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10/21

改心


翌朝。


氷室は手早く身支度を整える。


玄関の観葉植物が、視界に入った。


枯れかけている。


朝の日課だったはずの、水やりと、いつもの挨拶。


いつもの通勤路。


あの弁当屋の前。


女店主が看板を立て掛けている。


氷室は視線を落とし、その横を通り過ぎる。


『健康志向、オーガニック総菜パン。ママの笑顔を届けます』


パステルカラーで踊る、無邪気な文字列。


氷室は、歩くペースを一切変えなかった。




女子更衣室。


スチールロッカーを開け、会社の制服に着替える。


数分前までそこにいた、華やかさのある20代の女性は、もういない。


地味な庶務の制服。


安物の眼鏡。


だが、その奥の眼光だけは、隠しきれずに鋭い。


氷室はエレベーターの列に並ぶ。


慣れた手付きで操作盤の前に立ち、ボタンを押す。


ここは下座。


派遣の定位置。


正社員たちを見送ると、続いてフロアへ入る。


庶務課の扉を開く。


白鳥の姿は、なかった。


「おはようございます、先輩」


「おはよう」


席に着くなり、遠藤が話しかけてくる。


8時47分。


まだ、始業前。


「あれ、珍しいですね。白鳥さん、いつも朝早くから居るのに」


「そうね」


パソコンを立ち上げる。


静かに回り出す、冷却ファンの音。


いつも通りの、日常。


新着のメールを確認する。


――訃報。




『社員各位 庶務課 役員付 白鳥 美砂殿が、昨夜、不慮の事故により逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表し、お知らせ申し上げます。』




「遠藤。落ち着いて、これを見て」


「先輩、まだ業務時間じゃないのに――」


画面を覗き込んだ遠藤の肩が、ビクリと跳ねた。




『本件に関しまして、社外および報道関係者等からの問い合わせがあった場合は、個人の判断で答えず、必ず総務部へ回すよう徹底してください。以上 総務部』




「そ、そんな……。昨日まで普通に仕事してた、のに……、白鳥、さん……」


主を失った白鳥のデスク。


遠藤は両手で口を覆う。


今にも零れ落ちそうな雫。


「どうして……」


(ああ、悲しいのか、遠藤)


氷室の胸には、何も湧き上がらない。


(私はもう分からない。何も感じない。……自分が怖いよ)


氷室は眼鏡を外すと、ニュースサイトを開いた。




『都内の路上で女性が刺され死亡 刺した男性もその場で自殺か』


――午後9時半ごろ、福止市(福止め死)で会社員の女性(33)が胸などを刃物で刺されており、搬送先の病院で死亡が確認された。


また、女性の近くには刃物を持った30代とみられる男性も倒れており、その場で死亡が確認された。


男性の首には自傷行為とみられる傷があり、警視庁は殺人容疑で詳しい経緯を調べている。




氷室はニュースサイトを閉じた。


「遠藤、今は仕事のことだけ考えよう」


「……っ、ぁ……はい」


遠藤がハンカチで涙を拭い、深呼吸する。


一礼すると、清掃へと向かった。


氷室は、再びニュースサイトを開く。


ディスプレイの光が、網膜の奥で暗転していく。


(さあ、会社と関係があるのか)


静かな殺意が、胸の奥で蠢く。


(見せてもらおう)


もう見慣れた、灰の濁流。




繁華街を一つ外れた、薄暗い道。


まばらな人通りを、冷たい街灯が照らしている。


泥酔した男が電柱に項垂れ、また次の電柱に向かって、ふらふらと歩き出す。


ガタ、と窓枠が不自然に揺れた。


個人経営の食事処の窓から、一本の包丁が滑り落ちる。


まるで世界がそこに、あらかじめ用意していたかのように。


金属音がアスファルトに響き、男がそれを拾い上げる。


その曲がり角から、白鳥が現れた。


最悪のタイミング。


それは計算され尽くした因果の強制執行。


白鳥の表情が、戦慄に凍りつく。


一目で分かった。


3年前、付きまとい事案を起こして契約解除になった、あの派遣社員の男だ。


男も、白鳥に気づく。


お互いに、一瞬の硬直。


男の視線が、自身の右手に落ちる。


握られた、鈍く光る刃。


その濁った瞳が、一瞬でどす黒い殺意に染まった。


「白鳥さん……ッ、逃げて、くださ、い……ッ!」


飛びかかると同時に、迷いなく振り下ろされる刃。


肉を裂く感触。


突き刺す。


何度も、何度も、何度も。


一瞬の出来事だった。


周囲の人間は、あまりの光景に言葉を失っている。


崩れ落ちる白鳥。


「あ、ああ……。俺は、どうして、……白鳥さん」


男の口から、絶望が漏れる。


「3年間、ずっと、真面目にやったのに、……もう、……もういいよ」


鋭い刃が、今度は男の喉元に深く喰らいついた。


ついに、男も崩れ落ちる。


二人の血がまたたく間に路上を染め、混ざり合い、境界を失っていく。


立ち込める、生温かい鉄の臭い。


遅れて、目撃者の一人が引き裂かれたような悲鳴を上げた。


(何が福止め死だ。理不尽にも程がある。デタラメじゃないか)


氷室は、ゆっくりと眼鏡を外した。




【運命の改竄】


――どの運命を救う?


品目

取引先関係者への謝恩会の成功(言得洲企画)


決済種別

殺人事件(志馬)


内訳

志馬 駿介(33) 余命:26年 倫理:改心 幸福:高

白鳥 美砂(33) 余命:62年 倫理:中  幸福:低



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