第四章 白塔への道
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翌朝、湿地には薄い霧が残っていた。
夜の湿気を含んだ葦が、朝の光を受けて銀色に濡れている。足元の泥は冷たく、踏むたびに小さく音を立てた。遠くでは水鳥が鳴いている。昨日、兵が踏み込んできた南の道も、今は何事もなかったように静かだった。
だが、静けさは安全を意味しない。
湿地の集落は、朝になる前から動いていた。
サーシャは子どもたちを二組に分け、北の葦小屋と東の水路沿いへ移す準備をしていた。老人たちは荷物を選別している。持っていけるものは少ない。鍋、乾いた布、薬草、少しの干し魚、名札代わりの木片。
家財というには貧しすぎる。
けれど、それを捨てる時の手つきは、誰もが慎重だった。
失うものが少ない者ほど、残ったものを雑には扱えない。
アビシニアは、その光景を黙って見ていた。
王宮が焼けた夜、彼女は何も持ち出せなかった。
母の櫛も、父の印章も、幼い頃に使っていた銀の杯も。
すべて炎の中に置いてきた。
あの時、失ったものは多すぎて、何を惜しめばよいのか分からなかった。
だが、今ここで、ニナが割れた木の人形を布に包んでいる姿を見ると、失うということは数ではないのだと思う。
その人にとって、それが何であったか。
それだけなのだ。
「それも持っていくのですか」
アビシニアが尋ねると、ニナは人形を胸に抱えた。
「持っていく」
「大事なもの?」
「うん」
「誰にもらったのですか」
ニナは少し考えた。
「分からない」
アビシニアは首を傾げた。
「分からない?」
「ずっと持ってた。だから、大事」
その答えに、アビシニアは小さく頷いた。
由来が分からなくても、大事なものはある。
名も、記憶も、国も。
リーナという名も、そうだった。
今ではもう、正しく説明できない。
ただ、大事な名だったことだけは覚えている。
ニナはアビシニアを見上げた。
「王女様も、大事なものある?」
アビシニアは答えに迷った。
「あります」
「持ってる?」
「いいえ」
「なくした?」
「置いてきました」
「取りに行く?」
その無邪気な問いに、胸が痛んだ。
取りに行けるものなら、どれほどよかっただろう。
「取りには行けません」
「じゃあ、どうするの」
アビシニアは、少し考えた。
「覚えています」
ニナは人形を抱え直した。
「覚えてたら、なくしてない?」
「完全には、なくしていないと思います」
ニナは納得したような、していないような顔をした。
「じゃあ、私のことも覚えて」
「ニナ」
アビシニアは名を呼んだ。
「覚えます」
ニナは満足したように頷き、走っていった。
その背中を見送っていると、エルが近づいてきた。
肩には包帯が巻かれている。サーシャにきつく巻かれたらしく、動かすたびに顔をしかめていた。
「ニナは誰にでもああです」
「人に覚えてもらうのが好きなのですね」
「違います」
エルは少し間を置いた。
「忘れられるのが嫌いなんです」
アビシニアは彼を見る。
エルはニナの背中を見ていた。
「あの子、たぶん本当の名前じゃないです。ここに来た時、自分の名前を言えなかった。だからサーシャが仮にニナって呼んだら、それからずっとニナになった」
「本人は、それを知っているのですか」
「たぶん。時々、違う名前で呼ばれた夢を見るって言ってます」
アビシニアは胸が詰まった。
名を失うこと。
それは死とは違う。
だが、確かに何かが消える。
「だから、覚えてって言うんです」
エルは言った。
「誰かが覚えていれば、自分がここにいたことになるから」
アビシニアは頷いた。
「教えてくれてありがとう」
エルは少し居心地悪そうにした。
「別に」
それから、彼は顔を上げた。
「白塔に行くんですよね」
「はい」
「戻ってきますよね」
その問いは、昨日よりもずっと静かだった。
怒りではない。
責めでもない。
ただ、確認だった。
「戻ります」
アビシニアは答えた。
エルの眉がわずかに動く。
彼女はすぐに続けた。
「戻るつもりです。ですが、必ずと言えるほど、状況は簡単ではありません」
「そこまで正直に言わなくても」
「軽く言うなと言われました」
エルは苦い顔をした。
「言いましたけど」
「だから、軽くは言いません」
アビシニアは彼を見た。
「私は戻るために行きます。あなたとリセの記録を探すために。ニナの名を忘れないために。ミラを置き去りにしないために。カイの話を聞くために」
エルは少しだけ目を伏せた。
「俺のためだけじゃないんですね」
「はい」
「その方が、少し信用できます」
アビシニアは意外に思った。
「なぜですか」
「俺のためだけに命をかけるって言われたら、重すぎます」
エルは肩をすくめた。
「たくさん理由がある方が、戻る理由も多いでしょう」
その言葉に、アビシニアは小さく笑った。
「そうですね」
エルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その時、サーシャの声が飛んだ。
「エル、荷物を持つなと言っただろう!」
エルは慌てて背中の袋を下ろした。
「軽いです!」
「その肩で軽い重いを決めるな!」
「はい!」
エルは不満そうに返事をし、アビシニアに小声で言った。
「行くなら今です。あの人、次は包帯を増やします」
「それは避けたいですね」
二人は少しだけ笑った。
その笑いの後、アビシニアは出発の支度へ向かった。
持っていくものは少ない。
乾いた布。
水袋。
小さな黒パン。
サーシャが持たせてくれた薬草。
そして、ガランから託された古い方位盤。
方位盤は壊れている。針は北を指さず、時々、ありもしない方向へ震える。
「神代機関の残響に反応する」
カイはそう説明した。
「白塔に近づけば、針が乱れる。逆に、乱れすぎる場所には近づくな」
「なぜですか」
「人の記憶と物の記録が混ざる。君には危険だ」
アビシニアは方位盤を見つめた。
「あなたは、私の力について詳しすぎます」
カイは少し沈黙した。
「詳しいわけではない。知っていることがあるだけだ」
「それを、白塔へ向かう道で聞いても?」
カイは彼女を見た。
「聞けば、君は俺をもっと憎む」
「昨日も同じことを言いました」
「事実だからだ」
「それでも、聞きます」
カイは視線を外した。
「なら、道中で話す」
それは約束だった。
短く、重い約束。
ミラは小屋の前で、自分の荷を何度も確認していた。布、針、糸、薬草、サーシャから渡された小さな刃物。
刃物を持つ手が震えている。
アビシニアは近づいた。
「怖いですか」
ミラは頷いた。
「怖いです」
「持たなくてもいいのですよ」
「持ちます」
ミラは刃物を布で包み、袋に入れた。
「使いたいわけではありません。でも、持たないことを選ぶのと、持てないのは違うと思うので」
アビシニアはその言葉を静かに受け止めた。
ミラもまた、変わろうとしている。
守られるだけの子どもではなく、自分で選ぶ者へ。
「分かりました」
アビシニアは言った。
「ただし、使う時は一人で決めないでください」
ミラが少し笑った。
「リーナさんもです」
「はい」
二人は頷き合った。
サーシャが最後に三人を呼んだ。
「道は北の葦原から古い塩道へ出る。昼は動かず、夕方から歩きなさい。白塔には明後日の夜までに着けばいい」
カイが頷く。
「追手は」
「皇太子が今日一日は止めると言ったなら、表向きの捜索は緩む。ただし、軍部の犬は別だよ」
「分かっている」
サーシャはアビシニアを見た。
「王女様」
「はい」
「あなたが白塔で何を話すか、私は知らない。けれど、忘れないで」
「何をですか」
サーシャは集落を振り返った。
子どもたちが荷を抱え、老人が杖をつき、エルがニナに何かを言い聞かせている。
「ここにいる者たちは、あなたの物語の背景じゃない」
アビシニアは息を止めた。
サーシャは続けた。
「王女と皇太子が何を語ろうが、王冠炉がどうなろうが、今日の夕飯が必要な子はいる。熱を出す子もいる。喧嘩する子もいる。怖くて泣く子もいる」
その言葉は、静かだが鋭かった。
「大きな話をする時ほど、小さい顔を忘れないで」
アビシニアは深く頷いた。
「忘れません」
サーシャは目を細めた。
「軽く聞こえるね」
アビシニアは一瞬言葉に詰まり、それから言い直した。
「忘れそうになったら、ミラに止めてもらいます。カイにも。戻ったら、あなたにも叱ってもらいます」
サーシャは少しだけ笑った。
「それならいい」
彼女は小さな袋を差し出した。
「薬草。苦いけど効く」
「ありがとうございます」
「礼は戻ってからでいい」
その言い方に、アビシニアは胸が熱くなった。
戻ってから。
その言葉を、誰かが当たり前のように言ってくれる。
それだけで、帰る場所が少しだけ形を持つ。
出発の時、エルは少し離れたところに立っていた。
アビシニアが近づくと、彼は視線を逸らした。
「見送りは嫌いです」
「私も得意ではありません」
「じゃあ、早く行ってください」
「はい」
「でも」
エルは言いにくそうに続けた。
「戻ってきたら、水桶の持ち方、もう一度教えます」
アビシニアは微笑んだ。
「お願いします」
「今度はこぼさないでください」
「努力します」
「努力じゃなくて、練習です」
「はい。練習します」
エルはようやく彼女を見た。
「アビシニア」
初めて、彼は王女様ではなく名を呼んだ。
「リセを、忘れないで」
「リセ・ランバル」
アビシニアは答えた。
「忘れません」
エルは頷いた。
それ以上は言わなかった。
ニナが走ってきて、ミラに小さな木片を渡した。
「これ、持ってて」
ミラが受け取る。
木片には、不器用な線で花のようなものが彫られていた。
「いいの?」
「戻ったら返して」
ミラは目を丸くし、それから笑った。
「分かった。必ず返すね」
ニナは満足そうに頷いた。
「必ずは軽く言っちゃだめって、エルが言ってた」
ミラは困った顔をした。
アビシニアが横から言う。
「では、返すために大切に持っています」
ニナは少し考えた。
「それならいい」
カイが短く言った。
「行くぞ」
三人は湿地の北へ向かった。
サーシャ、エル、ニナ、子どもたち、老人たち。
その全員の視線を背に受けながら、アビシニアは歩き出した。
足元の泥は相変わらず不安定だった。
だが、昨日より少しだけ歩き方が分かる。
地面を信じすぎない。
疑いすぎても進めない。
一歩ずつ、重さを確かめる。
それは人との関わりにも似ていた。
湿地を抜ける頃、朝の光は少し強くなっていた。
葦の穂先に溜まった水滴が光を受け、無数の小さな灯のように揺れている。
ミラが振り返った。
「見えなくなりますね」
集落はもう、葦の中に隠れ始めていた。
アビシニアも振り返る。
湿地の家々は、地図に載らない。
帝国の記録にも、王国の古い詩にも残らないかもしれない。
だからこそ、覚えなければならない。
彼女は胸の中で名を数えた。
エル。
リセ。
ニナ。
サーシャ。
ガラン。
ミラ。
カイ。
名を数えることは、重かった。
けれど、その重さがあるから、自分は白塔へ行くのだと思った。
古い塩道へ出ると、空が広くなった。
湿地の匂いが薄れ、代わりに乾いた草と石の匂いがする。道は長く北へ伸びている。遠く、まだ見えない白塔の方角で、壊れた方位盤の針がかすかに震えた。
カイがそれを見て言った。
「近づいている」
アビシニアは方位盤を握った。
「白塔へ」
「そして、皇太子へ」
ミラが不安そうに二人を見る。
アビシニアは空を見上げた。
雲は薄く、光は柔らかい。
母の言葉が、また胸に浮かぶ。
光は、闇を責めない。
ただ、そこにいる人の顔を見えるようにする。
ならば、自分は白塔で、レオンハルトの顔を見なければならない。
皇太子としてではなく。
敵としてだけでもなく。
同じ時代に傷ついた、一人の少年として。
そして、それでも言わなければならない。
あなたの痛みは分かる。
けれど、人から選ぶ苦しみを奪ってはいけない。
道は北へ続いていた。
三人の影が、朝の光の中で細く伸びる。
その先に、白い塔はまだ見えない。
だが、針は震えている。
神代の残響が、彼女たちを呼んでいた。
塩道は、かつて人の往来で磨かれた道だった。
湿地から北へ抜けると、地面は次第に固くなり、泥の匂いは薄れていった。代わりに、乾いた草と石灰の匂いが風に混じる。道の両脇には低い灌木が続き、ところどころに崩れた石標が立っていた。
石標には、古いル・メイル文字が刻まれている。
だが、半分以上は風雨で削れ、読めなくなっていた。
アビシニアは足を止めた。
「これは」
カイも振り返る。
「塩税の境界標だ。王国時代のものだろう」
アビシニアは石に触れた。
冷たい。
指先に、微かな記録が流れ込む。
荷車の軋む音。
塩袋を背負う男たちの汗。
通行税をめぐる言い争い。
子どもが石標の陰で昼寝をしている気配。
誰かが小刀でこっそり刻んだ名。
その名は、もう読めない。
けれど、そこにいた。
「王国は、ここにもあったのですね」
アビシニアは呟いた。
ミラが不思議そうに尋ねる。
「王都以外にも、という意味ですか」
「ええ」
答えてから、自分の言葉の狭さに気づいた。
王国とは、王宮と旗と王冠のことだと思っていた。
少なくとも、十年の間、彼女の記憶の中のル・メイルはそうだった。
燃える王都。
倒れた近衛。
父の背。
母の声。
王冠炉の白い光。
けれど、ここにあった王国は違う。
塩を運ぶ道。
税に不満を言う商人。
昼寝をする子ども。
石標に名を刻む誰か。
そういうものもまた、国だった。
「私は、ル・メイルを王宮の中でしか覚えていなかったのかもしれません」
ミラは石標を見た。
「でも、王女様なら仕方ないのでは」
「仕方ないで済ませるには、私は長く生き残りすぎました」
ミラは返事に迷った。
カイが低く言った。
「十年は長い。だが、子どもが世界を広げるには短いこともある」
アビシニアは彼を見た。
「あなたは、子どもの頃から世界を知っていたのですか」
「いいや」
カイは歩き出した。
「俺は、自分の村と兵舎しか知らなかった」
その言葉に、アビシニアは黙って続いた。
道は北へ伸びている。
白塔までは、まだ遠い。
昼近くになると、三人は塩道から外れ、低い丘の陰で休んだ。周囲には背の低い草が広がり、遠くに崩れた水車小屋が見える。昔はこの辺りにも村があったのだろう。今は煙も人影もない。
カイは見張りに立とうとしたが、アビシニアが止めた。
「一刻だけ、私が見ます」
「君は休め」
「あなたもです」
「俺は慣れている」
「その言葉は、もう聞きました」
カイは黙った。
ミラが小さく言う。
「順番にしましょう。私も見ます」
カイは即座に首を振った。
「君は寝ろ」
ミラはむっとした。
「私も同行者です」
「見張りには向かない」
「それは分かっています。でも、眠っている人を起こすくらいはできます」
カイは何か言おうとして、やめた。
アビシニアはそのやり取りを見ていた。
以前なら、自分が決めていただろう。
ミラは休ませる。
カイは見張らせる。
自分は必要なら起きている。
だが、それでは同じだ。
「では、こうしましょう」
アビシニアは言った。
「最初はカイ。次に私。最後にミラ。ミラは見張りというより、私たちを起こす役です。異変を見つけようとしなくていい。怖いと思ったら、すぐ起こしてください」
ミラは頷いた。
「はい」
カイは少し不満そうだったが、反対はしなかった。
「分かった」
短い休息が始まった。
ミラはすぐには眠れないようだったが、疲れが勝ったのか、やがて荷物を抱えたまま目を閉じた。アビシニアも横になったが、眠気は来なかった。
空は高い。
薄い雲が流れている。
王宮の南庭から見た空も、こんな色だった気がする。
幼い頃、父はよく空を見ていた。
王宮の人々は、父を「光差す王」と呼んだ。
ル・メイルの名にふさわしい王だと。
けれど、アビシニアの記憶に残る父は、眩しい王ではない。
遠くを見る人だった。
会議の後、父はよく庭の端に立ち、王都の外を見ていた。幼いアビシニアが駆け寄ると、父はいつも少し遅れて気づいた。
「アビー」
父だけが、そう呼んだ。
母は「アビシニア」と名を丁寧に呼んだ。
侍女たちは「姫様」と呼んだ。
教師たちは「王女殿下」と呼んだ。
父だけが、時々、短く「アビー」と呼んだ。
その呼び方が好きだった。
けれど、父はいつも忙しかった。
抱き上げてくれる腕は強かったが、すぐに離れた。
約束した散歩は、何度も会議で流れた。
眠る前に来てくれると言って、来られない夜も多かった。
幼い彼女は、それを寂しいと思った。
けれど、王の娘だから我慢しなければならないと思った。
今なら分かる。
あの寂しさは、王女としてではなく、娘としてのものだった。
そして、十年前の夜。
父は彼女を逃がした。
説明もなく。
抱きしめる時間も短く。
ただ、低い声で言った。
「行きなさい」
アビシニアは泣いた。
「父上は?」
父は答えなかった。
「すぐに行きなさい」
それが最後だった。
彼女はずっと、その言葉を王の命令として覚えていた。
だから生き延びた。
だから隠れた。
だからリーナになった。
だから記録を書いた。
けれど今、ふと思う。
あの時、父は命令したのだろうか。
それとも、懇願したのだろうか。
行きなさい。
生きなさい。
私を置いていってくれ。
そう言っていたのではないか。
胸の奥が痛んだ。
まだ分からない。
父を王としてしか知らない自分には、まだその答えを受け取るだけの広さがない。
けれど、いつか知りたいと思った。
父が何を考え、何を恐れ、何を諦めたのか。
王としてではなく。
自分の父として。
「眠れないのか」
カイの声がした。
アビシニアは起き上がった。
「見張りは?」
「周囲に動きはない」
「なら、あなたが休む番です」
「その前に、水を飲め」
彼は水袋を差し出した。
アビシニアは受け取る。
「ありがとうございます」
カイは少し離れて座った。
「父君のことを考えていたのか」
アビシニアは驚いた。
「なぜ」
「顔が、遠くを見ていた」
「そんなに分かりやすいですか」
「最近は」
アビシニアは苦く笑った。
「それは、良いことなのでしょうか」
「隠す必要が減ったなら、悪くない」
彼らしい答えだった。
アビシニアは水を飲み、少し迷ってから言った。
「父は、私にとって分かりにくい人でした」
カイは黙って聞いている。
「王としては尊敬していました。国を守ろうとした人だと思っていました。けれど、娘としては、いつも少し遠かった」
言葉にすると、胸の奥に残っていたものが形を持ち始めた。
「私は、父を責めてはいけないと思っていました。王だったから。国のために死んだから。私を逃がしてくれたから」
「責めたいのか」
カイの問いは静かだった。
アビシニアはすぐには答えられなかった。
「分かりません」
「そうか」
「でも、置いていかれたことを、悲しいと思っていたのだと思います」
それは、初めて口にする言葉だった。
父を責めるのではない。
父を否定するのでもない。
ただ、娘として悲しかった。
その事実を認めるだけで、胸が少し震えた。
カイは長い間黙っていた。
やがて言った。
「父親というものは、分かりにくい」
アビシニアは彼を見る。
「あなたの父君も?」
カイは少しだけ目を細めた。
「俺の父は炭焼きだった」
それは、彼が初めて自分の家族のことを話した瞬間だった。
アビシニアは何も言わず、続きを待った。
「山の村で、炭を焼いていた。無口な男だった。俺に何かを教える時も、言葉ではなく、手元を見せるだけだった」
カイの声は淡々としている。
「子どもの頃は、嫌いだった。何を考えているか分からなかった。褒めもしない。怒る時も短い。母が死んだ時も、泣かなかった」
「泣かなかったのですか」
「俺の前では」
カイは乾いた草を一本折った。
「後で知った。夜、炭窯の裏で一人で泣いていたらしい。村の婆さんが見ていた」
アビシニアは何も言えなかった。
カイは続けた。
「俺は十五で村を出た。帝国軍に入れば飯が食えると聞いたからだ。父は止めなかった。餞別もなかった。ただ、出発の朝に古い手袋を渡した」
「手袋?」
「炭焼き用の厚い手袋だ。軍では使えない。邪魔だった。俺は途中で捨てた」
カイの声は変わらない。
けれど、その無表情の下にあるものが、アビシニアには少しだけ見えた気がした。
「後で分かった。あれは父が使っていた一番古い手袋だった。破れていたが、何度も直してあった。たぶん、俺に何かを渡したかったのだろう。言葉を知らなかったから」
アビシニアは静かに言った。
「後悔していますか」
「している」
即答だった。
「だが、取り戻せない」
風が草を揺らした。
遠くで鳥が鳴く。
カイは空を見なかった。
「父は、俺が軍にいる間に死んだ。村は徴発で荒れ、炭窯も壊された。俺は帰らなかった。帰れなかった。軍務があったからではない。父に何を言えばいいか分からなかったからだ」
アビシニアは胸が重くなった。
カイの過去は、罪だけでできているわけではない。
彼にも父がいた。
捨てた手袋があった。
帰れなかった村があった。
それを知っても、彼の罪が消えるわけではない。
けれど、彼を「元帝国兵」という一語だけで見ることは、もうできない。
「話してくれて、ありがとうございます」
カイは首を振った。
「礼を言われる話ではない」
「それでも」
「君が父君を考えていたからだ」
彼は短く言った。
「父親は、死んでから分かることが多すぎる」
その言葉は、重かった。
アビシニアは水袋を握った。
「私は、父を知るのが怖いです」
「なぜ」
「もし父が、私を王冠炉の鍵として残したのなら」
声が小さくなる。
「私は、父を憎むかもしれません」
カイは少し考えた。
「憎んでもいいのではないか」
アビシニアは驚いた。
「いいのですか」
「父だからといって、すべて許さなければならないわけではない」
その言葉は、彼自身にも向けられているようだった。
「憎むことと、知ろうとすることは両立する」
アビシニアは、しばらく黙っていた。
憎むことと、知ること。
許さないことと、顔を見ること。
光は、闇を責めない。
だが、闇をなかったことにするわけでもない。
「あなたは」
アビシニアは尋ねた。
「父君を憎んでいますか」
カイは長い沈黙の後、答えた。
「昔は」
「今は?」
「分からない」
彼はわずかに苦く笑った。
「君の言葉が移った」
アビシニアは少しだけ笑った。
「それは、良いことなのでしょうか」
「たぶん、面倒なことだ」
「面倒なことは、増えますね」
「生きていると増える」
その言葉に、アビシニアは不意に胸が温かくなった。
慰めではない。
希望を語ったわけでもない。
ただ、生きていると面倒なことが増える。
それは、死者にはもう増えないものだった。
やがて、カイは立ち上がった。
「休む。次は君の番だ」
「はい」
彼は少し歩きかけて、立ち止まった。
「アビシニア」
「何ですか」
「父君のことを知る時、一人で読むな」
アビシニアは息を止めた。
カイは振り返らない。
「記録は、読む者の都合のいい形で刺さる。君は自分を責める方向へ読みすぎる」
「あなたもです」
「そうだな」
彼は短く認めた。
「だから、一人で読むな」
アビシニアは静かに頷いた。
「分かりました」
カイは草の上に横になった。
すぐには眠らなかったが、目を閉じた。
アビシニアは見張りに立った。
丘の上から見える道は、静かだった。
白塔はまだ見えない。
だが、方位盤の針は時折、震える。
神代の残響が近づいている。
アビシニアは石標の方を見た。
読めなくなった名。
捨てられた手袋。
父の遠い背中。
母の光の言葉。
人は、誰かを完全には分からない。
親であっても。
子であっても。
敵であっても。
同行者であっても。
だからこそ、知ろうとし続けるしかない。
分からないまま、顔を見る。
分からないまま、名を呼ぶ。
分からないまま、選ぶ。
それが、人の時代なのかもしれない。
昼の光が、丘の草を静かに照らしていた。
昼の見張りは、思っていたよりも難しかった。
敵が来るかもしれない。
そう思っている間は、まだよかった。
けれど何も起きない時間が続くと、目は同じ景色を何度もなぞり、耳は風の音と草の音を聞き分けられなくなる。緊張は刃のように鋭いままではいられない。少しずつ鈍り、眠気に似た重さへ変わっていく。
アビシニアは、膝の上で方位盤を握っていた。
針は時折、小さく震える。
白塔はまだ見えない。
だが、近づいている。
近づいているのは白塔だけではない。
レオンハルト。
王冠炉。
父の真実。
自分の力。
そして、自分がまだ見ないふりをしているもの。
彼女は、眠るカイを見た。
彼は横になっていても、完全には力を抜いていない。剣の柄に手が届く位置で眠り、風の向きが変わるたびにわずかに眉を動かす。
眠ることにさえ、用心が染みついている。
その姿を見て、アビシニアはふと思った。
この人は、いつからこうなったのだろう。
生まれた時からではないはずだ。
炭焼きの村で、父の手元を見ていた少年。
古い手袋を捨てた少年。
軍に入れば食べられると信じた少年。
命令に従うことで、自分の居場所を得た少年。
その少年が、いつ、カイ・オルヴァになったのか。
「見すぎです」
背後から小さな声がした。
アビシニアは驚いて振り返った。
ミラが起きていた。
「眠っていたのでは?」
「少しだけ。目が覚めました」
ミラは目をこすりながら、隣に座った。
「カイさんを見ていましたね」
「見張りです」
「カイさんは敵ではありません」
「完全にそう言い切れるほど、私はまだ」
「そういう意味ではありません」
ミラは少し口を尖らせた。
「リーナさんは、考えている時、相手をじっと見ます」
アビシニアは返答に困った。
「失礼でしたか」
「少し」
「気をつけます」
ミラは膝を抱えた。
「でも、カイさんはたぶん気づいています」
「起きていますか」
「寝ているふりが上手そうです」
その言葉に、アビシニアは思わずカイを見た。
カイは動かない。
本当に眠っているのか、眠っていないのか分からない。
ミラは小さく笑った。
「分かりにくい人ですね」
「ええ」
「お父様も、そうだったのですか」
その問いは、唐突ではなかった。
先ほどの会話を、ミラは半分聞いていたのかもしれない。あるいは、アビシニアの顔から察したのかもしれない。
アビシニアは空を見た。
「分かりにくい人でした」
「怖かったですか」
「いいえ」
少し考え、言い直す。
「怖くはありませんでした。ただ、遠かった」
「遠い?」
「同じ部屋にいても、父は国のことを考えていました。私を見ている時も、私の向こうに何かを見ているようでした」
「それは、寂しいですね」
ミラはすぐに言った。
その単純な言葉に、アビシニアは胸を突かれた。
寂しい。
そう言えばよかったのだ。
王の娘だから。
国のためだから。
父は忙しいから。
自分は我慢すべきだから。
そういう理由をいくつも重ねる前に、ただ寂しかった。
「はい」
アビシニアは静かに言った。
「寂しかったのだと思います」
ミラは頷いた。
「私も、母が働きに出る時、寂しかったです」
「お母様は?」
「洗濯場で働いていました。朝早く出て、夜遅く戻ってきました。疲れているのに、私が話しかけると笑ってくれました。でも、時々、返事をしながら眠っていました」
ミラは少し笑った。
「その時は怒りました。私の話を聞いていないって」
「今は?」
「今は、疲れていたんだなって思います。でも、その時の私は怒っていました」
アビシニアはミラを見た。
ミラは続けた。
「母が悪いわけじゃないのに、怒っていました。母が大変なのも分かっていたのに、私を一番に見てほしかった」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
若い娘が親に抱く、理屈では片づかない感情。
尊敬している。
感謝している。
分かっている。
それでも、自分を見てほしかった。
アビシニアは、初めて自分の寂しさが特別なものではないのだと知った。
王女だからではない。
滅んだ国の娘だからでもない。
ただ、子どもが親に対して持つ、当たり前の願いだった。
「私は、父に怒ってもよいのでしょうか」
ミラは少し考えた。
「怒ってもいいと思います」
「亡くなった人に?」
「はい」
「国のために死んだ人に?」
「それでも」
ミラは小さな声で言った。
「怒る気持ちは、勝手に出てくるものだから」
アビシニアは黙った。
勝手に出てくるもの。
彼女はずっと、感情は選ぶものだと思っていた。
王女としてふさわしい感情。
生き残りとして許される感情。
憎むべき相手。
悼むべき死者。
守るべき記憶。
だが、感情はそんなに整っていない。
父を愛している。
尊敬している。
会いたい。
なぜ置いていったのかと怒っている。
それらは同時に存在してよいのかもしれない。
「ミラ」
「はい」
「あなたは、母君に怒っていたことを後悔していますか」
ミラは長く黙った。
風が草を揺らす。
「少し」
彼女は答えた。
「でも、怒っていた私も、母を好きでした」
アビシニアは息を呑んだ。
ミラは続ける。
「だから、怒っていたことだけで、母への気持ちが嘘になるわけじゃないと思います」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
父に怒っていても、父を愛していたことは嘘にならない。
父を知りたいと思っても、置いていかれた痛みは消えない。
それでいいのかもしれない。
「ありがとう」
アビシニアは言った。
ミラは少し照れたように笑った。
「私、役に立ちましたか」
「とても」
「よかった」
ミラはほっとした顔をした。
それから、少し迷って続けた。
「私は、時々リーナさんが羨ましいです」
アビシニアは意外だった。
「私が?」
「はい。リーナさんには、思い出せるお母様の言葉があります。お父様のことも、まだ知る手がかりがある。私は、母の声を少しずつ忘れています」
ミラの声は小さかった。
「顔は覚えています。でも、声が曖昧になります。怒っていた声は覚えているのに、優しい声が遠くなるんです。それが嫌です」
アビシニアは胸が痛んだ。
記憶を持つ者の苦しみ。
記憶が薄れる者の苦しみ。
どちらが重いなど、言えない。
「ミラのお母様の名前を、聞いてもいいですか」
ミラは顔を上げた。
「エレナです」
「エレナ」
アビシニアは繰り返した。
「エレナ・?」
「姓はありません。難民街では、みんな母のことをエレナと呼んでいました」
「では、エレナ」
アビシニアはもう一度言った。
「覚えます」
ミラの目が潤んだ。
「ありがとうございます」
「声までは、覚えられませんが」
「名前だけでも」
ミラは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「名前だけでも、少し残る気がします」
アビシニアは頷いた。
その時、草の上でカイが身じろぎした。
「……見張り中に話しすぎだ」
やはり起きていた。
ミラがびくっとする。
「起きていたんですか」
「途中から」
アビシニアは少しだけ目を細めた。
「どこからですか」
「見すぎです、のあたりから」
「ほとんど最初ですね」
「眠りが浅い」
カイは起き上がり、周囲を見た。
「異常はない」
ミラが小さく言った。
「カイさんも、何か話してください」
カイは眉を寄せた。
「なぜ」
「私たちばかり話したので」
「必要ない」
「同行者です」
ミラは真面目に言った。
「リーナさんが言っていました。役割を持つなら、知ることも必要です」
アビシニアは少し驚いた。
ミラは、彼女の言葉を自分のものとして使っている。
カイは困ったように沈黙した。
「俺の話は、楽しくない」
「楽しい話を聞きたいわけではありません」
ミラはアビシニアの言葉をそのまま返した。
アビシニアは思わず口元を緩めた。
カイは彼女を見た。
「笑うな」
「すみません」
「笑っている」
「少し」
カイはため息をついた。
だが、立ち去らなかった。
彼は草の上に座り直し、しばらく考えた後、言った。
「帝国軍に入った時、俺は自分が選んだと思っていた」
アビシニアとミラは黙って聞いた。
「村に残れば飢える。軍に入れば食える。だから選んだ。そう思っていた」
「違ったのですか」
ミラが尋ねる。
「選択肢が少なすぎる時、人はそれを選択と呼んでいいのか分からなくなる」
その言葉に、アビシニアはレオンハルトを思い出した。
選ぶ権利で死ぬのは、いつも弱い者です。
カイは続ける。
「軍に入れば、命令がある。考えなくていい。誰を敵と呼ぶか、どこへ行くか、何を守るか、全部上が決める。最初は楽だった」
「楽」
アビシニアは繰り返した。
「そうだ。自分で決めなくていいのは、楽だ」
カイの声は苦かった。
「だが、その楽さに慣れると、自分が何をしているのか分からなくなる」
ミラは膝を抱えた。
「怖いです」
「怖いことだ」
カイは認めた。
「俺は、命令に従った。従わない選択もあったはずだ。だが、当時の俺には見えなかった。見ようともしなかった」
アビシニアは彼を見る。
「それが、あなたの罪ですか」
カイは頷いた。
「一部だ」
「一部」
「もっとある」
彼は淡々と言った。
ミラの顔が強張る。
アビシニアも、胸が冷えるのを感じた。
もっとある。
その言葉は、いつか聞かなければならない。
だが今、すべてを聞く時ではないのかもしれない。
カイは続けた。
「だから、皇太子の言うことは分かる。選ぶ苦しみをなくしたいという考えは、弱い者にとって甘く聞こえる」
アビシニアは静かに言った。
「あなたも、そう思ったことがありますか」
「ある」
カイは即答した。
「命令だけがあればいいと思った。迷わなくて済む。責任を持たなくて済む。失敗しても、自分だけのせいではないと思える」
「でも、それは」
「逃げだ」
カイは自分で言った。
「だが、逃げたくなるほど苦しい時、人は逃げを救いと呼ぶ」
その言葉は、アビシニアの中で重く響いた。
レオンハルトの考えは、ただの暴論ではない。
人が選ぶことに疲れた時、誰かに決めてほしいと願う。
傷つきたくない時、感情を鎮めてほしいと願う。
憎みたくない時、憎しみを消してほしいと願う。
それは弱さだ。
だが、誰にでもある弱さだ。
だからこそ危険なのだ。
「私は、白塔で何を言えばよいのでしょう」
アビシニアは呟いた。
ミラが言った。
「今、全部決めなくてもいいと思います」
「でも」
「レオンハルト殿下も、きっと全部を決めて待っているわけではないと思います」
アビシニアはミラを見る。
ミラは自信なさげに続けた。
「だって、話ができると思ったから呼んだんですよね。なら、殿下も何か聞きたいのかもしれません」
カイが低く言う。
「あり得る」
「そうなのですか」
アビシニアが問う。
「皇太子は、自分の答えに疑いがないように見せる。だが、本当に疑いがない者は、相手を白塔へ呼ばない」
カイは方位盤を見た。
「彼は、君を試す。同時に、自分も試されたいのかもしれない」
アビシニアは黙った。
レオンハルト。
同年代の少年。
帝国の皇太子。
人に諦め、全てを背負おうとしている者。
彼もまた、父の子なのだろうか。
帝国皇帝の息子。
軍部の期待を背負う者。
人の時代に絶望した少年。
彼にも、分かりにくい父がいるのかもしれない。
そう考えた瞬間、敵の輪郭が少しだけ人の形を帯びた。
それは危険なことでもあった。
人として見れば、憎しみは鈍る。
だが、人として見なければ、彼の思想を止める言葉も見つからない。
アビシニアは母の言葉を思い出した。
光は、闇を責めない。
ただ、そこにいる人の顔を見えるようにする。
顔を見るとは、許すことではない。
言いなりになることでもない。
相手が何を失い、何を恐れ、何を諦めたのかを見ること。
その上で、違うと言うこと。
「白塔では」
アビシニアは静かに言った。
「まず、聞きます」
ミラが頷く。
カイも黙っている。
「レオンハルト殿下が何を恐れているのか。なぜ人に諦めたのか。なぜ王冠炉でなければならないのか」
「その後は?」
カイが問う。
「その後で、言います」
アビシニアは方位盤を握った。
「私は、人が選ぶことを諦めたくないと」
風が止んだ。
一瞬、道の先が静まり返る。
その静けさの中で、方位盤の針が大きく震えた。
カイが立ち上がる。
「伏せろ」
三人は低く身を沈めた。
丘の向こう、塩道の北側に、影が動いた。
馬ではない。
徒歩の兵でもない。
荷車だった。
二台。
帝国の補給車に見える。だが旗は掲げていない。車輪には布が巻かれ、音を殺している。護衛は四人。いずれも軽装で、正規の哨戒兵とは少し違う。
カイの目が鋭くなる。
「軍部の私兵だ」
アビシニアは息を潜めた。
「皇太子の兵では?」
「違う。あれは軍務省直轄の黒紐隊だ。表に出ない仕事をする」
ミラが小さく震える。
「こちらを探しているんですか」
「おそらく」
荷車は塩道をゆっくり進んでいる。
白塔の方角へ。
カイは低く言った。
「まずいな」
「何がですか」
「皇太子が軍部を完全には止められていない」
アビシニアは荷車を見つめた。
「荷は?」
「分からない」
その時、方位盤の針が激しく揺れた。
アビシニアの胸の奥で、王冠炉の残響がかすかに鳴る。
荷車の中に、何かがある。
神代機関の部品。
あるいは、王冠炉に関わるもの。
カイも気づいた。
「白塔へ運ぶつもりか」
ミラが息を呑む。
「どうしますか」
アビシニアは答えられなかった。
白塔へ行く。
レオンハルトと話す。
その前に、軍部が何かを運び込もうとしている。
罠かもしれない。
見過ごせば、白塔で何が起きるか分からない。
だが、荷車を追えば危険が増す。
三人だけで、黒紐隊に近づくのは無謀だ。
アビシニアは、喉の奥が乾くのを感じた。
また選択だ。
誰かに決めてもらいたくなるほど、重い選択。
カイが彼女を見た。
「決めろ、とは言わない」
その言葉に、アビシニアは彼を見返した。
カイは続けた。
「だが、時間はない」
ミラが小さく言った。
「私は、荷車を見たいです」
アビシニアは驚いた。
「ミラ?」
「怖いです。でも、あれが白塔へ行くなら、知らないまま会う方が怖いです」
ミラの手は震えていた。
けれど、目は逸らしていなかった。
カイが言う。
「近づくなら、戦わない。見るだけだ。荷車の中身を確認し、無理なら引く」
アビシニアは方位盤を見た。
針は北を指さず、荷車の方へ震えている。
神代の残響。
王冠炉の影。
「分かりました」
彼女は言った。
「追います。ただし、戦いません。見て、知って、白塔へ行くために」
カイは頷いた。
「なら、塩道には出ない。丘の裏を回る」
ミラは荷物を背負い直した。
アビシニアも立ち上がる。
心臓が早い。
怖い。
けれど、今の彼女は、その怖さを恥じなかった。
怖いまま、選ぶ。
迷ったまま、進む。
それが人の時代なら、自分はその不完全さから逃げない。
三人は、低い草の中を身を伏せながら進み始めた。
白塔へ向かう道は、また少し形を変えた。
そしてその先で、彼女たちはまだ知らなかった。
荷車の中に積まれているものが、王冠炉の部品だけではないことを。
そこに、十年前の王都陥落の夜から失われていた、父王の最後の記録が隠されていることを。
荷車は、塩道を外れなかった。
二台とも、一定の間隔を保って北へ進んでいる。車輪には厚い布が巻かれ、馬ではなく、二人ずつの男が前後から押していた。道の起伏に合わせて、荷台が鈍く揺れる。
護衛は四人。
前に二人、後ろに二人。
いずれも軽装だが、動きに隙がない。鎧の上から黒い紐を斜めに結んでいる。遠目には飾りにも見えるが、カイはそれを見て表情を硬くした。
「黒紐隊は、正規軍の記録に残らない」
彼は低く言った。
三人は塩道の西側、低い丘の裏を進んでいた。草の丈は膝ほどしかなく、身を伏せても完全には隠れない。少しでも立てば、道から見える。
ミラは息を殺しながら尋ねた。
「記録に残らない、とは?」
「捕虜の移送、証拠品の回収、口封じ。表の部隊が扱えない仕事をする」
ミラの顔が青ざめる。
「口封じ……」
「今は考えるな。足元を見ろ」
カイの声は冷静だった。
アビシニアは、方位盤を握りしめていた。
針は北ではなく、荷車の方を指している。しかも、近づくほど震えが強くなる。壊れた金属片が、内側から叩かれているようだった。
神代機関の残響。
王冠炉と同じ系統の何か。
そして、もう一つ。
彼女の胸の奥で、微かな記録の気配が呼応している。
人の声ではない。
物に染み込んだ記憶。
長い時間、閉じ込められていたもの。
アビシニアは足を止めた。
カイがすぐに振り返る。
「どうした」
「荷車の中に、記録があります」
「分かるのか」
「はい」
彼女は喉を鳴らした。
「古いものです。十年より前かもしれない。でも、十年前の強い断絶がある」
カイの目が鋭くなる。
「王都陥落の夜か」
アビシニアは答えなかった。
答えたくなかった。
だが、胸の奥はすでに知っていた。
あの夜のものだ。
父に関わるものかもしれない。
そう思った瞬間、周囲の音が遠のいた。
草の擦れる音も、ミラの息遣いも、カイの低い警告も、すべてが薄くなる。
荷車だけが見えた。
あの中に、父の最後があるかもしれない。
十年間、彼女の中で凍っていた問い。
なぜ私を逃がしたのですか。
何を知っていたのですか。
私は娘だったのですか。
それとも、王冠炉の鍵だったのですか。
答えが、あの荷車の中にある。
アビシニアは一歩踏み出した。
カイが腕を掴んだ。
「待て」
「確認します」
「近すぎる」
「今しかありません」
「見つかる」
「それでも」
カイの手に力が入った。
「アビシニア」
その呼び方は、警告だった。
だが彼女の耳には届ききらなかった。
「離してください」
「駄目だ」
「父の記録かもしれないのです」
声が震えた。
自分でも分かった。
「十年、私は何も知らずに生きてきました。父が何を考えていたのか、私をどう見ていたのか、何も」
「だからこそ今ではない」
「今を逃せば、二度と」
「生きていれば次がある」
「次があると、誰が保証するのですか!」
声が大きくなった。
ミラが息を呑む。
カイの目がわずかに動く。
その瞬間、塩道の方で護衛の一人が立ち止まった。
「今、声がした」
アビシニアの血の気が引いた。
カイは即座に彼女の肩を押し下げた。
「伏せろ」
三人は草の中に身を沈める。
だが、遅かった。
黒紐隊の一人が道を外れ、こちらへ歩いてくる。
足音は慎重だった。
ただの物音ではないと判断している。
ミラの手が震え、袋の紐を握りしめる。
アビシニアは息を止めた。
自分のせいだ。
自分が声を上げた。
自分が踏み出した。
自分の父への感情で、二人を危険に晒した。
兵は近づいてくる。
草を分ける音。
十歩。
八歩。
六歩。
カイが腰の短剣に手を伸ばす。
アビシニアはそれを見た。
殺すことになる。
自分のせいで。
胸の奥で、王冠炉の律動が鳴った。
今なら止められる。
兵の意識に触れ、違う音を聞いたと思わせる。
恐怖を流し込み、戻らせる。
記憶を曇らせる。
ほんの少しだけなら。
誰も傷つかない。
その誘惑が、また来た。
アビシニアの指先が震える。
兵の気配が近づく。
ミラが小さく、ほとんど息だけで言った。
「リーナさん」
アビシニアは彼女を見た。
ミラは怯えていた。
だが、その目は逃げていなかった。
「怖いです」
約束の言葉だった。
あなたが怖くなった時、私は怖いと言います。
その一言で、アビシニアは踏みとどまった。
人ではなく、地面へ。
草。
石。
古い塩道の乾いた土。
荷車の車輪が削った跡。
彼女は手を地面に押しつけた。
記録が流れ込む。
この丘の下には、昔の排水溝がある。
塩道を守るために掘られた浅い石組み。今は半分崩れ、草に隠れている。
兵の足元、その少し先。
アビシニアは小さく囁いた。
「カイ、右前の石を」
カイは即座に理解した。
彼は短剣を抜かず、手元の小石を拾って、右前方へ低く投げた。
石は草の陰で乾いた音を立てた。
兵がそちらを見る。
一歩踏み出す。
その足が、崩れた排水溝の縁を踏み抜いた。
「っ!」
兵は膝まで落ち、体勢を崩した。
大きな悲鳴ではない。
だが、十分な音だった。
塩道の護衛が振り返る。
「どうした!」
落ちた兵が苛立った声を返す。
「古い溝だ! 足を取られた!」
「周囲を見ろ」
「分かってる!」
兵は周囲を睨んだ。
三人は草の中で息を殺す。
アビシニアの心臓は、喉元で鳴っていた。
兵の視線が、すぐ近くを通る。
見つかる。
そう思った瞬間、道の向こうで荷車の前輪が石に乗り上げ、荷台が大きく傾いた。
布で覆われた荷がずれた。
黒い箱が、半分だけ露出する。
箱の側面に、古いル・メイル王家の封蝋が残っていた。
砕けかけた、光差す王冠の印。
アビシニアの呼吸が止まった。
父のものだ。
間違いない。
彼女は反射的に身を起こしかけた。
その腕を、今度はミラが掴んだ。
小さな手だった。
力は弱い。
けれど、必死だった。
「だめです」
ミラの声は震えていた。
「今、行ったらだめです」
アビシニアはミラを見た。
ミラは泣きそうな顔をしていた。
「知りたいのは分かります。でも、今行ったら、私たちも、リーナさんも、戻れなくなります」
戻れなくなる。
その言葉が、湿地の集落を思い出させた。
エル。
ニナ。
サーシャ。
リセの記録。
水桶の練習。
戻ってから、という約束。
父の記録だけが世界ではない。
彼女は、ようやく息を吐いた。
「……分かりました」
その声は、自分でも驚くほどかすれていた。
カイが短く言う。
「下がる」
三人は草の中を後退した。
一歩ずつ。
音を立てず。
視線を荷車から引き剥がしながら。
アビシニアは何度も振り返りそうになった。
黒い箱。
王家の封蝋。
父の記録かもしれないもの。
それが遠ざかる。
胸の奥が裂けるようだった。
だが、彼女は戻らなかった。
ミラの手が、まだ袖を掴んでいたから。
丘の裏まで下がったところで、カイがようやく立ち止まった。
「走るな。足跡が乱れる」
彼は冷静だった。
しかし、声の奥には怒りがあった。
アビシニアはそれを聞き取った。
三人はさらに距離を取り、崩れた水車小屋の陰まで移動した。そこまで来て、ようやくミラが膝をついた。
「怖かった……」
彼女の声は小さかった。
アビシニアは何か言おうとした。
謝らなければならない。
だが、言葉が出ない。
カイが周囲を確認し、戻ってきた。
「追っては来ていない。荷車は進んだ」
その言葉に、アビシニアの胸がまた痛んだ。
進んだ。
父の記録が、遠ざかった。
カイは彼女を見た。
「なぜ止まらなかった」
その問いは静かだった。
怒鳴られるより、重かった。
アビシニアは唇を噛んだ。
「父の記録だと思いました」
「それは聞いた」
「知りたかったのです」
「それも分かる」
カイの声は低い。
「俺が聞いているのは、なぜ俺たちの声が聞こえなくなったかだ」
アビシニアは何も言えなかった。
カイは続けた。
「君は、皆で決めると言った。力を使いそうになったら止めてほしいと言った。だが、自分の痛みに触れた瞬間、全部忘れた」
言葉が刺さる。
その通りだった。
「私のせいです」
「そうだ」
カイは否定しなかった。
ミラが顔を上げる。
「カイさん」
「これは言わなければならない」
彼はミラを見ずに言った。
「君の目的が正しくても、君が傷ついていても、君が王女でも、判断を誤れば人が死ぬ」
アビシニアは拳を握った。
「分かっています」
「分かっていない」
カイの声が少し強くなった。
「今、君は分かったところだ」
その言葉に、アビシニアは息を呑んだ。
反論したかった。
私は分かっていた。
危険も、責任も、恐怖も。
そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
分かっていたなら、声を上げなかった。
分かっていたなら、ミラに袖を掴ませなかった。
分かっていたなら、カイに短剣を抜かせかけなかった。
彼女は地面を見た。
「はい」
その一言を出すのに、時間がかかった。
「今、分かりました」
ミラが小さく息を吐いた。
アビシニアは彼女の前に膝をついた。
「ミラ」
ミラは顔を上げる。
目元が赤い。
「怖いと言ってくれて、ありがとう」
ミラは首を振った。
「私も怖くて、それしか言えませんでした」
「それで止まりました」
「でも、私、リーナさんの袖を掴んで」
「掴んでくれてよかった」
アビシニアは深く頭を下げた。
「あなたを危険に晒しました。ごめんなさい」
ミラは驚いたように固まった。
「頭を上げてください」
「いいえ。これは必要です」
王女としてではなく。
同行者として。
友として。
「私は、あなたに止めてほしいと言いました。なのに、あなたが止めなければならない状況を作りました」
ミラは唇を震わせた。
「私、怒ってもいいですか」
「はい」
「怖かったです」
「はい」
「置いていかれると思いました」
「はい」
「父王様の記録が大事なのは分かります。でも、私たちもここにいます」
その言葉に、アビシニアは胸を押さえられたようだった。
私たちもここにいます。
サーシャの言葉が重なる。
ここにいる者たちは、あなたの物語の背景じゃない。
彼女はまた、同じ過ちをしかけたのだ。
父の記録。
王国の謎。
白塔。
王冠炉。
大きなものに目を奪われて、目の前のミラを背景にしかけた。
「ごめんなさい」
アビシニアはもう一度言った。
ミラは涙を拭いた。
「次は、もっと早く止まってください」
「はい」
「私が怖いと言う前に」
「努力します」
ミラは少しだけ眉を寄せた。
「練習です」
その言葉に、アビシニアは一瞬だけ目を見開いた。
エルの言葉だ。
水桶を二人で持つ時の。
アビシニアは、かすかに笑った。
「はい。練習します」
カイは黙って二人を見ていた。
やがて、彼は荷車が去った方角へ目を向けた。
「収穫はあった」
アビシニアは顔を上げる。
「収穫?」
「荷車の一台に、王家の封蝋があった。もう一台には、神代機関の部品。白塔で何かを起動するつもりだろう」
「レオンハルト殿下が?」
「分からない」
カイは首を振った。
「皇太子の指示か、軍部が勝手に動いているのか。だが、白塔に向かう理由は増えた」
アビシニアは拳を握った。
「追いますか」
「追わない」
カイは即答した。
「荷車は塩道を進む。俺たちは別路を使う。白塔の手前で合流地点を見張る」
「でも、箱が」
言いかけて、アビシニアは止まった。
まただ。
焦りが、視野を狭める。
彼女は息を吸い、吐いた。
「……すみません。続けてください」
カイはわずかに頷いた。
「荷車を直接奪うのは無理だ。だが、白塔に運び込まれるなら、どこかで下ろす。その時の方が確認しやすい」
ミラが言った。
「それまでに、こちらも準備できます」
「そうだ」
カイは地面に簡単な線を描いた。
「白塔の南には旧検問所がある。荷車はそこで一度止まるはずだ。俺たちは西側の崩れた水路を通る。見つかりにくいが、足場は悪い」
アビシニアは頷いた。
「分かりました」
カイは彼女を見る。
「今度は、見ても飛び出すな」
「はい」
「父君の記録があっても」
胸が痛む。
だが、彼女は逃げなかった。
「はい」
「君が飛び出せば、俺は止める。必要なら力ずくで」
「お願いします」
カイの目が少し揺れた。
「怒らないのか」
「怒るかもしれません」
アビシニアは正直に言った。
「でも、止めてください。怒りながらでも、後で感謝します」
ミラが小さく笑った。
「それ、難しいですね」
「私もそう思います」
カイはため息をついた。
「面倒な同行者だ」
「お互いに」
アビシニアが言うと、カイは一瞬だけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
三人は水車小屋の陰で短く休み、再び歩き出した。
道は塩道から外れ、西の崩れた水路へ向かう。
アビシニアは、荷車が消えた方角を一度だけ振り返った。
父の記録は遠ざかった。
だが、完全に失ったわけではない。
そして、今ここにいる二人を失わずに済んだ。
その重さを、彼女は胸に刻んだ。
知りたいという痛みは消えない。
父への怒りも、寂しさも、問いも消えない。
けれど、それだけで動いてはいけない。
自分の痛みが正しいからといって、他人を巻き込んでよい理由にはならない。
それを、彼女は今日、少しだけ学んだ。
白塔はまだ見えない。
だが、空の色が変わり始めていた。
午後の光が傾き、草の影が長く伸びる。
その影の中を、三人は進む。
迷いながら。
失敗しながら。
それでも、次は少しだけ早く止まれるように。
練習するように、生きながら。
崩れた水路へ向かう途中、アビシニアは一度だけ南を振り返った。
湿地はもう見えない。
葦の海も、サーシャの小屋も、子どもたちの声も、遠い霧の向こうに沈んでいる。
エルは今ごろ、傷の痛みに顔をしかめながらも、子どもたちの避難を手伝っているだろう。
ニナに無理をするなと怒られ、サーシャにはもっときつく叱られているかもしれない。
そう思うと、胸の奥に小さな痛みと、戻らなければならない理由が一つ増えた。
白塔へ向かう道には、アビシニアとカイ、そしてミラの足音だけが続いていた。
三つの足音。
その少なさが、かえって道の広さを際立たせている。
王宮を逃げた夜、アビシニアは大勢に守られていた。近衛兵、侍女、記録官、名も知らない兵たち。けれど、その多さの中で彼女は何も選べなかった。ただ押し出され、隠され、運ばれた。
今は違う。
たった三人。
それぞれに怖れがあり、迷いがあり、傷がある。
それでも、自分たちで歩いている。
それが頼りないのか、強いのか、まだアビシニアには分からなかった。
水路は、塩道から西へ外れた低地にあった。
かつては灌漑用だったのだろう。石で組まれた浅い溝が、草と土に半ば埋もれながら北へ続いている。ところどころ崩れ、雨水が溜まり、小さな虫が水面を揺らしていた。
カイが先頭に立ち、石組みの状態を確かめながら進む。
「足を置く前に、石の色を見ろ」
彼は振り返らずに言った。
「濃い石は水を吸っている。踏むと滑る。苔がある場所は避けろ。崩れた縁には体重をかけるな」
ミラが慎重に頷く。
「はい」
アビシニアも足元を見た。
湿地とは違う。
だが、ここも地面を信じすぎてはいけない場所だった。
一歩ごとに、石がわずかに鳴る。
水路の底に残った水が、靴裏で濁る。
草の陰から、古い陶片が顔を出す。
この道もまた、かつて誰かが使っていた。
水を引き、畑を潤し、村を支えた道。
今は、追われる者が身を隠す道になっている。
「ここにも村があったのですね」
ミラが小さく言った。
水路の向こうに、崩れた石垣が見えた。
屋根はなく、壁だけが残っている。壁の一部には、煤の跡があった。
カイが答える。
「白塔の南にあった水車村だ。王国時代は塩道と湿地の中継地だった」
「帝国に焼かれたのですか」
ミラの声は硬かった。
カイは少し沈黙した。
「王国軍が退いた後、略奪が起きた。帝国兵だけではない。周辺の飢えた者たちも入った」
ミラは黙った。
アビシニアも、言葉を失った。
滅ぼした者。
奪った者。
飢えた者。
逃げた者。
線は、いつも思うほど単純ではない。
だが、単純でないからといって、痛みが薄くなるわけでもない。
アビシニアは崩れた家の壁を見た。
そこには、誰かが白い石で描いた小さな花の跡が残っていた。雨で流れ、形は崩れている。それでも、花だと分かった。
ニナの木片に彫られていた花を思い出す。
人は、なぜ花を描くのだろう。
焼けた壁にも。
名を失った木片にも。
子どもの手の届く高さにも。
「リーナさん」
ミラが呼んだ。
「はい」
「大丈夫ですか」
「ええ」
答えた後で、アビシニアは少しだけ言い直した。
「大丈夫でいようとしています」
ミラは頷いた。
「それなら、分かります」
カイが前方で手を上げた。
二人はすぐに足を止める。
水路の先、崩れた石橋の向こうに、白塔へ続く旧検問所が見えた。
検問所といっても、今は門柱が二本残っているだけだった。かつては塩税を徴収するための小さな詰所があったのだろう。屋根は落ち、壁は半分崩れている。
その手前に、荷車が止まっていた。
二台。
黒紐隊の兵たちが周囲を確認している。荷を押していた男たちは、水袋を回し飲みしていた。護衛の一人が検問所の奥へ入り、何かを調べている。
カイは低く言った。
「予想通りだ。ここで一度止まる」
アビシニアは水路の縁に身を伏せた。
距離はある。
だが、先ほどより荷車がよく見える。
一台目には、黒い金属の箱が積まれていた。布で覆われているが、角の部分が露出している。箱の表面には、神代文字に似た細い刻線が走っていた。
方位盤の針が激しく震える。
二台目。
アビシニアの視線は、そこへ吸い寄せられた。
黒い木箱。
角は金具で補強され、古い封蝋が残っている。
光差す王冠の印。
父の印。
胸が、また痛んだ。
だが今度は、足は動かなかった。
ミラの手が、そっと彼女の袖に触れている。掴むほどではない。ただ、そこにいると知らせるように。
アビシニアは小さく息を吐いた。
「見えます」
カイが問う。
「封蝋か」
「はい。王家のものです」
「中身は?」
「まだ分かりません。記録の気配はあります。ただ……」
「ただ?」
アビシニアは眉を寄せた。
「父のものだけではないかもしれません」
方位盤とは別に、胸の奥へ届く記録の気配が複数ある。
強いもの。
薄いもの。
途中で断ち切られたもの。
封じられたもの。
人の声が重なっているようで、まだ言葉にはならない。
ミラが囁いた。
「開けられますか」
カイが首を振る。
「今は無理だ」
「でも、見ているだけでは」
「見ているだけで十分なこともある」
カイの声は低い。
「数、配置、荷の種類、動き。奪えなくても、情報は取れる」
アビシニアは頷いた。
今度は焦らない。
見て、知る。
そのために来た。
黒紐隊の兵が一人、荷車の後ろへ回った。腰の鍵束を取り出し、黒い木箱の錠を確かめている。完全に開けるつもりはないらしい。ただ、封が破れていないか確認している。
その時、検問所の奥から別の声がした。
「急げ。日没までに塔の下へ入れる」
低く、よく通る声。
アビシニアの背筋が冷えた。
カイの顔も変わった。
「知っている声ですか」
ミラが尋ねる。
カイは短く答えた。
「グレイヴ大佐」
「誰ですか」
「王都陥落時の帝国軍作戦参謀。今は軍務省の特務監察官だ」
アビシニアは息を止めた。
王都陥落。
その言葉だけで、胸の奥が冷たくなる。
検問所の影から、一人の男が出てきた。
灰色の外套。
細い体。
髪は銀に近い灰色。
年齢は五十前後だろうか。
彼は兵たちの動きを見て、わずかに眉をひそめた。
「荷を雑に扱うな。特に二台目は、皇太子殿下の目に触れる前に傷を増やすな」
皇太子殿下。
アビシニアは目を細めた。
では、レオンハルトもこの荷の存在を知っているのか。
それとも、見せられる予定なのか。
グレイヴ大佐は黒い木箱に近づき、手袋をはめた指で封蝋をなぞった。
「十年も隠しておきながら、今になって出てくるとはな」
その声には、嘲りに似たものがあった。
「ル・メイルの亡霊は、よほど諦めが悪い」
アビシニアの手が地面を掴んだ。
カイが小さく言う。
「動くな」
「分かっています」
声は震えていた。
だが、動かなかった。
グレイヴは続けた。
「殿下は話し合いを望んでおられる。だが、話し合いだけで炉は動かん。必要なものは、必要な時に揃えておくべきだ」
護衛の一人が問う。
「王女が来なかった場合は」
「来る」
グレイヴは即答した。
「父親の影を見せれば、子は来る。まして、十年も答えを与えられなかった娘ならな」
その言葉は、刃のようだった。
アビシニアは奥歯を噛んだ。
読まれている。
自分の痛みが。
父への問いが。
知りたいという渇きが。
利用されている。
ミラの手が袖に触れる。
今度は、少し強く。
アビシニアは目を閉じかけ、すぐに開いた。
見なければならない。
怒りに目を閉じてはいけない。
グレイヴは木箱から離れた。
「白塔地下の中継室は、今夜中に調整する。王冠炉本体との接続は不完全でよい。王女の共鳴があれば、十分に試せる」
ミラが息を呑んだ。
カイの目が鋭くなる。
試す。
アビシニアはその言葉を胸の中で繰り返した。
レオンハルトは話ができると言った。
だが軍部は、彼女を試験材料として見ている。
「殿下はお許しになるでしょうか」
別の兵が尋ねた。
グレイヴは薄く笑った。
「殿下はお優しい。だからこそ、我々が現実を整える」
その言い方に、アビシニアはレオンハルトの孤独を見た気がした。
皇太子でありながら、彼の周囲にも彼の意志を利用する者がいる。
彼が人に諦めた理由の一端が、そこにあるのかもしれない。
だが、同情している場合ではない。
グレイヴは明確に危険だ。
彼はアビシニアの痛みを理解しているのではない。
利用できる構造として見ている。
「カイ」
アビシニアは囁いた。
「白塔地下の中継室とは」
「王冠炉の遠隔共鳴施設だ。完全な起動はできないが、反応を見ることはできる」
「私が近づけば?」
「君の力を測られる」
「測られるだけですか」
カイは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
ミラが小さく言う。
「行くのをやめますか」
アビシニアは、すぐには答えられなかった。
やめたい。
父の記録が罠なら。
白塔が試験場なら。
軍部が待っているなら。
行かない方がいい。
だが、行かなければ、グレイヴは次の手を打つ。
湿地が焼かれるかもしれない。
レオンハルトの真意も分からない。
父の記録も奪われたままになる。
カイが言った。
「選択肢は三つだ」
彼は地面に指で短く線を引く。
「一つ。引き返す。湿地に戻り、全員で逃げる。白塔は捨てる」
アビシニアは黙って聞く。
「二つ。予定通り白塔へ行く。ただし、軍部の罠を前提に動く」
「三つ目は?」
「荷を奪う」
ミラの顔が強張る。
カイはすぐに続けた。
「最も危険だ。成功率は低い。だが、父君の記録と神代部品を一度に奪える可能性がある」
アビシニアは木箱を見た。
父の記録。
喉が渇く。
だが、今度はそれだけで決めない。
「ミラ」
彼女は言った。
ミラが驚いたように顔を上げる。
「あなたは、どう思いますか」
「私ですか」
「はい」
ミラは黒紐隊を見た。
怖がっている。
当然だ。
それでも、彼女は逃げずに考えた。
「荷を奪うのは、怖すぎます。三人では無理だと思います」
アビシニアは頷く。
「カイは?」
「同意だ」
カイは短く答えた。
「今ここで奪うのは無謀だ。成功しても逃げ切れない」
「では、一つ目か二つ目」
ミラが小さく言った。
「引き返したら、エルたちは?」
「逃げる時間は作れるかもしれない」
カイが言う。
「だが、白塔で何が行われるかは分からないままだ」
アビシニアは深く息を吸った。
自分の中の声が、父の記録へ走れと言っている。
もう一つの声が、逃げろと言っている。
けれど、今は三人で考えている。
そのことが、彼女を辛うじて中央に留めていた。
「予定通り行きます」
彼女は言った。
ミラの手がわずかに震える。
アビシニアは続けた。
「ただし、白塔を話し合いの場とは考えません。罠であり、試験場であり、同時に情報を得る場所と考えます」
カイが頷いた。
「妥当だ」
「レオンハルト殿下には、軍部の動きを知っているか確認します。知らなければ、彼の足元が崩れている。知っているなら、彼も同じ罠の一部です」
ミラが言う。
「父王様の記録は?」
アビシニアは木箱を見た。
胸が痛い。
「今は奪いません」
その言葉を口にするだけで、喉が焼けるようだった。
「白塔で機会があれば確認します。でも、記録だけを目的にしません」
ミラは少しだけ安心したように頷いた。
「はい」
カイが低く言う。
「よく止まった」
アビシニアは首を振った。
「ミラが聞いてくれたからです。あなたが選択肢を出してくれたからです」
「それでいい」
カイは言った。
「一人で止まれない時は、他人を使え」
「使う、という言い方は」
「頼れ、では君は遠慮する」
アビシニアは少しだけ苦笑した。
「あなたは時々、言葉が乱暴です」
「事実を短く言っている」
「それを乱暴と言います」
ミラが小さく笑った。
その笑いはすぐに消えたが、張り詰めた空気を少しだけ緩めた。
検問所では、荷車が再び動き始めていた。
グレイヴ大佐は先頭に立たず、二台目の木箱のそばを歩いている。まるで、箱そのものを監視しているようだった。
やがて荷車は北へ進み、白塔の方角へ消えていった。
三人はしばらく動かなかった。
完全に気配が遠ざかってから、カイが立ち上がる。
「日没までに西側の尾根へ出る。そこから白塔が見える」
アビシニアも立ち上がった。
膝が少し震えている。
ミラがそれに気づき、何も言わずに水袋を差し出した。
「ありがとうございます」
水はぬるかった。
けれど、喉を通ると少しだけ息が戻った。
再び歩き出す前に、アビシニアは検問所の跡を見た。
あそこに父の記録があった。
手を伸ばせば届きそうだった。
だが、届かなかった。
いや、届かせなかった。
それは敗北ではない。
少なくとも、今はそう思いたかった。
水路沿いの道は、さらに荒れていった。
石組みは崩れ、草は深くなり、時折、水のない溝が突然足元に口を開ける。カイが先に進み、危ない場所を示す。ミラは慎重に足を運び、アビシニアはその後ろを歩いた。
夕方が近づくにつれ、空は淡い金色に染まった。
その光の中で、遠くの丘の上に、白いものが見えた。
最初は雲かと思った。
だが、違った。
細く、高く、空へ突き立つ塔。
白塔。
神代の終わりに建てられ、人の時代に取り残された監視塔。
その白さは、夕陽を受けても温かくならなかった。
むしろ、周囲の光を吸い取っているように冷たかった。
ミラが小さく呟く。
「あれが……」
カイが頷いた。
「白塔だ」
アビシニアは立ち止まった。
方位盤の針が、狂ったように震えている。
胸の奥でも、王冠炉の残響が応える。
塔の地下で、何かが待っている。
レオンハルト。
グレイヴ。
父の記録。
神代機関。
そして、自分自身の未熟さ。
すべてが、あの白い塔へ集まっている。
アビシニアは、母の言葉を思い出した。
光は、闇を責めない。
だが、今見えている白さは、光ではない。
照らすための白ではなく、隠すための白。
彼女は静かに息を吸った。
「行きましょう」
声は震えていた。
けれど、足は前へ出た。
三つの足音が、夕暮れの水路に響いた。
白塔は、黙って彼女たちを待っていた。
白塔が見えてから、道はさらに険しくなった。
水路は丘の裾を回り込み、やがて岩場へ変わった。石組みはほとんど崩れ、残った溝には乾いた落ち葉と砂が詰まっている。足を置くたびに小石が転がり、音を立てないよう進むには神経を使った。
夕暮れが近い。
空の金色は薄れ、塔の白さだけが妙に浮いて見える。
遠くから見れば、白塔は美しい建物だった。
細く高く、余計な装飾はない。
塔身は磨かれた骨のように滑らかで、窓は少ない。頂部には折れた環状の構造物が残っている。神代機関の受信環だと、カイは説明した。
かつては空から降る光を測ったのだという。
だが今は、空を仰ぐための塔ではない。
地下へ何かを隠すための塔に見えた。
「ここから先は、姿勢を低くしろ」
カイが言った。
三人は岩陰に身を寄せながら進んだ。
白塔の南側には、低い外壁の跡があった。大半は崩れているが、ところどころに石柱が残っている。塔の基部には黒い入口があり、その前に帝国兵が二人立っていた。
正規軍の鎧ではない。
黒紐隊だ。
さらに、塔の西側には荷車が止まっていた。
二台。
黒い金属箱と、王家の封蝋が残る木箱。
アビシニアの胸が締めつけられる。
だが、今度は足を止めただけだった。
動かない。
息を整える。
見て、考える。
「西側から入れるのですか」
ミラが囁いた。
カイは塔の基部を見ながら答えた。
「昔の排水口がある。人一人が通れるほどではないが、崩れた場所があれば中へ入れる可能性がある」
「可能性」
アビシニアが繰り返す。
「確実ではない」
「確実な道は、正面だけだ」
「正面は論外ですね」
「今のところは」
カイはそう言って、さらに低く身をかがめた。
その時、塔の入口から人影が現れた。
レオンハルトだった。
アビシニアは息を止めた。
皇太子は、白い外套を着ていなかった。湿地で見た時よりも簡素な灰色の軍装で、剣も帯びていない。護衛も近くにはいない。
だが、その姿はかえって危うく見えた。
まるで、自分が狙われる可能性など考えていないように。
あるいは、狙われても構わないと思っているように。
彼の後ろから、グレイヴ大佐が出てくる。
二人の距離は近いが、空気は冷えていた。
カイが小さく言う。
「聞けるか」
アビシニアは頷いた。
彼女は地面に手を置いた。
石に残る振動。
塔の壁に跳ね返る声。
空気の揺れ。
人の心には触れない。
ただ、物に残る音を拾う。
意識を薄く広げると、声が断片的に届いた。
「……予定と違う」
レオンハルトの声だった。
「殿下の御意向に沿うためです」
グレイヴが答える。
「私の意向は、王女と話すことだ」
「話し合いの場を整えるには、材料が必要です」
「材料?」
レオンハルトの声が低くなる。
「彼女をそう呼ぶな」
アビシニアは目を伏せた。
少なくとも、レオンハルトはすべてを承知しているわけではない。
だが、それで安心はできない。
グレイヴは穏やかに続けた。
「王女殿下を指したのではありません。荷のことです」
「二台目の箱は何だ」
沈黙。
短いが、重い沈黙。
グレイヴが言った。
「ル・メイル王家の遺物です」
「誰が許可した」
「軍務省です」
「私は聞いていない」
「殿下は、聞けば止められたでしょう」
その言葉に、レオンハルトの表情が変わった。
遠目にも分かるほど、冷たい怒りが走る。
「グレイヴ」
「殿下」
大佐は少しも怯まなかった。
「人の時代を終わらせるとお決めになったのは、殿下です」
ミラが小さく息を呑んだ。
アビシニアの手が石の上で震える。
レオンハルトは答えない。
グレイヴは続ける。
「選択が人を苦しめる。憎しみが国を裂く。弱い者ほど、自由という名の重荷に潰される。殿下はそう仰った。ならば、必要な手段を恐れてはなりません」
「私は、彼女を壊すつもりはない」
「壊さずに炉が動くなら、それに越したことはありません」
「試すな」
「すでに準備は終えています」
レオンハルトが一歩近づいた。
「私の命令なしに起動すれば、君を処罰する」
グレイヴは初めて、わずかに笑った。
「殿下が処罰を下せる世界を、まだ信じておられるのですか」
空気が凍った。
カイの目が細くなる。
「まずい」
アビシニアは囁いた。
「軍部は、皇太子をも利用するつもりですね」
「利用というより、担ぎ上げてから切り離す気だ」
レオンハルトは塔の入口へ視線を向けた。
「黒紐隊を下げろ。二台目の箱も、地下へ入れるな」
「それはできません」
「命令だ」
「命令系統は、すでに変更されています」
その瞬間、塔の入口に立っていた兵が動いた。
二人。
さらに影から四人。
レオンハルトを囲む位置へ出る。
ミラが声を殺して言った。
「皇太子が……」
カイは剣に手をかけた。
「拘束される」
アビシニアは息を呑んだ。
敵であるはずの少年が、今、罠の中心に立たされている。
彼が人を諦めたこと。
王冠炉を動かそうとしていること。
それは許せない。
だが、今ここで彼が軍部に奪われれば、白塔は完全にグレイヴのものになる。
レオンハルトは兵たちを見た。
逃げない。
剣もない。
ただ、静かに言った。
「君たちは、誰の兵だ」
兵の一人が目を伏せた。
答えない。
グレイヴが代わりに言う。
「帝国の兵です」
「帝国とは、誰だ」
「存続する意思です」
レオンハルトは苦く笑った。
「便利な言葉だ」
「殿下が教えてくださったのです。人は弱い。だから、個人の迷いよりも大きな意志が必要だと」
「私は、人を殺せとは言っていない」
「殺さずに済ませるための炉です」
「人から選ぶ力を奪うことは、殺すこととどれほど違う」
その言葉に、アビシニアは目を見開いた。
レオンハルト自身も、まだ迷っている。
完全に人を諦めたわけではない。
あるいは、諦めたと言い聞かせているだけなのかもしれない。
グレイヴは冷ややかに答えた。
「違いは、歴史が決めます」
「歴史に責任を預けるな」
「では、殿下が責任をお取りください」
グレイヴが手を上げた。
兵たちがレオンハルトに近づく。
カイが低く言った。
「動くなら今だ」
アビシニアは彼を見る。
「助けるのですか」
「助けるというより、グレイヴに渡さない」
ミラが震えながら言った。
「でも、出たら見つかります」
「見つかる」
カイは短く言う。
「だから、正面からは出ない。注意を逸らす」
アビシニアの胸の奥で、王冠炉の残響が鳴る。
力を使えば。
兵の意識を乱せば。
恐怖を流せば。
一瞬で崩せるかもしれない。
だが、それは駄目だ。
人に触れない。
物へ。
場所へ。
記録へ。
彼女は塔の基部を見た。
白塔は古い。
神代機関の残響を抱えている。
石も、金属も、音を覚えている。
そして、この塔はかつて監視塔だった。
空から降る光を測るための塔。
ならば、音を返す構造があるはずだ。
「カイ」
アビシニアは囁いた。
「塔の受信環は、まだ響きますか」
「完全には死んでいないはずだ」
「なら、音を返せます」
カイはすぐに理解した。
「警報か」
「警報ではなく、崩落音を」
ミラが驚く。
「崩落?」
「本当に崩すわけではありません。塔の古い記録に残る崩落音を、壁に返します」
カイが短く頷く。
「兵は散る」
「その隙に、レオンハルト殿下を塔の西側へ」
「俺が行く」
「一人で?」
「君たちは出るな」
アビシニアはすぐに首を振りかけた。
だが、止まった。
今、彼女が出れば目立つ。
王家の封蝋よりも、彼女自身が餌になる。
カイの方が適任だ。
「分かりました」
彼女は言った。
「ただし、戻ってください」
「努力する」
「練習です」
ミラが小さく言った。
カイは一瞬だけ彼女を見た。
「……戻る」
それだけ言って、彼は岩陰から消えた。
動きは速く、低い。
兵たちの視線はレオンハルトに集まっている。グレイヴはまだ気づいていない。
アビシニアは両手を石に置いた。
白塔の記録を探る。
塔の白い壁。
古い受信環。
嵐の日。
落雷。
一部が崩れた夜。
金属が軋み、石が裂け、内部で響いた低い音。
それを、今ここへ。
人の心ではなく、石へ。
塔の壁が、わずかに震えた。
最初は風の音に似ていた。
次に、低い軋み。
そして、塔の上部から巨大な石が割れるような轟音が響いた。
兵たちが一斉に上を見る。
「崩れるぞ!」
誰かが叫んだ。
黒紐隊の隊列が乱れる。
レオンハルトも上を見たが、すぐに異変に気づいたようだった。彼は崩落音の方向ではなく、西側の岩陰を見た。
カイが飛び出す。
一人の兵の腕を取り、足を払う。
剣は抜かない。
倒した兵の影に身を入れ、レオンハルトへ走る。
グレイヴが叫んだ。
「王女だ! 近くにいる!」
その判断は早かった。
アビシニアの背筋が冷える。
グレイヴは崩落音が偽りだと見抜いたのではない。
だが、この場で神代機関の残響を使える者が誰かを知っている。
「探せ! 西側だ!」
兵が散る。
ミラがアビシニアの袖を掴んだ。
「リーナさん」
「まだです」
音を維持する。
崩落音を強めすぎれば、本当に塔の古い機構を傷めるかもしれない。弱すぎれば兵が戻る。
加減が難しい。
汗が額を伝う。
カイはレオンハルトの前に到達した。
レオンハルトは驚いた顔をしたが、すぐに状況を理解した。
「なぜ君が」
「話は後だ」
カイは短く言い、彼の腕を掴む。
だが、レオンハルトは動かなかった。
「待て。箱がある」
カイの顔が険しくなる。
「今は無理だ」
「二台目か」
レオンハルトがグレイヴを見た。
「王女の父の記録か」
カイは一瞬だけ沈黙した。
その沈黙で、レオンハルトは悟った。
「そうか」
グレイヴが叫ぶ。
「殿下を確保しろ!」
兵が二人、カイたちへ向かう。
レオンハルトは倒れた兵の腰から短剣を抜いた。
「私は足手まといではない」
「皇太子が短剣で戦うな」
「今は皇太子ではない」
その言葉に、カイがわずかに目を細めた。
「なら走れ」
二人は西側へ走った。
アビシニアは音を切り替えた。
塔の東側で、金属が落ちるような音を響かせる。
兵の一部がそちらへ振り向く。
だが、グレイヴは騙されなかった。
彼は真っ直ぐ西側を見る。
「王女殿下」
声が届いた。
アビシニアは身を硬くした。
グレイヴは彼女の姿を見ていない。
だが、声はまるで彼女の耳元に向けられているようだった。
「お父上の記録を、このまま地下へ入れてよろしいのですか」
ミラの手に力が入る。
アビシニアは目を閉じなかった。
見え透いた誘いだ。
分かっている。
それでも、胸は揺れる。
グレイヴは続けた。
「王は、最後まであなたの名を呼ばれました」
息が止まる。
父が。
自分の名を。
「聞きたくはありませんか。王としてではなく、父としての最後の言葉を」
世界が狭くなる。
塔の音が揺らぐ。
兵たちがこちらへ近づいてくる。
ミラが必死に囁いた。
「リーナさん」
アビシニアの指が石に食い込む。
父の声。
最後の言葉。
自分の名。
聞きたい。
聞きたくて、胸が裂けそうだった。
だが、今それを聞くために出れば、ミラが捕まる。カイが戻れない。レオンハルトもグレイヴに奪われる。
父は、今の自分を見て何と言うだろう。
王としてではなく。
父として。
アビシニアは、震える息を吐いた。
「……今は、聞きません」
ミラが目を見開く。
アビシニアは石に手を置いたまま、声を殺して続けた。
「父が私を娘として呼んだのなら、娘が生きて戻ることを望むはずです」
塔の音が再び安定した。
崩落音が西側の壁へ響く。
兵たちが足を止める。
その隙に、カイとレオンハルトが岩陰へ滑り込んだ。
カイの肩には浅い傷があった。レオンハルトの頬にも血が滲んでいる。
ミラが小さく悲鳴を上げかけ、口を押さえた。
レオンハルトはアビシニアを見た。
「君が」
「話は後です」
アビシニアはカイの言葉をそのまま使った。
レオンハルトは一瞬だけ目を丸くし、それから頷いた。
「分かった」
グレイヴの声が響く。
「逃がすな! 王女も皇太子も西だ!」
カイが短く言った。
「走る」
「どこへ」
「排水口だ。入れるかは賭けだ」
「また可能性ですか」
アビシニアが言うと、カイは息を切らしながら答えた。
「確実な道は正面だけだと言っただろう」
ミラが震えながらも言った。
「正面は論外です」
「その通りだ」
四人になった足音が、岩場を駆けた。
背後で兵たちの怒号が上がる。
白塔の偽りの崩落音は、まだ壁の中で響いていた。
だが長くは持たない。
アビシニアは走りながら、南の湿地を思った。
エル。
ニナ。
サーシャ。
戻る理由。
そして、父。
今は聞かない。
その選択は、痛かった。
けれど、痛みを抱えたまま進むことが、今日の彼女にできる精一杯の成長だった。
白塔の西側、崩れた排水口が黒い口を開けていた。
カイが先に滑り込む。
「入れる!」
ミラが続き、アビシニアが身を屈める。
最後にレオンハルトが振り返った。
グレイヴがこちらを見ている。
灰色の目が、冷たく細められていた。
「殿下」
グレイヴは遠くから言った。
「その王女は、あなたを救いません」
レオンハルトは答えなかった。
ただ、短剣を捨て、排水口へ身を滑り込ませた。
アビシニアはその背を見てから、自分も暗闇へ入った。
狭い石の通路に、四人の息遣いが重なる。
白塔の下へ。
話し合いの場ではなく、罠の中心へ。
それでも、今度は一人ではない。
暗闇の中で、アビシニアは初めてそう思った。




