯室。
氷室は珈琲メーカーの蓋を開ける。
放置された茶色いフィルター。
ゴミ箱へ捨てる。
ツンと刺すような酸っぱい臭いが鼻腔を突いた。
飲んだことはない。
派遣社員の使用は禁止されている。
営業フロアへ向かう。
壁の端末に、プラスチックのカードをかざす。
ドアを開くと、妙な熱気に満ちている。
「言得洲企画」の大型継続案件。
その受注に、正社員は浮かれているようだった。
シュレッダーの袋を交換する。
ビニールが擦れ合う乾いた音。
「あ、派遣さん。ごめん、これ頼める?」
営業が引き出しから掴み出した、歪に丸まった領収書の山。
男の指先が、申し訳なさそうに、それを平らに伸ばそうとする。
無自覚な悪意。
そして、微かな善意。
(不思議、どうして丁寧にしまっておけないの?)
会釈して頭を下げる。
「はい、大丈夫です」
押し付けられた領収書を自席で仕分けながら、壁のデジタル時計に視線をやる。
11時27分。
耳と肩で挟み込んだ受話器は、繋がる様子がない。
手配した弁当が、届かなかった。
「ちょっと、氷室さん? トラブル?」
振り返る必要はない。
上長、白鳥美砂。
非の打ち所がない、完璧なキャリアウーマン。
「はい、再手配中です」
「早くしてね。営業の男達は騒ぐから」
受話器を持ち替え、頷く。
(……なんだろう)
心臓の鼓動が、嫌に重い。
この受話器の向こう側を知ってはいけない。
本能が、そう告げていた。
――だが。
指先は、すでに再ダイヤルを強く押し下げていた。
◇ ◇ ◇
19時13分。
自作の野菜スープを頬張る。
音のない部屋が寂しくて、リモコンの電源ボタンを押した。
仕事終わりの、自分だけの自由な時間。
(今日は、感動モノの映画でも観ようかなぁ)
画面の上部に、ニュース速報のテロップが流れた。
『一家5人の遺体発見。無理心中か』
他人事のように、ぼんやりとそれを見つめる。
スプーンで大きな人参をすくい、口に運んだ。
ハフハフと息を吐きながら、甘みを噛み締める。
『本日18時ごろ、福止市の弁当店「福止亭」の店舗兼住宅で悲劇がありました。店主の高橋隆太さん(67)――』
――福止亭。
ピキリ、と頭の芯が凍りついた。
咀嚼していた人参が、味のない粘土の塊に変わる。
『……息子の高橋翔太さん(37)、その妻の英子さん(34)。さらに長女の未希さん(7)、次男の大誠さん(3)の5人が倒れているのを、配達に訪れた業者が発見しました』
「え、……嘘、でしょ」
ごくり、と無理やり喉に流し込む。
テレビに映し出された、ブルーシートで覆われたシャッター。
見覚えがありすぎた。
たった二時間前、仕事帰りに通り過ぎた場所。
今日、配達に来なかった、あの店だった。
両手で口を覆う。
画面が切り替わり、生前の写真が映し出された。
笑顔の女店主と、幸せそうな姉弟。
お弁当を渡すのは、あの小さな女の子の役割。
画面の隅、看板に映る、きれいな手書きのメニュー。
それは彼女が小さな手で、何度も、何度も練習した、あたたかい記憶の跡だった。
(……昨日まで、生きてたのに)
口元を強く手で押さえる。
その瞬間、奇妙な浮遊感。
視界が、灰の濁流と化す。
融解していく現実。
「え……、なに、これ」
音が消えた。
吹き荒れる突風。
鼻腔を刺す、古い油と肉の饐えた匂い。
景色が強制的に再構築される。
見知らぬ調理場。
一歩、後退した。
だが、背中に衝撃はない。
コンクリートの壁が、肉体をすり抜けていく。
拒絶は許されない。
氷室は、すでに確定した「惨劇」の渦中にいた。
──足音。
「こら、大誠! 調理場に入っちゃダメだよー!」
じゃれ合う姉弟。
因果の歯車が、狂いなく噛み合う。
少女のエプロンの紐。
調理台の角。
異常な角度で突出した、一本の古い釘。
磁石のように、それが紐を捉えた。
「あ──」
引き千切られるような衝撃。
倒れる少女の手が、まな板の端を強打する。
跳ね上がる、重い出刃包丁。
計算され尽くした放物線。
重力が、真下へ刃の狙いを定める。
顔を上げた少女の、無防備な首筋。
「あ、あ、危ない――ッ!!」
少女を庇おうとした氷室の身体。
擦り抜ける。
氷室を嘲笑うように、刃は正確に、深く、裂いた。
溢れ出る鮮血。
狂ったようにもがく、小さな身体。
引き抜かれた包丁。
容赦なく弟の首を貫いた。
激しい悲鳴。
「未希! 大誠!? 大丈夫か──」
近づいた父親にも、因果が襲い掛かる。
静寂。
車椅子のきしむ音。
現れたのは、祖父。
持病を抱えた脆弱な心臓。
だが、その視界に叩きつけられたのは地獄絵図。
折り重なり、血の海で痙攣する三人。
じわじわと車輪を浸していく、濃厚な赤。
「あ、あ、あああ……っ!」
耐えられる訳が無い。
その心筋を冷酷に握りつぶす。
抵抗すらせず、車椅子から転げ落ちる。
痙攣。
そして、完全な静止。
わずか数十秒。
確率ゼロの不運。
それが百回連続で執行された。
生き残った女店主。
すべての死を見届けさせられた、最後の生贄。
「……ぁ」
膝が砕け、床に崩れる。
幸せは、一瞬で灰に変わった。
狂った悪意は、息の根を止めるまで終わらない。
そこにあるはずのない、一本のカッターナイフ。
手元に転がった。
カチ、カチ、カチ。
静寂に響く、冷たい金属音。
「……っ、う、あ、あああ、いや、アアアッ!!」
拒絶の絶叫。
彼女はそれを自らの喉元へ、深く、迷いなく突き立てた。
眼前に広がる、完成された地獄。
ニュースが告げた事件の真実。
コトン。
乾いた音が響く。
足元に転がった、女店主のスマートフォン。
液晶が不気味に明滅している。
【着信中】
画面に刻まれた時刻は、11時27分。
表示された発信元は、会社の氷室のデスクの番号。
「……ッ、ふざけないでよ」
怒りで奥歯がガチガチと鳴る。
この家族は玩具にされ、なす術なくすり潰された。
氷室の身体に憎悪が這い上がってくる。
『そうだ、許せる訳が無い』
その瞬間、氷室の耳元で自分の声が、信じられないほど冷酷に囁いた。
『一人だけ、その歪んだ運命から救える。──選べ、間違うなよ、私』
視界に映り込む、運命。
【運命の改竄】
――どの運命を救う?
品目
大型案件の継続受注(言得洲企画)
決済種別
一家心中(福止亭)
内訳
高橋 隆太(67) 余命:02年 倫理:中 幸福:中
高橋 翔太(37) 余命:17年 倫理:中 幸福:中
高橋 英子(34) 余命:45年 倫理:高 幸福:低
高橋 未希(07) 余命:70年 倫理:― 幸福:高
高橋 大誠(03) 余命:79年 倫理:― 幸福:高




