第五章 白塔の中継核
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排水口の内側は、思っていたよりも狭かった。
石壁は湿り、古い苔の匂いが鼻を刺す。足元には浅く濁った水が残り、進むたびに小さな音が立った。外から差し込む夕暮れの光はすぐに届かなくなり、四人は暗闇の中で息を潜めた。
背後では、兵たちの怒号がまだ聞こえている。
「西側を探せ!」
「排水口を見ろ!」
「殿下を逃がすな!」
その声は石の中で反響し、どこから聞こえているのか分かりにくかった。
カイが先頭で低く言った。
「止まるな。奥へ」
ミラが小さく頷き、両手を壁につきながら進む。アビシニアはその後ろに続いた。最後尾にはレオンハルトがいる。
四人。
つい先ほどまで敵だった少年を含めた、奇妙な四人。
足音が増えたことが、かえって不安だった。
三人旅だった時には、それぞれの歩き方が分かり始めていた。カイは音を殺し、ミラは慎重に、アビシニアは時々迷って足を止める。
だが、レオンハルトの足音は静かすぎた。
皇太子の足音ではない。
訓練された者の足音でもあるが、それ以上に、存在を薄くすることに慣れた者の足音だった。
アビシニアは、少しだけ振り返った。
暗がりの中で見るレオンハルトは、白塔の外で見た時よりもずっと若く見えた。
淡い金の髪は塔の粉塵でくすみ、灰青の瞳だけが暗闇に冷たく残っている。頬に走った浅い傷から、細い血の筋が落ちていた。
その赤だけが、彼もまた生身なのだと示していた。
湿地で見た時、彼は揺らがない人間に見えた。
だが近くで見ると、その静けさは強さではなく、長く息を止めている者の静けさに似ていた。
「前を見た方がいい」
レオンハルトが言った。
声は低く、乱れていない。
アビシニアは前を向いた。
「あなたこそ、足元を見てください。ここは宮廷の床ではありません」
「承知している」
「その割には、音がしません」
「音を立てない歩き方は習った」
「皇太子が?」
「皇太子だからだ」
その答えは短かった。
アビシニアは黙った。
皇太子だから、剣を習う。
皇太子だから、政治を学ぶ。
皇太子だから、笑い方を選ぶ。
皇太子だから、音を消す。
王女だから、泣かない。
王女だから、逃げる。
王女だから、生き残る。
その構造は、思っていたより近いのかもしれない。
カイが前方で手を上げた。
「止まれ」
全員が足を止める。
通路の先で、石組みが崩れていた。完全に塞がってはいないが、人が通るには低すぎる。隙間の向こうには、さらに暗い空間がある。
カイが膝をつき、隙間を確認した。
「一人ずつなら通れる。荷は外せ」
ミラが不安そうに見る。
「崩れませんか」
「崩れる可能性はある」
「また可能性ですね」
「白塔では確実なことの方が少ない」
カイは淡々と言い、先に身を滑り込ませた。
石が擦れる音。
しばらくして、向こう側から声がした。
「来い。頭を低く」
ミラが先に通ることになった。
彼女は小さな袋を外し、胸に抱えて隙間へ入った。途中で衣が石に引っかかり、息を詰めたが、カイが向こうから手を伸ばして引き寄せた。
次にアビシニア。
彼女は身を屈め、冷たい石の下へ潜った。
暗い。
石が背中すれすれにある。
息を大きく吸うと、胸がつかえる。
一瞬、王宮の地下道を思い出した。
十年前。
父に逃がされた夜。
暗い通路。
誰かの手。
泣くなと言われた声。
体が強張る。
「アビシニア」
向こう側からカイの声がした。
「止まるな」
止まっていた。
彼女は唇を噛んだ。
今は十年前ではない。
前にはカイがいる。
ミラがいる。
後ろにはレオンハルトがいる。
あの夜とは違う。
彼女は石を掴み、少しずつ進んだ。
向こう側へ出た時、カイが腕を取って支えた。
「大丈夫か」
「はい」
答えたが、声は少し震えていた。
ミラが心配そうに見ている。
「リーナさん」
「大丈夫です。少し、思い出しただけです」
レオンハルトが最後に通った。
彼は途中で一度も止まらなかった。だが、出てきた時には頬の傷からまた血が滲んでいた。狭い石に擦ったのだろう。
ミラが反射的に布を取り出した。
「血が」
レオンハルトは一瞬、差し出された布を見た。
受け取らないかと思った。
だが、彼は短く言った。
「借りる」
ミラは少し驚きながら布を渡した。
レオンハルトは頬を押さえる。手つきは慣れていた。礼を言うべきか迷ったように見えた後、彼は小さく付け加えた。
「ありがとう」
ミラは目を丸くした。
「いえ」
その短いやり取りに、アビシニアは奇妙な感覚を覚えた。
皇太子。
敵。
王冠炉を動かそうとする者。
その人物が、ミラの布を借り、礼を言った。
それだけのことが、彼を少しだけ人間に戻す。
カイは周囲を確認していた。
隙間の先は、排水路ではなく、古い点検通路につながっていた。天井は低いが、立って歩ける。壁には神代文字と、後世に刻まれたル・メイル文字が混ざっている。
アビシニアは壁に触れた。
微かな記録がある。
技師たちの声。
水量の記録。
白塔の調整日誌。
そして、もっと古い、言葉になる前の機械音。
神代の残響。
彼女の胸の奥が、かすかに応えた。
レオンハルトがそれを見ていた。
「君は、触れるだけで読めるのか」
「すべてではありません」
「では、何を読む」
「物が覚えているものです」
「人の心ではなく?」
その問いに、アビシニアは彼を見た。
「今は、読みません」
「今は?」
「読めるかもしれない。けれど、読むべきではない」
レオンハルトの灰青の瞳が、わずかに揺れた。
「なぜ」
「あなたが、あなたの内側を勝手に触られたくないと思うからです」
「私の内側など、たいしたものではない」
「それを決めるのは、あなたではありません」
言ってから、アビシニアは自分でも少し驚いた。
以前なら、もっと硬く禁忌だと答えていただろう。
だが今は、それだけでは足りない気がした。
禁じられているからではなく、相手が嫌だと思うから。
許されないからではなく、相手が一人の人だから。
その理由の方が、彼女には大事に思えた。
レオンハルトはしばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「君は、私をまだ人として扱うのか」
「扱いたくない時もあります」
ミラが少し慌ててアビシニアを見る。
カイは黙っている。
アビシニアは続けた。
「あなたの考えは危険です。王冠炉で人から選ぶ力を奪うことを、私は認めません。あなたが何を失ったとしても、それは変わりません」
レオンハルトは目を伏せない。
「なら、なぜ助けた」
「グレイヴ大佐に渡したくなかったからです」
「私のためではなく」
「はい」
レオンハルトは少しだけ口元を動かした。
笑ったのではない。
だが、何かが緩んだように見えた。
「その方が、信用できる」
アビシニアはエルの言葉を思い出した。
俺のためだけに命をかけるって言われたら、重すぎます。
彼女は小さく息を吐いた。
「似たようなことを、最近言われました」
「誰に」
「湿地の少年に」
「君は、随分と人を拾う」
「拾っているのではありません。出会っているのです」
レオンハルトは答えなかった。
カイが低く割り込んだ。
「話は歩きながらにしろ。追手が来る」
「どこへ向かうのですか」
ミラが尋ねる。
カイは壁の古い文字を見た。
「この通路は塔の中継室へ続くはずだ。グレイヴが言っていた場所だ」
アビシニアは身を硬くする。
「そこへ行くのですか」
「行かないと、上にも下にも出られない」
レオンハルトが言った。
「中継室には、地下炉へ降りる階段がある。正面入口から入った者はそこを通る」
カイが彼を見る。
「詳しいな」
「白塔の図面は読んだ」
「図面に載らない改修は?」
「それは知らない」
「なら先頭には立つな」
レオンハルトは少し眉を動かした。
「命令か」
「助言だ。従わなければ死ぬ」
「それは命令に近い」
「では命令だ」
二人の間に硬い空気が走る。
アビシニアは、以前ならすぐに止めようとしたかもしれない。だが、今は少しだけ待った。
カイはレオンハルトを信用していない。
当然だ。
レオンハルトも、カイを完全には信じていない。
それも当然だ。
ここで無理に仲良くさせる必要はない。
ただ、同じ方向へ歩ければいい。
「先頭はカイ」
アビシニアは言った。
「次にミラ、私、最後にレオンハルト殿下。殿下は後方を見てください」
レオンハルトが彼女を見る。
「私を殿下と呼ぶのか」
「呼ばれたくないのですか」
「今は、あまり」
「では、レオンハルト」
彼の瞳がわずかに揺れた。
名前だけで呼ばれることに慣れていないのかもしれない。
アビシニアは続けた。
「あなたは後方を見てください。追手の動きに詳しいのはあなたです」
「分かった」
短い返事だった。
だが、従った。
四人は通路を進んだ。
壁の神代文字は、奥へ行くほど密になっていく。白塔は地上から見るより、地下の方がずっと大きいらしい。枝分かれした通路がいくつもあり、使われなくなった部屋の入口が暗く口を開けている。
途中、ミラが足を止めた。
「音がします」
全員が止まる。
遠くから、水の音が聞こえた。
いや、水ではない。
低く、一定の間隔で脈打つ音。
どくん。
どくん。
どくん。
アビシニアの胸の奥が、それに呼応した。
方位盤の針が震え、ついには回り始める。
「王冠炉ですか」
ミラが囁く。
レオンハルトが答えた。
「本体ではない。白塔の中継核だ。王冠炉の残響を受け、増幅する」
「それで何をするつもりだったのですか」
アビシニアは問う。
レオンハルトはすぐには答えなかった。
「話すための場を作るつもりだった」
「場?」
「君の力がどこまで王冠炉に届くのか、確かめたかった」
カイが振り返る。
「それを試験と言う」
「分かっている」
レオンハルトの声は硬い。
「だが、グレイヴのように君を壊すつもりはなかった」
「壊さない試験なら許されると思ったのですか」
アビシニアの声が冷える。
レオンハルトは彼女を見る。
「思っていた」
その率直さに、ミラが息を呑んだ。
レオンハルトは続けた。
「君に会うまでは」
アビシニアは黙った。
「私は、ル・メイルの王女を、王冠炉を止めるか動かすかの鍵として考えていた。生き残った象徴として。滅びた国の残響として」
彼はわずかに目を伏せた。
「湿地で君を見た時、初めて、君が怒り、迷い、子どもに水桶の持ち方を教わる人間なのだと知った」
アビシニアは胸を突かれた。
水桶。
そんなところまで見られていたのか。
レオンハルトは続ける。
「だから、話す必要があると思った。だが、私はそれでも白塔へ呼んだ。君が来るように、父君の記録を餌にする者を止めきれなかった」
「止めきれなかったのではなく、見ようとしなかったのではありませんか」
アビシニアの言葉に、レオンハルトは顔を上げた。
「あなたは人に諦めたと言いながら、自分の周囲の人間が何をするかも見ていなかった。グレイヴ大佐があなたの思想を利用することを、どこかで許していた」
カイが黙っている。
ミラも息を潜めている。
レオンハルトは反論しなかった。
長い沈黙の後、彼は言った。
「そうかもしれない」
その声は、初めて少し年相応に聞こえた。
「私は、人を諦めたと言いながら、人に期待していた。私の言葉を正しく扱ってくれると。私の迷いを、誰かが整理してくれると」
彼は自嘲するように笑った。
「愚かだな」
「愚かです」
アビシニアは言った。
ミラがまた少し慌てた顔をする。
だが、アビシニアは続けた。
「でも、私も愚かでした。父の記録を見た瞬間、ミラもカイも見えなくなりました」
レオンハルトが彼女を見る。
「君も?」
「はい」
「王女でも?」
「王女だから、ではありません。娘だからです」
その言葉は、通路の中で静かに響いた。
レオンハルトの表情が変わった。
ほんのわずかに。
「娘だから」
彼は繰り返した。
「私は、父を皇帝としてしか見たことがない」
アビシニアは何も言わなかった。
彼が自分で続けるのを待った。
「父は、帝国そのものだった。少なくとも、私にはそう見えた。食卓でも、庭でも、病床でも、父は皇帝だった」
「病床?」
ミラが小さく尋ねる。
レオンハルトは視線を前に戻した。
「父は、三年前からほとんど政務に出ていない。だが、死んではいない。生きている。生きたまま、帝国の象徴として置かれている」
アビシニアは息を呑んだ。
「だから、あなたが」
「皇太子として、代わりに決める。代わりに裁く。代わりに諦める」
レオンハルトの声は淡々としていた。
淡々としすぎていた。
「最初は、父のためだと思っていた。次に、帝国のためだと思った。やがて、人のためだと思うようになった」
「そして、人から選ぶ力を奪おうとした」
「そうだ」
彼は否定しない。
そのことが、かえって重かった。
カイが前方で足を止めた。
「中継室だ」
通路の先に、広い空間が見えた。
円形の部屋。
天井は高く、壁には白い石と黒い金属が交互に組み込まれている。中央には、胸の高さほどの円柱状の装置があり、その内部で淡い光が脈打っていた。
魔法ではない。
けれど、魔法に準ずる力。
神代機関の残響を受け、人の記憶や感情、物の記録に干渉するための古い装置。
白塔の中継核。
その周囲には、すでに黒紐隊の兵がいた。
三人。
さらに、部屋の奥に黒い金属箱が置かれている。
一台目の荷だ。
アビシニアの方位盤が、ついに甲高い音を立てて割れた。
ミラが悲鳴を押し殺す。
カイが剣を抜いた。
レオンハルトが低く言う。
「遅かった」
部屋の奥で、グレイヴ大佐の声がした。
「いいえ、殿下」
灰色の外套の男が、装置の陰から現れた。
「ちょうどよい頃合いです」
その隣に、黒い木箱があった。
王家の封蝋が残る箱。
父の記録。
グレイヴはそれに手を置き、アビシニアを見た。
今度は、はっきりと。
「ようこそ、アビシニア・ル・メイル王女殿下」
彼の声は穏やかだった。
「お父上の最後の言葉を、聞く準備はお済みですか」
グレイヴ大佐の声は、円形の中継室によく響いた。
その声には怒りがなかった。
勝ち誇る響きも、ほとんどない。
ただ、必要な手順を告げるような静けさがあった。
それがかえって、アビシニアには恐ろしかった。
彼は自分を憎んでいるのではない。
父を嘲っているのでもない。
王国の残党をいたぶりたいわけでもない。
彼にとって、これは作業なのだ。
必要な材料を、必要な場所へ置く。
必要な言葉を、必要な相手へ聞かせる。
必要な反応を、必要な装置で測る。
そこに、人の痛みがあることを知っていながら、彼はそれを手順の一部にしている。
アビシニアは、黒い木箱を見た。
王家の封蝋。
光差す王冠の印。
十年前の夜から閉ざされたままの、父の記録。
胸が引き裂かれるようだった。
聞きたい。
今すぐ駆け寄って、箱を開けたい。
父の声を聞きたい。
最後に自分の名を呼んだというなら、それが本当か確かめたい。
けれど、彼女は動かなかった。
ミラが隣にいる。
カイが剣を構えている。
レオンハルトが背後で息を殺している。
一人ではない。
だから、今は一人の痛みだけで動かない。
グレイヴはわずかに眉を上げた。
「動かれませんか」
アビシニアは答えなかった。
代わりに、レオンハルトが一歩前へ出た。
「箱から手を離せ、グレイヴ」
その声は静かだった。
だが、先ほどまでとは違う。
皇太子として命じる声ではなく、一人の少年が怒りを押し殺している声だった。
グレイヴはレオンハルトを見た。
「殿下。ご無事で何よりです」
「私を拘束しようとした兵に、同じことを言わせるつもりか」
「誤解です」
「便利な言葉だな」
レオンハルトは冷たく返した。
「命令系統を変更したと言った。誰の命令だ」
「帝国の存続を望む者たちの総意です」
「名前を言え」
「名前に意味はありません」
「ある」
レオンハルトの灰青の瞳が、わずかに青みを増した。
「責任から名前を外すな」
その言葉に、アビシニアは彼を見た。
責任から名前を外すな。
それは、彼自身にも刺さる言葉のはずだった。
グレイヴは静かに息を吐いた。
「殿下は、まだお若い」
「その言葉で黙る年齢は過ぎた」
「では申し上げます。軍務省監察局、北方安定派、内務院治安部。その三者の合意です。名を挙げれば、帝都の半分が揺れます」
「揺らせばいい」
「民が死にます」
レオンハルトは口を閉ざした。
グレイヴはそこを逃さなかった。
「殿下はご存じです。帝国は、すでに綺麗な議論で保てる段階を過ぎている。皇帝陛下は病床にあり、地方総督は税を隠し、旧王国領では飢えと怨恨が積もっている。誰もが正しさを語り、誰もが自分の手を汚したがらない」
彼の声は少しだけ低くなった。
「私は、汚れ役を引き受けているだけです」
「人を道具にすることを、汚れ役と呼ぶのか」
アビシニアが言った。
グレイヴの視線が、彼女へ移る。
「道具にしているのではありません。役割を果たしていただくのです」
「同じことです」
「違います」
グレイヴは穏やかに言った。
「道具は壊れれば捨てる。役割を持つ者は、歴史に残る」
アビシニアは寒気を覚えた。
「残される側が望まなくても?」
「望むかどうかで歴史は止まりません」
「人の時代だと言いながら、人の望みを無視するのですね」
グレイヴは答えなかった。
その沈黙は、否定ではなかった。
円形の中継室の中央で、淡い光が脈打つ。
どくん。
どくん。
どくん。
そのたびに、アビシニアの胸の奥が引かれる。
白塔の中継核は、彼女を呼んでいる。
いや、呼んでいるのではない。
反応している。
王冠炉の残響に適合するものが近くに来たため、古い機関が目を覚まそうとしている。
部屋の奥、装置の傍らに人影があった。
最初、アビシニアはそれを兵だと思っていた。だが違った。
軍服ではない。
灰色の作業衣。
腰には工具帯。
短く切られた黒髪には、白いものが少し混じっている。
年齢は三十を少し過ぎた頃だろうか。目の下に深い疲労があり、片手には金属板の記録器を持っていた。
女は中継核の表示を見つめ、硬い声で言った。
「大佐、接続値が上がっています」
グレイヴは彼女を見ずに答えた。
「王女殿下が来られたからだ」
「来られたから、では済みません。まだ安定していません」
「セラ技師官」
グレイヴの声が少しだけ冷えた。
「今は政治判断の場です」
「いいえ。ここは中継室です」
女は顔を上げた。
その目は疲れていたが、逃げてはいなかった。
「政治判断で機関は安定しません」
カイが小さく呟いた。
「技師か」
レオンハルトが答える。
「セラ・ヴォルフ。帝国技術院の神代機関技師だ」
「信用できるのか」
「できない」
レオンハルトは即答した。
「だが、機関について嘘は少ない」
セラはアビシニアを見た。
観察する目だった。
敵意ではない。
憐れみでもない。
危険な装置の前に立つ、未知の変数を見る技術者の目。
その視線に、アビシニアは少しだけ不快感を覚えた。
だが同時に、そこに迷いがあることも分かった。
セラは言った。
「王女殿下を中継核に近づければ、反応はさらに上がります。父王の記録媒体を同時に開けば、記録側にも本人側にも損傷が出る可能性があります」
グレイヴは淡々と返す。
「可能性の話は聞いた」
「危険性の話です」
「危険のない選択などありません」
「危険を理解せずに選ぶことは、選択ではありません」
セラの声が強くなった。
黒紐隊の兵たちが、わずかに身じろぎする。
グレイヴはようやく彼女を見た。
「あなたは技師です。技術的な助言は求めています。しかし、判断は私が下す」
セラは唇を引き結んだ。
その表情には怒りがあった。
だが、怒りだけではない。
諦め。
疲労。
そして、自分もここに加担しているという自覚。
アビシニアは、それを見た。
帝国側の人間。
王冠炉を利用しようとする側の技師。
それなのに、彼女もまた、何かに押し潰されそうな顔をしている。
部屋の左側で、ミラが小さく息を呑んだ。
黒紐隊の一人が、彼女へ近づいていた。
若い兵だった。
他の兵より背が高く、まだ顔に硬さが残っている。二十代前半ほどだろう。黒紐を肩から斜めに結んでいるが、その手は剣の柄に置かれたまま、抜かれてはいない。
「動かないでください」
若い兵はミラに言った。
命令の言葉なのに、どこか頼むような声だった。
ミラは後ずさる。
「来ないで」
「抵抗しなければ、傷つけません」
「そう言われても、怖いです」
若い兵の顔がわずかに歪んだ。
その一瞬を、アビシニアは見逃さなかった。
怖いと言われて、彼は傷ついた。
敵兵なのに。
黒紐隊なのに。
人を捕らえる側なのに。
「ユリアン」
グレイヴが呼んだ。
若い兵は背筋を伸ばす。
「はい、大佐」
「その娘を確保しろ。王女殿下が無理をなさらぬように」
ミラの顔が青ざめた。
アビシニアの中で、怒りが立ち上がる。
「彼女に触れないでください」
ユリアンと呼ばれた兵が、アビシニアを見た。
その目に、敵意は薄かった。
むしろ、困惑があった。
「命令です」
「あなたの?」
「大佐のです」
「では、あなたの判断はどこにありますか」
ユリアンは答えられなかった。
グレイヴが静かに言う。
「王女殿下。兵に哲学を問うのは酷です」
「哲学ではありません」
アビシニアはユリアンを見たまま言った。
「目の前の人に手を伸ばすかどうかの話です」
ユリアンの喉が動いた。
彼はミラへ手を伸ばしかける。
だが、その手は途中で止まった。
ミラが震えながらも、彼を見ていたからだ。
恐怖。
怒り。
それでも、相手を人として見ようとする目。
ユリアンは歯を食いしばった。
「……動かないでください。お願いします」
ミラは固まった。
「お願いします?」
「私は、あなたを傷つけたくありません」
その言葉に、部屋の空気がわずかに変わった。
グレイヴの目が細くなる。
「ユリアン」
「確保します」
ユリアンは慌てて言った。
だが、彼の手にはまだ力が入っていなかった。
カイがその隙を見て、半歩動く。
別の兵が剣を抜いた。
金属音が響く。
「動くな!」
中継核の光が強まった。
どくん。
アビシニアの視界が揺れる。
壁に刻まれた神代文字が、淡く光を帯びる。
黒い金属箱の刻線が反応する。
王家の木箱の封蝋が、かすかに熱を持つ。
セラが叫んだ。
「近接共鳴が始まっています! 全員、装置から離れてください!」
グレイヴは動かない。
「開けろ」
「できません」
「命令だ」
「記録媒体が破損します!」
「王女殿下が近くにいる。媒体が完全に壊れる前に、必要な部分は引き出せる」
セラの顔から血の気が引いた。
「あなたは、記録を読む気ではない。王女殿下の反応を見る気ですね」
「両方です」
「それは実験です」
「歴史的検証です」
「言葉を変えても、やっていることは同じです!」
セラの声が割れた。
その瞬間、アビシニアは彼女の中の恐怖を見た気がした。
技術者としての恐怖。
自分の作った手順が、人を壊すかもしれない。
自分の整えた装置が、取り返しのつかないことを起こすかもしれない。
それを知りながら、ここまで来てしまった者の恐怖。
アビシニアはセラに向かって言った。
「あなたは、止めたいのですか」
セラは答えなかった。
グレイヴが代わりに言う。
「彼女は帝国の技師です」
「私は彼女に聞いています」
セラの手が震えた。
記録器の金属板が小さく鳴る。
「止めたいかどうかで、止められるものではありません」
「それは答えではありません」
「答えです」
セラは苦しげに言った。
「私は、ずっとそう答えてきました。私は技師だから。命令を決めるのは軍だから。使い方を決めるのは政治だから。私は危険性を報告した。私は手順に注記した。私は反対意見を記録に残した」
彼女は中継核を見た。
「でも、装置を調整したのは私です」
その告白は、部屋の中で重く落ちた。
アビシニアは何も言えなかった。
セラは敵だ。
少なくとも、ここまで機関を動かした責任がある。
だが、彼女もまた自分の言い訳の中で傷ついている。
それを理解することと、許すことは違う。
アビシニアは、その違いを初めてはっきり感じた。
グレイヴが静かに言った。
「セラ技師官。感傷は後にしてください」
「これは感傷ではありません」
「では、職務に戻りなさい」
セラは唇を噛んだ。
戻ってしまう。
そう見えた。
彼女はまた、技師だからと言って、装置の前に立つのだろう。
その時、ミラが声を上げた。
「私も、怖いです」
全員の視線が彼女へ向いた。
ミラは震えていた。
ユリアンの手が、まだ彼女の腕に触れるか触れないかの位置で止まっている。
「私は技師じゃありません。兵でもありません。王女でも、皇太子でもありません。だから、難しいことは分かりません」
彼女はセラを見た。
「でも、怖いものを怖いと言うことはできます」
セラの目が揺れた。
ミラは続けた。
「怖いなら、怖いと言ってください。止めたいなら、止めたいと言ってください。言っただけで止まらないかもしれません。でも、言わなかったら、誰も分かりません」
それは、ミラ自身がアビシニアに言ったことでもあった。
怖いです。
その一言で、アビシニアは踏みとどまった。
今度は、その言葉が帝国の技師へ向けられている。
セラは目を閉じた。
長い沈黙。
中継核の鼓動だけが響く。
どくん。
どくん。
どくん。
やがて、セラは目を開けた。
「止めたい」
小さな声だった。
だが、確かに聞こえた。
グレイヴの表情が消えた。
「セラ技師官」
「止めたいです、大佐」
セラは今度ははっきりと言った。
「この接続は危険です。王女殿下にも、記録媒体にも、白塔そのものにも損傷が出る可能性が高い。私は技術責任者として、起動に反対します」
「記録には残らない」
「残します」
セラは記録器を握りしめた。
「今ここで」
グレイヴが手を上げた。
黒紐隊の一人がセラへ向かう。
ユリアンが反射的にそちらを見た。
その瞬間、ミラが彼の手から身を引いた。
ユリアンは追わなかった。
カイが動く。
剣を抜いた兵の刃を弾き、柄で鳩尾を打つ。兵が膝をつく。
レオンハルトは床に落ちていた短い金属棒を拾い、別の兵の手首を打った。剣が床に落ちる。
「殿下!」
ユリアンが叫ぶ。
レオンハルトは彼を見る。
「ユリアン・ザイツ」
若い兵の顔が強張った。
名前を呼ばれた。
皇太子に。
「君は誰の兵だ」
先ほど、塔の外でレオンハルトが兵たちに問うた言葉。
ユリアンは答えられない。
グレイヴが鋭く言う。
「帝国の兵だ」
レオンハルトはユリアンから目を逸らさない。
「帝国とは、今ここでミラを人質に取ることか」
ユリアンの顔が歪む。
「私は……」
「答えろ」
ユリアンはミラを見た。
ミラは怯えている。
だが、逃げてはいない。
彼は剣の柄から手を離した。
「違います」
その声は震えていた。
グレイヴの目が冷たくなる。
「ユリアン」
「違います、大佐」
ユリアンはもう一度言った。
「少なくとも、私はそう教わっていません」
中継核の光がさらに強くなる。
セラが叫ぶ。
「制御が外れます!」
黒い金属箱が震え始めた。
王家の木箱の封蝋に、細い亀裂が入る。
アビシニアの頭の奥に、声が流れ込んできた。
まだ言葉ではない。
だが、父の気配がある。
温かく、遠く、痛い。
彼女は思わず一歩踏み出した。
ミラが叫ぶ。
「リーナさん!」
アビシニアは止まった。
今度は、止まれた。
だが、記録の方が近づいてくる。
封蝋が割れる。
木箱の隙間から、淡い光が漏れる。
グレイヴが低く言った。
「始まった」
セラが中継核へ駆け寄る。
「止めます!」
「止めるな!」
グレイヴが命じる。
残った兵がセラを止めようとする。
ユリアンがその前に立った。
「通しません」
「貴様」
「私は、帝国の兵です」
ユリアンは剣を抜かなかった。
ただ、両手を広げて立った。
「だから、帝国が人を壊すところを見過ごせません」
その言葉は拙かった。
青かった。
けれど、彼自身の言葉だった。
グレイヴは初めて、怒りを見せた。
「若造が」
カイがアビシニアに叫ぶ。
「どうする!」
どうする。
父の記録が開きかけている。
中継核は暴走しかけている。
セラは止めようとしている。
ユリアンは命令に背いた。
レオンハルトは自分の兵を見ている。
ミラは震えながらも立っている。
アビシニアは、中央の光を見た。
王冠炉の残響。
人の記憶を、感情を、選択を、力に変えようとする古い機関。
これを止めるには、触れなければならない。
だが、人の心には触れない。
触れるのは、物の記録。
塔の記憶。
父の記録ではなく、まずこの部屋の記録。
この中継室が何のために作られたのか。
彼女は床に膝をつき、両手を白い石に置いた。
冷たい。
だが、その奥に古い声がある。
神代の終わり。
技師たち。
王家の祖。
南の光の地から来た一族。
光を支配するのではなく、光の届く範囲を定める者たち。
そして、古い言葉。
ル・メイル。
光差す場所。
闇を消すためではない。
顔が見えるだけの明るさを残すための名。
アビシニアは目を閉じた。
「私は、命じません」
声が震える。
だが、言葉は続いた。
「私は、奪いません。私は、誰かの痛みを燃料にしません」
中継核の光が揺らぐ。
グレイヴが叫ぶ。
「何をしている!」
「この塔に残った最初の役目を、思い出させています」
アビシニアは床に額がつきそうなほど身を低くした。
王女としてではなく。
鍵としてでもなく。
一人の人間として、古い機関に語りかける。
「光は、闇を責めない」
母の声が、胸の奥で響く。
「ただ、そこにいる人の顔を見えるようにする」
中継核の鼓動が乱れた。
どくん。
ど、くん。
どく……。
木箱から漏れる光が、急に弱まる。
封蝋の亀裂が止まった。
セラが制御盤に手を伸ばす。
「今です!」
彼女は複数の金属片を引き抜き、装置の側面にある小さな弁を回した。
甲高い音が響く。
黒い金属箱の震えが止まる。
中継核の光が一度大きく膨らみ、そして、静かに沈んだ。
部屋に暗さが戻る。
完全な闇ではない。
淡い、顔が見える程度の光。
アビシニアは息を吐いた。
全身から力が抜ける。
ミラが駆け寄り、彼女の肩を支えた。
「リーナさん!」
「大丈夫です」
そう言ったが、立てなかった。
カイが周囲を見ている。
レオンハルトはグレイヴを見ている。
ユリアンはまだ兵の前に立っている。
セラは制御盤に手を置いたまま、肩で息をしている。
グレイヴだけが、静かだった。
彼はゆっくりとアビシニアを見た。
「見事です」
その声に、アビシニアはぞっとした。
称賛だった。
本物の称賛。
「やはり、あなたは王冠炉を扱える」
レオンハルトが鋭く言う。
「グレイヴ」
「殿下、ご覧になったでしょう。王女殿下は、機関を破壊せず、暴走もさせず、初期命令へ戻した。これは制御です。適合ではなく、制御です」
「黙れ」
「この力があれば、帝国は救える」
アビシニアは立ち上がろうとした。
ミラが支える。
「私は、誰も支配しません」
グレイヴは穏やかに答えた。
「支配ではありません。救済です」
「あなたの救済は、人の顔を見ない」
その言葉に、グレイヴの表情が初めてわずかに動いた。
怒りではない。
痛みのようなもの。
だが、それは一瞬で消えた。
「顔を見すぎれば、決断は鈍ります」
「顔を見ない決断は、人を壊します」
「壊れた人々を、私は見てきました」
グレイヴの声が低くなった。
「飢えた村。互いの子を奪う母親。自由を与えられた地方領主が、税を三倍にした町。正義を叫ぶ反乱軍が、降伏した兵の目を潰した夜。あなたは知らないでしょう、王女殿下。人は、顔が見えていても残酷になれる」
アビシニアは言葉を失った。
グレイヴの中にも記憶がある。
それは言い訳ではない。
だが、嘘でもない。
彼もまた、何かを見てしまった人間なのだ。
レオンハルトが静かに言った。
「だから、すべての顔を消すのか」
グレイヴはレオンハルトを見た。
「殿下。私はあなたをお守りしたかった」
「私を?」
「あなたは優しすぎる。人を見すぎる。だから、いずれ壊れる。皇帝陛下のように」
レオンハルトの顔が強張った。
「父を語るな」
「私は陛下を尊敬していました」
グレイヴの声には、初めて個人的な響きがあった。
「陛下は人を信じた。地方に裁量を与え、旧王国領に自治を残し、降伏した者を登用した。その結果、何が起きたか。裏切り、腐敗、反乱、飢餓。陛下は一つずつ顔を見て、一つずつ許し、一つずつ背負い、最後に壊れた」
レオンハルトは黙っている。
「私は、殿下に同じ道を歩ませたくなかった」
「だから、私の名で王女を使うのか」
「はい」
グレイヴは答えた。
迷いなく。
「あなたが壊れる前に、私が汚れます」
その言葉は、歪んだ忠誠だった。
アビシニアは、それを理解した。
理解してしまった。
グレイヴは悪だけでできていない。
彼の中には忠誠がある。恐怖がある。過去がある。
彼なりの守りたいものがある。
それでも。
「それは、レオンハルトを見ていません」
アビシニアは言った。
グレイヴの目が彼女へ戻る。
「あなたは殿下を守りたいと言いながら、殿下が何を選ぶかを奪っています。民を守りたいと言いながら、民がどう生きるかを奪っています。私の父の記録を使いながら、父が何を残したかを聞こうとしていません」
グレイヴは黙った。
「あなたは人を見すぎると決断できないと言いました。でも、あなたはもう誰も見ていない。過去に見た地獄だけを見て、今ここにいる人を見ていない」
部屋は静まり返った。
ユリアンが息を呑む音がした。
セラが顔を伏せる。
レオンハルトは、アビシニアを見ていた。
グレイヴはしばらく動かなかった。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「王女殿下」
「はい」
「あなたは、危険です」
「そうでしょうね」
「人に希望を持たせる」
その言葉は、呪いのようだった。
「希望は、飢えた者には残酷です。敗れた者には毒です。若い者には、判断を誤らせる火です」
アビシニアは、ミラの手を感じた。
カイの気配を感じた。
レオンハルトの沈黙を感じた。
セラの震えを、ユリアンの迷いを感じた。
「それでも、希望がなければ、人は練習できません」
グレイヴの眉がわずかに動く。
「練習?」
「間違えて、止められて、謝って、もう一度選び直すことです」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「私は、まだ上手くできません。でも、それを奪われたくありません。誰からも」
中継室の淡い光が、静かに揺れた。
その時、遠くで金属音が響いた。
追手だ。
別の部隊が通路から近づいている。
カイが剣を構え直す。
「長居しすぎた」
セラが制御盤を見る。
「西側の保守通路を開けます。中継核を止めた今なら、地下炉を通らず外へ出られる」
グレイヴが鋭く言う。
「セラ」
「私は技師として、これ以上の起動に反対します」
セラは彼を見た。
「そして、一人の人間として、彼女たちを逃がします」
ユリアンが息を吸った。
「私も、通路を押さえます」
グレイヴは彼を見た。
「反逆だぞ」
ユリアンの顔は青ざめていた。
それでも、彼は退かなかった。
「後で裁かれます」
「今ここで死ぬかもしれん」
「それでも」
ユリアンはミラを一瞬見た。
「今、手を伸ばす相手を間違えたくありません」
ミラの目が潤んだ。
レオンハルトが低く言った。
「ユリアン・ザイツ」
「はい」
「生きて裁きを受けろ」
ユリアンは驚いたように皇太子を見た。
「死んで逃げるな」
その言葉に、ユリアンの表情が崩れそうになった。
「……はい、殿下」
セラが壁の装置を操作する。
石壁の一部が、低い音を立てて開いた。
狭い通路が現れる。
カイがアビシニアを見る。
「行くぞ」
アビシニアは黒い木箱を見た。
父の記録。
まだ開いていない。
今なら、手を伸ばせるかもしれない。
だが、グレイヴも見ている。
追手も来ている。
中継核は止まったばかりで不安定だ。
ミラが何も言わず、彼女の袖に触れた。
アビシニアは息を吸った。
「箱は?」
セラが答えた。
「持って行くには重すぎます。ですが、記録媒体だけなら」
彼女は木箱へ走った。
グレイヴが動く。
カイがその前に立った。
剣がぶつかる。
グレイヴは軍人だった。年齢を感じさせない鋭さで短剣を抜き、カイの刃を受け流す。
「退け」
「退かない」
セラは木箱の側面を開けようとする。
封蝋は割れていない。
鍵が必要だ。
ユリアンが腰の鍵束を投げた。
「三番です!」
セラが受け取り、鍵を差す。
開いた。
木箱の中には、布に包まれた細長い記録筒があった。
白い金属。
ル・メイル王家の印。
そして、父の手で刻まれた小さな文字。
アビシニア。
彼女の名。
視界が滲んだ。
セラが記録筒を掴み、アビシニアへ投げる。
「受け取って!」
アビシニアは両手で受け止めた。
温かかった。
まるで、長い間誰かの胸に抱かれていたように。
その瞬間、グレイヴの短剣がカイの肩をかすめた。
カイが呻く。
レオンハルトがグレイヴの前に立った。
「終わりだ」
「終わりません、殿下」
グレイヴの目は冷たかった。
「あなたが迷う限り、私は終われない」
追手の足音が近づく。
セラが叫ぶ。
「早く!」
カイがレオンハルトの腕を掴む。
「行くぞ!」
レオンハルトは一瞬だけグレイヴを見た。
「私は、あなたを裁く」
グレイヴは静かに答えた。
「その時まで、どうか生きておられますように」
それは皮肉ではなかった。
祈りに近かった。
レオンハルトの顔が歪む。
だが、彼は背を向けた。
四人は通路へ走り込む。
セラが続き、ユリアンが最後に残った。
「ユリアン!」
ミラが叫ぶ。
彼は振り返らずに言った。
「行ってください!」
「でも」
「私は、まだ帝国の兵です」
彼は通路の入口に立ち、追手へ向き直った。
「だから、ここを守ります」
セラが歯を食いしばり、壁の操作盤に手をかける。
「閉じます!」
ミラが泣きそうな顔で叫ぶ。
「生きてください!」
ユリアンは一瞬だけ振り返った。
不器用に、少しだけ笑った。
「はい」
石壁が閉じ始める。
狭まる隙間の向こうで、ユリアンが剣を抜くのが見えた。
今度は、迷わずに。
ただし、人を捕らえるためではなく、逃がすために。
壁が閉じた。
音が消える。
通路には、六人の荒い息だけが残った。
アビシニアは記録筒を胸に抱いた。
父の最後の言葉。
まだ聞いていない。
聞くのが怖い。
だが、今度は一人で聞かなくていいのかもしれない。
ミラが隣にいる。
カイが前を歩いている。
レオンハルトが黙って後ろを見ている。
セラが震える手で通路の次の扉を探している。
帝国の技師。
帝国の皇太子。
王国の王女。
湿地の少女。
元兵士。
誰も完全に正しくない。
誰も完全に悪ではない。
それでも、今は同じ暗い通路を走っている。
白塔の奥で、遠く、警鐘が鳴り始めた。
警鐘は、白塔の石そのものを震わせていた。
高く、短く、途切れない音。
それは侵入者を知らせる鐘であると同時に、塔そのものが目覚めかけているようにも聞こえた。
セラは先頭近くで壁を探りながら進んでいた。
「この保守通路は西の崖下へ抜けるはずです」
「はず、ですか」
ミラが息を切らしながら言う。
「図面では」
カイが低く返した。
「図面にない改修があるんだったな」
「ええ。嫌な言い方をすれば、ここにあるものの半分は、誰かが何かを隠すために作っています」
「良い言い方は?」
「ありません」
セラは短く答えた。
その乾いた返答に、ミラが一瞬だけ目を丸くした。
状況が状況でなければ、少し笑っていたかもしれない。
アビシニアは記録筒を胸に抱いたまま歩いていた。
父の名残。
父の最後の言葉。
自分の名が刻まれた筒。
それは軽いはずなのに、腕の中でひどく重い。
聞きたい。
聞きたくない。
今すぐ開けたい。
でも、開けた瞬間に何かが終わってしまう気がする。
レオンハルトが後方から言った。
「その記録筒は、今は開くな」
アビシニアは振り返らずに答える。
「あなたに言われるまでもありません」
「白塔の残響が強すぎる。ここで開けば、中身が歪む可能性がある」
セラが付け加えた。
「殿下の言う通りです。記録媒体は、静かな場所で開くべきです。できれば中継核から離れた場所で」
「静かな場所」
アビシニアは小さく繰り返した。
そんな場所が、まだ自分に残されているのだろうか。
カイが振り返った。
「残す」
短い言葉だった。
「何をですか」
「静かな場所だ」
アビシニアは一瞬、言葉を失った。
それは約束ではない。
彼は約束を軽く言わない。
けれど、作るつもりでいる言葉だった。
ミラも頷いた。
「私も、そこにいます」
「あなたたちがいると、静かではないかもしれません」
アビシニアは思わず言った。
ミラは少しだけむっとした。
「ひどいです」
「すみません」
カイが前を向いたまま言う。
「静かすぎるよりはいい」
その言葉に、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐにセラが足を止めた。
「待って」
通路の先が二手に分かれている。
左は下り。
右は上り。
どちらも暗い。
セラは壁の刻印を読み、顔をしかめた。
「おかしい。西出口なら右のはずですが、右の刻印は閉鎖路になっています」
「左は?」
「中継核の下部へ戻ります」
カイが舌打ちした。
「戻るのは論外だ」
レオンハルトが壁を見た。
「右はいつ閉じられた」
セラが指で刻印をなぞる。
「八年前」
「王都陥落後か」
「ええ。軍務省の封鎖印です」
レオンハルトの顔が険しくなる。
「グレイヴだな」
「おそらく」
アビシニアは壁に触れた。
冷たい石。
そこに残る記録を探る。
石を積む音。
封鎖する兵の声。
誰かが急いで運ばれる足音。
低い命令。
――白塔西路を閉じろ。
――記録は下へ。生体標本は別室へ。
――皇太子には知らせるな。
生体標本。
アビシニアは手を離した。
「何か、います」
ミラが顔をこわばらせる。
「います?」
「右の通路の奥に、誰かが運ばれた記録があります。八年前。生体標本、と呼ばれていました」
セラの顔色が変わった。
「そんなはずは」
「知っているのですか」
「知りません」
セラは即答した。
だが、その声は揺れていた。
「でも、白塔で生体実験が行われたという噂はありました。技術院では禁じられていたはずです。少なくとも、正式記録には」
カイが低く言う。
「正式記録にない仕事が、黒紐隊の仕事だ」
レオンハルトの顔は白くなっていた。
「私は知らなかった」
「でしょうね」
アビシニアは静かに言った。
彼を責める声ではなかった。
だが、許す声でもなかった。
「知らなかったことも、あなたの責任から完全には外れません」
レオンハルトは唇を引き結んだ。
「分かっている」
「なら、見るべきです」
ミラが不安そうにアビシニアを見る。
「右へ行くんですか」
「出口の可能性もあります。それに、見なければ分からない」
カイは少し考えた。
「危険だ」
「分かっています」
「それでも?」
アビシニアは記録筒を抱く手に力を込めた。
「私は、父の記録だけを見て、この塔で起きたことを見ないわけにはいきません」
セラが小さく言った。
「私も行きます」
全員が彼女を見る。
セラは視線を逸らさなかった。
「技術院の人間として、知らなかったでは済まないことがあります」
カイはレオンハルトを見た。
「殿下は?」
レオンハルトは、少しだけ苦く笑った。
「その呼び方に戻すのか」
「今は役職が必要だ」
「なら、皇太子として行く」
彼は右の閉鎖路を見た。
「知らなかったものを、知らなかったままにしておける立場ではない」
ミラは唇を噛んだ。
「私は……怖いです」
アビシニアは彼女を見る。
「戻ってもいいです」
ミラは首を振った。
「戻る方が怖いです。一人になるので」
「そうですね」
「だから、行きます。怖いと言いながら行きます」
アビシニアは頷いた。
「ありがとう」
カイが封鎖された扉へ近づいた。
古い鉄の閂がはまっている。外側から閉じられているが、錆びている。
「時間はかけられない」
セラが工具帯から細い金属具を取り出した。
「私が開けます。壊すより静かです」
「早くできるか」
「技術者に早くと言うと、たいてい遅くなります」
「今は?」
「急ぎます」
セラは扉の前に膝をつき、鍵穴ではなく、壁の中の小さな制御板を開いた。細い線がいくつも通っている。彼女は迷いなく二本を外し、別の金属片を差し込んだ。
扉の奥で、重い音がした。
封鎖が解ける。
その瞬間、通路の奥から冷たい空気が流れ出した。
湿った匂い。
古い薬品の匂い。
そして、かすかな腐臭。
ミラが口元を押さえる。
アビシニアも息を詰めた。
カイが剣を構える。
「開けるぞ」
扉がゆっくりと開いた。
右の通路は、想像していたより広かった。
壁は白塔の他の部分と違い、後から補強されている。床には金属の溝が走り、ところどころに古い血のような黒い染みが残っていた。
ミラが小さく呟く。
「ここで、何を」
誰も答えられなかった。
通路の先には、小部屋がいくつも並んでいた。
最初の部屋は空だった。
壊れた寝台。
割れた水差し。
壁に刻まれた爪痕。
二つ目の部屋には、記録板が散らばっていた。
セラが一枚を拾い、顔色を変えた。
「被験者番号……旧王国領出身、年齢推定十二」
ミラが震えた。
「子ども?」
セラは答えない。
答えられない。
レオンハルトは記録板を奪うように受け取り、文字を読んだ。
彼の手が震えている。
「誰が許可した」
声が低い。
「誰が、これを」
カイが別の記録板を見つけた。
「八年前から六年前まで続いている。王冠炉の適合者探しだ」
アビシニアの心臓が止まりそうになった。
適合者探し。
王家が絶えたと思われた後、帝国は旧王国領の子どもたちを集め、王冠炉に反応する者を探したのだ。
セラは壁に手をついた。
「知らなかった」
その声は壊れていた。
「私は、中継核の理論計算だけだと。生体共鳴は禁じられていると。技術院では、そう」
カイが冷たく言った。
「記録に残らない場所でやっていた」
セラは反論しなかった。
ミラが三つ目の部屋の前で立ち止まった。
「ここ……」
部屋の中には、小さな木片が落ちていた。
花のような模様が刻まれている。
アビシニアの胸が冷えた。
ニナのものに似ている。
だが、同じではない。
ミラがそれを拾い上げた。
裏に、かすれた文字があった。
リ、セ。
エルの妹。
リセ・ランバル。
時間が止まった。
ミラの唇が震える。
「リセ……」
アビシニアはその木片を見つめた。
エルの声が蘇る。
リセは、十歳です。
生きていれば。
彼女は膝をつき、床に手を置いた。
記録を読む。
冷たい床。
小さな足音。
泣く声。
誰かが妹の名を呼ぶ声ではない。番号を呼ぶ声。
抵抗する子ども。
眠らされる子ども。
光を見る子ども。
そして、一人の少女が、木片を握りしめている。
――これは私の。
――名前を忘れないための。
アビシニアの喉が詰まる。
さらに深く読む。
少女はここにいた。
確かにいた。
だが、死の記録はない。
移送。
六年前、白塔から別の施設へ。
北方。
白い川。
星脈研究棟。
「生きている可能性があります」
アビシニアは言った。
ミラが顔を上げる。
「本当ですか」
「ここでは死んでいません。六年前に、別の施設へ移されています」
カイが低く言う。
「北方の星脈研究棟か」
レオンハルトが振り返る。
「知っているのか」
「噂だけだ。正式には廃止された研究施設だと聞いている」
セラの顔がさらに青くなる。
「星脈研究棟は、技術院の管轄外です。軍務省の極秘施設だったはず」
「だったはず、ばかりですね」
ミラの声には、初めてセラへの怒りが混じっていた。
セラは俯いた。
「ええ」
ミラは木片を握りしめた。
「これを、エルに持って帰らないと」
「はい」
アビシニアは言った。
「必ず」
言いかけて、止まった。
必ずは軽く言わない。
彼女は言い直した。
「持って帰るために、今、生きて出ます」
ミラは頷いた。
その時、遠くから足音が近づいた。
複数。
追手が封鎖扉を抜けてきた。
カイが剣を構える。
「長居しすぎた」
レオンハルトは記録板を数枚取り、懐に入れた。
「これも持つ」
セラが急いで記録板を束ねる。
「証拠になります」
カイが言う。
「証拠を持って死ぬな。必要な分だけだ」
セラは一瞬迷い、三枚だけ選んだ。
残りを見捨てるように床へ置く手が震えていた。
アビシニアはリセの木片をミラに預け、父の記録筒を抱き直した。
その時、奥の小部屋から音がした。
全員が止まる。
かすかな、呼吸のような音。
カイが剣を向ける。
「誰かいる」
セラが青ざめた。
「まさか」
アビシニアは音のする部屋へ近づいた。
ミラが止める。
「危ないです」
「分かっています」
それでも、行かなければならなかった。
部屋の扉は半分壊れていた。
中は暗い。
奥に、古い椅子のような装置がある。
その横に、人が座っていた。
老人ではない。
子どもでもない。
年齢の分からない痩せた女だった。
髪は白く、肌は紙のように薄い。手首には金属の輪がはめられている。目は開いているが、焦点が合っていない。
生きている。
ぎりぎり、生きている。
セラが震える声で言った。
「生体維持装置……まだ動いていたの?」
女の唇が動いた。
音にならない。
アビシニアは近づき、膝をついた。
「聞こえますか」
女の目が、ゆっくりと彼女へ向いた。
琥珀色の瞳。
アビシニアと同じ色。
カイが息を呑んだ。
レオンハルトも動きを止める。
女は、ほとんど空気のような声で言った。
「……ル、メイル」
アビシニアの胸が凍った。
この人は、旧ル・メイル王家に近い血を持つ者かもしれない。
帝国は、王家が全滅した後も、血筋を探し続けた。
そして見つけた者を、ここで使った。
アビシニアは震える手を伸ばした。
「あなたの名前は」
女の目が揺れる。
長い沈黙。
「名前……」
彼女は言った。
「名前は、置いてきた」
ミラが泣きそうになる。
アビシニアは言った。
「では、今は無理に思い出さなくていいです」
女の目が、少しだけ彼女に合った。
「姫……?」
「アビシニアです」
女はかすかに笑った。
「生きて……いた」
その言葉は、マルタの声にも、難民街の人々の視線にも似ていた。
生きていてくれた。
アビシニアは歯を食いしばった。
「一緒に出ましょう」
セラが苦しげに言う。
「維持装置から外せる状態ではありません。無理に動かせば」
「では、どうすれば」
セラは答えられない。
女はゆっくり首を振った。
「行きなさい」
アビシニアの全身が強張った。
十年前の父の声と重なる。
行きなさい。
また。
また置いていくのか。
「いいえ」
アビシニアは言った。
「私はもう、置いていくのは」
女の手が、かすかに動いた。
アビシニアの指に触れる。
冷たい。
「置いていくのではない」
女は息を絞った。
「持っていくの」
「何を」
「名を」
アビシニアは泣きそうになった。
「あなたの名を教えてください」
女は長い間、記憶の底を探るように目を閉じた。
そして、囁いた。
「サリア」
「サリア」
アビシニアは繰り返した。
「サリア・?」
「サリア……ル・ヴェン」
セラが息を呑んだ。
「ル・ヴェンは、ル・メイル王家の分家名です」
アビシニアはサリアの手を握った。
「サリア・ル・ヴェン。覚えます」
サリアは微かに笑った。
「光……まだ」
「はい」
アビシニアの声は震えていた。
「まだ、差しています」
足音が近づく。
カイが叫ぶ。
「もう限界だ!」
ミラが泣きながら言う。
「リーナさん」
アビシニアはサリアの手を離せなかった。
また、選ばなければならない。
ここで全員を危険に晒すか。
サリアを置いていくか。
置いていく。
その言葉が、胸を裂く。
だが、サリアは言った。
「見て」
「何を」
「顔を」
アビシニアは彼女の顔を見た。
痩せ、疲れ、奪われ、それでも生きている顔。
サリアは言う。
「私は、ここにいた」
「はい」
「それで……いい」
「よくありません」
「よくなくても」
サリアはかすかに笑った。
「覚えて」
アビシニアは涙をこらえた。
「覚えます」
ミラも言った。
「私も覚えます」
レオンハルトが静かに言った。
「私も」
セラは泣いていた。
「私も、記録します」
カイが剣を構えながら言う。
「行くぞ!」
アビシニアはサリアの手を、そっと胸元へ戻した。
「必ず、戻ります」
言ってから、彼女は止まった。
軽く言ってはいけない。
けれど、今は言い直せなかった。
サリアは小さく首を振った。
「戻るために……生きなさい」
アビシニアは立ち上がった。
体が重い。
だが、動いた。
サリアを置いていくのではない。
名を持っていく。
顔を見て、名を呼び、忘れない。
それは救いではない。
足りない。
あまりにも足りない。
それでも、今できるすべてだった。
六人は通路へ戻った。
追手が曲がり角に現れる。
カイが先頭を切る。
「走れ!」
一行は、白塔の閉じられた西路を駆け出した。
アビシニアの腕には父の記録筒。
ミラの手にはリセの木片。
レオンハルトの懐には白塔実験の記録板。
セラの手には技術証拠。
それぞれが、誰かの名を抱えて走っている。
背後で、サリアのいる部屋が遠ざかる。
アビシニアは振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまう。
前を向く。
それしかできない。
白塔の警鐘が鳴り続ける中、閉鎖された通路の奥に、かすかな外光が見えた。
それは出口かもしれない。
罠かもしれない。
それでも、今は進むしかなかった。
外光は、出口ではなかった。
それは壁の裂け目から差し込む、夕暮れの最後の光だった。
閉鎖された西路は、崖下へ抜けるはずの通路だった。だが八年前に封鎖された時、出口そのものが崩されていたらしい。岩と鉄骨が折り重なり、人が通れる隙間はない。
ミラが立ち止まり、絶望したように呟いた。
「行き止まり……」
背後からは、追手の足音が近づいている。
警鐘の音は少し遠くなったが、それでも塔全体を震わせ続けていた。白塔の中継核は止めた。だが、軍の警備系統は生きている。グレイヴがすぐに追ってくることはなくても、黒紐隊の兵は来る。
カイは崩落箇所を確認した。
「駄目だ。掘る時間はない」
セラも壁面の刻印を見た。
「ここは本来、外部排気路と接続していたはずです。でも封鎖時に出口を潰している。完全に」
「別の道は」
レオンハルトが問う。
セラは答える前に、通路の天井を見上げた。
「一つだけ」
「言え」
「排気縦坑です。上へ抜けます。ただし、点検用の梯子が残っていればの話です」
「また可能性ですね」
ミラが力なく言った。
カイは崩れた出口から視線を戻した。
「可能性があるなら行く」
セラは壁の一部を叩き、耳を当てた。
「この奥です。ですが、開閉機構が死んでいます」
「壊せるか」
「静かには無理です」
「今さら静かさは要らない」
カイが剣の柄を握り直した。
セラは短く頷き、壁の下部にある古い制御板をこじ開けた。中には緑青を吹いた金属線が絡んでいる。彼女は工具を差し込み、二本の線を切り、別の端子へ繋いだ。
火花が散った。
ミラが肩を跳ねさせる。
壁の奥で、鈍い音がした。
だが、開かない。
セラは歯を食いしばる。
「固着しています」
「退け」
カイが言った。
彼は壁の継ぎ目に剣を差し込み、全身の力でこじった。金属が軋む。レオンハルトも無言で横に立ち、崩れた鉄材を掴んだ。
カイが一瞬だけ彼を見る。
「手を挟むな」
「分かっている」
「皇太子の手は高いんだろう」
「今は値が下がっている」
カイは返事をしなかった。
だが、二人は同時に力を込めた。
金属板が悲鳴のような音を立てて曲がる。
アビシニアも手を伸ばしかけたが、記録筒を抱えた腕が動かなかった。父の記録を落とすわけにはいかない。ミラはリセの木片を握りしめ、周囲を見ている。セラは制御板を押さえながら、二人の動きに合わせて端子を切り替えた。
やがて、壁が少しだけ開いた。
冷たい空気が上から降りてくる。
暗い縦穴。
鉄の梯子が、壁に沿って上へ伸びていた。
一部は錆び、一部は折れている。
セラが覗き込んで言った。
「残っています。ただ、途中で途切れているかもしれません」
「上はどこへ出る」
レオンハルトが聞く。
「塔の西側外壁、旧観測台の下です。外へ出られれば、崖沿いに下りられる可能性があります」
「可能性ばかりだな」
カイが言った。
セラは汗を拭った。
「白塔は、可能性を潰すために作られた施設ですから」
その言葉は皮肉だった。
けれど、誰も笑わなかった。
背後の通路に、声が響いた。
「いたぞ!」
黒紐隊だ。
カイが即座に振り返る。
「登れ。ミラ、先に」
「はい」
ミラは梯子に手をかけた。
だが、すぐに足を止めた。
上は暗く、深い。
梯子は細く、錆びている。
下からは兵が来る。
怖いに決まっている。
アビシニアは声をかけようとした。
その前に、ミラは自分で呟いた。
「怖いです」
そして、登り始めた。
アビシニアは胸を突かれた。
怖いと言いながら、進む。
それは、ミラの強さだった。
次にセラが登る。
「私が途中の梯子を確認します。危険なら声を出します」
「声を出す前に落ちるな」
カイが言う。
「努力します」
セラは淡々と返し、上へ消えた。
アビシニアは記録筒を布で胸に結び直した。リセの木片はミラが持っている。父の記録は自分が持つ。
登ろうとした時、レオンハルトが言った。
「先に行け」
「あなたは?」
「後方を押さえる」
カイが短く言う。
「それは俺の役だ」
「君は登ってから上を押さえろ。下は私が見る」
「殿下に殿を任せる趣味はない」
「今は皇太子ではないと言った」
「都合のいい時だけ降りるな」
二人の視線がぶつかった。
追手の足音が近づく。
アビシニアは、以前なら苛立っていたかもしれない。
こんな時に何をしているのか、と。
だが今は、二人とも逃げたいわけではないと分かる。
カイは守ろうとしている。
レオンハルトは、初めて自分で責任を取ろうとしている。
だから、彼女は命じなかった。
「カイは先に登ってください」
カイが彼女を見る。
「上でミラとセラを守れるのは、あなたです」
「下は」
「レオンハルトが見ます」
レオンハルトの表情がわずかに動いた。
アビシニアは続けた。
「私はその前を登ります。何かあれば、私が止まります」
カイは不満そうだった。
だが、短く頷いた。
「三十数える。来なければ戻る」
「戻らないでください」
「戻る」
「では、二十にしてください」
カイは一瞬だけ黙った。
「二十五」
「分かりました」
レオンハルトが小さく言った。
「交渉が上手いな」
「練習中です」
カイは梯子を登り始めた。
アビシニアも続く。
鉄は冷たく、湿っていた。指先に錆がつく。下を見ると、レオンハルトが剣ではなく、落ちていた鉄棒を構えていた。短剣よりはましだが、兵を相手にするには心もとない。
彼は上を見なかった。
ただ、通路の奥を見ている。
追手が現れた。
三人。
黒紐隊の兵。
その中に、ユリアンはいない。
アビシニアは胸を締めつけられた。
彼がどうなったのか、分からない。
兵の一人が叫ぶ。
「殿下、こちらへ!」
レオンハルトは答えた。
「退け」
「大佐の命令です!」
「私は退けと言った」
「殿下は混乱されています!」
その言葉に、レオンハルトの顔が冷えた。
「私の混乱を、君たちが定義するのか」
兵は怯んだ。
その隙に、レオンハルトが鉄棒で足元の石を打った。
白塔の古い床が割れる。
いや、床そのものが弱っていたのだ。
石片が崩れ、通路の一部が沈む。兵たちが足を止める。
「今だ!」
レオンハルトが叫んだ。
アビシニアは登った。
梯子は途中で一度折れていた。
セラが上から手を伸ばす。
「ここ、足場がありません。右の配管に足をかけてください」
ミラはその上で震えながら待っていた。
「リーナさん、手を」
アビシニアは片手を伸ばす。
その時、胸に結んだ記録筒が梯子に当たり、硬い音を立てた。
下から兵の声。
「王女が記録を持っている!」
レオンハルトが舌打ちした。
兵の一人が沈んだ床を飛び越え、縦坑へ近づく。
レオンハルトが迎え撃つ。
鉄棒と剣がぶつかる。
金属音が縦坑に響く。
アビシニアは上へ進もうとした。
だが、胸の記録筒がまた引っかかった。
布が錆びた突起に絡まっている。
「取れない……」
ミラが上から手を伸ばす。
「待って、私が」
「危ないです」
「でも」
下でレオンハルトが押されている。
カイはさらに上から叫んだ。
「何が起きた!」
セラが答える。
「記録筒が引っかかっています!」
「切れ!」
カイの声。
アビシニアは短剣を持っていない。
レオンハルトが下から叫ぶ。
「筒を捨てろ!」
その言葉に、彼女の心臓が凍った。
父の記録を。
捨てる。
兵の剣がレオンハルトの肩をかすめた。
彼が呻く。
「捨てろ、アビシニア!」
「嫌です!」
声が出た。
子どものような声だった。
父の記録をまた失うなんて。
父の最後の言葉を、まだ聞いてもいないのに。
名前を刻まれた筒を、自分の手で捨てるなんて。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
その瞬間、自分の中の狭さを、彼女ははっきり見た。
父の記録しか見えていない。
下でレオンハルトが傷ついている。
上でミラが震えている。
カイが戻ろうとしている。
セラが梯子を支えている。
それでも、自分は筒を離せない。
これが、自分だ。
未熟で、頑固で、失うことを恐れて、手を開けない。
母なら、何と言うだろう。
父なら。
サリアなら。
――置いていくのではない。
――持っていくの。
――名を。
アビシニアは息を吸った。
父の記録筒に刻まれた自分の名。
アビシニア。
父は、記録だけを残したかったのではない。
娘に、生きてほしかった。
彼女は布をほどこうとした。
手が震える。
できない。
ミラが叫んだ。
「リーナさん!」
アビシニアは目を閉じた。
「ごめんなさい、お父様」
そして、布をほどいた。
記録筒が落ちる。
縦坑の暗闇を、白い金属の筒が回転しながら落ちていった。
下で、兵の一人がそれを取ろうとする。
その前に、レオンハルトが身を投げるように手を伸ばした。
「馬鹿!」
アビシニアが叫ぶ。
レオンハルトは片手で梯子の下部を掴み、もう片方の手で記録筒を抱え込んだ。だが、その体勢は無理があった。兵の剣が迫る。
カイが上から飛び降りた。
正確には、梯子を滑り落ちるように戻った。
「二十五数えてないぞ!」
アビシニアは叫んだ。
「数える前に戻った!」
カイは怒鳴り返しながら、兵の剣を弾いた。
レオンハルトが記録筒を上へ投げる。
「受け取れ!」
アビシニアは反射的に手を伸ばした。
筒は届かない。
だが、ミラが身を乗り出して掴んだ。
「取った!」
その瞬間、梯子が大きく軋んだ。
ミラの体が傾く。
セラが彼女の腰を掴んだ。
「落ちないで!」
「落ちません!」
ミラは泣きそうな声で叫んだ。
アビシニアは記録筒を受け取り直した。
今度は胸に結ばない。
片手に抱える。
片手は梯子。
不安定だ。
だが、手放すことと、抱え込むことの間に、別の持ち方があるのだと分かった。
「上へ!」
カイが叫ぶ。
下では兵が増えている。
レオンハルトは梯子に取りつき、片腕で登り始めた。肩から血が流れている。
アビシニアは上へ進む。
折れた梯子の箇所を越え、配管に足をかける。セラが腕を掴み、ミラが記録筒を支える。
三人で、ようやく上の足場へ転がり込んだ。
そこは狭い横穴だった。
外気が近い。
風の音がする。
カイが続いて上がり、最後にレオンハルトが来る。
彼の肩は赤く染まっていた。
ミラが息を呑む。
「血が」
「浅い」
レオンハルトは言った。
カイが見る。
「浅くない」
「なら、深くはない」
「言い換えで傷は塞がらない」
セラが工具帯から布を取り出した。
「応急処置を」
「後だ」
レオンハルトは拒んだ。
アビシニアは彼の前に立った。
「今です」
レオンハルトは彼女を見る。
「追手が」
「あなたが倒れれば、追手に追いつかれます」
「私は」
「今は皇太子ではないのでしょう」
アビシニアは静かに言った。
「なら、怪我をした一人の人間として、手当てを受けてください」
レオンハルトは言葉を失った。
セラがその隙に肩を縛る。
彼は痛みに顔をしかめたが、声は出さなかった。
ミラが小さく言う。
「痛い時は、痛いって言っていいと思います」
レオンハルトは少しだけ彼女を見た。
「痛い」
短い言葉だった。
ミラは真剣に頷いた。
「はい」
そのやり取りに、アビシニアは胸が少し痛くなった。
敵だった少年が、痛いと言う。
それだけで、彼は少しずつ皇太子という殻から出てくる。
カイが横穴の先を確認した。
「外だ」
六人は身を屈めて進んだ。
横穴の先には、崖の途中に開いた小さな出口があった。白塔の西壁の下、岩場に隠れるような位置だ。外はすでに夜に近い。空には薄い紫が残り、遠くの湿地に霧がかかっている。
風が冷たかった。
だが、白塔の中の空気よりはずっとましだった。
ミラが外へ出た瞬間、膝をついた。
「出られた……」
セラも壁にもたれ、深く息を吐いた。
「まだです。崖を下りなければ」
カイが周囲を見る。
「追手は上から回る。時間は少ない」
レオンハルトは白塔を見上げた。
警鐘はまだ鳴っている。
その白い塔は、夕闇の中で美しく見えた。
美しいまま、何人もの名を奪っていた。
アビシニアは記録筒を抱き、ミラの手にある木片を見た。
リセ。
サリア。
ユリアン。
セラ。
レオンハルト。
グレイヴ。
父。
名が増えていく。
背負いきれないほどに。
だが、名を知らないまま憎むより、ずっと重く、ずっと正しい。
セラが崖沿いの細道を指した。
「あちらへ。旧観測台の保守道です。下れば湿地の北端へ出ます」
「湿地に戻るのですか」
ミラが言う。
「エルたちがいる方角とは少しずれます。でも、合流できる可能性はあります」
アビシニアは頷いた。
「行きましょう」
その時、白塔の上部で光が走った。
全員が振り返る。
塔の頂部、折れた受信環が淡く輝いている。
セラの顔色が変わった。
「まさか」
レオンハルトが低く言う。
「グレイヴか」
「中継核は止めました。なのに、上部受信環が動いている」
「別系統か」
カイが問う。
セラは唇を噛んだ。
「非常時用の直結回路です。王冠炉本体へ信号を送るための」
アビシニアの胸の奥が冷たく鳴った。
王冠炉本体。
白塔は中継点に過ぎない。
グレイヴは、ここで止まるつもりがない。
レオンハルトが言った。
「彼は帝都へ送る気だ」
「何を」
ミラが震える声で聞く。
セラが答えた。
「王女殿下の反応記録です。さっきの制御波形。あれを送れば、王冠炉本体側で模倣起動の試験ができます」
「私がいなくても?」
アビシニアが問う。
セラは苦しげに頷いた。
「完全には無理です。でも、初期起動の鍵にはなるかもしれない」
カイが低く悪態をついた。
「つまり、逃げても終わらない」
レオンハルトは白塔を見上げたまま言った。
「終わらせるには、帝都へ行くしかない」
その言葉は、夜の空気の中で重く落ちた。
帝都。
敵の中心。
皇帝の病床。
軍務省。
王冠炉本体。
グレイヴの背後にいる者たち。
アビシニアは記録筒を握った。
父の声を聞く前に、次の道が見えてしまった。
希望ではない。
逃げ場のない道に近い。
けれど、その道の先にしか、止める場所はない。
ミラが小さく言った。
「エルに、リセのことを伝えないと」
「はい」
アビシニアは答えた。
「サリアのことも」
セラが俯いた。
「白塔のことも、記録しなければなりません」
レオンハルトは静かに言った。
「私も、帝都へ戻る。逃げるためではなく、裁くために」
カイが彼を見た。
「裁かれる側でもあるぞ」
「分かっている」
レオンハルトは目を伏せなかった。
「だから戻る」
アビシニアは彼を見た。
白い肌。
淡い髪。
血に染まった肩。
灰青の瞳。
湿地で出会った時より、彼は弱く見えた。
だが、その弱さの分だけ、人に近くなっていた。
アビシニア自身も同じだった。
父の記録を手放せなかった。
仲間を危険に晒した。
それでも、最後には少しだけ手を開いた。
成長とは、美しく強くなることではないのかもしれない。
自分の醜さを見ても、次の一歩を選ぶことなのかもしれない。
白塔の受信環が、夜空へ淡い光を放った。
それは星に似ていた。
だが、星ではない。
人が作り、人が歪め、人が止めなければならない光。
アビシニアは崖道へ足を踏み出した。
「まず、湿地へ戻ります」
誰も異論を言わなかった。
「エルにリセのことを伝えます。ユリアンがどうなったかも、分かる範囲で探ります。サリアの名を記録します。そして」
彼女は白塔を振り返った。
「父の言葉を聞きます」
その声は震えていた。
だが、逃げてはいなかった。
「その上で、帝都へ行くかどうかを決めます」
レオンハルトが少しだけ目を細めた。
「決めるのは君か」
「私だけではありません」
アビシニアは答えた。
「私だけで決めるなら、また同じことになります」
ル・ヴェン。
宗家を見届け、記録し、時に止める分家。
王だけに決めさせない仕組み。
サリアの名は、すでに彼女の中で意味を持ち始めていた。
「聞くべき人がいます。見るべき顔があります。持ち帰るべき名があります」
カイが頷いた。
「なら急げ。夜の崖道は長い」
ミラがリセの木片を胸に抱いた。
セラは白塔を一度だけ振り返り、唇を噛んだ。
レオンハルトは何も言わず、アビシニアの少し後ろを歩いた。
白塔の警鐘は、まだ鳴っている。
だが、崖下へ降りる道には、夜風が吹いていた。
冷たく、湿っていて、土の匂いがした。
人のいる世界の匂いだった。




