第六章 名を持ち帰る者たち
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崖道を下りきる頃には、夜になっていた。
白塔の警鐘は、まだ遠くで鳴っている。
けれど、その音はもう石の中で反響していなかった。湿地の夜気に吸われ、薄く、途切れがちになっていた。
足元には黒い泥が広がり、背の低い葦が風に揺れている。月は雲の向こうにあり、湿地の水面だけがところどころ鈍く光っていた。
誰も多くは話さなかった。
カイは先頭を歩き、何度も足跡を確認している。
ミラはリセの木片を両手で握りしめていた。
セラは時々後ろを振り返り、白塔の光を見ては顔をこわばらせた。
レオンハルトは肩の傷を押さえながら、黙って歩いている。
アビシニアは、その全員の背中を見ていた。
少し前なら、彼女はこの沈黙を不安に思っただろう。
誰かが何を考えているのか分からない。
自分に何を求めているのか分からない。
次に何を決めればよいのか分からない。
けれど今は、少し違った。
分からないことが、すぐに恐怖へ変わらなかった。
カイの沈黙は、周囲を警戒するためのもの。
ミラの沈黙は、エルに何をどう伝えるかを考えているもの。
セラの沈黙は、知らなかったと言い続けてきた自分を、今ようやく見ているもの。
レオンハルトの沈黙は、自分の名で行われたことの重さを測っているもの。
もちろん、すべてが分かるわけではない。
だが、分からないままでも、人にはそれぞれの内側がある。
それを、今のアビシニアは少しだけ想像できるようになっていた。
昔の彼女の心は、王宮の小さな部屋のようだった。
父。
母。
失われた王国。
追われる自分。
奪われた名。
その部屋の中だけで、世界は完結していた。
けれど旅をして、扉が増えた。
ミラの怖さ。
カイの無言の責任。
エルの妹を探す執念。
ニナの幼い手。
サーシャの笑い声。
マルタの疲れた祈り。
ユリアンの迷い。
セラの罪悪感。
レオンハルトの諦め。
グレイヴの歪んだ忠誠。
サリアの名。
一人出会うたび、心の中に場所が増える。
それは、楽になることではなかった。
むしろ重くなる。
けれど、狭い部屋で自分の痛みだけを抱えていた時より、息はしやすかった。
「止まれ」
カイが低く言った。
全員が足を止める。
前方の葦の間に、微かな明かりが見えた。
一つ。
二つ。
三つ。
松明ではない。
覆いをかけた小さな灯だ。
湿地の民が使う合図灯。
ミラが息を呑む。
「村の灯です」
「まだ村とは限らない」
カイはそう言いながらも、声の硬さを少し緩めた。
彼は短く鳥の鳴き声に似た合図を出した。
しばらくして、葦の向こうから同じ音が返ってきた。
ミラの顔が明るくなる。
「エルです」
アビシニアの胸も、少しだけ軽くなった。
だが、次の瞬間、リセの木片のことを思い出す。
軽くなった胸が、すぐに重くなる。
エルに伝えなければならない。
妹は白塔にいた。
少なくとも、六年前までは生きていた可能性がある。
北方の星脈研究棟へ移された。
希望だ。
だが、希望は時に残酷だと、グレイヴは言った。
アビシニアはその言葉を否定したい。
けれど、完全には否定できなかった。
希望を伝えることは、相手にまた待たせることでもある。
もう一度傷つく可能性を渡すことでもある。
それでも、伝えないことはできない。
葦が揺れ、エルが姿を現した。
彼は弓を持っていた。顔には泥がつき、袖は破れている。だが、大きな怪我はなさそうだった。
その後ろに、サーシャとニナがいる。
さらに数人の湿地の者たちも。
「リーナ!」
ミラが駆け寄りかけたが、エルはすぐに弓を上げた。
矢先は、レオンハルトへ向いている。
「なぜ帝国の皇太子がいる」
声は低く、鋭かった。
ミラが足を止める。
カイが一歩横へ出た。
「事情がある」
「その事情で、俺たちの村を焼かせる気か」
「違う」
レオンハルトが言った。
エルの弓がさらに引かれる。
「お前には聞いていない」
レオンハルトは黙った。
アビシニアは前へ出た。
「エル」
「リーナも下がれ」
「下がりません」
エルの目が彼女へ向く。
怒っている。
当然だ。
彼は湿地に残り、子どもたちを守っていた。
その間に自分たちは白塔へ行き、皇太子と帝国技師を連れて戻ってきた。
説明なしに受け入れられるはずがない。
「この人たちは、今は追われています」
「だから匿えと?」
「いいえ」
アビシニアは首を振った。
「まず、話を聞いてください。その上で、あなたたちが決めてください」
エルの眉が動いた。
以前の彼女なら、こう言ったかもしれない。
彼を入れてください。
彼は必要です。
今は争っている場合ではありません。
けれど今は、違う。
湿地は彼女のものではない。
エルたちの場所だ。
彼らには、受け入れるか拒むかを決める権利がある。
エルはしばらくアビシニアを見ていた。
やがて、弓を下げないまま言った。
「話は聞く。だが、武器は預かる」
カイはすぐに剣を外した。
「分かった」
レオンハルトも、持っていた鉄棒を地面に置いた。
「私は武器を持たない」
エルは冷たく言った。
「その肩書きが武器だ」
レオンハルトは答えなかった。
セラが工具帯を外そうとした。
エルがそれを見る。
「それも預かる」
セラは一瞬だけ躊躇した。
工具は彼女にとって武器ではなく、手の延長のようなものなのだろう。
だが、彼女は黙って外した。
「分かりました」
エルは湿地の者に合図し、全員を葦の奥へ案内した。
村へ戻る道は、以前よりも遠く感じた。
途中、ニナがミラの手を握った。
「ミラ、泣いた?」
ミラは少し笑おうとして失敗した。
「少し」
「怖かった?」
「とても」
「でも帰ってきた」
「うん」
ニナは満足そうに頷いた。
「じゃあ、えらい」
ミラはそこで、本当に泣きそうな顔をした。
アビシニアはそれを見て、胸が温かくなった。
子どもは、時々とても簡単に、人を救う。
村に着くと、広場の中央に火が焚かれていた。
大きな火ではない。
湿った薪を少しずつ燃やす、小さな火だ。
その周りに、村人たちが集まる。
彼らの視線は厳しかった。
帝国の皇太子。
帝国の技師。
白塔から戻った王女。
どれも、湿地の村にとって歓迎すべきものではない。
マルタが奥から出てきた。
彼女はアビシニアを見ると、一瞬だけ安心したような顔をした。だがすぐに、レオンハルトとセラを見て表情を引き締めた。
「説明してもらうよ」
「はい」
アビシニアは頷いた。
彼女は火の前に立った。
父の記録筒を抱えている。
ミラはリセの木片を持っている。
セラは記録板を抱え、レオンハルトは肩に布を巻かれている。
何から話せばよいのか。
白塔の中継核。
グレイヴの企み。
ユリアンの裏切り。
サリアの名。
リセの木片。
帝都へ送られた反応記録。
どれも重要だった。
だが、最初に言うべきことは一つだった。
「白塔には、旧王国領の人々が連れて行かれていました」
広場が静まる。
「王冠炉に反応する者を探すために。子どももいました。名前を奪われ、番号で呼ばれていました」
誰かが息を呑む。
エルの顔から血の気が引いた。
アビシニアは彼を見る。
逃げずに。
「その中に、リセ・ランバルのものと思われる木片がありました」
ミラが前へ出た。
両手で木片を差し出す。
エルは動かなかった。
いや、動けなかった。
「嘘だ」
声がかすれていた。
ミラは首を振る。
「嘘じゃありません」
「リセは……」
エルは言いかけて、止まった。
死んだと思っていた。
死んでいてほしかったわけではない。
だが、死んだと思わなければ生きてこられなかったのかもしれない。
ミラは木片を持ったまま、近づかなかった。
押しつけない。
待っている。
アビシニアは続けた。
「白塔で死んだ記録はありません。六年前、北方の星脈研究棟へ移された記録が残っていました」
エルの目が揺れる。
希望。
残酷な希望。
彼は怒るかもしれない。
なぜもっと早く見つけなかったのかと。
なぜ連れて帰らなかったのかと。
なぜ今さら希望を持たせるのかと。
アビシニアは、それを受けるつもりでいた。
エルはゆっくりと木片へ手を伸ばした。
指先が震えている。
木片を受け取ると、彼は裏の文字を見た。
リ、セ。
彼はその場に膝をついた。
誰も近づかなかった。
エルは木片を額に当てた。
声は出なかった。
ただ、肩が震えていた。
ニナが不安そうにサーシャの袖を掴む。
サーシャはニナを抱き寄せた。
長い沈黙の後、エルは言った。
「生きてるかもしれないんだな」
「はい」
アビシニアは答えた。
「でも、確かではありません」
「分かってる」
「北方の施設へ移されたという記録だけです」
「分かってる」
エルは顔を上げた。
目は赤かった。
「それでも、ありがとう」
その言葉に、アビシニアの胸が痛んだ。
礼を言われる資格があるとは思えなかった。
「私は、連れて帰れませんでした」
「リセを?」
「リセも、白塔にいたサリアという女性も」
エルは黙って聞いている。
アビシニアはサリアのことを話した。
ル・ヴェン分家。
王家の分家として、記録を守る役目を持っていたこと。
王冠炉が何を奪ったかを記録し、宗家が誤った時には証言する家だったこと。
彼女が白塔に残されていたこと。
名前を持っていけと言ったこと。
マルタが低く呟いた。
「ル・ヴェン……まだいたのかい」
アビシニアは驚いて彼女を見る。
「知っているのですか」
マルタは火を見つめた。
「古い話だよ。王都が落ちる前、湿地にも一度だけル・ヴェンの使いが来た。王都へ近づくな、記録を隠せ、名簿を燃やせってね」
「名簿を?」
「帝国が血筋を探すと分かっていたんだろう」
セラが顔を伏せた。
マルタは彼女を見た。
「技師さん。あんたは知らなかったと言うんだろうね」
セラは答えた。
「はい」
「信じるかどうかは別だよ」
「分かっています」
「それでも、聞く。白塔で何が行われていたか、あんたの言葉で話しな」
セラは一度、目を閉じた。
そして、話し始めた。
自分が技術院で中継核の理論調整を担当していたこと。
生体共鳴実験は禁止されていると信じていたこと。
危険性を報告書に記したが、それ以上を追わなかったこと。
白塔でサリアを見て、初めて自分の技術が何に使われたのかを知ったこと。
言い訳に聞こえる部分もあった。
実際、言い訳でもあったのだろう。
だが、彼女は逃げずに言った。
「私は、知らなかったと言いたいです。けれど、それだけでは足りません。知らなかった場所へ、自分から見に行かなかった。危険だと分かっていたのに、技術者だからと線を引いた。その線の向こうで、人が壊されていました」
広場は静かだった。
湿地の者たちは、すぐには彼女を許さない。
当然だ。
だが、誰も石を投げなかった。
それだけでも、今は十分だった。
次に、レオンハルトが立った。
肩の傷のせいで、少し動きが鈍い。
エルの視線が鋭くなる。
「お前は何を話す」
レオンハルトは火の前に立ち、村人たちを見た。
宮廷の演説ではない。
兵への命令でもない。
湿地の小さな火の前で、彼は初めて、皇太子ではなく一人の少年として立っているように見えた。
「私は、白塔のすべてを知っていたわけではありません」
広場に冷たい空気が流れる。
「ですが、それは免罪にはなりません。王冠炉を使い、人の選択を制御する構想を、私は考えました。人は自由に耐えられないと考えた。争いを止めるためには、選ぶ力そのものを抑える必要があると」
ミラが息を呑む。
エルの手が木片を握りしめる。
レオンハルトは続けた。
「その思想を、グレイヴ大佐と軍務省は利用しました。ですが、利用されたと言えば済む話ではありません。私がその言葉を与えたからです」
彼は一度、アビシニアを見た。
「私は、人を見ているつもりで、人を諦めていました。父を皇帝としてしか見ず、民を群れとしてしか見ず、旧王国の人々を傷としてしか見なかった」
エルが低く言う。
「俺たちは、お前の思想の材料か」
「そう扱った」
レオンハルトは答えた。
「だから、謝罪で済むとは思っていない」
「じゃあ何をする」
「帝都へ戻り、王冠炉本体の起動を止める。軍務省の関与を明らかにする。白塔の記録を公にする。そして、裁きを受ける」
エルは笑った。
乾いた、怒りの混じる笑いだった。
「皇太子様の裁きなんて、どうせ形だけだ」
「そうならないようにする」
「誰が信じる」
レオンハルトは答えなかった。
信じろとは言えない。
その沈黙は、正しかった。
アビシニアは、彼が黙ったことに少しだけ安堵した。
ここで信じてくれと言えば、彼はまた皇太子に戻ってしまう。
言葉で人を動かせる立場に戻ってしまう。
マルタが火に薪を足した。
「で、王女様」
アビシニアは顔を上げる。
「これからどうするつもりだい」
全員の視線が、彼女へ集まった。
以前なら、その視線に押されて、答えを出そうとしただろう。
王女として。
生き残った者として。
父の娘として。
けれど今は、違う。
「まだ決めません」
広場がざわめく。
エルが眉をひそめる。
「決めない?」
「はい」
アビシニアは記録筒を両手で持った。
「父の記録を聞いていません。サリアの言葉の意味も、ル・ヴェンの役割も、まだ理解しきれていません。リセのことも、白塔の記録も、帝都の状況も、分からないことが多すぎます」
彼女は一人ずつ顔を見た。
ミラ。
カイ。
エル。
マルタ。
セラ。
レオンハルト。
村の人々。
「だから、私一人では決めません」
火が小さく爆ぜた。
「今夜、父の記録を聞きます。聞いた上で、明日、皆さんに話します。その上で、帝都へ行くか、北方へ向かうか、湿地に残って記録を守るか、相談させてください」
エルが言った。
「相談?」
「はい」
「王女が?」
「王女だからです」
アビシニアは静かに答えた。
「王だけに決めさせないために、ル・ヴェンがいたのだと思います。なら、ル・メイルの名を持つ私が最初に学ぶべきことは、人に聞くことです」
マルタが目を細めた。
「ずいぶん変わったね」
「そうでしょうか」
「前は、聞いているふりをして、自分の答えを探していた」
アビシニアは胸を突かれた。
だが、反論しなかった。
「はい」
マルタは頷いた。
「少しはましになった」
ミラが小さく笑った。
カイも、ほんのわずかに口元を緩めた。
レオンハルトは黙って火を見ていた。
その表情は読めない。
けれど、アビシニアはもう、すべてを読もうとは思わなかった。
夜は深くなっていく。
村人たちは、見張りを増やし、セラとレオンハルトを別の小屋へ案内した。捕虜としてではない。客人としてでもない。
まだ名のない立場。
それが今は、正しかった。
アビシニアは、マルタの小屋の奥に通された。
ミラとカイも一緒だった。
「一人で聞くつもりですか」
ミラが尋ねた。
アビシニアは記録筒を見つめる。
「少し前なら、そうしたと思います」
「今は?」
「一人では聞きたくありません」
そう言うのは、勇気が要った。
弱さを認めることだった。
だが、言ってしまえば、少しだけ呼吸が楽になった。
カイは壁際に座った。
「俺は外にいる」
「中にいてください」
アビシニアは言った。
カイが少し驚いたように見る。
「聞かれたくない言葉かもしれない」
「そうかもしれません」
「なら」
「でも、私が壊れそうになった時、止めてくれる人が必要です」
カイは黙った。
ミラがアビシニアの隣に座る。
「私は手を握ります」
「お願いします」
カイは短く息を吐き、壁際に座り直した。
「分かった」
マルタは小屋の入口で言った。
「外にいる。必要なら呼びな」
「ありがとうございます」
アビシニアは記録筒を膝に置いた。
白い金属。
ル・メイル王家の印。
そして、自分の名。
アビシニア。
彼女は指先でその文字をなぞった。
父の手が、これを刻んだのだろうか。
逃げる直前に。
あるいは、もっと前から。
胸が痛い。
ミラがそっと手を握る。
カイは何も言わない。
アビシニアは記録筒の封を外した。
中から、小さな円盤状の記録片が出てくる。
神代機関に使われる白金属の薄片。
中央に、ル・メイル王家の古い紋章が刻まれている。
彼女はそれを両手で包んだ。
人の心ではない。
物の記録。
父が残した、声の器。
触れた瞬間、部屋の灯が揺れた。
遠い音がした。
王宮の鐘。
走る足音。
燃える木材。
誰かが泣く声。
剣戟。
扉が閉まる音。
そして、父の声。
懐かしくて、知らない声。
王として聞いた声ではない。
幼い頃に、寝台の端で物語を読んでくれた声でもない。
疲れ、傷つき、それでも最後まで何かを残そうとする、一人の人間の声だった。
――アビシニア。
彼女は息を止めた。
父が、自分の名を呼んだ。
――この記録が、お前に届くなら、私はお前に謝らなければならない。
涙が、すぐに溢れそうになった。
謝らないで。
そう思った。
父は王だった。
最後まで戦った。
自分を逃がした。
謝る必要などない。
だが、記録の中の父は続けた。
――私は、お前に王国を残せなかった。
――そして、お前に王国を背負わせようとしていた。
アビシニアの手が震える。
ミラが強く握った。
――ル・メイルは、光差す国と呼ばれた。
――だが、光は王冠から差すのではない。
――人が互いの顔を見る時、そこに差す。
父の声は、少し掠れていた。
――私は、それを忘れかけた。
――王として、国を守ろうとするあまり、王だけが決めればよいと思いかけた。
――その時、私を止めたのがル・ヴェンだった。
アビシニアは目を見開いた。
ル・ヴェン。
サリアの家。
――ル・ヴェンは、王家の分家ではない。
――王家を見張る家だ。
――王冠炉が何を奪うかを記録し、王が炉に近づきすぎた時、その記録を王の前に置く。
――王が聞かなければ、民の前に置く。
――それが、古い誓いだった。
カイがわずかに身じろぎした。
ミラも息を呑む。
父の声は続く。
――私は、その誓いに救われた。
――そして、同時に裁かれた。
――王冠炉を使えば、帝国軍の進軍を一時的に止められたかもしれない。
――だが、それは敵兵だけでなく、旧王国領の民の記憶と意志にも触れる。
――ル・ヴェンは記録を差し出し、私に問うた。
――あなたは、守るために民から何を奪うのか、と。
アビシニアの喉が震えた。
父は、王冠炉を使わなかったのだ。
使えなかったのではない。
使わないことを選んだ。
その結果、王国は滅びた。
その重さが、今になって彼女の胸に落ちてきた。
――私は、正しかったのか分からない。
――今も分からない。
――王国は滅び、多くの者が死んだ。
――お前の母も、私の選択の中で死んだ。
「違う」
アビシニアは思わず呟いた。
だが、記録は止まらない。
――それでも、私は王冠炉を開かなかった。
――人の時代を、王の恐怖で閉じてはならないと思ったからだ。
父の声が、少しだけ柔らかくなる。
――アビシニア。
――もしお前が生きているなら、王国を取り戻そうとしなくてよい。
彼女の心臓が大きく鳴った。
――王冠を探さなくてよい。
――玉座に戻らなくてよい。
――私の選択を正しかったと証明しなくてよい。
涙が落ちた。
ミラの手が温かい。
――ただ、人の顔を見なさい。
――そして、決める時は、一人で決めてはならない。
――ル・メイルの光は、王一人のものではない。
父の声が遠くなる。
けれど、最後にもう一度、はっきりと響いた。
――娘よ。
――生きなさい。
――お前が王でなくても、私はお前を誇りに思う。
記録はそこで途切れた。
部屋に、湿地の夜の音が戻ってきた。
虫の声。
遠い水音。
小屋の外で火が爆ぜる音。
アビシニアは動けなかった。
涙は静かに流れていた。
泣き声は出なかった。
ただ、胸の奥で、長い間凍っていた何かが崩れていく。
父は、自分に王国を背負わせていなかった。
父は、自分を王女としてではなく、娘として呼んでいた。
生きなさい。
王でなくても、誇りに思う。
アビシニアは記録片を両手で包んだまま、深く息を吸った。
そして、初めて声を出して泣いた。
ミラが何も言わず、彼女の手を握り続けた。
カイは壁際で目を伏せていた。
外では、マルタが誰も小屋に近づかないようにしていた。
その夜、アビシニアは王女としてではなく、娘として泣いた。
そして、その涙の中で、彼女の内側にあった小さな部屋の壁が、また一つ崩れた。
夜明け前、アビシニアは小屋を出た。
泣き腫らした目に、湿地の冷たい空気がしみた。けれど、不思議と胸は重くなかった。
軽くなったのではない。
父の言葉は、なお重い。
王国が滅びた事実も、母が死んだ事実も、白塔で奪われた名も、何一つ消えていない。
ただ、その重さの置き場所が変わっていた。
父は、自分に王冠を残したのではなかった。
選ぶことを残したのだ。
外では、マルタが小さな火を見ていた。
「眠れたかい」
「少しだけ」
「なら上等だ」
マルタは火に細い枝を足した。
「父親の言葉ってのは、死んだ後でも厄介だね」
アビシニアは少しだけ笑った。
「はい。とても」
マルタは彼女の顔を見た。
「けど、少し顔が変わった」
「泣いたからでしょう」
「それもある」
火が小さく揺れた。
「昨日までは、誰かに王女だと言われるたびに身構えていた。今は少し、逃げ腰じゃない」
アビシニアは自分の手を見た。
父の記録筒を握っていた手。
ミラに握られていた手。
いつか王冠炉へ触れるかもしれない手。
「父は、王でなくてもよいと言いました」
マルタは黙って聞いていた。
「それを聞いて、ようやく思いました。私は、王女であることから逃げていたのではなく、王女でなければ父に恥じると思っていたのかもしれません」
「で、今は?」
アビシニアは少し考えた。
「今も、私は王女です。けれど、それだけではありません」
マルタは頷いた。
「それでいい」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないことほど、言葉は短い方がいい」
その時、葦の向こうからエルが歩いてきた。
目の下に隈がある。眠れていないのだろう。手にはリセの木片を握っていた。
「起きていたのですか」
アビシニアが尋ねると、エルは肩をすくめた。
「寝ろと言われたので、寝たふりをしていました」
「サーシャにばれますよ」
「もうばれました。怒られました」
「でしょうね」
エルは火のそばに座った。
しばらく、三人は黙っていた。
やがてエルが言った。
「リセを探しに行きたいです」
アビシニアは彼を見た。
「はい」
「でも、今すぐ行けないことも分かっています」
その声は苦しかった。
「帝都の王冠炉を止めないと、同じことがまた起きる。白塔の記録を持って行かないと、誰も信じない。分かってます」
彼は木片を握りしめた。
「分かってるのに、今すぐ走り出したい」
アビシニアは頷いた。
「私も、父の記録を見た時、そうでした」
エルは少しだけ彼女を見る。
「止まれましたか」
「一度は止まれませんでした。ミラとカイに止められました」
「じゃあ、俺も止められますか」
「一人では難しいかもしれません」
アビシニアは正直に言った。
「だから、止め合いましょう」
エルは苦い顔をした。
「面倒な約束ですね」
「はい」
「でも、必要そうです」
「はい」
エルは深く息を吐いた。
「リセを探すことを、忘れないでください」
「忘れません」
「軽く聞こえませんでした」
「練習しました」
エルは少しだけ笑った。
その笑いは、昨日までよりも弱く、けれど柔らかかった。
朝になると、湿地の者たちが集まった。
アビシニアは、父の記録の内容を話した。
ル・メイル宗家は王冠炉を眠らせるための血筋だったこと。
ル・ヴェンは、宗家を見張り、王冠炉が何を奪うかを記録する家だったこと。
父が王冠炉を使わず、国の滅びを止めきれなかったこと。
そして、王国を取り戻せとは言わなかったこと。
誰もすぐには話さなかった。
やがてサーシャが言った。
「つまり、王女様は王に戻らなくてもいいってことだね」
「父は、そう言いました」
「では、あなたはどうしたい」
問いはまっすぐだった。
アビシニアは火の前に立った。
湿地の人々の顔がある。
帝国の皇太子の顔がある。
帝国の技師の顔がある。
元帝国兵の顔がある。
ミラ、エル、マルタ、ニナ。
彼女の内側にできた場所の住人たち。
「私は、王冠炉を止めたい」
まず、それを言った。
「帝都へ行き、王冠炉本体の起動を止めます。グレイヴ大佐が送った反応記録を使えば、私がいなくても炉を動かそうとするかもしれません」
レオンハルトが頷く。
「その可能性は高い」
「ですが、私は帝都へ行くことを、皆に命じません。誰かに犠牲を求める権利もありません」
アビシニアは一度、息を吸った。
「だから、ここで分けたいと思います」
エルが眉を上げる。
「分ける?」
「はい。行く者、残る者、記録を守る者、逃げ道を作る者。全員が同じ場所へ向かえば、全員が同じ罠に落ちます」
サーシャが腕を組む。
「悪くないね」
カイが静かに言った。
「具体案は」
アビシニアは、父の記録筒を置いた。
「帝都へ向かうのは、私、カイ、レオンハルト、セラ。ミラは――」
「行きます」
ミラが即答した。
予想していた。
アビシニアは彼女を見る。
「危険です」
「分かっています」
「今度は白塔より危険です」
「それも分かっています」
ミラの声は震えている。
それでも、退かなかった。
「私は、リーナさんがまた一人で抱えそうになった時に、怖いと言います。それが私の役目です」
サーシャが静かに言った。
「本人がそう言ってる」
アビシニアは目を閉じ、短く息を吐いた。
守りたい。
置いていきたい。
けれど、それを勝手に決めないと決めたばかりだ。
「分かりました。ミラも一緒に」
ミラの顔に安堵が広がった。
エルが言った。
「俺は?」
アビシニアは彼を見る。
「あなたには、湿地に残ってほしい」
エルの顔が強張る。
「リセを探しに行くなと?」
「今すぐ北方へ向かえば、あなたは一人で消えます」
エルは言い返せなかった。
アビシニアは続けた。
「あなたには、白塔で見つけた名前を記録してほしい。サリア・ル・ヴェンの名、リセ・ランバルの手がかり、白塔にいた子どもたちの番号。マルタとサーシャと一緒に、湿地の名簿を作ってください」
「名簿?」
「はい。帝国に奪われた名を、こちらの手で書き直すためです」
エルは木片を握る。
アビシニアは言った。
「リセを探すには、記録が要ります。感情だけでは、北方へ行っても見つけられない。あなたには、リセを見つけるための土台を作ってほしい」
エルは悔しそうに俯いた。
「それは、逃げるより難しいです」
「はい」
「待つのは嫌いです」
「私もです」
長い沈黙の後、エルは頷いた。
「分かりました。残ります」
ミラがほっと息を吐く。
エルはすぐに付け加えた。
「でも、帝都から戻ったら、次は北方です」
「はい」
「これは相談じゃなくて、俺の希望です」
「分かりました。覚えます」
ニナが手を上げた。
「私は?」
サーシャが即座に言った。
「あなたは荷物をまとめる」
「北方は?」
「十年早い」
「十年も待ったら、私おばあさんになる」
「ならない」
広場に、小さな笑いが生まれた。
その笑いは、昨日の涙と同じ場所から出ていた。
軽いものではない。
だからこそ、少し温かかった。
レオンハルトはその光景を黙って見ていた。
アビシニアは彼に向き直る。
「レオンハルト」
「何だ」
「帝都へ戻れば、あなたは皇太子として行動することになります」
「そうだ」
「でも、今までと同じように一人で決めるなら、私は同行しません」
レオンハルトの灰青の瞳が揺れた。
「私に、君たちへ相談しろと?」
「はい」
「帝国の政務を?」
「少なくとも、王冠炉に関わることは」
エルがぼそりと言う。
「皇太子に向かって強いな」
サーシャが返す。
「王女だからね」
アビシニアは少し困った。
「王女だからではありません」
カイが静かに言った。
「同行者だからだろう」
アビシニアは彼を見る。
「はい」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「分かった」
「本当に?」
ミラが思わず聞いた。
レオンハルトは彼女を見る。
「私は、すぐには変われない」
その言葉は、正直だった。
「人に聞く前に、答えを出そうとする。責任を一人で処理しようとする。帝都では、おそらくその癖が出る」
「なら」
「その時は止めてくれ」
ミラは少し驚き、それから真剣に頷いた。
「怖かったら、怖いと言います」
「頼む」
そのやり取りを、グレイヴが見たら何と言うだろう。
希望は危険だと言うかもしれない。
だが、今ここにあるのは大きな希望ではない。
人が少しずつ、互いに止められるようになる練習だ。
その程度のものだ。
そして、その程度のものを守るために、アビシニアは帝都へ行く。
出発は夜と決まった。
昼は湿地の人々が避難路を整え、帝都へ向かうための偽装荷を用意する。レオンハルトは皇太子として公然と戻るのではなく、セラの技術院経路を使って旧水門から入ることになった。
「皇太子が密入国みたいに戻るんですか」
ミラが不安そうに言うと、カイが答えた。
「密入国ではない。密帰都だ」
「それは安心していい違いですか」
「いや」
ミラはさらに不安そうになった。
セラが地図を広げた。
「帝都の東水門は、技術院の資材搬入口と繋がっています。私の認証札は、おそらくまだ使えます」
「おそらく?」
エルが言う。
「白塔から逃げた技師の認証札なんて止められてるのでは?」
セラは一瞬黙った。
「その可能性はあります」
「また可能性」
ミラが小さく呟いた。
カイが淡々と言う。
「この旅の共通語だな」
アビシニアは地図を見ながら、ふと自分が少し笑っていることに気づいた。
帝都へ向かう話をしている。
王冠炉本体を止めに行く。
失敗すれば捕まるか、もっと悪いことになる。
それなのに、笑う余地がある。
人は不思議だ。
絶望の中でも、水桶の持ち方を教え、怖いと言い、可能性という言葉にうんざりし、少し笑う。
だから人の時代を、まだ諦めたくないのだと思った。
その夕方、アビシニアは一人で湿地の端へ行った。
本当は一人で行くつもりだったが、少し後ろにカイがいた。
「一人で行くなと言ったのはあなたでした」
彼が言う。
「そうでした」
「邪魔なら離れる」
「いいえ」
アビシニアは葦の向こうに沈む夕陽を見た。
「いてください」
カイは少し離れて立った。
沈黙があった。
気まずい沈黙ではなかった。
やがて、アビシニアは言った。
「父は、私に王でなくてもよいと言いました」
「聞いていた」
「どう思いましたか」
カイは少し考えた。
「良い父親だったのだと思う」
その言葉に、アビシニアの胸が痛んだ。
「でも、国は滅びました」
「王として正しかったかは分からない」
カイは言った。
「だが、娘にそれを言えたことは、父親としては正しかったのではないか」
アビシニアは目を伏せた。
涙はもう出なかった。
ただ、胸の奥が温かく痛い。
「あなたの父君は、あなたに何を残したのでしょう」
カイはしばらく黙った。
「手袋だな」
「捨てたのでしょう」
「だから残っている」
アビシニアは彼を見る。
カイは夕陽を見ていた。
「物はない。だが、捨てたことが残っている。取り戻せないものとして」
「苦しいですね」
「そうだな」
「それでも、覚えているのですね」
「忘れたら、父が本当に何も残さなかったことになる」
その言葉が、アビシニアの胸に静かに落ちた。
父の記録筒は残った。
だが、残らなかったものにも意味はある。
捨てた手袋。
焼けた王宮。
戻れなかった家。
名前を置いてきたサリア。
人は、持っているものだけでできているのではない。
失ったもの、捨てたもの、取り戻せないものも、その人を形作る。
「カイ」
「何だ」
「帝都で、あなたの過去にも向き合うことになるかもしれません」
「そうだろうな」
「怖くありませんか」
「怖い」
彼はすぐに答えた。
アビシニアは少し驚いた。
カイは続ける。
「怖くないふりをするのに疲れた」
その言葉に、彼女は小さく笑った。
「私もです」
夕陽が湿地を赤く染めていた。
その赤は血の色にも見えた。
けれど同時に、明日の光の前触れにも見えた。
夜になれば、彼らは帝都へ向かう。
そこで何が待つのかは分からない。
王冠炉。
軍務省。
グレイヴ。
皇帝。
そして、レオンハルトが見てきた帝国の闇。
アビシニアは、もう自分の痛みだけを持って行くのではない。
ミラの怖さ。
エルの希望。
サリアの名。
父の言葉。
母の光。
カイの手袋。
セラの罪。
レオンハルトの迷い。
すべてを抱えたまま、行く。
それは重い。
だが、心の中はもう狭くなかった。
湿地の夕暮れに、細い光が差していた。
出発の支度は、静かに進んだ。
湿地の村には、旅立ちを大げさに見送る習慣がないのだとマルタは言った。
湿地では、誰かが出ていくことも、誰かが戻らないことも、珍しいことではない。だから大声で泣かない。大きく手を振らない。必要なものを渡し、道を教え、戻る場所の火を絶やさない。
それが、彼らの見送りだった。
ミラは、サーシャから乾いた布と薬草を受け取っていた。
「濡らさないこと。傷に貼る時は、こっちの葉を先に揉むこと。こっちは食べないこと。食べたらお腹を壊す」
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
サーシャはため息をつき、布袋の口を結び直した。
「あなたは怖がりだけど、怖がっている時ほど変な勇気を出すから気をつけなさい」
ミラは少し頬を赤くした。
「変な勇気ですか」
「ええ。怖いなら怖いまま、誰かの袖を掴んでいなさい。手を離して走り出すんじゃないよ」
「はい」
ニナがミラの腰に抱きついた。
「帰ってくる?」
ミラは一瞬、答えに詰まった。
必ず、と言いたかったのだろう。
だが、彼女はアビシニアを見た。
アビシニアは何も言わずに頷いた。
軽い約束はしない。
けれど、願いは隠さない。
ミラはニナの髪を撫でた。
「帰ってきたいです」
ニナは少し考えた。
「じゃあ、待つ」
「ありがとう」
「でも、遅かったら怒る」
「はい」
「お土産もいる」
「帝都のお土産って何でしょう」
「甘いもの」
ミラは少し笑った。
「探します」
その横で、エルはカイに短い刃物を渡していた。
「湿地の刃です。藪を切るにはいい。人を斬るには短い」
カイは受け取った。
「人を斬らないで済むなら、その方がいい」
エルは少し意外そうに彼を見た。
「あなたがそれを言うんですね」
「俺が言うから、重いんだろう」
エルは黙った。
その沈黙の中には、白塔で見つけたリセの木片があった。
「帝都で、星脈研究棟の記録を探してください」
エルは言った。
「場所、移送記録、担当者名。何でもいい」
「探す」
「無理なら」
「無理なら、無理だった理由を持ち帰る」
エルは小さく息を吐いた。
「そう言われる方が信じられます」
カイは刃を腰に差した。
「お前は名簿を作れ」
「分かっています」
「怒りで字を潰すな」
「努力します」
「サーシャに見張らせろ」
「もう見張られています」
二人は短く視線を交わした。
それは友情と呼ぶには早い。
だが、互いの痛みの置き場所を少しだけ知った者同士の沈黙だった。
セラは村の端で、マルタに古い布を巻かれていた。
「その作業衣じゃ帝都の外で目立つ」
「技術院の服ですから」
「だから目立つんだよ。帝都では役に立つかもしれないが、道中では余計な目を引く」
マルタは彼女に湿地の外套を渡した。
セラはそれを受け取ったが、すぐには着なかった。
「私に、これを渡してよいのですか」
「よくはない」
マルタは即答した。
「でも、凍えて倒れられても困る」
セラは外套を見つめた。
「私は、あなたたちの敵側の人間です」
「そうだね」
「白塔の機関を調整しました」
「そうだね」
「知らなかったと言っても、関わっていました」
「そうだね」
マルタは同じ調子で返した。
セラの顔が少し歪む。
「責めないのですか」
「責めてほしいのかい」
セラは答えられなかった。
マルタは火の消えた炉を片づけながら言った。
「責めるのは簡単だよ。あんたを縛って、帝国兵に突き出すのも簡単だ。でも、それで白塔の記録は誰が読む。王冠炉の仕組みは誰が止める。あんたの罪は、あんたに働かせてから数える」
セラは俯いた。
「厳しいですね」
「優しく言うと、あんたはまた逃げるだろう」
セラは外套を握りしめた。
「逃げません」
「なら着な」
セラは外套を羽織った。
灰色の作業衣が隠れ、彼女は少しだけ湿地の人々に紛れた。だが、その目の下の疲れと、背負ったものまでは隠れない。
レオンハルトは、村の外れで一人立っていた。
誰も近づかない。
当然だった。
彼は帝国の皇太子であり、白塔の計画に思想を与えた者でもある。肩の傷を負っていようと、今は追われる側であろうと、湿地の人々にとって彼は簡単に受け入れられる存在ではなかった。
アビシニアは少し迷い、彼の方へ歩いた。
レオンハルトは振り返らない。
「見送りに来たのか」
「あなたも出発する側です」
「私は、戻る側だ」
「戻るのが怖いですか」
彼は少しだけ笑った。
「最近、その質問が流行っているな」
「答えなくても構いません」
「怖い」
レオンハルトは白い息を吐いた。
「帝都は、私の生まれた場所だ。だが、今は白塔よりも遠く感じる」
「皇帝陛下に会うのですね」
「会わなければならない」
彼の声が硬くなる。
「父は、病床にいる。私が最後に会った時、ほとんど言葉を発しなかった。私はそれを、老いと病のせいだと思っていた」
「違うのですか」
「分からない」
レオンハルトは指を握った。
「だが、グレイヴの言葉が本当なら、父は人を信じて壊れたのかもしれない。あるいは、壊れたように見えるまで、誰かに追い込まれたのかもしれない」
「あなたは、お父上をどう見ていたのですか」
彼は長く黙った。
「皇帝として」
その答えは、アビシニアにはよく分かった。
自分も、父を王として見ていた。
偉大で、遠く、正しくなければならない存在として。
父が迷ったこと。
父が自分に謝りたかったこと。
父が王冠炉を使わない選択に苦しんだこと。
それを知るまで、父もまた一人の人間だったと、彼女は本当には理解していなかった。
「父を、一人の人間として見るのは怖い」
レオンハルトは言った。
「皇帝が弱っているのを見るより、父が弱っているのを見る方が怖い」
アビシニアは静かに頷いた。
「分かります」
レオンハルトは彼女を見た。
「君にそう言われると、少し困る」
「なぜですか」
「敵だった相手に理解されると、自分の輪郭が崩れる」
「私も何度も崩れています」
「そうか」
二人の間に、冷たい風が通った。
恋ではない。
許しでもない。
ただ、互いに父を持つ子として、ほんの一瞬だけ同じ場所に立った。
レオンハルトは言った。
「帝都では、私はまた皇太子として振る舞う必要がある」
「はい」
「君が嫌う顔をするかもしれない」
「止めます」
「容赦なく?」
「できる範囲で」
「君らしい」
アビシニアは少しだけ眉を寄せた。
「それは褒めていますか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「私も練習中だ」
彼の声に、わずかな疲れた笑みが混じった。
アビシニアはそれ以上踏み込まなかった。
彼の内側にも、まだ入ってはいけない部屋がある。
今は、その扉の前に立つだけでよい。
日が落ちる頃、出発の準備が整った。
一行は五人になった。
アビシニア。
ミラ。
カイ。
レオンハルト。
セラ。
エルは残る。
マルタとサーシャ、ニナも残る。
湿地の者たちは、白塔の追手が来た場合に備えて、村の一部を移す準備を始めていた。
「本当に、村を動かすのですか」
アビシニアが尋ねると、マルタは肩をすくめた。
「湿地の村は、根を張らない。根を張ると焼かれる」
その言葉は軽い調子だったが、長い経験の重みがあった。
「でも、戻る火は残しておく」
マルタは小さな火種を見せた。
「誰かが戻った時、完全な闇じゃ困るからね」
アビシニアは深く頭を下げた。
「行ってきます」
マルタは彼女の頭を軽く叩いた。
「帰ってきたいなら、帰っておいで」
それは、父の言葉に少し似ていた。
王でなくてもよい。
生きなさい。
アビシニアは顔を上げた。
「はい」
エルは最後に近づいてきた。
手にはリセの木片がある。
「これは、持って行かなくていいのですか」
アビシニアが聞くと、エルは首を振った。
「これは俺が持ちます。リセを探す理由を忘れないために」
「分かりました」
「代わりに、これを」
彼は小さな紙片を渡した。
湿地の簡素な紙に、名前が書かれている。
リセ・ランバル。
サリア・ル・ヴェン。
白塔記録番号のいくつか。
そして、空欄。
「帝都で分かった名前を、ここに足してください」
アビシニアは紙片を受け取った。
「はい」
「王女様」
エルが言った。
その呼び方には、以前のような距離だけではない。
少しの敬意と、少しの不満と、少しの信頼が混じっていた。
「一人で決めないでください」
「はい」
「でも、決める時は逃げないでください」
アビシニアは彼を見た。
「難しいですね」
「ええ。だから頼んでいます」
彼女は頷いた。
「覚えます」
ニナがミラに小さな包みを渡した。
「甘いものの代わり」
「何ですか」
「甘くない木の実」
「それは代わりになるんですか」
「噛むとちょっと甘い」
ミラは包みを大事そうに受け取った。
「ありがとう」
ニナは真剣な顔で言った。
「怖い時に食べて」
「はい」
「でも全部食べないで。私も後で食べるから」
「残します」
カイが先頭に立った。
「行くぞ」
湿地の者たちは、大きく手を振らなかった。
ただ、それぞれの灯を少しだけ高く掲げた。
小さな光が、葦の間に点々と浮かぶ。
それは王冠炉の光ではない。
神代機関の光でもない。
ただ、人が人のために持つ灯だった。
アビシニアはその光を胸に刻み、歩き出した。
湿地を抜ける道は、夜のうちに進まなければならなかった。
帝国軍は白塔周辺を封鎖するだろう。街道は危険だ。セラの提案で、彼らは古い排水路沿いに南東へ進み、明け方までに廃船着き場へ出ることになった。そこから小舟で水路を下れば、帝都外縁の東水門近くまで近づける。
「帝都は水の都なのですか」
ミラが小声で尋ねた。
セラが答える。
「もとは川沿いの城塞都市です。帝国が大きくなるにつれて、水路を増やしました。今は物流の半分が水門を通ります」
「では、入る人も多い?」
「多いです。だから紛れやすい。ですが、検問も多い」
「つまり」
「可能性があります」
ミラは深くため息をついた。
「やっぱり共通語ですね」
カイが前を見たまま言った。
「今のところ、可能性だけで生きている」
「それは励ましですか」
「事実だ」
「事実は時々、励ましに向いていません」
アビシニアは少し笑った。
その笑いを、レオンハルトが見ていた。
「何ですか」
「いや」
「言いたいことがあるなら」
「君は、笑うようになったと思った」
アビシニアは少し戸惑った。
「前から笑っていました」
「そうか」
「そうです」
ミラが横から言った。
「でも、前より少し自然かもしれません」
「ミラまで」
「すみません。でも、良いことだと思います」
アビシニアは反論しようとして、やめた。
笑えることを否定する必要はない。
シリアスな道の途中でも、人は笑う。
笑ったからといって、失ったものを忘れたことにはならない。
夜の湿地を進むうち、白塔の光は見えなくなった。
代わりに、遠くの空がわずかに明るくなり始める。
帝都の方角だ。
夜明けではない。
都市の灯。
人の作った巨大な光が、空の底を鈍く照らしている。
レオンハルトが立ち止まった。
「見えた」
アビシニアも足を止めた。
遠く、湿地と平野の向こうに、黒い影が横たわっている。
帝都。
城壁。
塔。
水門。
そして、その奥に眠る王冠炉本体。
そこには皇帝がいる。
グレイヴの背後にいる者たちがいる。
白塔の記録を隠した者たちがいる。
レオンハルトの父がいる。
そして、おそらく、旧ル・メイルの名を奪った記録もある。
アビシニアは、胸元にしまった父の記録片に触れた。
父は言った。
一人で決めるな。
だから彼女は、振り返った。
ミラがいる。
カイがいる。
セラがいる。
レオンハルトがいる。
湿地にはエルたちが残っている。
白塔にはサリアがいる。
どこか北方にはリセがいるかもしれない。
心の中に、彼らの場所がある。
その広がった内側を抱えたまま、アビシニアは帝都を見た。
「行きましょう」
今度は、誰かに命じる声ではなかった。
共に進むための声だった。
五人は、夜明け前の水路へ向かって歩き出した。




