卒業
オフィス街から離れた、地下の隠れ家カフェ。
古い木床の匂いと、重苦しいアンティーク家具が、二人の沈黙をさらに重くする。
運よく通された個室。
外界の雑音が、完全に遮断された。
「午前中のことは、ごめんなさいね」
氷室は、正面の白鳥を見据えた。
頬は目に見えて痩せこけ、ファンデーションの下から、隠しきれない黒いクマが染み出している。
「いえ。私も言い過ぎました。すいません」
「……氷室さんは、何にするの?」
「本日のプレートランチを」
「そう。私も同じのにしようかしら」
白鳥が店員を呼び、注文を済ませる。
サラサラと走るペンの音。
店員が去り、再び濃密な静寂が部屋を満たす。
「……氷室さん。私、最近……変でしょう?」
困惑と、それ以上に深い怯えの混ざった表情。
「そうですね」
氷室は、白鳥の挙動を克明に観察していた。
指先、視線、喉の震え。
全身が、何かを告白するのを躊躇っている。
「変なことを言います。ごめんなさい」
白鳥が、自身の両腕を抱きしめるように身を縮めた。
「私……氷室さんから離れるのが、怖いのよ」
グラスへ伸ばしかけた氷室の指先が、ぴたりと凍りつく。
想定外のノイズ。
「誰かに、残酷に殺されるんじゃないかって……怖くて堪らないの。でも、なぜか氷室さんの傍にいると、助けてもらえる気がして……。だから、近くにいました。ごめんなさい」
氷室の網膜に、あの日書き換えた『最悪の映像』が蘇る。
あの路上。
二人の混ざり合う血。
そして、その胸倉を掴んだときの、白鳥のあの恐怖に引き攣った顔。
カチャリ、と眼鏡を外す。
剥き出しになった氷室の鋭い瞳が、白鳥の視線を捕獲した。
白鳥が、ひっと息を呑む。
「白鳥。どこまで覚えている?」
部屋の温度が、一瞬で氷点下まで落ちる。
白鳥は顎をガチガチと震わせ、血の失せた唇から、やっとの思いで声を絞り出した。
「全部、……覚えています」
確信。
世界を縛る因果のシステムは、想像よりも遥かにずさんで、無造作に壊れる。
「白鳥、命令だ、協力しろ」
氷室は身を乗り出した。
「近くにいてもいい、わかったか?」
白鳥は、今にも泣き崩れそうな少女のように、激しく頷いた。
「本日のプレートランチです! 鶏肉のソテー、ハニーマスタードソースと――」
コトリ、コトリ。
白磁の皿が並べられる。
甘酸っぱいソースの匂いが、室内に広がった。
「十六穀米ですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
店員が一礼し、去る。
氷室は、白鳥に向き直った。
福止め死、そして世界の因果。
これまでの残酷な経緯を、淡々と叩きつける。
「……氷室さん」
白鳥の瞳に、涙が滲む。
「本当に、助けていただいて、ありがとうございます。私にできることなら、何でもします。本当に……」
一週間前とは、完全に立場が逆転している。
怯える上長を一瞥し、氷室はナイフとフォークを握った。
「早速だけど。お昼が終わったら、正社員しか閲覧できないデータをすべて見せて。社長の予定表、過去の商談、組織図」
「はい、わかりました」
白鳥もまた、震える手でカトラリーを手にする。
数日ぶりに、まともな食事が喉を通る。
「おいしい……」
白鳥が、静かに、澱んだ記憶を吐き出し始めた。
「……実は、薄々おかしいと思っていたんです。私は3年前まで営業にいました。なぜか、静子社長の絡む案件は、信じられないほど話がうまく進む。だけど――」
一口、肉をゆっくりと噛み締める。
「必ず、不幸が起こる」
その声が、個室の空気を冷たく濡らす。
「若手は気づかない。でも、中堅になるとだんだん違和感を抱き始める。そういう人から、静かに辞めていきます。この会社は」
「そう」
氷室もまた、機械的に咀嚼を続ける。
何日も前から、氷室の舌は、味など伝えない。
それでも、氷室の瞳は、光を取り戻した白鳥を写していた。
◇ ◇ ◇
暗闇。
グリ、グリ。
マウスホイールが、冷酷に回転する。
画面に浮かび上がる、一人の社員データ。
――沢渡澪(24) 営業課
個人チャットを覗く。
『渚にだけ、どうしても伝えたい事がありまして……』
「どしたの~? ミオちゃんとナギサか~。箱推しできるかなぁ~」
暗闇の中、橋本が品定めするように呟く。
『近々結婚することになって、タイミング見て退職する方向で今上司と話してます……! まだ他の人には内緒でお願いします……!』
ボリ、
橋本の表情から、一瞬で温度が消えた。
静寂。
「あーあ、推してたのに。ミオは卒業かあ~」
乾いた咀嚼音。
橋本は、女性社員の集合写真を開こうとする。
その瞬間。
新着の申請書。
「え、……ミオだ、ミオはだめだ~ッ! クソババア~! だめだ~!」
キーボードが鳴る。
抗議。




