180センチのパキラ10号
翌日。
氷室は白鳥を一瞥する。
何かと理由をつけては、白鳥が話しかけてこようとする。
中身のない、どうでもいい用件。
その奇妙な執着を、遠藤が不思議そうに見つめていた。
「氷室さん。次回の契約の件だけど……契約金額の見直しができないか、相談したいの」
「はい。弊社の営業に伝えておきます」
会話を終わらせようとする氷室。
だが、白鳥は引き下がらない。
「違うのよ。私は、氷室さんの意見が聞きたいの」
「白鳥さんの希望額に従います」
困惑する遠藤の視線が、二人を交互に往復する。
「金額を下げたいって話じゃないの。上げてもいいと思っているのよ。氷室さんとしても、嬉しいでしょう?」
氷室は、久しぶりに白鳥と真っ向から目を合わせた。
微かに震える、白鳥の瞳。
(……? 怯えている?)
昨夜の記憶。
胸倉を掴まれた恐怖が、彼女の輪郭をいまだに支配している。
ピン、ポン、パン、ポン。
12時を知らせる館内放送が、無機質に鳴り響いた。
気づけば、30分も不毛な会話に付き合わされていた。
「昼休憩を取ります。続きは午後でお願いします」
「……そうね」
「遠藤、行こう」
「はい、先輩!」
氷室は無造作に、オフィスの扉を開け放った。
オフィス街のイタリアンバル。
オリーブオイルの匂いが、狭い店内に充満している。
遠藤がメニューを開いたまま、眉をひそめて悩んでいた。
「遠藤、早く決めて」
「す、すいません……。でも先輩、決めるの早すぎですよ」
ページが何度もめくられる。
「う~む……決めました!」
「はいはい」
氷室が軽く手を挙げると、店員が寄ってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「日替わりパスタを」
「エビとアボカドのジェノベーゼをお願いします!」
「かしこまりました」
店員は手際よく応じ、結露したガラス瓶とグラスを置いて去る。
氷室は瓶を掴み、遠藤のグラスに水を注いだ。
トトト、と硬い音が響く。
「あ、先輩、私が――」
遠藤の手を軽く制し、自分のグラスにも水を満たす。
「あ、ありがとうございます」
氷室は、冷たい水を喉に流し込んだ。
「先輩。白鳥さん、変ですよね……?」
遠藤が声を潜める。
「そうね」
「何というか……怖がってるように見えるんですよね。先輩、何か心当たり、ありませんか?」
氷室は気付いている。
――白鳥は覚えている。
だが、まだ白鳥を使う状況ではなかった。
「……分からない。でも、少し困っていてね。午後、部屋で一人で作業したいんだけど……白鳥を近づけないようにできる?」
「んー、難問ですが、やってみましょう! たーぶん、先輩の噂話を振れば、付いてくると思うんですよねー」
遠藤が、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「助かる。午後が始まったら、30分ほど頼む」
「わかりました」
タイミングよく、店員が皿を運んできた。
「日替わりのお客様。ツナと春キャベツのペペロンチーノです」
湯気とともに立ち上る香りに、氷室の目元が、ほんの少しだけ綻ぶ。
「エビとアボカドのジェノベーゼです」
遠藤の身体が、嬉しそうに小さく揺れた。
「食べよう」
「はい、いただきます!」
氷室はフォークを掴み、日常の味を口に運んだ。
昼食後。
オフィスに戻ると、氷室は総務部の集荷スペースへ向かった。
巨大な包装。
発注していた、180センチのパキラ10号。
(……重い)
台車の上へと載せる。
ガラガラと、無機質な車輪の音を響かせ、庶務課の部屋へ戻る。
誰もいない。
(流石だな、遠藤)
氷室は手早く包装を解く。
青々とした葉の傘。
その奥深くに、直径わずか2ミリの監視カメラを仕込む。
緑色の茎と同化させるため、結束バンドの余剰をミリ単位でカットする。
パチン、と硬い音が室内に響く。
一歩、引く。
(……よし。全く分からない)
カメラの光軸が狂わないよう、慎重に台車を動かす。
エレベーターに乗り込み、5階のボタンを押した。
深呼吸。
開いた扉。
氷室の手のひらは、すでに冷たい汗で湿っていた。
直進する。
近づく、社長室の重厚な扉。
乾いたノック。
「失礼します」
返事はない。
デスクの奥、女社長がカタカタとキーボードを叩いている。
(……居たか。運が悪い)
ガラ、ガラ。
極力音を立てずに、社長の横をすり抜ける。
元あった植木鉢を退け、パキラを滑り込ませた。
(本当に、重い……)
元の鉢を台車に載せる、その一瞬の隙。カメラの角度を盗み見る。
再びパキラに向き直り、ミリ単位の微調整。
(よし、出来た)
「パキラね」
背後からの声。
ビクン、と氷室の背筋が跳ね上がる。
(落ち着け。焦るな。感情を殺せ……)
振り返ると、女社長がパキラを凝視していた。
「はい」
「パキラは金運を上げる木なのよ。私は大好き」
社長が席を立ち、パキラの葉を見つめる。
距離が、近い。
「ありがとうございます、静子社長」
女社長は、パキラから視線を外さない。
「氷室さん」
「はい」
背中の後ろで、拳を硬く握りしめる。
「ありがとう」
氷室は一礼し、社長室を後にした。
軽くなった台車を押す。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、堰を切ったように全身が震え出した。
(……はは、心臓に悪すぎる)
激しい鼓動。
だが、瞳の奥の光は冷たく獰猛だった。
(でも、もうすぐ喉元に手がかかるぞ。――福止め死ず子)




