改心
翌朝。
氷室は手早く身支度を整える。
玄関の観葉植物が、視界に入った。
枯れかけている。
朝の日課だったはずの、水やりと、いつもの挨拶。
いつもの通勤路。
あの弁当屋の前。
女店主が看板を立て掛けている。
氷室は視線を落とし、その横を通り過ぎる。
『健康志向、オーガニック総菜パン。ママの笑顔を届けます』
パステルカラーで踊る、無邪気な文字列。
氷室は、歩くペースを一切変えなかった。
女子更衣室。
スチールロッカーを開け、会社の制服に着替える。
数分前までそこにいた、華やかさのある20代の女性は、もういない。
地味な庶務の制服。
安物の眼鏡。
だが、その奥の眼光だけは、隠しきれずに鋭い。
氷室はエレベーターの列に並ぶ。
慣れた手付きで操作盤の前に立ち、ボタンを押す。
ここは下座。
派遣の定位置。
正社員たちを見送ると、続いてフロアへ入る。
庶務課の扉を開く。
白鳥の姿は、なかった。
「おはようございます、先輩」
「おはよう」
席に着くなり、遠藤が話しかけてくる。
8時47分。
まだ、始業前。
「あれ、珍しいですね。白鳥さん、いつも朝早くから居るのに」
「そうね」
パソコンを立ち上げる。
静かに回り出す、冷却ファンの音。
いつも通りの、日常。
新着のメールを確認する。
――訃報。
『社員各位 庶務課 役員付 白鳥 美砂殿が、昨夜、不慮の事故により逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表し、お知らせ申し上げます。』
「遠藤。落ち着いて、これを見て」
「先輩、まだ業務時間じゃないのに――」
画面を覗き込んだ遠藤の肩が、ビクリと跳ねた。
『本件に関しまして、社外および報道関係者等からの問い合わせがあった場合は、個人の判断で答えず、必ず総務部へ回すよう徹底してください。以上 総務部』
「そ、そんな……。昨日まで普通に仕事してた、のに……、白鳥、さん……」
主を失った白鳥のデスク。
遠藤は両手で口を覆う。
今にも零れ落ちそうな雫。
「どうして……」
(ああ、悲しいのか、遠藤)
氷室の胸には、何も湧き上がらない。
(私はもう分からない。何も感じない。……自分が怖いよ)
氷室は眼鏡を外すと、ニュースサイトを開いた。
『都内の路上で女性が刺され死亡 刺した男性もその場で自殺か』
――午後9時半ごろ、福止市(福止め死)で会社員の女性(33)が胸などを刃物で刺されており、搬送先の病院で死亡が確認された。
また、女性の近くには刃物を持った30代とみられる男性も倒れており、その場で死亡が確認された。
男性の首には自傷行為とみられる傷があり、警視庁は殺人容疑で詳しい経緯を調べている。
氷室はニュースサイトを閉じた。
「遠藤、今は仕事のことだけ考えよう」
「……っ、ぁ……はい」
遠藤がハンカチで涙を拭い、深呼吸する。
一礼すると、清掃へと向かった。
氷室は、再びニュースサイトを開く。
ディスプレイの光が、網膜の奥で暗転していく。
(さあ、会社と関係があるのか)
静かな殺意が、胸の奥で蠢く。
(見せてもらおう)
もう見慣れた、灰の濁流。
繁華街を一つ外れた、薄暗い道。
まばらな人通りを、冷たい街灯が照らしている。
泥酔した男が電柱に項垂れ、また次の電柱に向かって、ふらふらと歩き出す。
ガタ、と窓枠が不自然に揺れた。
個人経営の食事処の窓から、一本の包丁が滑り落ちる。
まるで世界がそこに、あらかじめ用意していたかのように。
金属音がアスファルトに響き、男がそれを拾い上げる。
その曲がり角から、白鳥が現れた。
最悪のタイミング。
それは計算され尽くした因果の強制執行。
白鳥の表情が、戦慄に凍りつく。
一目で分かった。
3年前、付きまとい事案を起こして契約解除になった、あの派遣社員の男だ。
男も、白鳥に気づく。
お互いに、一瞬の硬直。
男の視線が、自身の右手に落ちる。
握られた、鈍く光る刃。
その濁った瞳が、一瞬でどす黒い殺意に染まった。
「白鳥さん……ッ、逃げて、くださ、い……ッ!」
飛びかかると同時に、迷いなく振り下ろされる刃。
肉を裂く感触。
突き刺す。
何度も、何度も、何度も。
一瞬の出来事だった。
周囲の人間は、あまりの光景に言葉を失っている。
崩れ落ちる白鳥。
「あ、ああ……。俺は、どうして、……白鳥さん」
男の口から、絶望が漏れる。
「3年間、ずっと、真面目にやったのに、……もう、……もういいよ」
鋭い刃が、今度は男の喉元に深く喰らいついた。
ついに、男も崩れ落ちる。
二人の血がまたたく間に路上を染め、混ざり合い、境界を失っていく。
立ち込める、生温かい鉄の臭い。
遅れて、目撃者の一人が引き裂かれたような悲鳴を上げた。
(何が福止め死だ。理不尽にも程がある。デタラメじゃないか)
氷室は、ゆっくりと眼鏡を外した。
【運命の改竄】
――どの運命を救う?
品目
取引先関係者への謝恩会の成功(言得洲企画)
決済種別
殺人事件(志馬)
内訳
志馬 駿介(33) 余命:26年 倫理:改心 幸福:高
白鳥 美砂(33) 余命:62年 倫理:中 幸福:低




