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灰冠のアビシニア  作者: 相生 紡
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第八章 王冠なき朝

※ChatGPTを全文で使用しています。

帝都評議場は、宮城の東翼にあった。

古い円形の建物だった。帝国がまだ今ほど大きくなかった時代、皇帝が諸侯と商工代表を集めて税と軍役を話し合った場所だという。今では形だけの諮問機関になり、実際の決定は宮廷と軍務省、技術院の奥で行われることが多くなっていた。

だが、その朝だけは違った。

評議場の扉は開かれ、各州の代表、帝都貴族、軍務省、技術院、守備軍、旧ル・メイル領の諮問官、商会代表、教導院の記録官までが呼び集められていた。

円形の席は埋まり、壁際にも人が立っている。

ざわめきは、波のようだった。

白塔。

王冠炉。

旧王国の王女。

皇太子の反逆。

軍務省の偽造。

技術院の隠蔽。

皇帝の病。

断片だけが先に広がり、人々はそれぞれ都合のよい形で恐れ、怒り、疑っていた。

アビシニアは、評議場へ続く控え廊下で足を止めた。

扉の向こうから声が聞こえる。

「旧王国の陰謀だ」

「白塔の記録は本物なのか」

「皇太子殿下はどこまで関与を」

「王冠炉が止まったなら、帝都防衛はどうなる」

「軍務省を呼べ」

「旧ル・メイル領の代表を前へ」

「王女を出せ」

その最後の声に、ミラが肩を震わせた。

「大丈夫ですか」

アビシニアは少し考えた。

「大丈夫ではありません」

「ですよね」

「でも、行けます」

ミラは小さく頷いた。

「私も、行けます」

カイは壁に背を預けていた。剣は預けていない。評議場に入るにあたり帯剣は禁止だと言われたが、マイヤ少佐が「今この者から剣を取り上げる余裕はありません」と押し切った。

セラは記録板を抱えている。

その指は白くなるほど強く板を握っていた。

「技術院席に、私の上官がいます」

彼女は言った。

「第三機関室の記録送信を止められなかった責任を、私一人に押しつけるでしょう」

「怖いですか」

アビシニアが問う。

「はい」

セラは即答した。

「でも、怖いと言えるようになったので、少しはましです」

ミラが少し笑った。

「それ、私の言葉です」

「借りました」

「返さなくていいです」

セラは初めて、ほんの少しだけ笑った。

その横で、レオンハルトは黙っていた。

彼は着替えていた。

湿地を抜け、地下を歩き、王冠炉の光を浴びた外套ではなく、皇太子の正装。黒地に銀糸、肩には帝国獅子、胸には皇族紋章。

その姿は、彼が背負うものの重さを示していた。

だが、顔は以前と違う。

冷たい仮面ではない。

疲れ、恐れ、迷い、それでも立つと決めた少年の顔だった。

「レオンハルト」

アビシニアが呼ぶと、彼は振り向いた。

「何だ」

「一人で話しすぎないでください」

彼は少しだけ眉を上げた。

「君も、王女として担がれすぎるな」

「分かっています」

「本当に?」

「たぶん」

「不安な返事だ」

「あなたもです」

二人は少しだけ笑った。

短い笑みだった。

それでも、評議場へ入る前の二人には必要なものだった。

マイヤ少佐が扉の前に立った。

「準備は」

レオンハルトは頷いた。

「開けてください」

扉が開いた。

ざわめきが一瞬、止まった。

まずレオンハルトが入った。

評議場の全員が立ち上がりかける。皇太子への礼。だが、彼は手で制した。

「座ってください」

声は大きくない。

それでも、場に通った。

次にアビシニアが入る。

ざわめきが戻る。

いや、膨れ上がった。

「王女……」

「本当に生きていたのか」

「ル・メイルの……」

「褐色の髪、伝承の」

「偽物では」

「王冠炉を止めたというのは」

旧ル・メイル領の諮問官席で、一人の老女が立ち上がった。

痩せた体に古い礼服を着ている。白髪をきっちり結い、杖を持っていた。目は鋭い。

彼女はアビシニアを見た瞬間、唇を震わせた。

「殿下」

その声が、評議場の空気を変えた。

殿下。

十年ぶりに、その呼び名が公の場で使われた。

アビシニアは胸が締めつけられた。

老女は深く膝を折ろうとした。

アビシニアは反射的に駆け寄った。

「おやめください」

老女の肩を支える。

「私は、あなたに膝をつかせるために来たのではありません」

老女は顔を上げた。

目に涙があった。

「では、何のために」

アビシニアは答えられなかった。

まだ。

レオンハルトが中央の演壇へ立った。

「評議を始めます」

ざわめきが再び起こる。

軍務省席から、太った男が立ち上がった。胸に高位官僚の徽章を付けている。

「殿下。まず確認させていただきたい。今朝未明、第三機関室から出された白塔関連記録は、皇太子殿下の正式命令によるものですか」

レオンハルトは彼を見る。

「正式な手続きは踏んでいません」

場がざわめく。

男は勝ち誇ったように続けた。

「では、違法送信ですな」

「はい」

レオンハルトは認めた。

ざわめきが大きくなる。

「ただし」

彼は続けた。

「送信された記録の真偽は、手続き違反とは別に検証されるべきです。手続きが不備であることは、記録の内容が偽であることを意味しません」

男の顔が硬くなる。

「しかし、殿下ご自身が違法性を認められるなら――」

「認めます」

レオンハルトの声は静かだった。

「私は、東水門で身分を使って検問を通過しました。第三機関室で白塔記録の送信を止めませんでした。王冠炉制御層へ入り、単独命令権を放棄しました。これらはすべて記録してください」

評議場が静まり返った。

皇太子が、自分の行為を自分で罪状のように並べた。

軍務省の男も、一瞬言葉を失った。

レオンハルトは続けた。

「しかし、私一人の行為だけを裁くなら、それはまた隠蔽です。白塔で何が行われたか。誰が命じ、誰が知り、誰が沈黙したか。王冠炉を誰が再起動しようとしたか。それを同時に問わなければならない」

技術院席で、老技師が顔を伏せた。

軍務省席では、何人かが視線を逸らした。

マイヤ少佐が一歩前へ出る。

「帝都守備軍第二監察隊、マイヤ・ローデン。第三機関室において、白塔記録送信を止めない判断をしました。理由は、同記録内に私の親族を含む複数の移送者名簿を確認したためです。この判断も記録してください」

ざわめきが広がる。

「守備軍まで」

「親族が」

「白塔は本当に」

セラが次に前へ出た。

顔は青い。

だが、足は止まらなかった。

「帝国技術院下級機関技師、セラ・エイム。白塔中継核の保守に関与しました。実験の全容を知りませんでしたが、疑問を持ちながら沈黙しました。第三機関室から記録を外部送信した実行者です」

技術院席から怒声が上がった。

「エイム技師! 発言を慎みなさい!」

セラは肩を震わせた。

アビシニアは彼女の背を見る。

セラは振り返らなかった。

「慎んできた結果が白塔です」

その声は震えていた。

だが、評議場に届いた。

「私は、技術院の責任を個人に押しつけるためにここに立っているのではありません。ですが、個人の責任を組織の中へ隠すためにも立っていません」

技術院席は黙った。

ミラはアビシニアの隣で、両手を握りしめていた。

「私、何か言うべきでしょうか」

「無理に言わなくていいです」

アビシニアが小声で答える。

「でも、言いたいことがあるなら」

ミラはしばらく俯いた。

そして、小さく頷いた。

彼女は一歩前へ出た。

評議場の多くは、彼女を知らない。

王女でもない。

皇太子でもない。

技術者でも軍人でもない。

ただの若い娘。

だからこそ、場は少し戸惑った。

ミラは震える声で言った。

「私は、ミラといいます。旧ル・メイル領の出身です。白塔のことも、王冠炉のことも、詳しいことは分かりません」

誰かが小さく笑った。

ミラは一瞬怯えたが、続けた。

「でも、分からない人の前で、分かる人たちだけが決めるのは怖いです」

その笑いが消えた。

「私たちは、いつも後から知らされます。税が変わったこと。誰かが連れて行かれたこと。戦争が始まったこと。危ないから黙っていろと言われたこと。守るためだと言われたこと」

彼女の声はまだ震えていた。

だが、言葉はまっすぐだった。

「守るなら、先に顔を見てください。名前を聞いてください。怖いなら、怖いと言ってください。私たちを守ると言いながら、私たちをいないことにしないでください」

アビシニアは、胸が熱くなった。

ミラの言葉は、難しい政治ではない。

けれど、王冠炉の核心に最も近かった。

人をいないことにしない。

評議場は静まり返っていた。

その沈黙の中で、カイがゆっくり前へ出た。

「俺は、カイ。元帝国兵だ」

アビシニアは少し驚いた。

彼が自分から話すとは思わなかった。

カイは評議場を見渡した。

「旧王国領で命令に従い、人を捕らえた。何人かは白塔へ送られたかもしれない。知らなかったと言えば、それで済むと思っていた」

彼は一度、目を伏せた。

「済まなかった」

それだけだった。

だが、短い言葉の中に、彼が背負ってきたものがあった。

「俺は裁く側には立てない。だが、記録を隠す側にも戻らない」

彼はそう言って下がった。

アビシニアは、仲間たちを見た。

セラ。

ミラ。

カイ。

マイヤ少佐。

レオンハルト。

誰も完全ではない。

誰も清らかではない。

けれど、それぞれが自分の場所から、隠さないことを選んでいる。

次は、自分の番だった。

旧ル・メイルの老女が、まだ彼女を見ている。

その目には希望があった。

痛いほどの希望。

アビシニアは演壇へ向かった。

評議場がざわめく。

レオンハルトが一歩下がり、彼女へ場所を譲った。

その動きだけで、場の空気が変わる。

帝国皇太子が、旧王国の王女に演壇を譲った。

アビシニアは中央に立った。

見渡す。

帝国の貴族。

軍人。

技術者。

商人。

旧王国領の代表。

記録官。

兵士。

無数の顔。

かつての自分なら、敵と味方に分けたかもしれない。

帝国とル・メイル。

加害者と被害者。

王女と民。

今は、そう簡単には分けられなかった。

それが苦しかった。

でも、その苦しさを手放してはいけない。

「私は、アビシニア・ル・メイルです」

声は思ったより静かだった。

「滅亡したル・メイル王国の王女として生まれました。十年、名を隠して生きました。今朝、王冠炉の中核に入り、皇太子レオンハルトとともに単独命令権を放棄しました」

評議場は静かだった。

「白塔で行われたことを、私は許しません。旧ル・メイルの人々が番号にされ、名を奪われ、記録から消されたことを、許しません。帝国がそれを隠したことを、許しません」

軍務省席が硬くなる。

旧ル・メイル席の老女は涙を流していた。

アビシニアは続けた。

「ですが、私は復讐のためにここに立っているのではありません」

その言葉に、旧ル・メイル席の一部がざわめいた。

「復讐を否定するのか」

誰かが叫んだ。

「家族を奪われた者に、黙れと言うのか」

アビシニアはその声の方を見た。

若い男だった。

旧ル・メイル領の諮問官の一人。目は赤く、拳を握っている。

「いいえ」

アビシニアは答えた。

「怒ってよいと思います。泣いてよいと思います。責任を問うべきです。裁きは必要です」

男は睨んだ。

「なら、なぜ復讐ではないと言う」

「復讐は、誰か一人が怒りのままに裁きを奪うことだからです」

男の顔が歪む。

「綺麗事だ」

「はい」

アビシニアは認めた。

評議場が少し揺れた。

「綺麗事かもしれません。でも、綺麗事を言わずに現実だけを見た結果が、白塔でした。王冠炉でした。人は争う。だから奪う。人は怒る。だから眠らせる。人は間違える。だから一人が決める。そうやって、私たちはここまで来ました」

男は言葉を失った。

アビシニアは深く息を吸った。

「私は、王冠を求めません」

その瞬間、旧ル・メイル席が大きく揺れた。

「殿下!」

老女が叫ぶ。

「あなたが戻らねば、我々は誰を中心に」

「誰か一人を中心にしなければ立てないなら、また同じことを繰り返します」

アビシニアの声も震えた。

この言葉は、彼女自身にも痛かった。

王女として戻る。

そうすれば、失われたものが少し戻る気がする。

母の死も、父の失敗も、十年の逃亡も、意味を持つ気がする。

旧ル・メイルの人々も、彼女を求めている。

それを拒むのは、裏切りのようだった。

だが、王冠炉の前で見た。

王冠を一人に預けることの危うさを。

父も、皇帝も、レオンハルトも、グレイヴも、皆そこで傷ついた。

「私は、ル・メイルの名を捨てません」

彼女は言った。

「父を否定しません。母を忘れません。旧王国の人々の痛みを、帝国の秩序のために黙らせることもありません」

老女は泣いていた。

アビシニアも泣きそうだった。

「でも、私は王座には戻りません」

言葉が評議場に落ちる。

「その代わり、白塔と王冠炉の記録を管理するための独立記録院を作ることを求めます。帝国、旧ル・メイル領、被害者家族、技術者、記録官、そしてル・ヴェンの継承者が参加する場です」

セラが顔を上げる。

「記録院……」

「王冠炉の中核記録は、帝国単独の所有物ではありません。旧ル・メイル単独の所有物でもありません。被害を受けた人々と、これから同じことを繰り返さないための人々のものです」

レオンハルトが静かに頷いた。

アビシニアは続けた。

「旧ル・メイル領には、自治評議を置くことを求めます。名ばかりの諮問官ではなく、税、教育、治安、被害調査に関与できる評議です。王女が戻るのではなく、人々が自分たちで決める場を戻してください」

軍務省席から怒声が上がる。

「属州の自治拡大など、帝国の分裂を招く!」

別の貴族が叫ぶ。

「王女殿下は帝国の弱体化を望むのか!」

アビシニアは答えた。

「弱体化するのは、人を黙らせることでしか保てない帝国です」

評議場が凍る。

レオンハルトが一歩前に出た。

「その帝国なら、変わるべきだ」

全員の視線が彼へ向く。

皇太子は演壇の隣に立った。

「アビシニア・ル・メイルの提案を、皇太子として支持します」

軍務省席が騒然となる。

「殿下!」

「旧王国領の自治拡大、独立記録院の設置、白塔被害者調査、北方星脈研究棟への捜索隊派遣、軍務省関係者の査問。これを緊急議題とします」

軍務省の男が叫んだ。

「そのような権限は、評議にはありません!」

レオンハルトは彼を見る。

「ならば、権限を戻す」

「戻す?」

「この評議は、かつて皇帝が一人で決めないために置かれた場だ。形骸化させたのは宮廷と軍務省だ。今日から、少なくとも白塔と王冠炉に関する事項について、評議の記録と承認なしに決定を行わない」

「殿下、それは皇権の制限です!」

「そうだ」

レオンハルトははっきり言った。

評議場が静まる。

「皇権は、人を番号にするためにあるのではない」

その言葉に、アビシニアは胸が熱くなった。

彼は帝国を捨てていない。

だが、帝国の形を変えようとしている。

自分一人が救うのではなく、自分の権限を制限することで。

それは、王冠炉への最も明確な返答だった。

軍務省の男は顔を赤くした。

「皇帝陛下の裁可なく、そのようなことは」

「陛下はご存じです」

レオンハルトの声が低くなる。

「王冠炉停止も、記録保全も。白塔の存在も」

場がざわめく。

「陛下は病床にあります。正式な裁可は後日必要です。だが、私は皇太子として、今日ここで隠蔽の継続を認めません」

彼は一度、深く息を吸った。

「そして、私自身の責任も査問対象とします」

誰も声を出せなかった。

皇太子が自分を査問対象に入れた。

それは政治的には危険すぎる発言だった。

だが、その危険を避ければ、すべてが嘘になる。

マイヤ少佐が前へ出た。

「帝都守備軍は、評議場と市民区画の保護に当たります。軍務省の独断命令には従いません」

守備軍席がざわめく。

だが、何人かの士官が立ち上がり、敬礼した。

技術院席では、長い沈黙の後、白髪の老技師が立った。

「技術院は……」

彼は言葉を探した。

「白塔関連機関の設計・保守記録を提出します」

セラが息を呑む。

老技師は彼女を見た。

「エイム技師一人に負わせるべきではない」

それは遅すぎた言葉だった。

だが、ないよりはよかった。

旧ル・メイル席の老女が、杖をついて立ち上がった。

「殿下」

アビシニアは彼女を見る。

「王座に戻られぬこと、すぐには受け入れられませぬ」

「はい」

「我らは、あなたを待っておりました」

「はい」

「あなたの名に縋って、生きてきた者もおります」

アビシニアの胸が痛んだ。

「はい」

老女は涙を拭わなかった。

「ならば、せめて約束してください」

「何を」

「我らを捨てないと」

その言葉に、アビシニアの目にも涙が浮かんだ。

王冠を受け取らないことと、民を捨てることは違う。

だが、待っていた人々にとっては、同じ痛みに感じられるのかもしれない。

アビシニアは演壇を降り、老女の前に立った。

「約束します」

老女は震える。

「私は王座には戻りません。でも、ル・メイルの名から逃げません。記録院の設立、白塔被害者の名の回復、北方への捜索、自治評議の設置。それらが形になるまで、私は関わります」

「その後は」

老女が問う。

アビシニアは少し黙った。

その後。

考えていなかったわけではない。

けれど、口にするのが怖かった。

「その後も、必要なら戻ります」

彼女は言った。

「ただし、王としてではなく。一人の人間として」

老女は、長い間彼女を見ていた。

そして、ゆっくりと頭を下げた。

膝はつかなかった。

アビシニアは、それが嬉しかった。

評議場の空気は、まだ安定していない。

怒りもある。

不満もある。

恐怖もある。

軍務省は黙っていないだろう。

旧ル・メイルの中にも、王政復古を求める声は残るだろう。

だが、何かが変わった。

一人の王女が王冠を拒み、一人の皇太子が皇権を制限すると言った。

それは、神代の遺物を止めるよりも難しい始まりだった。

評議はその後、長く続いた。

白塔記録の一次検証。

被害者名簿の保全。

軍務省関係者の出席停止。

王冠炉中核への立入禁止。

北方星脈研究棟への緊急捜索隊。

白塔への救出班。

旧ル・メイル領自治評議準備会。

すべてが決まったわけではない。

むしろ、決まらないことの方が多かった。

だが、記録官たちは書き続けた。

発言者の名を。

反対意見を。

保留事項を。

責任の所在を。

隠さないために。

夕刻近くになり、評議が一時休会となった時、アビシニアは評議場の外へ出た。

足が震えていた。

ミラがすぐ横に来る。

「倒れそうですか」

「少し」

「座りますか」

「はい」

廊下の長椅子に座ると、全身の力が抜けた。

カイが壁にもたれ、セラは床に座り込みそうになって慌てて姿勢を正した。

レオンハルトは少し離れた窓辺に立っていた。

帝都の夕暮れが見える。

朝、彼らが水路から見た街とは違う。

広場には人が集まり、兵が道を分け、記録の写しを求める者が列を作っている。泣いている者も、怒鳴っている者も、抱き合っている者もいる。

混乱。

けれど、沈黙ではない。

アビシニアは窓の外を見た。

「これでよかったのでしょうか」

ミラが隣で言った。

「分かりません」

「そうですね」

「でも、誰かが勝手に決めていない感じはします」

アビシニアは少し笑った。

「それは、大事ですね」

レオンハルトが近づいてきた。

「北方捜索隊は明朝出る」

アビシニアは顔を上げた。

「リセとフェリクスを」

「探す。生存者がいれば救出する。記録も押収する」

「サリアは」

「白塔へ技術班を送った。生命維持装置から移せるか確認中だ」

アビシニアは目を閉じた。

エルに伝えなければならない。

リセの手がかりが見つかったこと。

サリアを救えるかもしれないこと。

そして、まだ何も確定していないこと。

希望は、いつも不完全だ。

だが、もう闇の中だけではない。

「あなたは?」

アビシニアはレオンハルトに問う。

「これからどうなりますか」

「査問される」

彼は淡々と言った。

「皇太子位を失う可能性もある」

ミラが驚く。

「そんな」

「当然だ。私は手続きを破った。王冠炉の命令権も放棄した。軍務省を敵に回した。貴族の多くも不満を持つ」

「怖くないのですか」

レオンハルトは少し考えた。

「怖い」

その答えは、自然だった。

「だが、以前よりましだ」

「なぜ」

「怖いと言えるからだ」

ミラは目を丸くした。

「それ、私の言葉です」

セラが横から言った。

「よく貸し出されていますね」

ミラは少しだけ笑った。

その笑いに、廊下の緊張が少し緩んだ。

レオンハルトはアビシニアを見た。

「君は、王冠を拒んだ」

「はい」

「後悔するかもしれない」

「すると思います」

彼は少し驚いた顔をした。

アビシニアは続けた。

「旧ル・メイルの人々が苦しむたび、王女として戻ればよかったのではないかと思うかもしれません。誰かが自治評議で争うたび、私が決めた方が早かったと思うかもしれません」

「それでも?」

「それでも、一人で決める王冠には戻りません」

レオンハルトは頷いた。

「私も、皇帝になるなら、同じことを問われる」

「皇帝になりたいのですか」

彼は少しだけ黙った。

「以前は、ならなければならないと思っていた」

「今は?」

「なりたいかは、まだ分からない」

正直な答えだった。

「だが、逃げるだけでは済まないとも思っている。父の失敗を、私の恐れだけで否定したくない」

アビシニアは頷いた。

「なら、考え続けるしかありませんね」

「君もな」

「はい」

二人は窓の外を見た。

帝都に夕日が差している。

ル・メイルの古い名。

光差す国。

その意味は、王国だけのものではなかったのかもしれない。

神代が終わり、人の時代が始まった時、人々は暗闇の中で互いの顔を見るために灯を置いた。

その灯は、王冠炉になり、王冠炉は支配の機関になり、今また記録の灯へ戻ろうとしている。

まだ戻りきってはいない。

人の時代は、いつも途中だ。

廊下の向こうから、足音がした。

マイヤ少佐だった。

彼女は少し息を切らしていた。

「殿下。白塔救出班から第一報です」

アビシニアは立ち上がる。

「サリアは」

マイヤ少佐は頷いた。

「生存確認。生命維持装置からの移送準備に入りました」

アビシニアは息を止めた。

セラが口元を押さえる。

ミラが泣きそうな顔になる。

カイは目を閉じた。

「それから」

マイヤ少佐の声がわずかに震えた。

「北方星脈研究棟への先遣連絡線が一部復旧しました。名簿照合で、リセ・ランバル、フェリクス・ローデン、いずれも六年前の移送記録あり」

「生死は」

アビシニアが問う。

マイヤ少佐は首を振った。

「まだ不明です」

希望は、また不完全だった。

だが、名前はあった。

空欄ではない。

アビシニアは胸元に手を当てた。

エルの紙片。

そこに書かれた名。

リセ。

忘れない。

「伝えに行きましょう」

ミラが言った。

「エルさんに」

アビシニアは頷いた。

「はい」

レオンハルトが言った。

「私も行く」

「あなたは評議が」

「短い時間なら抜けられる。エルには、私からも伝えるべきことがある」

「何を」

レオンハルトは少しだけ視線を落とした。

「リセを探すことを、帝国の義務として約束する」

アビシニアは彼を見た。

「皇太子として?」

「それもある」

彼は少しだけ息を吸った。

「だが、一人の人間としても」

アビシニアは頷いた。

夕暮れの廊下を、彼らは歩き出した。

王冠炉は止まった。

評議は始まった。

白塔の記録は外へ出た。

サリアは生きていた。

リセとフェリクスの名も見つかった。

まだ救いではない。

まだ終わりではない。

けれど、暗闇の中に、いくつもの小さな灯が置かれ始めていた。

それは王冠の光ではない。

人が、人のために置く灯だった。


エルは、宮城の外郭にある守備軍の詰所にいた。

正確には、そこへ「保護」という名目で連れてこられていた。本人は保護されているつもりなど少しもないらしく、詰所の入口に立つ兵に向かって、ずっと文句を言っていた。

「だから、僕は怪しい者じゃないって言ってるだろ。怪しい者なら、こんなに堂々と詰所の前で説明しない」

兵は困り果てた顔をしていた。

「しかし、あなたは旧王国領区画から単独で宮城へ接近していたと報告が」

「近づいたんじゃない。人を探していたんだ」

「その探していた人物が、皇太子殿下および旧ル・メイル王女と関係があるというのが、余計に問題でして」

「関係があるから探してるんだろ」

「それが問題でして」

「じゃあ、関係のない人を探せばよかったのか」

「そういう話では」

エルは苛立ったように髪をかき上げた。

「君、名前は」

「え?」

「名前。兵士番号じゃなくて」

兵は一瞬戸惑った。

「……ハンスです」

「ハンス。君は悪い人じゃなさそうだけど、融通が利かない」

「よく言われます」

「なら直した方がいい」

「職務上、難しいです」

「難しいで全部止めていたら、何も進まない」

その言葉に、アビシニアは思わず足を止めた。

少し前の自分なら、エルの言葉をただ軽口として聞いただろう。

だが今は違う。

難しいで止まること。

分からないで隠すこと。

手続きで人を待たせること。

それらが、どれほど人を苦しめるかを見てきた。

ミラが小声で言った。

「エルさん、元気そうですね」

「元気というより、怒っています」

カイが淡々と言った。

「いつものことだ」

セラは少し困ったように詰所を見た。

「この状況であれだけ言えるのは、ある意味すごいです」

レオンハルトが前へ出ると、兵のハンスは顔色を変えた。

「皇太子殿下!」

エルも振り向いた。

その顔に、まず驚きが走る。

次に、安堵。

そしてすぐに怒り。

「遅い」

レオンハルトは一瞬、言葉に詰まった。

「……すまない」

エルは目を細めた。

「謝られると、怒りにくい」

「では、怒っていい」

「そういう許可も腹が立つ」

ミラが小さく笑いそうになって、慌てて口を押さえた。

アビシニアはエルへ近づいた。

「無事でよかった」

エルは彼女を見る。

「それはこっちの台詞だよ。湿地に向かったと思ったら、帝都が騒ぎになって、白塔だの王冠炉だの、王女だの皇太子だの、聞こえてくる話が全部悪い冗談みたいだった」

「悪い冗談ではありませんでした」

「見れば分かる」

エルの視線が、アビシニアの顔に留まった。

彼は何かを言いかけ、やめた。

その代わり、少しだけ声を落とした。

「リーナ」

その呼び名に、レオンハルトがわずかに反応した。

アビシニアは頷いた。

「はい」

「君は、まだリーナでもある?」

問いは静かだった。

アビシニアはすぐには答えられなかった。

アビシニア・ル・メイル。

王女の名。

父と母から受け取った名。

隠していた名。

今日、評議場で公にした名。

リーナ。

逃亡の十年を生きた名。

市場で呼ばれ、湿地で呼ばれ、ミラに呼ばれ、エルに呼ばれた名。

王女ではない自分を支えた名。

どちらかを捨てる必要があるのだろうか。

少し前なら、王女の名を取り戻すことが、偽名を捨てることだと思ったかもしれない。

だが今は違う。

人は一つの名だけでできていない。

「はい」

彼女は答えた。

「私は、リーナでもあります」

エルは小さく息を吐いた。

「よかった」

その一言は、思ったより深く胸に届いた。

ミラが横で微笑んだ。

カイは少し視線を逸らした。

レオンハルトは、黙ってそのやり取りを見ていた。

そこに何かを感じたのかもしれない。

羨望ではない。

嫉妬でもない。

ただ、自分にはなかった時間を見ているような顔だった。

エルは表情を引き締めた。

「それで、リセは」

アビシニアは胸元から、彼の紙片を取り出した。

折り目が増えている。湿地でも、白塔でも、王冠炉の前でも守ってきた紙片。

エルはそれを見て、息を止めた。

「名簿に、ありました」

アビシニアは言った。

エルの顔から血の気が引いた。

「どこに」

「北方星脈研究棟への移送記録です。六年前。リセ・ランバル」

エルは紙片を受け取らなかった。

ただ見つめていた。

「生きているのか」

「まだ分かりません」

その言葉は残酷だった。

だが、嘘を言うことはできない。

「生死記録はありません。でも、記録は消されていません。北方への捜索隊が明朝出ます」

エルは黙った。

長い沈黙だった。

詰所の外では、帝都の騒ぎが遠く響いている。人々の声、兵の足音、鐘の音。

エルはようやく口を開いた。

「生きているかもしれない」

「はい」

「死んでいるかもしれない」

「はい」

「それを、また待つのか」

アビシニアは答えられなかった。

エルは笑った。

ひどく歪んだ笑みだった。

「希望って、便利な言葉だね」

ミラが胸を押さえる。

アビシニアは、エルから目を逸らさなかった。

「はい」

エルは彼女を見る。

「認めるんだ」

「希望は、時に残酷です」

「じゃあ、なぜ持たせる」

「持たせるのではありません」

アビシニアは言った。

「あなたから、知る権利を奪いたくないのです」

エルの目が揺れた。

「知らなければ、楽だったかもしれない」

「はい」

「でも、知らなければ、僕はずっと空欄を抱えていた」

「はい」

エルは紙片を見た。

「空欄よりは、痛い名前の方がましなのかな」

アビシニアは少し考えた。

「私には、まだ分かりません」

「王女なのに?」

「王女でも、分からないことはあります」

エルは短く笑った。

今度は少しだけ、いつもの彼に近かった。

「それはいいね」

レオンハルトが一歩前へ出た。

「エル・ランバル」

エルは彼を見る。

「はい、皇太子殿下」

その呼び方には、わずかな棘があった。

レオンハルトは受けた。

「リセ・ランバルの捜索は、帝国の責任として行う」

エルは黙っている。

「白塔から北方へ移送された者たちの名簿、実験記録、生存者情報を押収する。生存者がいれば保護する。亡くなっていた場合も、名と記録を家族へ返す」

「帝国の責任」

エルはその言葉を繰り返した。

「それは、誰が責任を取るんですか」

レオンハルトは答えた。

「私も取る」

「あなたが命じたわけではないでしょう」

「止めなかった」

「知らなかったんでしょう」

「知ろうとしなかった」

エルは少しだけ目を細めた。

「便利な責任の取り方に聞こえる」

カイがわずかに動いたが、レオンハルトは手で制した。

「そう聞こえるかもしれない」

「実際、そうかもしれない」

「そうだな」

エルは意外そうに眉を上げた。

レオンハルトは続けた。

「私は、今日初めて多くを知った。だからといって、今日から急に正しい側に立てるわけではない。君が私を信用しないのは当然だ」

エルは何も言わなかった。

「だから、約束だけで済ませない。捜索隊の記録を公開する。家族代表の同行を認める。君が望むなら、北方捜索隊に同行できるよう手配する」

アビシニアは驚いた。

「エルを?」

「危険です」

ミラも言う。

レオンハルトは頷いた。

「危険だ。だから強制はしない。だが、家族が知る場から排除されるべきではない」

エルはレオンハルトを見つめていた。

「同行したら、足手まといになるかもしれない」

「その可能性はある」

「邪魔だと言われるかもしれない」

「言わせない」

「守れるのか」

「完全には守れない」

レオンハルトは正直に言った。

「だが、同行する権利を奪う理由にはしない」

エルは長く黙った。

そして、アビシニアを見た。

「リーナは、どう思う」

彼女は少し迷った。

本当は、行かないでほしい。

危険だ。

北方星脈研究棟がどんな場所か分からない。

軍務省の残党がいるかもしれない。

リセの生死を直接知ることは、エルを壊すかもしれない。

だが、それを理由に止めれば、彼から選ぶ力を奪う。

「怖いです」

アビシニアは言った。

「あなたが傷つくのが怖い。だから、行かないでほしい気持ちもあります」

エルは静かに聞いている。

「でも、決めるのはあなたです」

エルは目を伏せた。

「そう言われるのも、重いね」

「はい」

「でも、決めさせてもらえないよりはいい」

「はい」

エルは紙片を受け取った。

折れた紙を、両手で丁寧に開く。

リセ・ランバル。

その名を指でなぞる。

「行く」

彼は言った。

「怖いけど、行く。もしリセが生きているなら、迎えに行く。もし死んでいるなら、名前を持って帰る」

ミラが涙を拭った。

カイは短く頷いた。

レオンハルトは言った。

「手配する」

エルは彼を見る。

「皇太子殿下」

「何だ」

「あなたのことは、まだ信用していません」

「分かっている」

「でも、今の約束は記録してください」

レオンハルトの口元がわずかに動いた。

「もちろんだ」

セラが記録板を取り出した。

「記録します」

エルはそれを見て、少しだけ笑った。

「みんな、記録が好きになったね」

アビシニアも小さく笑った。

「好きというより、必要なのです」

「必要なものは、だいたい面倒だ」

「はい」

その時、詰所の奥から別の兵が駆けてきた。

「マイヤ少佐より伝令です。白塔救出班、サリア・ル・ヴェンの移送に成功。意識はありませんが、生命反応は安定。宮城医療棟へ搬送中」

セラが息を呑んだ。

アビシニアは目を閉じた。

サリア。

ル・ヴェンの分家。

記録を守った人。

自分に、父の記録を渡してくれた人。

まだ話せない。

まだ目覚めていない。

それでも、生きている。

「会えますか」

アビシニアが問う。

兵は困った顔をした。

「医療棟の許可が必要ですが、皇太子殿下がいらっしゃれば」

レオンハルトは頷いた。

「行こう」

エルが紙片をしまった。

「僕も?」

アビシニアは彼を見る。

「サリアは、リセの記録にも関わっているかもしれません」

「なら行く」

彼は即答した。

一行は詰所を出た。

帝都の夕暮れは、さらに濃くなっていた。

広場には人が集まっている。

白塔の名簿の写しを求める者。

家族の名を探す者。

軍務省へ怒りを叫ぶ者。

旧王国の旗を掲げようとして、守備軍に止められる者。

帝国市民として混乱に怯える者。

道の端で、母親らしい女性が子どもを抱きしめて泣いていた。

その隣で、若い兵士が困ったように立っている。

「名前があったの」

女性は繰り返していた。

「弟の名前があったの。死んだと思っていたのに。どこにいるの。誰に聞けばいいの」

兵士は答えられない。

アビシニアは足を止めた。

行かなければならない場所がある。

サリアに会う。

評議に戻る。

北方捜索隊の準備もある。

だが、目の前の女性を通り過ぎることができなかった。

ミラも同じように立ち止まっていた。

レオンハルトが女性の方へ歩いた。

兵士が驚く。

「殿下!」

女性は顔を上げた。

皇太子だと気づいた瞬間、恐怖と怒りが混ざった表情になる。

「返して」

彼女は言った。

「弟を返して」

レオンハルトは立ち止まった。

「名前は」

女性は震えながら答えた。

「ユアン。ユアン・セルツ。七年前に連れて行かれた。働きに出たんじゃない。逃げたんでもない。連れて行かれたの」

レオンハルトは振り返った。

セラが記録板を開く。

「ユアン・セルツ……あります。白塔収容後、北方ではなく帝都外縁の補助観測所へ移送。三年前に記録途絶」

女性は口元を押さえた。

「記録途絶って、何」

セラは答えられなかった。

アビシニアは女性の前に膝をついた。

「まだ、生死は分かりません」

女性は彼女を見る。

「あなたは、王女様?」

「はい」

「なら、分かるでしょう。家族がいなくなることが」

「はい」

女性の目から涙が溢れた。

「じゃあ、返して」

その言葉は理不尽だった。

アビシニアが奪ったわけではない。

けれど、理不尽だとは思わなかった。

悲しみは、正しい相手にだけ向かうわけではない。

「今すぐ返すことはできません」

アビシニアは言った。

「でも、探します。名前を消させません。あなたが弟さんを探す場から、追い出させません」

女性は泣き崩れた。

ミラがそっと子どもを支え、カイが周囲の人垣を下がらせた。

レオンハルトは兵士に命じた。

「この方を記録受付へ案内しろ。家族照会の優先登録を」

兵士は敬礼した。

「はっ」

レオンハルトはすぐに付け加えた。

「命令理由も記録しろ。皇太子が直接対応したためではなく、家族照会制度の不備を補う暫定措置として」

兵士は一瞬戸惑ったが、頷いた。

「記録します」

エルが小声で言った。

「面倒な皇太子になったね」

レオンハルトは彼を見る。

「以前よりはましだろう」

「たぶん」

「不安な返事だ」

「リーナに似てきた」

アビシニアは思わず苦笑した。

そのやり取りの間にも、広場の人々の視線が集まっていた。

王女と皇太子が、泣く女性の前に立っている。

その光景は、すぐに噂になるだろう。

利用されるかもしれない。

美談にされるかもしれない。

逆に偽善と罵られるかもしれない。

それでも、目の前の顔を見ずに通り過ぎるよりはよかった。

医療棟へ向かう道すがら、アビシニアは静かに考えていた。

王冠を拒んだ。

だが、それで責任が軽くなるわけではない。

むしろ、責任は細かくなる。

一人の民。

一つの名。

一枚の記録。

一つの問い。

王座に座っていれば、遠くから大きく決められる。

王冠を拒めば、こうして一人ずつ顔を見ることになる。

それは、とても重い。

けれど、今の彼女には分かる。

人の時代とは、きっとそういうものなのだ。

医療棟は宮城の北側にあった。

白い石造りの建物で、薬草と消毒液の匂いがする。廊下には負傷兵、文官、白塔救出班の技術者たちが行き交っていた。

その一室に、サリア・ル・ヴェンはいた。

彼女は細い寝台に横たわっていた。

白塔で見た時よりも、さらに小さく見えた。体は痩せ、髪は白く、皮膚は薄い紙のようだった。胸元には生命維持装置から外された後の小さな器具がつけられている。

だが、呼吸していた。

ゆっくりと。

確かに。

アビシニアは寝台のそばへ歩いた。

「サリア」

返事はない。

それでも、彼女は続けた。

「あなたの記録は、届きました。白塔の記録も、外へ出ました。王冠炉は止まりました」

サリアのまぶたは動かない。

「まだ、終わっていません。あなたに聞きたいことも、たくさんあります。ル・ヴェンのこと。父のこと。リセのこと。王冠炉の中核記録のこと」

声が震えた。

「でも、今は、生きていてくれてありがとうございます」

セラが少し離れた場所で、深く頭を下げていた。

「申し訳ありません」

その声は小さかった。

「白塔を保守した技術者として、あなたに」

アビシニアは振り返った。

「セラ」

セラは顔を上げない。

「今、サリアはあなたの謝罪を聞けません」

セラの肩が震える。

「だから、謝罪は記録してください。そして、彼女が目覚めた時に、自分で聞くかどうかを選べるようにしてください」

セラはゆっくり顔を上げた。

涙が浮かんでいた。

「はい」

エルはサリアの寝台の足元に立っていた。

「この人が、記録を守った人?」

「はい」

「リセのことも、知っているかもしれない」

「はい」

エルはサリアを見た。

「じゃあ、起きてもらわないと困る」

少し乱暴な言い方だった。

だが、その声は優しかった。

「僕も、北方へ行く。だから、戻ってくるまでに起きていてください。聞きたいことがあるから」

ミラが涙ぐみながら笑った。

「お願いの仕方がエルさんらしいです」

「丁寧に言っても、起きるとは限らないだろ」

「乱暴に言っても同じです」

「なら、僕らしく言う」

アビシニアは、サリアの手をそっと握った。

冷たい。

けれど、白塔で触れた時より、わずかに温かい気がした。

その時、サリアの指が、ほんの少し動いた。

アビシニアは息を止めた。

「サリア?」

全員が寝台へ近づく。

医師が慌てて脈を確認する。

サリアのまぶたが震えた。

開かない。

だが、唇がわずかに動いた。

声はほとんど音にならなかった。

それでも、アビシニアには聞こえた。

「……ひかり……」

ミラが口元を押さえる。

セラが泣き出しそうな顔になる。

アビシニアはサリアの手を握ったまま答えた。

「はい」

光。

光差す国。

神代の終わりに、人が互いの顔を見るために置いた灯。

サリアはまた眠りに沈んだ。

だが、その一言だけで十分だった。

彼女は完全な闇の中にはいない。

アビシニアは目を閉じた。

王冠炉の光ではない。

人の灯。

その灯が、ここにも一つ残っている。

医療棟を出る頃には、夜が降りていた。

帝都の灯が、窓の外に無数に瞬いている。

朝に見た時とは違う。

あの時、帝都の灯は敵の都の灯だった。

今は、まだ危うい、人の灯だった。

消えるかもしれない。

燃え広がるかもしれない。

誰かが奪おうとするかもしれない。

それでも、そこには顔がある。

名がある。

声がある。

アビシニアは、長い廊下の窓辺に立った。

レオンハルトが隣に来る。

「明日、北方捜索隊が出る」

「はい」

「君は行くのか」

アビシニアはすぐには答えなかった。

行きたい。

リセを探したい。

フェリクスを探したい。

白塔から続く記録の先を、自分の目で見たい。

だが、帝都にも残るべきことがある。

記録院。

自治評議。

サリア。

旧ル・メイルの人々。

評議での約束。

一人の体は一つしかない。

以前なら、それを悔しがっただろう。

全部自分でやらなければと思っただろう。

今は、少し違う。

「私は、すぐには行きません」

彼女は言った。

「帝都で、記録院設立の初期協議に残ります。サリアが目覚める可能性もあります。旧ル・メイルの代表とも話さなければなりません」

レオンハルトは頷いた。

「エルは行く」

「はい」

「マイヤ少佐も、甥の件で同行を希望している」

「よいと思います」

「カイは?」

アビシニアは少し笑った。

「本人に聞いてください」

少し離れた場所で、カイが腕を組んでいた。

「聞こえている」

「では、どうしますか」

カイは窓の外を見た。

「北方へ行く」

ミラが驚く。

「カイさんも?」

「エルだけでは危ない」

エルが不満そうに言う。

「僕はそこまで弱くない」

「弱い」

「はっきり言うな」

「事実だ」

「事実は本当に不便だね」

ミラが笑った。

その笑いは、疲れていたが、温かかった。

「私は、リーナさんと残ります」

ミラは言った。

アビシニアは彼女を見る。

「よいのですか」

「はい。評議とか記録院とか、難しいことは分からないです。でも、分からない人がいることも必要だと思うので」

セラが頷いた。

「私も残ります。王冠炉の保全と技術院の記録提出に関わらなければなりません」

エルは少し寂しそうに、けれど納得したように言った。

「じゃあ、僕とカイとマイヤ少佐で北方か」

「守備軍と医療班も同行する」

レオンハルトが言う。

「それから、記録官も」

エルは頷いた。

「記録官は必要だね」

アビシニアは、彼を見た。

「必ず戻ってください」

エルは少しだけ笑った。

「それは命令?」

「お願いです」

「なら、努力する」

カイが言った。

「努力では足りない」

「じゃあ、戻る」

「最初からそう言え」

エルは肩をすくめた。

アビシニアはそのやり取りを見ながら、胸の奥が少し痛んだ。

別れではない。

だが、道が分かれる。

一緒に旅をしてきた時間が、ここで少し形を変える。

それぞれが、それぞれの場所へ行く。

人の時代は、一人の物語ではない。

夜の鐘が鳴った。

評議の再開を告げる鐘だった。

レオンハルトが姿勢を正す。

アビシニアも息を吸った。

まだ休めない。

だが、彼女はもう、すべてを一人で背負おうとは思わなかった。

「行きましょう」

彼女が言うと、皆が頷いた。

廊下の灯が、足元を照らしている。

王冠炉の光ではない。

誰かが油を注ぎ、芯を整え、夜のために置いた灯。

小さく、不完全で、消えやすい。

けれど、人の手で守れる光だった。

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