納期:本日
庶務課の扉を開ける。
「おはよう」
二人の朝の挨拶が返る。
氷室は真っすぐに歩を進め、デスクの前に立った。
「白鳥、頼みがある」
「はい、何でしょう」
横で、遠藤がぽかんと口を開けた。
三人だけの、狭く閉ざされた部屋。
「社長のパスワードを割る。私が合図したら、内線で5分、社長を繋ぎ止めろ。ロックを解除する瞬間を、この目で直接見る」
落とされた言葉。
静寂が、部屋の空気を完全に凍らせる。
氷室の瞳に宿る執念。
「遠藤」
ビクリ、と遠藤の肩が跳ねる。
「……すまない。私と白鳥の分の仕事を、任せていいか?」
「は、はい! 遠藤、やります!!」
張り詰めた声。
遠藤は深く、深く一礼した。
「白鳥」
「はい」
氷室は、スマートフォンの液晶を無機質に明滅させた。
「準備がいるはずだ。いつできる?」
白鳥の脳裏を、黒い思考が駆け巡る。
あの女社長を5分間、デスクのパソコンから引き剥がし、受話器に縛り付ける方法。
――ある。
だが、それは自らの身を削る、手痛い犠牲を伴うやり方。
「いつでも、できます」
社長の予定表に刻まれた、10時までの空白。
「今から始める。白鳥、信じたぞ。5分だ」
白鳥の指先の震えが、ぴたりと止まった。
瞳の奥に据わった、引き返せない覚悟。
「はい、大丈夫です。信じてください」
横で、遠藤が息を呑む。
「3分後にかける」
冷たい言葉だけを残し、氷室が部屋を去る。
「……白鳥さん、なんか、変わりましたね」
怯えを孕んだ遠藤の声。
振り返る白鳥。
その顔には、歪んだ、満たされたような慈愛が浮かんでいた。
「遠藤さん。今まで優しくしてくれて、ありがとう。私は酷い態度ばかり取ってきた。許してなんて、言わないわ。……でも、困った時はいつでも言って」
何でもするから。
底知れない気配に、遠藤は本能的に一歩身を引いた。
遠藤の視線が、白鳥のディスプレイを捉える。
開かれた、メールの送信画面。
宛先 言得洲企画
添付 新東邦物産の極秘価格表
致命的な情報漏洩。
「え、こ、これ……」
白鳥の口元が、静かに吊り上がる。
確率ゼロの誤送信を引き起こす、執念の引き金。
スマートフォンをじっと見つめる。
カーソルは、すでに『送信』のボタンの上で静止していた。
震える液晶。
画面に浮かぶ、氷室結衣の名。
カチ。
迷いなく、白鳥は左クリックを押し込んだ。
破滅のメールが、ネットの闇へと放たれる。
そのまま、受話器を掴み上げた。
社長室への内線。
ガクガクと、遠藤の膝が震え出す。
ゆっくりと首を巡らせる白鳥。
その瞳は、黒い狂気に染まっていた。
「白鳥です。社長、申し訳ございません。新東邦物産に言得洲企画様の価格表を誤送信してしまいました。本当に、申し訳ございません」
白鳥の声は、言葉とは裏腹に、歪んだ歓喜で小刻みに震えている。
『……貴女、信じられないミスをしたわね』
受話器の向こうから、地を這うような静かな怒りが伝わる。
白鳥の口元が、さらに深く吊り上がる。
満面の笑み。
「たったいま、誤送信をしてしまいました。申し訳ございません。……先方の営業担当に見られてしまいます。社長、なんとか……なんとか出来ませんか」
『……私が向こうの常務と何とかするから、そのメールをすぐに転送しなさい』
「はい、すぐに転送します――」
壁の時計を凝視する。
画面上で明滅する『転送』の文字。
――押さない。
意図的に、破滅の時間を引き延ばす。
ニヤニヤと、白鳥が遠藤へねっとりとした視線を送る。
遠藤は、総毛立つような恐怖を覚えた。
白鳥は空いた手で除菌シートを引き抜くと、氷室のデスクの表面を、執拗に磨き始めた。
ツンとしたアルコールの臭いが、澱んだ室内に広がる。
『まだ? 来ないわよ』
冷酷な催促が鼓膜を叩く。
「すいません。もう一度、転送します」
白鳥は、滑らかに嘘を吐き出した。
『もういい、内容を教えて』
「わかりました」
口から漏れる、詳細なリーク情報。
だが、その手は何事もないかのように、氷室のデスクを清掃し続ける。
稼ぐべき時間を、完璧に稼いだ。
白鳥は、ようやくデータを放流する。
カチ。
――転送。
平然とマウスをクリックした。
「……白鳥さん、なんか、怖いですよ」
「私もそう思う。でもね、遠藤さん」
白鳥が振り返る。
その顔に張り付いた、生暖かい、満面の笑み。
「この手、もう止まらないの」
遠藤の全身が、完全に凍りついた。
◇ ◇ ◇
社長室。
淡々と問題に対処する、女社長。
「――ああ、江藤常務。お忙しいところにごめんなさいね、福止です。ええ、実は今、うちのバカがちょっと間違えまして。……そう、新東邦物産の価格表が混ざっているの。見られたらお互い面倒でしょう?」
氷室の耳には届かない、受話器の向こうの低く掠れた男の声。
「――ふふ、さすが江藤常務。話が早くて助かるわ。来々期のビルメンテナンスの契約、お礼も兼ねて前倒しするから」
デスクのディスプレイが、冷酷に暗転する。
ロック画面への移行。
――5分。
白鳥は、完璧に時間を稼ぎきった。
刹那、氷室は振り返る。
狙い通りの、いつもの悪癖。
静子の指先が、反射的にキーボードへと躍り出た。
無機質な打鍵音。
氷室の網膜が、そのすべての軌跡を完全に捕捉する。
一文字たりとも、逃さない。
脳を突き抜ける、崩れ落ちそうなほどの激痛。
だが氷室は、最後の一打が打ち込まれるその瞬間まで、冷徹に、すべてを脳裏へ焼き付けた。
『17270315_100B』
(はは、設立記念日と、年商目標の1000億……)
映し出される画面。
【購買申請:詳細】
申請者
福止静子
品目
本年度の余命延長の幸福
承認者
システム管理者
内訳
赤城 晴馬(24) 死因:殺人事件 納期:本日
沢渡 澪 (24) 死因:殺人事件 納期:本日
ドットの配置。
その一粒までを網膜に焼き付けた。
眼鏡をかける。
一礼。
視界をその場に置き去りにした。
ドアノブがぼやけて、見えない。
眼球の奥で、硝子体が軋む。
氷室は、両目を手のひらでかばいながら、部屋を去った。
第二章をお読みいただき、ありがとうございます。
氷室の共犯者、白鳥が舞台に登場しました。
本作は結末までノンストップで駆け抜けます。
ぜひ画面下の【ポイント】や【いいね】を押して、最後まで見届けていただけると嬉しいです。
皆様の熱量(応援)次第で、氷室が結末の更に先、いくつものストーリーを駆け抜けていく未来が決まります。




