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灰冠のアビシニア  作者: 相生 紡
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第七章 帝都の灯

※ChatGPTを全文で使用しています。

廃船着き場に着いた時、空はまだ夜だった。

東の端がかすかに白み始めている。湿地の水は黒く、足元の板は腐りかけていた。かつて荷を積み下ろししていたらしい小さな桟橋には、苔と泥がこびりつき、古い縄が水に浸かって揺れている。

セラが桟橋の奥を探り、半ば沈みかけた小舟を見つけた。

「これなら使えます」

ミラが不安そうに舟を見た。

「本当に?」

「穴は塞げます」

「穴があるんですね」

「小さい穴です」

「小さい穴でも舟は沈みます」

「だから塞ぎます」

セラは淡々と言い、工具帯の代わりにマルタから借りた布袋を開いた。中から樹脂と布片を取り出し、舟底の隙間に押し込んでいく。

カイは周囲を警戒しながら言った。

「時間は」

「半刻もあれば」

「四半刻にしろ」

「技術者に無茶を言うのが得意ですね」

「生き残るのが得意なだけだ」

セラは返事をせず、作業を続けた。

アビシニアは桟橋の端に立ち、遠くを見た。

帝都の灯は、湿地の向こうにまだ見えている。

夜明けの光とは違う。人が作った灯。油、石炭、神代機関の残響を利用した街灯。巨大な都市が眠らずに吐き出す光。

ル・メイルの光とは違う。

けれど、それもまた人の暮らしの光だった。

そこには、王冠炉を動かそうとする者たちがいる。

白塔の罪を隠す者たちがいる。

だが同時に、朝のパンを焼く者、荷を運ぶ者、子どもを起こす者、病人の看病をする者もいる。

帝都。

敵の都。

そう呼ぶことは簡単だった。

だが、もうそれだけでは足りない。

「眠れなかったのか」

レオンハルトの声がした。

彼は少し離れたところに立っていた。肩の包帯には血が滲んでいるが、顔色は昨夜よりはましだった。

「少しは眠りました」

「少し、か」

「あなたは?」

「眠ったふりをした」

「エルと同じですね」

レオンハルトは小さく笑った。

「それはあまり名誉ではなさそうだ」

「本人に聞かれたら怒ります」

「覚えておく」

二人はしばらく、帝都の灯を見ていた。

やがてレオンハルトが言った。

「私は、あの灯を守るためなら何をしてもよいと思っていた」

アビシニアは黙って聞いた。

「人は争う。飢えれば奪う。恐れれば誰かを差し出す。正義を掲げて、別の正義を焼く。私は、それを何度も見た。だから、選ぶ力を少し抑えれば、争いは減るのではないかと思った」

「今も、そう思いますか」

レオンハルトはすぐには答えなかった。

「分からない」

正直な答えだった。

「白塔を見ても、完全に消えたわけではない。人の自由が人を傷つけることは、本当だ。父が人を信じて傷ついたことも、本当だ。グレイヴの見た地獄も、たぶん本当だ」

「はい」

「だが、白塔で行われたことも本当だ」

彼の声が低くなる。

「人を守るために、人を番号にした。人の争いを止めるために、子どもの名を奪った。あれを見てなお、自分の考えをそのまま正しいとは言えない」

アビシニアは彼を見た。

「それは、成長だと思います」

レオンハルトは苦い顔をした。

「成長という言葉は、もう少し美しいものに使うべきではないか」

「私の成長も、だいたい苦いです」

「そうだったな」

彼は少しだけ肩の力を抜いた。

だが、その顔にはまだ重い影があった。

「帝都へ戻れば、私はまた皇太子になる」

「はい」

「人々は私の顔を見る前に、肩書きを見る。兵は命令を待つ。官僚は言葉の裏を読む。貴族は弱みを探す。私はそこで、一人の少年として迷っているわけにはいかない」

「迷ってはいけないのですか」

「迷いを見せれば、誰かがそこへ刃を入れる」

「それでも、迷わないふりをすれば、また一人で決めることになります」

レオンハルトは黙った。

アビシニアは、少し前の自分なら、ここで強く言い切っただろうと思った。

一人で決めてはいけません。

人を信じるべきです。

父上に会ってください。

だが、それでは彼の恐怖を見ていない。

帝都は湿地ではない。

皇太子が弱さを見せることには、本当に危険がある。

それを無視して「人を信じろ」と言うのは、あまりにも軽い。

だから彼女は、言葉を選んだ。

「迷いを、全員に見せる必要はないと思います」

レオンハルトが彼女を見る。

「でも、誰にも見せないなら、迷いは腐ります」

その言葉は、自分にも向けていた。

父の記録を一人で聞こうとしていた自分。

父の記録筒を手放せなかった自分。

王女でなければ父に恥じると思っていた自分。

誰にも見せない痛みは、いつか自分の中で形を変える。

「あなたには、迷いを見せる相手が必要です」

「君か」

「私だけでは足りません」

レオンハルトは少しだけ目を細めた。

「厳しいな」

「私一人に見せるなら、それはまた一人に背負わせることになります」

「では、誰に」

アビシニアは帝都の灯を見た。

「お父上に。セラに。必要なら、ミラにも。カイにも。帝都の中にも、あなたがまだ見ていない人がいるはずです」

レオンハルトは何も言わなかった。

けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。

セラの声がした。

「舟、出せます」

ミラが舟を覗き込みながら言う。

「沈みませんか」

「沈まないようにしました」

「沈まない、と言い切ってほしいです」

「技術者は言い切りを避けます」

「今だけ言い切ってください」

セラは少し考えた。

「沈みにくいです」

ミラは肩を落とした。

「少しも安心できません」

カイが舟に荷を積みながら言った。

「安心するための舟ではない。渡るための舟だ」

「それも励ましに向いていません」

「事実だ」

「事実は本当に不便です」

アビシニアは小さく笑った。

レオンハルトも、ほんの少しだけ笑った。

それは短い笑みだったが、彼の顔から皇太子の硬さを少しだけ剥がした。

五人は舟に乗った。

カイが櫂を取り、セラが水路の流れを読む。ミラは中央で荷を押さえ、アビシニアは父の記録片とエルから預かった紙片を濡らさないよう布で包んだ。レオンハルトは後方に座り、帝都の方角を見ている。

舟は静かに動き出した。

湿地の水路は、夜明け前の薄闇の中を蛇のように伸びていた。葦の間を抜け、沈んだ木杭を避け、時折、低い橋の下をくぐる。水面には帝都の灯が細く揺れている。

進むにつれて、空気が変わった。

湿地の土の匂いに、油と煙の匂いが混じる。

遠くから、車輪の音が聞こえ始める。

鳥の声より先に、人の声が聞こえる。

帝都が近い。

やがて、水路の先に巨大な影が現れた。

東水門。

黒い石で築かれた門が、川幅いっぱいに立っている。上部には帝国の紋章。翼を広げた獅子。その両側に監視塔があり、松明と機関灯が交互に光っている。

ミラが息を呑んだ。

「大きい……」

レオンハルトが静かに言った。

「帝都の外門の中では小さい方だ」

「これで?」

「西門は、この三倍ある」

ミラは黙った。

セラが小声で言う。

「東水門は資材搬入が多いので、朝の検査は形式的です。私の認証札が使えれば、技術院の修理班として入れます」

「使えなければ」

カイが問う。

「止められます」

「その後は」

「逃げます」

「計画としては薄いな」

「では、厚い計画を今から作りますか」

カイは黙った。

ミラが不安そうに言う。

「喧嘩しないでください」

「していない」

カイとセラが同時に言った。

アビシニアは布の下で紙片を握った。

リセ。

サリア。

白塔の番号。

空欄。

帝都で、この空欄に名を足す。

そのためにも、ここを通らなければならない。

舟は水門へ近づいた。

検問の兵が二人、桟橋に立っている。片方は眠そうに欠伸をし、もう片方は帳簿をめくっていた。

「所属と搬入目的」

兵が機械的に言う。

セラは外套の下から認証札を出した。

「帝国技術院、下級機関整備班。東部排水路の逆流弁点検。昨夜の警鐘で水圧異常が出たため、緊急確認です」

兵は認証札を受け取り、機関灯にかざした。

アビシニアは息を止める。

レオンハルトは外套のフードを深く被っている。

顔を見られれば終わる。

兵は札を見た。

長い。

長すぎる。

もう一人の兵が欠伸をしながら言った。

「警鐘って白塔のか?」

セラは即座に答えた。

「上からは詳細未達です。こちらには水圧確認だけが回っています」

「また技術院か。朝から面倒だな」

兵は認証札を返した。

「通れ」

ミラが小さく息を吐きかけた。

その時、帳簿を見ていた兵が顔を上げた。

「待て」

全員の体が固まる。

「その人数、申請より多くないか」

セラの目が一瞬だけ揺れた。

「応援を拾いました。湿地側の排水口が詰まっていたので」

「記録にない」

「緊急対応です」

「名前は」

セラは答えようとした。

だが、その前にレオンハルトが動いた。

アビシニアは息を呑む。

彼はフードを少しだけ上げた。

顔全体ではない。

片目と、帝国皇族特有の銀灰色の髪の一部だけ。

兵の顔色が変わった。

「で、殿――」

レオンハルトは静かに指を唇へ当てた。

その仕草は、皇太子のものだった。

命令ではなく、圧力。

兵は言葉を飲み込んだ。

もう一人の兵も固まっている。

レオンハルトは低く言った。

「東水門に異常はない。そう記録しろ」

兵は震えながら頷いた。

「は、はい」

「我々は通っていない」

「はい」

「見なかったものを報告するな」

「はい、殿下」

舟が門の内側へ入る。

ミラは真っ青になっていた。

カイは何も言わない。

セラは唇を固く結んでいる。

アビシニアはレオンハルトを見た。

彼はフードを戻し、視線を水面へ落としていた。

東水門を抜けると、帝都の内水路が広がった。

石造りの岸壁。

荷を積んだ舟。

朝の市場へ向かう人々。

水面に映る無数の灯。

帝都は目覚め始めていた。

だが、アビシニアの意識は、先ほどのレオンハルトに向いていた。

彼は皇太子の顔を使った。

兵を従わせた。

それは必要だったのかもしれない。

見つかれば、全員が捕まっていた。

だが、彼の声には、以前と同じ冷たさが一瞬だけ戻っていた。

見なかったものを報告するな。

それは、白塔を隠した者たちの言葉と似ている。

アビシニアは、そのことを言うべきか迷った。

ここで責めれば、彼は反発するかもしれない。

だが、黙れば同じことを許すことになる。

彼女は深く息を吸った。

「レオンハルト」

「分かっている」

彼は先に言った。

アビシニアは言葉を止めた。

「今のは、よくなかった」

彼の声は低かった。

「必要だったかもしれない。だが、よくはなかった」

ミラが小さく彼を見る。

セラも驚いたように顔を上げる。

レオンハルトは水面を見たまま続けた。

「私は、兵に嘘をつかせた。報告を止めた。肩書きを使って」

「はい」

アビシニアは静かに答えた。

「そして、それを当然のようにできた」

彼は自分の手を見た。

「これが、私の癖だ」

誰もすぐには言わなかった。

朝の帝都の音が、水路の上に広がっている。

やがてカイが言った。

「通れたのは事実だ」

「それで済ませるな」

レオンハルトは自分で言った。

「済ませれば、また同じことをする」

ミラが恐る恐る言った。

「でも、あの場で他に方法は……」

「なかったかもしれない」

レオンハルトは彼女を見た。

「だが、なかったことにしてはいけない」

ミラは黙って頷いた。

アビシニアは、胸の奥で何かが静かに動くのを感じた。

これが、彼の最初の一歩なのだと思った。

皇太子の力を使わないことではない。

使った力を、自分で見つめること。

正しさに逃げないこと。

「では、記録しましょう」

アビシニアは言った。

レオンハルトが彼女を見る。

「何を」

「東水門で、皇太子の身分を使って検問を通過した。兵に報告しないよう命じた。理由は、王冠炉停止のための潜入。問題は、権力による報告抑制」

セラが一瞬、目を見開いた。

それから、布袋から小さな記録板を取り出した。

「書きます」

レオンハルトは苦い顔をした。

「私の罪状記録が増えるな」

「はい」

アビシニアは答えた。

「でも、これがル・ヴェンのやり方なのだと思います」

レオンハルトは少しだけ黙った。

やがて、低く言った。

「なら、書け」

セラは記録板に文字を刻んだ。

水路の舟の上で、帝国皇太子の小さな過ちが記録された。

白塔の罪に比べれば、取るに足らないことかもしれない。

だが、アビシニアには分かった。

大きな罪は、いつも小さな見逃しから始まる。

そしてレオンハルトは今、その小さな見逃しを自分で止めた。

舟は帝都の内側へ進んでいく。

朝の光が、石の街に差し始めていた。

帝都は美しかった。

高い橋。

水面に映る塔。

市場の声。

パンを焼く匂い。

仕事へ向かう人々の足音。

アビシニアはその景色を見て、胸が痛んだ。

ここにも、人の顔がある。

敵の都ではなく、人の都。

だからこそ、王冠炉を止めなければならない。

人を守るという名で、人の顔を消させてはならない。

レオンハルトも同じ景色を見ていた。

彼の横顔には、恐れがあった。

だが、その恐れから目を逸らしてはいなかった。

帝都の灯の中で、皇太子は少しずつ、自分が使ってきた力の形を見始めていた。


舟は内水路を静かに進んだ。

帝都の朝は、湿地の朝とはまるで違っていた。

湿地では、夜明けは水鳥の声と霧の薄まりで始まる。

だが帝都では、鉄輪の軋み、荷揚げ人夫の怒鳴り声、焼き窯の扉が開く音、鐘楼から落ちる時刻の鐘で朝が始まる。

水路の両岸には石造りの倉庫が並び、その上階には洗濯物が干されていた。橋の下では子どもが水面に浮いた木片を拾い、屋台の女が湯気の立つ鍋をかき混ぜている。兵士の姿も多い。だが、彼らの横を魚売りが平然と通り過ぎ、パンを抱えた少年が犬に追われて走っていた。

帝都は、巨大な機械のようでありながら、同時に無数の小さな暮らしでできていた。

アビシニアは、それを見ていた。

ここは敵の都だ。

けれど、敵だけの都ではない。

その理解は、彼女の中で重かった。

憎む対象が大きく、曖昧であればあるほど、人は楽になれる。帝国、軍務省、皇帝、皇太子。そう呼べば、一つの塊として怒ることができる。

だが、今、彼女の目の前には、朝のパンを買う老人がいた。水路に落ちた帽子を拾って笑う子どもがいた。荷車を押す若者が、眠そうな兵に悪態をついていた。

彼らもまた、王冠炉に触れられるかもしれない人々だった。

旧王国の民だけではない。

帝国の民もまた、誰かの大義によって顔を消されるかもしれない。

アビシニアは、胸元の記録片に触れた。

父の声が、まだそこに残っている気がした。

――人の顔を見なさい。

「この先で降ります」

セラが小声で言った。

彼女は地図を膝に広げている。水に濡れないよう、布で覆いながら指先で経路を追っていた。

「技術院の裏手に、古い資材搬入口があります。今は廃止扱いですが、内部の点検路とは繋がっています」

カイが尋ねる。

「警備は」

「表門ほどではありません。ただし、技術院の内部に入れば、認証扉が増えます」

「札は使えるのか」

「一度は通れると思います。何度も使えば記録に残ります」

レオンハルトが低く言った。

「記録に残るのは避けたい」

セラは彼を見た。

「ですが、すべてを避けるのは無理です」

「分かっている」

彼はそう言ったが、声にはわずかな焦りがあった。

帝都に入ってから、レオンハルトの雰囲気は変わっていた。

湿地では、彼は追われる少年だった。白塔では、迷い始めた皇太子だった。だが帝都に入った瞬間、街そのものが彼に皇太子であることを思い出させているようだった。

橋の上に掲げられた帝国紋章。

兵士たちの敬礼。

遠くに見える宮城の尖塔。

街角に貼られた皇帝の布告。

それらが、彼の肩に見えない衣を着せていく。

アビシニアは、それを感じていた。

だから、声をかけた。

「急ぎすぎないでください」

レオンハルトが彼女を見る。

「急がなければ、王冠炉が動く」

「はい。でも、急ぎすぎれば、あなたがまた一人で動きます」

彼は言葉に詰まった。

カイが櫂を動かしながら言う。

「もう動きかけている」

レオンハルトは少し苛立った顔をした。

「私を監視するために同行しているのか」

カイは淡々と答えた。

「半分はそうだ」

ミラが慌てて言った。

「もう半分は、たぶん助けるためです」

カイは否定しなかった。

レオンハルトはミラを見て、少しだけ表情を緩めた。

「君はいつも、怖いことを柔らかく言う」

「怖いので」

「なるほど」

セラが地図を畳んだ。

「着きます」

舟は細い支水路へ入った。両岸の建物が高くなり、朝の光が届きにくくなる。水は濁り、油膜が薄く浮いていた。奥に、半ば錆びた鉄格子が見える。

セラは身を乗り出し、鉄格子の脇にある小さな機関錠へ手を伸ばした。

「ここです」

彼女は認証札を差し込んだ。

一瞬、何も起きなかった。

ミラが息を止める。

機関錠の内部で、小さな歯車が回る音がした。

鉄格子が、低い音を立てて上がる。

「通れます」

カイは舟を奥へ入れた。

鉄格子の内側は、古い荷揚げ場だった。

石段には苔が生え、壁には古い番号が薄く残っている。天井からは配管が走り、ところどころから水滴が落ちていた。帝都の表の喧騒が嘘のように、ここは静かだった。

五人は舟を降りた。

セラが鉄格子を閉じる。

「ここから先は、技術院の地下です」

ミラが周囲を見回す。

「暗いですね」

「使われていない区画ですから」

「使われていない場所が多すぎませんか」

「帝都は古い都市です。増築と封鎖を繰り返しています」

カイが言った。

「逃げ道も多いということだ」

「迷い道も多いです」

セラが即座に返す。

「なら迷うな」

「努力します」

ミラが小さく呟いた。

「努力します、も共通語になってきました」

アビシニアは笑いそうになったが、すぐに足を止めた。

地下通路の奥に、誰かがいた。

小柄な老人だった。

灰色の作業衣を着て、片手に古いランプを持っている。髪は白く、背は曲がっているが、目だけは妙に鋭い。

セラの顔が強張った。

「主任……」

老人はランプを掲げた。

「遅かったな、セラ・エイム」

カイが剣に手をかける。

老人はその動きを見て、鼻で笑った。

「ここで騒げば、上の警備が来る。私を斬る前に、全員捕まるぞ」

レオンハルトがフードを下げかけた。

老人は先に言った。

「下げなくてよい、殿下。顔は知っている」

空気が凍った。

ミラが一歩、アビシニアの後ろへ下がる。

セラは声を絞り出した。

「なぜ、ここに」

「お前の認証札が使われれば、ここを通ると分かっていた」

「通報したのですか」

「していれば、今ごろ兵が並んでいる」

老人はゆっくりと近づいた。

「私は技術院第三機関室主任、オルド・ヴァイス。白塔中継核の初期設計に関わった者だ」

アビシニアはその名を知らない。

だが、セラの顔を見れば分かる。

重要な人物だ。

セラは唇を噛んだ。

「主任は、白塔の実験を知っていたのですか」

老人――オルドは、すぐには答えなかった。

「すべてではない」

「また、それですか」

セラの声に怒りが混じった。

「私も同じことを言いました。知らなかった。すべてではない。自分の担当ではない。そうやって線を引いた先で、人が番号にされていました」

オルドは彼女を見た。

「よく分かっているではないか」

「主任も同じですか」

「そうだ」

あまりにも簡単に認めたので、セラは言葉を失った。

オルドはランプを壁に掛けた。

「白塔は最初、観測施設だった。王冠炉の残響が旧王国領にどれほど残っているかを調べるためのな。私はそれなら許容できると思った。危険だが、必要な研究だと」

「その後は」

レオンハルトが問う。

オルドは彼を見た。

「軍務省が入った。観測は選別に変わり、選別は収容に変わった。技術院は反対した。書面ではな」

「書面では?」

カイが低く言う。

「そうだ。書面では」

オルドの声には、自嘲があった。

「反対記録を残し、責任範囲を限定し、軍務省の管轄であると明記した。技術者らしい逃げ方だ。手は汚れていないと言いながら、機関は動かし続けた」

セラの肩が震えていた。

「なぜ止めなかったのですか」

「止められなかった」

「止めようとしなかったのでは」

オルドは目を伏せた。

「その通りだ」

地下通路に、水滴の音だけが響いた。

アビシニアは、セラを見た。

セラの罪は、彼女だけのものではなかった。

そして、彼女が今向き合っているものは、技術院全体の沈黙でもあった。

オルドはアビシニアへ視線を向けた。

「あなたが、ル・メイルの王女か」

カイが一歩前に出る。

アビシニアは彼を制した。

「はい。アビシニア・ル・メイルです」

老人は深く頭を下げた。

「謝罪はしない」

ミラが驚いたように顔を上げる。

オルドは続けた。

「謝罪で済むことではない。私はあなたに許しを請う立場にもない。私ができるのは、記録を渡すことだけだ」

彼は作業衣の内側から、小さな金属筒を取り出した。

「白塔の搬送記録、初期実験記録、軍務省との通達写し。すべてではないが、隠し通路を通じて複写した」

セラが息を呑む。

「主任……」

「お前が白塔へ送られた時、戻らないかもしれないと思った。戻れば、ここへ来るとも思った」

「なぜ私に」

「お前は、まだ自分が無罪だと思い込めるほど鈍くない」

セラは何も言えなかった。

オルドは金属筒をアビシニアへ差し出した。

「ル・ヴェンの記録を、私は読んだことがある」

アビシニアの胸が鳴った。

「どこで」

「技術院の禁書庫だ。王冠炉関連資料として接収されていた。そこにはこうあった。王が炉に近づく時、記録を前に置け。王が聞かなければ、民の前に置け」

彼は金属筒を持つ手を少し上げた。

「私は王ではない。だが、機関に近づきすぎた。だから、記録をあなたの前に置く」

アビシニアは筒を受け取った。

重かった。

中身の重さではない。

書かれている名の重さだ。

「この中に、リセ・ランバルの記録はありますか」

エルから預かった名が、自然に口をついて出た。

オルドは少し眉を寄せた。

「ランバル……」

彼は記憶を探るように目を細めた。

「北方星脈研究棟への移送者名簿に、似た名があったかもしれない。だが、白塔から北方へ移った後の記録は、技術院ではなく軍務省北方局が持っている」

「帝都にはないのですか」

「写しなら、宮城地下の中央記録庫にある可能性が高い」

カイが言った。

「そこへ行くのか」

レオンハルトが答える。

「王冠炉本体も、中央記録庫の近くだ」

アビシニアは金属筒を抱えた。

空欄に、名が近づいている。

だが、同時に危険も近づいている。

オルドはレオンハルトへ向き直った。

「殿下。あなたは、この記録を公にできますか」

レオンハルトはすぐに答えなかった。

その沈黙に、アビシニアは意味を感じた。

以前の彼なら、できる、と言ったかもしれない。

あるいは、必要なら、と冷たく答えたかもしれない。

だが今、彼はその言葉の重さを測っていた。

記録を公にするということは、帝国の罪を晒すことだ。

軍務省だけではない。技術院も、宮廷も、皇太子自身も問われる。

帝都は揺れる。

暴動が起きるかもしれない。

旧王国領では復讐が起きるかもしれない。

帝国貴族は彼を裏切るかもしれない。

それでも隠せば、白塔と同じになる。

レオンハルトは、ゆっくりと言った。

「できます、とは今は言えない」

ミラが不安そうに彼を見る。

オルドの目が細くなる。

レオンハルトは続けた。

「だが、しなければならないことだとは分かっている。私は、その方法を探す」

オルドは厳しい声で言った。

「方法を探すと言って、十年隠した者たちを私は知っている」

レオンハルトの顔が強張る。

アビシニアは口を挟まなかった。

これは、彼が受けるべき言葉だった。

レオンハルトは、深く息を吸った。

「なら、期限を切る」

「期限?」

「王冠炉停止後、三日以内に、白塔関連記録を帝都評議と各州代表へ提出する。軍務省が妨害するなら、皇太子名で布告する」

オルドはなおも見つめる。

「皇帝陛下が反対されたら」

レオンハルトの喉が動いた。

父。

皇帝。

その名が、彼の中のもっとも深い場所に触れたのが分かった。

「父が反対しても」

彼は言った。

声は小さかったが、逃げてはいなかった。

「提出する」

アビシニアは、彼を見た。

これは大きな一歩だった。

父を一人の人間として見る前に、彼は皇帝の権威を越えなければならない。だがそれは、父を否定することではない。

父が皇帝である前に人であるなら、間違えることもある。

そして、息子は皇太子である前に息子でありながら、時には父を止めなければならない。

オルドは長く沈黙した。

やがて、少しだけ頭を下げた。

「その言葉、記録しておきます」

セラが記録板を取り出した。

「私が書きます」

オルドは彼女を見た。

「書くだけでは足りんぞ」

「分かっています」

「分かっている、も逃げ言葉になる」

セラは唇を噛んだ。

「では、行動します」

「何をする」

「技術院の内部回線から、白塔記録の複写を外部保管庫へ送ります。王冠炉停止後に消されないように」

オルドの目がわずかに動いた。

「それは重罪だ」

「はい」

「技術院から追放される」

「当然です」

「処刑もあり得る」

セラの手が震えた。

だが、彼女は記録板を握り直した。

「それでも、送ります」

オルドは彼女をしばらく見ていた。

そして、懐から古い鍵を出した。

「第三機関室の副回線を使え。まだ私の認証で生きている」

セラは鍵を受け取った。

「主任は」

「私はここで足止めをする」

「兵が来ます」

「老いぼれ一人が道に迷ったことにする」

「無理があります」

「技術院ではよくあることだ」

セラは笑わなかった。

「主任」

オルドは彼女の言葉を遮った。

「謝るな。礼も言うな。仕事をしろ」

セラは深く頭を下げた。

「はい」

地下通路の奥で、遠く鐘が鳴った。

朝の第二鐘。

時間が動いている。

オルドは壁の古い扉を開けた。

「この先が第三機関室へ続く。そこから中央記録庫へ降りる経路がある。だが、王冠炉本体に近づくには皇族認証が必要だ」

全員の視線がレオンハルトへ向く。

彼は頷いた。

「私が開ける」

オルドは言った。

「開けるだけなら、な」

「どういう意味だ」

「王冠炉は、皇族認証だけでは動かない。ル・メイルの血だけでも動かない。両方を使えば、起動条件に近づく」

アビシニアの背筋が冷えた。

レオンハルトも顔色を変える。

「グレイヴは、それを狙っているのか」

「おそらく」

オルドは低く言った。

「白塔から送られた王女の反応記録。皇太子の認証。皇帝の病床。すべてを合わせれば、王冠炉の模倣起動が可能になるかもしれない」

ミラが震える声で言った。

「では、二人が近づくのは危ないのでは」

「危ない」

オルドは即答した。

「だが、止めるにも近づく必要がある」

カイが短く言った。

「罠だな」

「罠だ」

レオンハルトはアビシニアを見た。

その目に、初めてはっきりと迷いがあった。

「君を連れて行くべきではないかもしれない」

アビシニアは答えた。

「あなた一人で行くべきでもありません」

「だが」

「一人で決めない約束です」

レオンハルトは言葉を止めた。

ミラが小さく言った。

「怖いです」

全員が彼女を見る。

ミラは両手を握りしめていた。

「とても怖いです。でも、怖いからこそ、今ここで誰か一人を行かせるのは嫌です」

カイが頷いた。

「同感だ」

セラも言った。

「王冠炉の機構を止めるには、私も必要です」

オルドは彼らを見渡した。

「若いな」

それは嘲りではなかった。

少しだけ羨むような、苦い声だった。

「若さは、時に無謀だ。だが、老いは時に、無謀より悪い沈黙を選ぶ」

彼は扉の奥を示した。

「行け。沈黙を選ばないなら、急げ」

アビシニアは金属筒を抱え直した。

父の記録。

オルドの記録。

エルの紙片。

サリアの名。

リセの手がかり。

記録が増えていく。

それは、過去を背負うためだけのものではない。

未来を一人に決めさせないためのものだ。

レオンハルトが扉の前に立った。

一瞬、彼は帝都の皇太子の顔になりかけた。

だが、振り返った。

「行く」

それは命令ではなかった。

確認だった。

アビシニアは頷いた。

「行きましょう」

五人は、第三機関室へ続く暗い通路へ入った。

背後で、オルドが扉を閉める音がした。

その音は重かった。

けれど、閉ざされたのは退路だけではない。

沈黙へ戻る道も、少しだけ閉ざされたのだと、アビシニアは思った。


第三機関室へ続く通路は、帝都の地下とは思えないほど古かった。

壁の石は黒ずみ、ところどころに白い鉱脈のような線が走っている。神代機関の導線だとセラは言った。今はほとんど死んでいるが、王冠炉本体に近づくほど、残響を拾って淡く光るらしい。

その説明通り、奥へ進むにつれて、壁の線は薄く明滅し始めた。

アビシニアの胸の奥も、それに合わせて微かに鳴った。

白塔の中継核とは違う。

もっと深い。

もっと大きい。

眠っている獣の呼吸のようなもの。

王冠炉本体。

近づいている。

ミラはアビシニアの隣を歩きながら、小声で言った。

「大丈夫ですか」

「大丈夫ではありません」

アビシニアは正直に答えた。

ミラは少しだけ笑った。

「私もです」

「でも、歩けています」

「はい」

その短いやり取りが、今は支えになった。

カイは先頭で、足音を殺しながら進んでいる。レオンハルトはその少し後ろ、セラは壁の導線と自分の記録板を見比べながら歩いていた。

「第三機関室に着いたら、副回線から記録を送ります」

セラが言った。

「時間は?」

カイが問う。

「最低でも四半刻」

「長い」

「白塔の記録を圧縮して送るには、それでも短い方です」

「その間、こちらは守る」

「お願いします」

セラはそう言ってから、少しだけ表情を歪めた。

「人に守ってもらうのは、慣れませんね」

ミラが言った。

「私も最初はそうでした」

「今は?」

「まだ慣れていません。でも、少しだけ、お願いできるようになりました」

セラはミラを見た。

「あなたは強いですね」

ミラは慌てて首を振る。

「怖がってばかりです」

「怖いと言える人は強いです」

セラの声には、白塔でミラに言われた言葉が返っていた。

ミラは少し照れたように俯いた。

アビシニアはそれを見て、胸の奥に小さな温かさを感じた。

言葉は、人の間を渡って形を変える。

母の言葉が自分を支え、自分の言葉がミラに移り、ミラの言葉がセラを動かした。

一人の内側だけでは足りないものが、他人へ渡ることで力になる。

これもまた、王冠炉にはできないことだと思った。

しばらく進むと、通路の先に広い扉が現れた。

扉には帝国技術院の紋章と、古い神代文字が重ねて刻まれている。中央には認証盤があり、鈍い青い光を放っていた。

セラが立ち止まる。

「第三機関室です」

彼女はオルドから受け取った鍵を差し込んだ。

認証盤が一度、赤く光る。

全員が身構えた。

セラの顔が強張る。

「認証が古い……でも、まだ拒否されていません」

彼女は鍵を回し、さらに自分の札を重ねた。

青い光が戻る。

扉が重く開いた。

中は、円形の機関室だった。

白塔の中継室より新しい。

しかし、空気は同じように冷たい。

中央には大きな通信機関があり、周囲に記録卓が並んでいる。壁には無数の導線が走り、その一部が天井へ、さらに地下深くへ伸びていた。

「ここから中央記録庫と王冠炉制御層へ接続できます」

セラはすぐに通信機関へ向かった。

「記録送信を始めます」

カイは扉の外を確認し、戻ってきた。

「追手はまだ来ていない」

レオンハルトが部屋の奥を見ていた。

そこには、もう一つ扉があった。

黒い扉。

表面に皇族紋章が刻まれている。

「王冠炉への道か」

アビシニアが尋ねる。

レオンハルトは頷いた。

「制御層へ降りる扉だ。皇族認証が必要になる」

「今、開けるのですか」

「セラの送信が終わってからだ」

アビシニアは少し驚いた。

レオンハルトは彼女を見る。

「一人で行くなと言われた」

「覚えていたのですね」

「記録されたくないからな」

彼の口調は少しだけ皮肉だった。

だが、以前のような冷たさではない。

セラは通信機関の前で、白塔の記録板とオルドの金属筒を開いた。細い金属片を機関に差し込み、手早く符号を打ち込んでいく。

「送信先は、技術院外部保管庫、帝都評議臨時保管室、それから旧ル・メイル領の自治局跡に残る公開端末です」

カイが眉をひそめる。

「公開端末?」

「帝国が接収した後、ほとんど使われていません。でも、線は生きています。そこに送れば、軍務省が完全に消す前に誰かが拾う可能性があります」

「可能性」

ミラが呟く。

セラは微かに笑った。

「はい。可能性です」

通信機関が低く唸り始めた。

導線が青白く光る。

記録が送られていく。

白塔で奪われた名。

実験記録。

搬送記録。

軍務省の命令。

技術院の沈黙。

消されていたものが、外へ流れていく。

アビシニアはそれを見つめた。

これは戦いなのだと思った。

剣ではなく、記録を送る戦い。

声を奪われた人々の名を、隠された場所から外へ出す戦い。

ル・ヴェンの役割。

王が聞かなければ、民の前に置け。

その古い誓いが、今、帝都の地下で動いている。

だが、送信が半ばまで進んだ時、部屋の警告灯が赤く点いた。

セラが顔を上げる。

「検知されました」

カイが剣を抜く。

「来るか」

「来ます」

扉の外から、足音が響いた。

複数。

規則正しい。

訓練された兵の足音。

ミラがアビシニアの袖を掴んだ。

「怖いです」

「私もです」

「でも、止めません」

「はい」

レオンハルトが扉の前へ出ようとした。

カイが腕を掴む。

「また一人で立つな」

「私は皇太子だ。兵は私の顔を見れば」

「だから危ない」

アビシニアが言った。

レオンハルトが振り返る。

「あなたの顔は、武器になります。今使えば、また兵に嘘をつかせることになるかもしれません」

「では、どうする」

「まず、話す相手を選びます」

足音が止まった。

扉の向こうから声がした。

「第三機関室を開けなさい。軍務省監察局です」

カイが低く言う。

「黒紐隊ではない。正規の監察兵だ」

レオンハルトが扉を見た。

「なら、まだ話せる可能性がある」

「可能性ばかりだな」

「それでも」

アビシニアは扉の前に立った。

カイが横に並ぶ。

レオンハルトも、今度は一歩後ろに立った。

その位置を、自分で選んだ。

アビシニアはそれに気づいた。

前へ出すぎない。

下がりすぎない。

今の彼には、その距離が必要なのだろう。

扉が開いた。

外には六人の兵がいた。

先頭に立つのは、中年の女性士官だった。短く切った黒髪、鋭い目、整った軍服。黒紐ではない。正規軍の徽章を付けている。

彼女は部屋の中を見て、まずレオンハルトに目を留めた。

一瞬だけ驚きが走る。

だが、すぐに姿勢を正した。

「皇太子殿下」

レオンハルトは答えた。

「所属と名を」

「帝都守備軍第二監察隊、マイヤ・ローデン少佐です」

カイが小さく言った。

「守備軍か。軍務省直轄ではない」

マイヤ少佐は鋭くカイを見た。

「発言を許した覚えはない」

カイは黙った。

レオンハルトが言う。

「少佐。ここで行われている送信は、私の指示によるものだ」

アビシニアは彼を見た。

嘘だ。

正確には、彼一人の指示ではない。

だが、彼はすぐに続けた。

「ただし、実行を決めたのは私一人ではない。この場の者全員で判断した」

アビシニアは少しだけ息を吐いた。

彼は修正した。

自分で。

マイヤ少佐は眉を動かした。

「何を送信しているのですか」

セラが答える。

「白塔関連記録です。旧王国領出身者への違法な生体共鳴実験、軍務省による命令書、技術院内の隠蔽記録」

兵たちがざわめく。

マイヤ少佐の顔は変わらない。

「それが事実なら、正規の手続きを踏むべきです」

セラは手を止めずに言った。

「正規の手続きで十年隠されました」

マイヤ少佐の目が細くなる。

「技師官。言葉を選びなさい」

アビシニアが言った。

「言葉を選んできた結果、人が番号にされました」

マイヤ少佐の視線が彼女へ向く。

「あなたは」

「アビシニア・ル・メイル」

部屋が静まり返る。

兵の一人が剣に手をかけた。

マイヤ少佐が手で制する。

「旧ル・メイル王女」

「はい」

「帝都に何をしに来たのですか」

「王冠炉を止めに来ました」

答えは静かだった。

マイヤ少佐はしばらく彼女を見ていた。

敵意だけではない。

驚き。

警戒。

そして、どこかに疲れがある。

「王冠炉は帝国最高機密です」

「白塔もそうでした」

「あなたに触れさせるわけにはいきません」

「触れなければ、止められません」

「信じろと?」

「いいえ」

アビシニアは首を振った。

「記録を見てください。私を信じなくていい。皇太子を信じなくてもいい。ですが、白塔の記録を見てください」

マイヤ少佐の視線が、通信機関へ移る。

送信はまだ続いている。

止めようと思えば、彼女は命令できる。

兵たちはそれを待っている。

マイヤ少佐はレオンハルトを見た。

「殿下。この送信を許せば、帝都は揺れます」

「分かっている」

「暴動が起きる可能性があります」

「分かっている」

「軍務省はあなたを反逆者と呼ぶでしょう」

「もう呼んでいるかもしれない」

「皇帝陛下のお耳に入れば」

レオンハルトの表情がわずかに強張った。

父。

その言葉が、また彼に触れた。

マイヤ少佐は続ける。

「陛下は、耐えられないかもしれません」

その言葉には、ただの脅しではない響きがあった。

レオンハルトは沈黙した。

アビシニアは、彼が揺れているのを見た。

ここで彼が命じれば、送信は止まる。

帝都の混乱は先送りできる。

皇帝の病状も、今は守れるかもしれない。

しかし、白塔の名はまた闇へ戻る。

レオンハルトは息を吸った。

そして、言った。

「少佐。父を盾にするな」

声は震えていた。

だが、立っていた。

「私は、父を守るために、多くのことを見ないふりをしてきた。帝国を守るために、人の顔を数へ変えようとした。その結果が白塔だ」

マイヤ少佐は黙っている。

「父が耐えられないかもしれない。帝都が揺れるかもしれない。私が裁かれるかもしれない。それでも、これを隠したまま王冠炉を動かせば、帝国は守られるのではなく、空洞になる」

彼は一歩前に出た。

今度は、皇太子としてではなく、自分の言葉で。

「送信は止めない」

マイヤ少佐の手が、腰の剣に近づいた。

カイも剣を構える。

空気が張り詰める。

だが、マイヤ少佐は剣を抜かなかった。

「殿下」

「何だ」

「私は帝都守備軍です。帝都の治安を守る義務があります」

「そうだ」

「この記録が出れば、治安は乱れます」

「そうだ」

「なら、私の義務は、送信を止めることかもしれません」

レオンハルトは彼女を見た。

「かもしれない、か」

マイヤ少佐の目がわずかに揺れる。

「白塔に、私の甥が送られたという噂がありました」

部屋の空気が変わった。

「旧王国領の血が混じっているというだけで、姉の子が連れて行かれた。私は守備軍にいた。探しましたが、記録はなかった。だから、噂だと思うことにしました」

彼女は通信機関を見た。

「もし、その記録が本当にあるなら」

声が低くなる。

「私は、止めるべきではないのかもしれない」

セラが手を止めずに言った。

「名は」

マイヤ少佐は唇を噛んだ。

「フェリクス・ローデン。連れて行かれた時、九歳でした」

セラは記録板を素早く検索する。

通信機関の光が揺れる。

数秒が、長く感じられた。

セラの顔が強張った。

「あります」

マイヤ少佐の目が見開かれる。

「白塔から北方星脈研究棟へ移送。六年前。生死記録はありません」

マイヤ少佐の体が揺れた。

兵の一人が彼女を支えようとする。

彼女は手で制した。

「そう」

声は静かだった。

静かすぎた。

「生死記録はないのですね」

「はい」

「なら、消えてはいない」

その言葉は、エルの時と同じ痛みを持っていた。

希望。

また残酷な希望。

アビシニアは彼女を見た。

帝都守備軍の少佐。

敵かもしれなかった人。

王冠炉を守る側の人。

その人にも、探している名があった。

心の中に、また一つ場所ができる。

マイヤ少佐は深く息を吸った。

「送信完了まで、どれくらい」

セラが答える。

「あと少しです」

「その間、この部屋は私が封鎖します」

兵たちが驚く。

「少佐!」

「命令です」

彼女は部下たちを見た。

「公式には、機関室内の水圧異常調査中。外部侵入者なし。皇太子殿下の所在不明。そう報告します」

レオンハルトの顔がわずかに変わった。

東水門で彼が兵に言わせた嘘と、似ている。

だが、今回は違う。

マイヤ少佐は続けた。

「ただし、この行為は私の判断です。殿下の命令ではありません。記録してください」

セラが頷く。

「記録します」

レオンハルトは苦しげに言った。

「少佐、あなたに罪を」

「背負わせるな、とおっしゃるなら間違いです」

マイヤ少佐は彼を見た。

「殿下。人が自分で選ぶことを守りたいなら、私が選んだことも奪わないでください」

その言葉に、レオンハルトは打たれたように黙った。

誰かが自分のために動く。

自分の命令ではなく、自分の選択で。

それを許すことは、彼にとって、誰かを見捨てることに似ていた。

だから彼は、いつも先に背負おうとした。

だが、マイヤ少佐はそれを拒んだ。

彼女は、守られる者としてではなく、選ぶ者としてそこに立っていた。

レオンハルトは、初めてその重さを奪わずに受け取った。


アビシニアは、彼の横顔を見た。

彼が今、何かを手放そうとしているのだと分かった。

これは、彼に必要な痛みだと思った。

誰かが自分のために動く。

自分の命令ではなく、自分の選択で。

その結果の責任も、その人自身にある。

それを信じること。

それが、彼が最も恐れてきたものだった。

通信機関が高く鳴った。

セラが叫ぶ。

「送信完了!」

部屋の空気が一瞬止まった。

白塔の記録は、外へ出た。

もう完全には消せない。

アビシニアは目を閉じた。

サリア。

リセ。

フェリクス。

名も番号も奪われた者たち。

あなたたちは、少しだけ外へ出た。

まだ救われてはいない。

でも、闇の中だけにはいない。

マイヤ少佐は扉の前へ立った。

「行ってください」

「あなたは」

レオンハルトが言う。

「ここを封鎖します。長くは持ちません」

「なぜそこまで」

マイヤ少佐は少しだけ目を伏せた。

「甥を探すためです」

そして、顔を上げた。

「それから、帝都守備軍として、この都市が何を守ってきたのかを知るためです」

レオンハルトは深く頭を下げた。

皇太子が、少佐に。

兵たちが息を呑む。

マイヤ少佐も驚いたようだった。

「殿下」

「あなたの選択を、私は記録する」

レオンハルトは言った。

「そして、忘れない」

マイヤ少佐は一瞬、言葉を失った。

やがて、短く敬礼した。

「ご武運を」

五人は奥の黒い扉へ向かった。

レオンハルトが認証盤の前に立つ。

彼は一度、アビシニアを見た。

「開ける」

「はい」

「この先で、私は父に会う」

「はい」

「その後、王冠炉だ」

「一人ではありません」

レオンハルトは、ほんの少しだけ頷いた。

そして、認証盤に手を置いた。

青白い光が、彼の手の下で広がる。

扉の紋章が開くように光り、黒い石がゆっくりと左右へ割れた。

その奥から、冷たい風が吹いた。

地下深くから。

王冠炉本体のある場所から。

アビシニアの胸の奥で、強い鼓動が鳴った。

どくん。

白塔とは比べものにならない。

それは、国を動かすほどの古い力の鼓動だった。

ミラが震えた。

カイが剣を握り直す。

セラは記録板を抱え、顔を青くしている。

レオンハルトは、扉の奥を見つめていた。

皇太子としてではなく。

父に会いに行く息子として。

そして、その父の先にある炉を止めに行く者として。

アビシニアは一歩踏み出した。

闇の奥に、淡い光が差している。

光は、闇を責めない。

ただ、そこにいる人の顔を見えるようにする。

ならば、次に見るべき顔は。

帝国皇帝の顔だった。


黒い扉の先は、静かだった。

不自然なほどに。

帝都の地上では、朝の鐘が鳴り、人々が動き出しているはずだった。

だがこの地下では、その音が届かない。石の壁と神代機関の導線が、外の世界を遠ざけていた。

通路は広く、まっすぐだった。

左右の壁には帝国の紋章が刻まれている。だが、その奥にはさらに古い紋様が透けて見えた。ル・メイルのものでも、帝国のものでもない。神代の終わりに、人がまだ機関を神の名残と呼んでいた頃の印。

アビシニアは、そこに手を触れなかった。

触れれば読めるかもしれない。

だが今は、読まずに歩くことを選んだ。

すべての記録を抱え込む必要はない。

すべての痛みを、自分の中へ入れる必要もない。

それもまた、白塔で学んだことだった。

ミラが隣で小さく息を吸った。

「ここ、寒いです」

「炉に近いのに?」

アビシニアが言うと、セラが答えた。

「王冠炉は熱を出す炉ではありません。記憶と意志の残響を集め、方向づける機関です。熱よりも、静電気や低温に近い反応が出ます」

ミラは首をすくめた。

「説明されても寒いです」

カイが前を見たまま言った。

「寒いなら、歩け」

「歩いています」

「なら、止まるな」

「励まし方が雑です」

カイは返事をしなかった。

だが、歩く速さを少しだけ落とした。

それにミラが気づき、何も言わずに歩幅を合わせた。

レオンハルトは先頭近くにいた。

彼の背はまっすぐだった。

帝都に入ってからまとっていた皇太子の硬さは、まだ消えていない。だが、今はその硬さの中に、別のものがあった。

覚悟というには、まだ揺れている。

恐怖というには、もう逃げていない。

アビシニアは、その背を見ながら思った。

彼は、父に会いに行くのだ。

王冠炉を止めるためでもある。

皇帝の認証を確認するためでもある。

帝国の中枢へ戻るためでもある。

けれど、最も深いところでは、父に会いに行く。

皇帝ではなく、父に。

やがて通路の先に、白い扉が現れた。

黒い通路の奥にあるその扉だけが、異様に明るかった。磨かれた白金属で作られ、表面には帝国獅子と、さらにその下に古い王冠炉の制御紋が刻まれている。

セラが囁いた。

「皇帝陛下の静養室です」

ミラが驚く。

「王冠炉の前に、静養室があるんですか」

レオンハルトが答えた。

「父は、炉の近くでなければ眠れない」

「なぜ」

「分からない」

彼の声が少し硬くなった。

「病のためだと聞かされていた。炉の残響が、痛みを和らげると」

セラの顔が険しくなる。

「それは危険です。王冠炉の残響を長期間浴びれば、感情の平衡が崩れます。痛みを和らげる代わりに、意志そのものが鈍る可能性がある」

レオンハルトの顔から血の気が引いた。

「誰が、それを許可した」

セラは答えなかった。

言わなくても分かる。

軍務省。

技術院の一部。

皇帝の周囲にいた者たち。

そして、それを深く問わなかった皇太子。

レオンハルトは扉に手を置いた。

指がわずかに震えている。

アビシニアはそれを見た。

声をかけるべきか迷った。

だが、今は黙っていた。

これは、彼が自分で触れなければならない扉だった。

認証盤が光る。

扉が開いた。

中は、思っていたより小さな部屋だった。

皇帝の部屋というには、あまりにも簡素だった。寝台、椅子、薬棚、厚いカーテン。窓はない。壁の奥に、王冠炉へ続く導線が薄く光っている。

その寝台に、老人が横たわっていた。

帝国皇帝。

かつて大陸の半分を統べた男。

今は、薄い毛布の下で、痩せた体を小さく折りたたむように眠っていた。髪はほとんど白く、頬はこけ、片手は寝台の外へ力なく落ちている。

レオンハルトは動かなかった。

彼の顔から、皇太子の表情が剥がれていく。

残ったのは、ただの息子だった。

「父上」

声は掠れていた。

皇帝のまぶたが、わずかに動いた。

時間がかかった。

ゆっくりと目が開く。

瞳は薄い青だった。レオンハルトと同じ色。だが、そこには霧がかかっているようだった。

皇帝は息子を見た。

見ているのに、すぐには分からないようだった。

「……レオン」

その声は、とても小さかった。

レオンハルトの肩が震えた。

「はい」

皇帝は、彼の後ろにいる者たちへ視線を動かした。

カイ。

ミラ。

セラ。

アビシニア。

そして、アビシニアを見た時、瞳の霧がわずかに晴れた。

「ル……メイル」

アビシニアは一歩前へ出た。

「アビシニア・ル・メイルです」

皇帝は長い間、彼女を見ていた。

「生きて……いたか」

その言葉には、驚きよりも安堵があった。

アビシニアは戸惑った。

「私を、ご存じだったのですか」

皇帝は答えようとしたが、咳き込んだ。

レオンハルトが反射的に近づく。

「父上」

彼は水差しを取り、父を支えようとした。

皇帝はその手を見た。

そして、かすかに笑った。

「まだ……手が冷たいな」

レオンハルトの表情が崩れかけた。

それは皇帝の言葉ではなかった。

父の言葉だった。

「昔からだ」

皇帝は言った。

「お前は、冬になると……手を隠した」

「覚えて……」

レオンハルトは言いかけ、声を止めた。

覚えていたのか。

帝国そのものに見えた父が。

病床で言葉を失ったと思っていた父が。

自分の冷たい手を覚えていた。

それだけのことが、彼を打ち砕きそうだった。

アビシニアは目を伏せた。

父を人として見ることは、いつも少し残酷だ。

偉大な像が崩れるからではない。

そこに、遅すぎた愛情が見えるからだ。

皇帝はレオンハルトの手を弱く握った。

「お前は……背負いすぎた」

レオンハルトは首を振る。

「父上が、何も言わなかったからです」

その声には、子どもの怒りがあった。

部屋の空気が止まる。

レオンハルト自身も、自分の言葉に驚いたようだった。

だが、止まらなかった。

「父上は、いつも皇帝でした。病に伏してからも、私に何も言わなかった。何を信じ、何に失敗し、何を恐れているのか。私は何も知らなかった」

皇帝は目を閉じた。

レオンハルトは続けた。

「だから私は、父上が壊れたのだと思った。人を信じたせいで、帝国を緩めたせいで、地方を許したせいで、壊れたのだと」

声が震える。

「だから私は、人を信じることをやめようとした」

皇帝は、ゆっくり目を開いた。

「……すまぬ」

その一言に、レオンハルトの顔が歪んだ。

「謝らないでください」

アビシニアは、その言葉に胸を突かれた。

自分も、父の記録を聞いた時に思った。

謝らないで、と。

だが、父親たちは謝る。

王であっても、皇帝であっても。

子どもに残した痛みを、消せないと知っているから。

皇帝はかすれた声で言った。

「私は……お前を、守るつもりで……遠ざけた」

レオンハルトは笑った。

泣きそうな笑いだった。

「守られているとは思えませんでした」

「そうだろう」

皇帝の目に、わずかな光が戻る。

「私は……失敗した」

部屋は静まり返った。

皇帝が、自分の失敗を認めた。

その言葉は、帝国の玉座より重かった。

「人を信じたのですか」

レオンハルトが問う。

皇帝は少しだけ首を振った。

「信じようとした」

「その結果、裏切られた」

「そうだ」

「腐敗した」

「そうだ」

「民は救われなかった」

皇帝は長く沈黙した。

そして、言った。

「すべては、救えなかった」

その言葉に、レオンハルトは息を止めた。

「だが……数だけで見れば、救えた者の顔も消える」

皇帝の視線が、アビシニアへ向いた。

「ル・メイルの王は……それを知っていた」

アビシニアは身を強張らせた。

皇帝は彼女に言った。

「私は、あなたの父と……一度だけ、文を交わした」

「父と?」

「王冠炉について」

アビシニアの胸が鳴る。

皇帝は苦しげに呼吸しながら続けた。

「帝国にも……同じ炉の系譜がある。私は、それを恐れていた。あなたの父も、恐れていた。敵同士だったが……そこだけは、同じだった」

レオンハルトが低く言う。

「父上は、王冠炉に反対だったのですか」

皇帝は目を閉じた。

「封じたかった」

「では、なぜ私には」

「言えなかった」

「なぜ!」

レオンハルトの声が初めて荒くなった。

ミラが肩を震わせる。

カイは黙って見ている。

皇帝は、息子の怒りを受けた。

逃げなかった。

「お前に……私の恐れを、継がせたくなかった」

レオンハルトは言葉を失った。

「だが、沈黙は……恐れより重かったな」

皇帝の声は弱い。

けれど、部屋の全員に届いた。

「私は、お前から選ぶための言葉を奪った」

レオンハルトの目が濡れていた。

だが、涙は落ちなかった。

彼はまだ泣けないのだろう。

皇太子として生きすぎた者は、泣く練習もしていない。

アビシニアは、彼に何か言うべきではないと思った。

これは彼と父の時間だった。

皇帝はセラを見た。

「技術院は……まだ、動くか」

セラは背筋を伸ばした。

「白塔記録を外部へ送信しました。軍務省の隠蔽記録も含めて」

皇帝の目が、少しだけ見開かれる。

「そうか」

「陛下の許可なく行いました」

「よい」

セラは驚いたように顔を上げた。

皇帝はかすかに笑った。

「許可を待って……十年、遅れたのだろう」

その言葉に、セラは唇を噛んだ。

「はい」

「なら……よい」

レオンハルトは父を見た。

「父上。王冠炉を止めます」

皇帝は彼を見つめる。

「止められるか」

「止めます」

「一人でか」

レオンハルトは少しだけ息を呑んだ。

そして、首を振った。

「いいえ」

その答えに、アビシニアは胸の奥が熱くなった。

「一人ではありません。アビシニアがいます。カイが、ミラが、セラがいます。湿地には記録を待つ者たちがいます。白塔にはまだ救えなかった人がいます。北方には、生きているかもしれない子どもたちがいます」

彼は父の手を握った。

「私は、一人で帝国を救いません」

皇帝の目が細くなる。

それは笑みに近かった。

「ようやく……少し、賢くなった」

レオンハルトの顔が歪んだ。

「ひどい言い方です」

「父親は……時に、ひどい」

その言葉に、アビシニアは思わず目を伏せた。

皇帝はアビシニアへ視線を向けた。

「ル・メイルの娘よ」

「はい」

「炉は……止めるだけでは、足りぬ」

アビシニアは息を止めた。

「どういう意味ですか」

「炉は……人の恐れで、また起きる。誰かが……必ず使おうとする」

父の記録にも似た言葉だった。

王冠炉を使えば、一時的に止められるものがある。

だからこそ、誰かがまた手を伸ばす。

皇帝は言った。

「炉を止めるなら……記録を、開け」

「記録?」

「炉の中に……封じられた記録。過去に炉が奪ったもの。使った者の名。失われた村。沈められた反乱。皇帝も、王も、すべて」

セラが息を呑んだ。

「王冠炉の中核記録……存在は理論上だけだと」

「ある」

皇帝は言った。

「それを開けば、帝国も、旧王国も……傷を隠せなくなる」

レオンハルトの表情が強張る。

「帝国は崩れるかもしれない」

「そうだ」

皇帝は息子を見る。

「隠せば、もっと崩れる」

その言葉は、病人のものとは思えないほど重かった。

アビシニアは理解した。

王冠炉を物理的に止めるだけでは、また誰かが動かす。

だが、中に封じられた記録を解放すれば、炉の誘惑そのものを人々の前に置ける。

王が聞かなければ、民の前に置け。

ル・ヴェンの誓いが、ここでも響く。

「でも」

ミラが小さく言った。

全員が彼女を見る。

彼女は怯えながらも続けた。

「全部の記録を開いたら、傷つく人もいるんじゃないですか。知りたくなかったことを知る人も。怒る人も。復讐したくなる人も」

皇帝は、ミラを見た。

「その通りだ」

ミラは唇を結ぶ。

「それでも、開くんですか」

アビシニアも同じ問いを抱いていた。

記録を開くことは、光を当てることだ。

だが、光は人を救うだけではない。

傷を暴く。

眠っていた怒りを起こす。

失ったと思っていたものを、もう一度失わせる。

皇帝は答えなかった。

代わりに、レオンハルトを見た。

「決めよ」

レオンハルトの顔が強張る。

まただ。

父は、息子に決めよと言う。

だが、レオンハルトはゆっくりと首を振った。

「いいえ」

皇帝の目が揺れる。

「私は一人では決めません」

レオンハルトはアビシニアを見た。

「これは、帝国だけの問題ではない。旧ル・メイルだけの問題でもない」

アビシニアは頷いた。

「炉の記録を開くかどうかは、私たちだけで決めるには大きすぎます」

カイが言った。

「だが、今決めなければ、グレイヴが先に動かす」

セラも頷く。

「炉の中核に入れば、完全解放ではなく、封鎖解除の準備だけを行えます。全記録を即時公開するか、保全して評議に渡すかは、その後に選べるかもしれません」

「かもしれない」

ミラが呟いた。

セラは苦笑した。

「はい。ですが、今はその可能性を取るしかありません」

アビシニアは考えた。

完全な答えはない。

記録を隠せば、白塔が繰り返される。

記録を開けば、傷が広がるかもしれない。

どちらにも危険がある。

でも、危険だからといって、誰か一人が密かに決めてよいことではない。

「炉の記録を保全します」

アビシニアは言った。

「今ここで全てを解き放つのではなく、消されないようにする。そして、旧王国領、帝国評議、技術院、被害者の家族に開示するための場を作る」

レオンハルトが続けた。

「私は皇太子として、その場を保証する。軍務省が妨害すれば、反逆として裁く」

カイが冷静に言った。

「軍務省は黙っていない」

「分かっている」

「グレイヴも」

「分かっている」

ミラが小さく言った。

「でも、さっきより一人で決めてないです」

レオンハルトは彼女を見た。

「そう見えるか」

「はい」

「なら、少しは進んだのだな」

皇帝が、かすかに笑った。

「レオン」

レオンハルトは父を見る。

「行きなさい」

その言葉に、部屋の空気が変わった。

アビシニアの胸が締めつけられる。

行きなさい。

彼女の父も、そう言った。

だが、今聞くその言葉は、少し違っていた。

置いていく言葉ではない。

背中を押す言葉。

レオンハルトは父の手を強く握った。

「戻ります」

皇帝は目を細めた。

「戻らなくても……生きろ」

レオンハルトは唇を噛んだ。

「父上」

「皇帝としては……戻れと言うべきだろうな」

老人はかすかに笑う。

「だが、父としては……生きろと言う」

その瞬間、レオンハルトの目から涙が落ちた。

一筋だけ。

彼はそれを拭わなかった。

アビシニアは目を伏せた。

彼の成長を、見届けたのだと思った。

皇太子が泣いたのではない。

息子が、ようやく父の前で泣いた。

それは帝国を救う力ではない。

王冠炉を止める技術でもない。

けれど、人からそれを奪ってはいけないのだ。

泣くこと。

怒ること。

迷うこと。

それでも選ぶこと。

王冠炉が消そうとしているものは、まさにそれだった。

カイが扉の方を見た。

「来る」

遠くから足音が響く。

今度は多い。

セラが顔を上げる。

「制御層への入口は、静養室の奥です」

皇帝は弱く手を上げた。

寝台の横の壁が、ゆっくりと開く。

淡い光が漏れた。

王冠炉へ続く階段。

レオンハルトは父の手を離した。

少し時間がかかった。

離したくなかったのだろう。

それでも、離した。

「行ってきます」

皇帝は頷いた。

アビシニアも、皇帝へ深く頭を下げた。

「陛下」

皇帝は彼女を見た。

「あなたの父は……よい敵だった」

アビシニアは胸が震えた。

「はい」

「そして……おそらく、よい父だった」

涙が出そうになった。

けれど、今は泣かなかった。

「はい」

彼女は答えた。

「私も、そう思います」

五人は、静養室の奥の階段へ向かった。

背後で扉が閉まる直前、アビシニアは振り返った。

皇帝は寝台の上で、息子を見送っていた。

帝国そのものではなく。

一人の父として。

扉が閉じる。

階段の下から、王冠炉の鼓動が響いた。

どくん。

どくん。

どくん。

アビシニアは一歩、下へ降りた。

レオンハルトが隣に並ぶ。

もう片方にはミラがいる。

前にはカイ。後ろにはセラ。

一人ではない。

そのことを確かめながら、彼女たちは王冠炉の心臓部へ降りていった。


階段は長かった。

石でできた螺旋階段が、地下へ地下へと続いている。壁には神代文字が刻まれ、その間を青白い導線が血管のように走っていた。足を一段降ろすたびに、空気が重くなる。

どくん。

王冠炉の鼓動が響く。

音ではない。

胸の奥で聞こえる。

アビシニアは、白塔で感じた中継核の反応を思い出した。あれは王冠炉の影だった。遠くから伸ばされた指先のようなものだった。

今、彼女が近づいているのは、その心臓だ。

ミラは唇を結び、片手で壁に触れないようにしながら歩いていた。

「この音、皆にも聞こえますか」

「聞こえる」

カイが短く答えた。

「耳ではないがな」

セラは青ざめた顔で頷いた。

「共鳴圧です。炉の中核が周囲の意識反応を拾っています。通常なら遮断層があるはずですが、今はかなり開いている」

「誰かが起動準備をしているということか」

レオンハルトが問う。

「おそらく」

セラの声が硬くなる。

「白塔から送られた反応記録、皇族認証、皇帝陛下の近接反応。それらを使って、炉を半覚醒状態にしているのだと思います」

アビシニアは胸元に手を当てた。

鼓動が、自分のものと重なりかける。

気を抜けば、どちらが自分の心音か分からなくなりそうだった。

「アビシニア」

レオンハルトが言った。

彼は隣を歩いている。

「無理なら、止まれ」

「止まれば、炉は止まりますか」

「止まらない」

「なら、進みます」

「そう言うと思った」

「では、聞かないでください」

「聞くことに意味がある」

その言葉に、アビシニアは少しだけ彼を見た。

以前のレオンハルトなら、必要なら進め、と言ったかもしれない。

今の彼は、止まる権利を確認した。

それだけで、同じ道を歩く意味が変わる。

「ありがとうございます」

「礼を言われるほどではない」

「でも、言います」

レオンハルトは少し困ったように目を逸らした。

階段の終わりが見えた。

下に、広い空間がある。

淡い光が揺れている。

五人は最後の段を降りた。

そこは、巨大な円形の空洞だった。

帝都の地下に、これほどの空間があるとは思えなかった。天井は高く、暗闇の中に消えている。壁一面に導線が走り、中心へ向かって集まっている。

その中心に、王冠炉があった。

炉という名から想像するような炎はない。

それは、巨大な王冠の形をした機関だった。

円環状の台座。

そこから伸びる七本の柱。

柱の先に浮かぶ、光の輪。

輪の内側には、無数の文字と映像の断片が流れている。

人の顔。

地図。

名前。

命令書。

泣き声のような波形。

消された村の記録。

戴冠式の映像。

処刑台。

婚礼。

反乱。

飢饉。

祈り。

すべてが光の粒になって、輪の内側を巡っていた。

ミラが口元を押さえた。

「これが……」

セラは震える声で言った。

「王冠炉本体」

アビシニアは動けなかった。

美しいと思ってしまった。

それが恐ろしかった。

王冠炉は、美しかった。

人の苦しみも、願いも、失敗も、愛情も、すべてを光に変えていた。

だからこそ危険なのだと分かった。

美しいものは、時に人を黙らせる。

こんなに美しいのだから、きっと正しいのだと錯覚させる。

カイが低く言った。

「誰かいる」

王冠炉の反対側。

光の輪の下に、一人の男が立っていた。

軍服。

黒紐。

片腕に包帯。

冷たい目。

グレイヴ大佐。

彼は振り返った。

「遅かったな」

レオンハルトが前へ出ようとする。

アビシニアはその袖を掴んだ。

彼は止まった。

一瞬、驚いたように彼女を見たが、すぐに頷いた。

一人で前に出ない。

それを守った。

グレイヴはその様子を見て、薄く笑った。

「皇太子殿下が、随分と従順になられた」

レオンハルトは答えた。

「従順ではない。学習した」

「人に止められることを?」

「そうだ」

グレイヴの笑みが少し消えた。

「それを成長と呼ぶのなら、帝国は終わりだ」

「終わるべきものもある」

レオンハルトの声は静かだった。

「白塔は終わらせる。王冠炉も、あなたの計画も」

グレイヴは王冠炉を見上げた。

「計画、か。あなた方はいつもそう呼ぶ。まるで私が権力のためにこれを欲したかのように」

「違うと?」

アビシニアが問う。

グレイヴの視線が彼女へ向く。

「違う」

彼の声には、怒りがなかった。

それがかえって不気味だった。

「私は、戦場で何度も見た。村が焼かれるのを。兵が命令を誤解し、子どもを敵兵と見なすのを。飢えた民が隣村を襲うのを。正義を叫ぶ者が、最初に老人を殺すのを」

彼は光の輪を見上げる。

「人は、自由にしておけば壊れる」

アビシニアは胸の奥が冷たくなった。

レオンハルトがかつて言った言葉に近い。

だが、グレイヴの声には迷いがなかった。

「だから、少しだけ導く必要がある。怒りを鎮め、恐怖を薄め、反乱の芽を摘み、危険な記憶を眠らせる。王冠炉はそのための機関だ」

ミラが震えながら言った。

「それは、人を守ることじゃありません」

グレイヴは彼女を見た。

「では、守るとは何だ。泣かせることか。飢えさせることか。復讐の連鎖を許すことか」

ミラは言葉に詰まった。

アビシニアは彼女の前へ少し出た。

「守ることは、人から選ぶ力を奪うことではありません」

「選ぶ力で人は人を殺す」

「奪う力でも、人は人を殺します」

グレイヴの目が細くなる。

「王女殿下。あなたの国は、選ぶ力を守って滅びた」

その言葉は刃だった。

アビシニアの胸に刺さる。

ル・メイルは滅びた。

父は王冠炉を使わなかった。

その結果、王国は焼けた。

グレイヴは続けた。

「あなたの父は立派だった。人を信じた。炉を使わなかった。そして、あなたの母は死に、王宮は焼け、民は帝国の属州となった。美しい失敗だ」

カイが剣を握る。

アビシニアは手で制した。

怒りはある。

だが、今は怒りに任せてはいけない。

「父は失敗しました」

彼女は言った。

ミラが息を呑む。

レオンハルトも彼女を見る。

アビシニアは続けた。

「国を守れなかった。私を守れなかった。多くの人を救えなかった。それは事実です」

グレイヴは黙っている。

「でも、父の失敗は、あなたの正しさの証明ではありません」

王冠炉の光が揺れた。

「父は一人で苦しみました。皇帝陛下も一人で沈黙しました。あなたも、一人で人を諦めた。だから同じことを繰り返しているのです」

グレイヴの表情がわずかに変わった。

「私が、人を諦めた?」

「はい」

アビシニアは彼を見た。

「あなたは人を守りたいのではありません。人に失望した自分を、王冠炉で正当化したいのです」

空気が凍った。

グレイヴの目に、初めて怒りが宿った。

「黙れ」

低い声だった。

王冠炉の光が強くなる。

セラが叫ぶ。

「炉の反応が上がっています!」

グレイヴは台座に手を置いた。

「王女の反応記録、皇族認証、皇帝近接反応。すべて揃った。あとは、ここにいる本物のル・メイルの血が触れれば、炉は完全に目覚める」

レオンハルトが剣を抜く。

「させない」

グレイヴは笑った。

「殿下。あなたも必要です」

床の導線が光った。

レオンハルトの足元から青白い紋が立ち上がる。

「何を――」

彼の体が硬直した。

アビシニアが手を伸ばす。

「レオンハルト!」

同時に、彼女の足元にも光が走った。

胸の奥が強く鳴る。

どくん。

王冠炉が、彼女を呼んでいる。

いや、呼んでいるのではない。

彼女の中にある血と記録を、読み取ろうとしている。

ミラが叫んだ。

「リーナさん!」

カイがアビシニアへ駆け寄ろうとするが、床から伸びた光の壁に阻まれた。

セラが機関盤へ走る。

「遮断します!」

グレイヴは冷たく言った。

「無駄だ。炉はもう、二人を認識した」

アビシニアの視界が白く染まる。

音が遠くなる。

ミラの声。

カイの剣の音。

セラの叫び。

レオンハルトの苦しげな息。

すべてが光の中へ沈む。

そして、彼女は見た。

王冠炉の中に蓄えられた記録を。

最初に見えたのは、神代の終わりだった。

空が裂けていた。

神と呼ばれたものが去り、人々はその残骸の前に立ち尽くしていた。祈っても雨は降らず、名を呼んでも死者は戻らず、神託は途絶えた。

人々は恐れた。

神のいない世界で、自分たちは互いを殺し尽くすのではないかと。

だから、王冠炉を作った。

王のためではない。

最初は、民の恐れを聞くための炉だった。

村々の声を集め、飢饉や戦乱の兆しを読み、争いが広がる前に知らせるための機関。人が神に頼れなくなった時、人の声を集めて、人自身が判断するための灯。

光差す国。

ル・メイルの古い名の意味が、そこでつながった。

神の光ではない。

人の声が集まり、互いの顔を照らす光。

だが、時代が進むにつれ、炉は変わった。

声を聞くための機関は、声を整えるための機関になった。

声を整える機関は、声を抑える機関になった。

王は、民の恐れを聞くのではなく、民の恐れを消そうとした。

反乱が消えた。

嘆きが消えた。

名が消えた。

王冠炉は、人を守るために作られ、人を黙らせるために使われた。

アビシニアは、そのすべてを見た。

歴代の王。

帝国の皇帝。

旧王国の罪。

帝国の罪。

隠された虐殺。

正当化された鎮圧。

消された子ども。

眠らされた記憶。

あまりに多い。

多すぎる。

彼女一人では受け止められない。

息ができない。

その時、声がした。

――一人で決めるな。

父の声。

だが、父だけではなかった。

――怖いなら、怖いと言ってください。

ミラの声。

――怒りで字を潰すな。

カイの声。

――記録を前に置け。

サリアの声のようなもの。

――戻らなくても、生きろ。

皇帝の声。

――私も選びます。

マイヤ少佐の声。

――リセを忘れないでください。

エルの声。

アビシニアは、光の中で目を開けた。

心の中に、彼らの場所があった。

だから、炉のすべてを自分だけで抱えなくてよい。

彼女は王冠炉へ向かって言った。

「私は、王ではありません」

光が揺れる。

「私は、すべてを決める者ではありません」

さらに光が強くなる。

「私は、記録を隠しません。でも、記録で人を支配もしません」

どこかで、レオンハルトの声がした。

「アビシニア!」

彼もまた、光の中にいた。

彼の周囲には帝国の記録が流れている。反乱、粛清、父の改革、貴族の裏切り、軍務省の台頭。彼はそれらに押し潰されそうになっていた。

アビシニアは手を伸ばした。

光の中で、彼の手を掴む。

冷たい手だった。

皇帝が言った通り。

「一人で見ないでください」

レオンハルトは苦しげに彼女を見る。

「多すぎる」

「はい」

「帝国は、こんなにも」

「ル・メイルもです」

彼は息を呑んだ。

アビシニアは言った。

「私たちの父たちも、失敗しました。私たちも、これから失敗します」

「それでも?」

「それでも、一人で隠すよりはいい」

レオンハルトの手に力が戻る。

「記録を、保全する」

「はい」

「人の前に置く」

「はい」

「だが、炉に人を裁かせない」

「はい」

二人の言葉に、王冠炉の光が変わった。

命令ではない。

支配でもない。

合意。

炉は、それに戸惑っているようだった。

王の命令。

皇帝の認証。

血統の支配。

恐怖による起動。

それらには慣れている。

だが、複数の人間が、互いに迷いながら、完全な答えを持たずに、それでも隠さないと決めること。

王冠炉は、それを知らなかった。

外の世界で、セラが叫んでいた。

「中核記録の保全回路、開きます! でも、二人の認証が必要です!」

カイの声。

「どうすればいい!」

「二人が炉の命令権を放棄し、記録保全だけを指定する必要があります!」

ミラの声が震える。

「リーナさん! レオンハルトさん! 聞こえますか!」

聞こえる。

アビシニアは光の中で頷いた。

レオンハルトも、彼女の手を握ったまま頷く。

グレイヴの声が響いた。

「やめろ! 炉を止めれば、また人は争う!」

アビシニアは振り返った。

グレイヴもまた、光の縁に立っていた。

彼の背後には、戦場が見えた。

焼けた村。

泣く兵士。

命令を待つ少年兵。

雪の中で死んだ母子。

そして、若いグレイヴが立っている。

彼もまた、見ていたのだ。

人が人を壊す場面を。

だから、人を信じることをやめた。

アビシニアは彼を責めなかった。

光は闇を責めない。

ただ、そこにあるものを照らす。

「グレイヴ大佐」

彼女は言った。

「あなたが見たものは、嘘ではありません」

グレイヴの顔が歪む。

「ならば!」

「でも、それを理由に、他の人の心を奪ってよいことにはなりません」

「奪わなければ、また死ぬ!」

「奪っても、死にます」

レオンハルトが言った。

彼の声は震えていたが、強かった。

「白塔で死んだ。番号にされて、名を奪われて、記録から消されて死んだ。あなたは争いを止めようとして、別の戦場を作った」

グレイヴは黙った。

レオンハルトは続けた。

「私も、あなたと同じ方へ行きかけた。だから分かる。人を諦めることは、責任を引き受けることではない」

アビシニアは彼を見る。

レオンハルトはグレイヴを見据えていた。

「人を信じることは、楽観ではない。裏切られることも、失敗することも、暴れることも知った上で、それでも一人で奪わないと決めることだ」

グレイヴの目が揺れた。

「若造が」

「そうだ」

レオンハルトは答えた。

「私は若い。未熟だ。父の沈黙を恨み、人を数で見ようとした。だから、あなたの言葉に引かれた」

彼は一歩、光の中で前へ出た。

「だが、もうあなたの後ろには行かない」

その瞬間、王冠炉の光が二つに割れた。

一方は赤く、強く、命令を求める光。

もう一方は淡く、広がる光。

セラの声が響く。

「今です! 命令権放棄を!」

アビシニアはレオンハルトと目を合わせた。

二人は同時に言った。

「王冠炉に対する単独命令権を放棄する」

光が震えた。

「中核記録を保全し、外部評議へ引き渡す」

レオンハルトが続ける。

「感情制御、記憶抑制、意志誘導の全機能を停止」

アビシニアが続ける。

「炉の記録を、炉自身の判断で隠すことを禁じる」

二人の声が重なる。

「王冠炉を、人の上に置かない」

光が爆ぜた。

音はなかった。

ただ、世界が白くなった。

アビシニアは、最後に何かを見た。

古い時代の人々が、夜の野に灯を置いている。

神が去った後の暗闇の中で、人々は互いの顔を見るために、小さな灯を並べていた。

それが、最初の王冠炉だった。

巨大な支配装置ではない。

人が人の顔を見失わないための、灯。

白い光の中で、アビシニアは思った。

ならば、返そう。

王冠を、炉から人へ。

そして、意識が途切れた。

最初に聞こえたのは、水の音だった。

遠い水路ではない。

湿地の水音でもない。

もっと近く、石の下を細く流れる水の音。

アビシニアは目を開けた。

視界はぼやけていた。天井の導線はもう光っていない。王冠炉の空洞は薄暗く、先ほどまでの白い光は消えている。

胸の奥の鼓動も、静かだった。

王冠炉は眠っていた。

完全に死んだわけではない。

けれど、人の意志を奪うほどの力はもう感じなかった。

「リーナさん!」

ミラの声がした。

次の瞬間、彼女は抱きしめられていた。

「息をしていなかったらどうしようって、私、私……」

「しています」

アビシニアはかすれた声で言った。

「たぶん」

「たぶんじゃ困ります」

ミラは泣きながら怒った。

少し離れた場所で、レオンハルトも倒れていた。

カイが彼の肩を支え、セラが脈を見ている。

「生きています」

セラが言った。

「意識は?」

カイが問う。

「戻りかけています」

レオンハルトのまぶたが動いた。

彼はゆっくり目を開けた。

最初に見たのは、王冠炉だった。

次に、アビシニア。

「止まったのか」

「はい」

セラが答えた。

「感情制御系、記憶抑制系、意志誘導系は停止。中核記録は保全状態に移行しました。外部への全解放はまだですが、消去もできません」

レオンハルトは目を閉じた。

「そうか」

その声には安堵よりも、疲労が強かった。

けれど、その疲労は一人で背負っていた頃のものとは違った。

共有された疲労だった。

カイが周囲を見た。

「グレイヴは」

その名前で、空気が変わった。

アビシニアは身を起こした。

王冠炉の台座の向こう側に、グレイヴ大佐が膝をついていた。

彼は生きていた。

だが、立ち上がらない。

片手を床につき、もう片方の手で胸を押さえている。軍服は乱れ、灰色の髪が額に落ちていた。

彼の目は、王冠炉を見ていた。

憎しみではない。

信じていたものが、目の前で沈黙した者の目だった。

「なぜだ」

グレイヴは呟いた。

「なぜ、止まる」

誰も答えなかった。

彼は続けた。

「人は、また争う。記録を開けば、復讐が始まる。帝国は裂ける。旧王国領は燃える。父を失った者が、母を奪われた者が、正義の名で剣を取る」

その声は震えていた。

「あなた方は、それを止められない」

アビシニアは立ち上がろうとした。

足に力が入らない。

ミラが支える。

「止められないかもしれません」

アビシニアは言った。

グレイヴが彼女を見る。

「ならば、なぜ」

「止められないからといって、奪ってよいわけではないからです」

「それは答えになっていない」

「はい」

彼女は頷いた。

「きっと、あなたが欲しい答えではありません」

エルにそう言った時のことを思い出した。

分からないまま、一緒に探す。

あの時も、足りない答えだった。

今も、足りない。

けれど、嘘ではない。

レオンハルトがゆっくり立ち上がった。

傷が痛むのか、顔をしかめる。

それでも彼は、グレイヴの前に進んだ。

カイは止めなかった。

ただ、少し離れた場所で剣を構えていた。

レオンハルトは言った。

「グレイヴ」

大佐は顔を上げる。

「あなたを逮捕する」

その言葉に、グレイヴはかすかに笑った。

「殿下が、私を」

「そうだ」

「軍務省は黙らない」

「黙らせる」

「帝都は揺れる」

「揺れるだろう」

「皇帝陛下は耐えられないかもしれない」

レオンハルトの顔が一瞬だけ痛みに歪んだ。

だが、彼は退かなかった。

「それでも、隠さない」

グレイヴはしばらく彼を見ていた。

「強くなられた」

「違う」

レオンハルトは首を振った。

「弱いことを、ようやく少し認めただけだ」

グレイヴの目が揺れた。

その言葉は、彼のどこかに届いたのかもしれない。

だが、届いたからといって、すべてが変わるわけではない。

彼は静かに言った。

「私は、間違えたのか」

レオンハルトは答えた。

「はい」

その一言は冷たかった。

だが、切り捨てではなかった。

「あなたは、帝国を守ろうとした。私を守ろうとした。それも本当でしょう。けれど、あなたは人を番号にし、子どもを炉へ近づけ、父の病を利用し、私の迷いを道具にした」

グレイヴは目を閉じた。

レオンハルトは続ける。

「あなたの恐れは理解します。あなたの忠誠も否定しません。けれど、あなたの罪は消えません」

アビシニアは、胸の奥でその言葉を受け止めた。

理解することと、許すことは違う。

レオンハルトも、それを学んでいる。

グレイヴはゆっくりと両手を下ろした。

「裁けますか、殿下」

「裁くために戻ってきた」

「ご自分も?」

「はい」

グレイヴは少しだけ笑った。

今度の笑いは、諦めに近かった。

「ならば、見届けましょう」

その時、上階から足音が響いた。

複数。

セラが顔を上げる。

「守備軍です」

カイが身構える。

だが、降りてきたのはマイヤ少佐だった。

彼女の軍服は乱れ、腕に軽い傷を負っている。後ろには数人の守備軍兵士がいたが、剣は抜いていない。

マイヤ少佐は王冠炉を見た。

沈黙した炉。

倒れた者たち。

膝をつくグレイヴ。

立つレオンハルト。

一瞬で状況を読み取ったのだろう。

彼女は敬礼した。

「殿下。第三機関室は制圧されました。軍務省監察局の兵は一部拘束、一部逃走。白塔記録の送信は、すでに複数保管庫で確認されています」

セラが力が抜けたように座り込みそうになった。

ミラが慌てて支える。

「届いたんですね」

「届きました」

セラは震える声で言った。

「消されていない」

マイヤ少佐は続けた。

「帝都評議が緊急招集されています。軍務省は記録を偽造と主張。技術院は沈黙。市内では、旧王国領出身者の居住区を中心に騒ぎが広がっています」

グレイヴが目を閉じた。

「始まった」

アビシニアも胸が冷えた。

記録を外へ出した。

それは正しいと信じたい。

だが、その結果として怒りが広がる。

ミラが小さく言った。

「どうすれば」

レオンハルトはマイヤ少佐を見た。

「帝都守備軍は、市民へ武力を向けるな」

「暴動が起きれば」

「まず保護と分離。旧王国領出身者を一括りに拘束することを禁じる。軍務省の独断命令は無効。私の名で出す」

マイヤ少佐は頷いた。

「記録します」

レオンハルトは少しだけアビシニアを見た。

「また権力を使う」

アビシニアは答えた。

「人を黙らせるためではなく、時間を作るためなら」

「それでも記録するべきだな」

「はい」

マイヤ少佐は二人の会話に一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに部下へ命じた。

「命令文を起草。皇太子名、ただし緊急措置として記録を残す。旧王国領区画への武力突入は禁止」

兵が走る。

レオンハルトは次にグレイヴを見た。

「大佐を拘束してください。丁重に。逃亡防止は厳重に」

グレイヴは抵抗しなかった。

マイヤ少佐の部下が彼に近づき、武器を取り上げる。

その瞬間、グレイヴはアビシニアへ言った。

「王女殿下」

「はい」

「あなたの光は、帝都を焼くかもしれない」

アビシニアは静かに答えた。

「焼かないように、皆で見ます」

「皆、か」

彼は目を伏せた。

「私は、その言葉を最後まで信じられなかった」

それが、彼の敗北の言葉だった。

連れて行かれるグレイヴの背を、レオンハルトは最後まで見ていた。

師でもあったのだろう。

守ろうとしてくれた大人でもあったのだろう。

自分の迷いを利用した者でもあった。

感情は一つではない。

アビシニアは、彼の横に立った。

「大丈夫ですか」

「大丈夫ではない」

レオンハルトは答えた。

「だが、立っている」

「はい」

「次は評議だ」

「はい」

彼は深く息を吸った。

「父にも報告しなければならない」

その言葉には痛みがあったが、逃げはなかった。

セラが王冠炉の制御盤を確認していた。

「中核記録は保全されています。ただ、完全開示には手続きが必要です。炉の命令権は放棄されましたが、記録庫としての機能は残っています」

「誰が管理するのですか」

ミラが問う。

誰もすぐには答えなかった。

それが、次の問題だった。

王冠炉を止めた。

しかし、記録は残った。

その記録を誰が管理するのか。

帝国か。

旧ル・メイルか。

技術院か。

被害者たちか。

評議か。

一つ間違えれば、また誰かが独占する。

アビシニアは、父の声を思い出した。

一人で決めるな。

「暫定的に封鎖します」

彼女は言った。

「帝国単独でも、ル・メイル単独でもなく。被害者の代表、技術者、旧王国領、帝都評議、そしてル・ヴェンの記録継承者が揃うまで、開示方法を決めない」

マイヤ少佐が言った。

「ル・ヴェンは、白塔に残された女性だけでは?」

「サリア・ル・ヴェンは生きています」

アビシニアははっきりと言った。

「彼女を救出します」

セラが頷いた。

「白塔の生命維持装置は、まだ稼働していました。技術班を送れば、救出できる可能性があります」

「可能性」

ミラが呟き、それから少し笑った。

「でも、今は良い可能性です」

カイが言った。

「北方の星脈研究棟もある」

アビシニアは頷いた。

「リセ、フェリクス、他の移送者たちも」

マイヤ少佐の表情が変わる。

甥の名。

彼女は短く言った。

「守備軍からも人を出します」

レオンハルトが答えた。

「頼む」

その言葉は命令ではなく、依頼だった。

マイヤ少佐は敬礼した。

「承ります」

王冠炉の空洞を出る時、アビシニアは一度だけ振り返った。

巨大な王冠は、光を失い、静かに眠っている。

もう王冠には見えなかった。

古い灯台の残骸に見えた。

使い方を誤れば人を焼く。

けれど本来は、顔を見失わないために作られたもの。

これから、この炉をどう扱うか。

その答えはまだない。

だが、答えがないことを理由に、誰か一人が奪ってはいけない。

それだけは分かった。

静養室へ戻ると、皇帝はまだ目を開けていた。

レオンハルトが近づく。

「父上。炉は止まりました」

皇帝は、長い時間をかけて頷いた。

「そうか」

「記録も保全しました。白塔の記録は外へ出ました。帝都は揺れます」

「そうか」

「私は、グレイヴを拘束しました」

皇帝の目がわずかに揺れた。

「彼は……忠臣だった」

「はい」

「罪人でもある」

「はい」

皇帝は息を吐いた。

「難しいな」

レオンハルトは、かすかに笑った。

「はい。とても」

「それでも……決めたか」

「一人では決めません」

皇帝の口元に、弱い笑みが浮かんだ。

「よい」

レオンハルトは膝をついた。

皇太子としてではなく、息子として。

「父上。私は、あなたを責めています」

部屋の空気が静まる。

皇帝は息子を見た。

レオンハルトは続けた。

「黙っていたことを。私を遠ざけたことを。私に帝国を、人を、父を、誤って見せたことを」

「そうか」

皇帝は静かに受けた。

「だが、私はあなたを憎みきれません」

「それでよい」

「許したわけではありません」

「それでよい」

皇帝は、弱い手で息子の髪に触れた。

「親は……子に、許されるために生きているわけではない」

レオンハルトの目がまた濡れた。

「では、何のために」

皇帝はしばらく考えた。

「子が……自分の道を、親の失敗だけで決めぬように」

その言葉に、アビシニアは胸を押さえた。

父の言葉と重なる。

私の選択を正しかったと証明しなくてよい。

レオンハルトは、父の手を握った。

「私は、あなたの失敗を繰り返しません」

皇帝は頷きかけた。

だが、レオンハルトは続けた。

「そして、あなたの失敗をすべて否定もしません」

皇帝の目が、静かに細められる。

「人を信じたことまで、間違いだったとは言いません」

その言葉は、レオンハルト自身の中で何かをほどいたようだった。

彼は初めて、父の前で深く頭を下げた。

アビシニアはそっと目を伏せた。

見届けたいと思っていた。

そして今、彼は確かに一歩進んだ。

皇帝の静養室を出ると、外の通路にはすでに兵と文官が集まり始めていた。

混乱は広がっている。

レオンハルトは、深く息を吸った。

その顔に、皇太子の表情が戻る。

だが、もう同じではなかった。

硬い仮面ではない。

痛みを知った上で、役割を引き受ける顔だった。

「評議へ行く」

彼は言った。

「白塔の記録、王冠炉の停止、軍務省の関与を公表する。帝都守備軍には市民保護を命じる。旧王国領の代表を召集する」

カイが問う。

「旧王国領の代表は、帝都にいるのか」

「いる。名ばかりの諮問官として置かれている者たちが」

「彼らを本物の場へ出すのですね」

アビシニアが言う。

レオンハルトは頷いた。

「そして、君にも出てもらう」

アビシニアは少し黙った。

旧ル・メイル王女として。

生き残りとして。

王冠炉を止めた者として。

その場へ出ることは危険だ。

彼女の名は、人々の希望にも、怒りにもなる。

だが、逃げるわけにはいかない。

「出ます」

彼女は言った。

「ただし、王位を求めるためではありません」

「分かっている」

「旧ル・メイルの人々にも、それを伝えなければなりません」

「分かっている」

「そして、私一人に話させないでください」

レオンハルトは少しだけ笑った。

「それも分かっている」

ミラが小さく言った。

「私も、行くんですよね」

アビシニアは彼女を見る。

「怖いですか」

「すごく」

「私もです」

ミラは頷いた。

「じゃあ、行きます」

カイが剣を収めた。

「俺は後ろにいる」

「前には?」

アビシニアが問う。

カイは少し嫌そうな顔をした。

「俺が前に出る場ではない」

「でも、あなたのような人も必要です」

「元帝国兵が?」

「罪を持つ人として。帝国だけでも、旧王国だけでもない人として」

カイは黙った。

しばらくして、短く言った。

「考える」

セラは記録板を抱えていた。

「私は技術者として出ます。技術院の責任も話します」

声は震えていた。

だが、逃げてはいなかった。

レオンハルトは全員を見た。

「行こう」

今度の言葉は、命令ではなかった。

呼びかけだった。

アビシニアは頷いた。

帝都の上では、朝が本格的に始まっている。

白塔の記録は広がり、人々は怒り、泣き、疑い、叫ぶだろう。

王冠炉は止まった。

だが、人の時代はここからだった。

不完全で、危うく、傷つきやすい。

それでも、顔を見ながら進む時代。

アビシニアは歩き出した。

隣にミラ。

前にレオンハルト。

少し後ろにカイとセラ。

その足音は、王冠炉の鼓動ではない。

人の足音だった。


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