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反撃開始


庶務課へ向かう廊下。


氷室の脳裏には、網膜に焼き付けた社長室のパソコン画面が再生されていた。


システムに組み込まれた、人々の名前。


人生、運命、そして寿命。


その人にとって、一番大切なもの。


あの怪物は、それに勝手な納期を押し付け、自らの糧として搾取している。


(怪物の相手は後だ。今は、目の前の二人を救う)


庶務課の扉を押し開ける。


室内で息を潜めていた遠藤と白鳥。


張り詰めた二人の表情。


氷室は、ただ一度、深く頷いてみせた。


フロアを支配していた凍りつくような空気が、一瞬にして消えた。


「白鳥」


「はい」


「証拠を集めて。出来る範囲でいい。過去の大型案件の発注日と、その日に起きた事件や事故を、リストにまとめて」


「わかりました」


白鳥はすぐに自席――氷室の隣の席に座ると、表計算ソフトを立ち上げた。


氷室はデスクに鞄を置くと、奥から名刺入れを引っ張り出した。


めくる指。


探していた、ある男の文字。


見つかる。


それを片手に、スマートフォンを掴み取った。


「遠藤。営業の『沢渡 澪』を呼んできて」


「は、はい!!」


遠藤は弾かれたように営業フロアへと向かっていった。


氷室が発信ボタンを押すかすかな音。


――コール音。


(早く出ろ……)


氷室は名刺の文字を凝視した。


『……はいはい、倉持ですが』


警戒を含んだ声がスピーカーから漏れた。


「福止屋の氷室結衣です」


『……氷室さん、どうした? ただ事じゃないな?』


名前を聞いた瞬間、倉持のトーンが跳ね上がった。


刑事の勘が、氷室の緊迫した呼吸だけで事態の異常性を察知する。


「今日、死ぬ人間が二人いる。会えるか? いま私は会社にいる」


一瞬の沈黙。


受話器の向こうで、何かが激しく擦れる音。


『――三十分だ。いま現場に出てる、どんなに飛ばしてもそれだけかかる。駅前のタクシープールに来い、俺の覆面で拾う』


「わかった」


通話を叩き切る。


「白鳥、15分で出来た分だけでいい。終わったらすぐに印刷してくれ」


「わかりました」


白鳥の指が、キーボードの上で目にも留まらぬ速さで動き始める。


その時、庶務課の扉が音を立てて開いた。


息をあげた遠藤が駆け寄ってくる。


「沢渡さんは、お休みです! 寿退社で、すでに有給消化に入っているとのことです!」


「そう」


脳裏をよぎる、最悪のタイムリミット。


氷室は即座にマウスを掴み取ると、庶務課が管理している『社内慶弔贈答管理ファイル』を開いた。


画面を高速でスクロールする。


彼女の結婚祝い——カタログギフトの発注予定データ。

新郎:赤城晴馬

新婦:沢渡澪


お届け先住所。


――電話番号。


氷室は迷わずスマートフォンを掲げて画面を撮影すると、そのまま発信ボタンを押した。


コール音が鳴る。


(……頼む)


一回。二回。


焦燥感が胸を焼く。


『はい、沢渡です』


おっとりとした、まだ世界の悪意など何も知らない、若い女性の声。


(よし。まだ、生きてる――)


氷室は命を繋ぎ止める言葉を紡ぎ出す。


「庶務課の氷室です。ご結婚おめでとうございます。慶弔贈答の手続きを進めておりまして……今、ご自宅ですか?」


『あ、お疲れ様です! ありがとうございます。はい、自宅にいます』


「本日、いくつか手続きを済ませたいと思いまして、この後、何回かお電話すると思いますが大丈夫ですか?」


『はい、今日は一日ずっと自宅にいますので大丈夫ですよ』


(在宅。警察を向かわせるか? 安全な自宅――いや、違う。なぜ安全なはずの家にいて、殺人事件が起こる? 考えろ、私)


スマートフォンを握りしめる。


(殺人事件の因果の座標が『自宅』なら、そこに居続けさせること自体が罠だ。動かせ、そこに居させるな――ッ)


「もし可能でしたら、本日これからの出社は可能でしょうか? 社長から、最後の挨拶ができていないとのことで、可能なら直接言葉を交わしたいと希望されておりまして」


『え……、出社ですか――』


(来い、沢渡。動け、因果の檻から抜け出せ……)


『……わかりました。1時間後くらいに伺います』


氷室は、ゆっくりと椅子の背もたれに身を預けた。


張り詰めていた肺から、熱い息が漏れる。


「ありがとうございます。でしたら、出社時にまとめて手続きを済ませることにします。到着されましたら、庶務課までお越しください」


『かしこまりました』


「はい、失礼します」


通話を切る。


スマートフォンをポケットへと滑り込ませた。


自宅という密室から、彼女を引っ張り出すことに成功した。


「氷室さん、出来ました」


白鳥が、まだ複合機の熱が残るリストを手渡した。


直近一年における大型案件。

その金額、そして同日に発生した事件事故の一覧。


6割程度、表が埋まっていた。


「ああ、流石だ、白鳥」


白鳥は深々と頭を下げた。


「遠藤、赤城の居場所を調べて欲しい。分かり次第、私のスマホに連絡して。あと、一時間後に沢渡が来る。警察に回収させる。……うまく進めてくれ」


「わ、わかりました……」


「行ってくる」


短い言葉を残し、氷室は庶務課を後にした。


「……凄く出来る営業さんって感じですね」


遠藤が、廊下へ消えていく氷室の背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「……そうね」


残された二人。


それぞれの覚悟を胸に、静かに作業を始めた。


エレベーターを降り、エントランスを突き抜ける。


(あと8分……)


早歩きで駅のタクシープールへと向かった。

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