第二章 脱走兵と王女の名
※ChatGPTを全文で使用しています。
カイ・オルヴァは、道を選ぶのが早かった。
迷わない。
振り返らない。
雨で視界が悪くとも、傾いた屋根の下、荷車の陰、閉じかけた市場の裏口を正確に抜けていく。
その歩き方を見て、アビシニアは苛立った。
この男は、逃げ慣れている。
そして、追う側にも慣れている。
つまり、どこを歩けば見つかりにくいかを知っているだけでなく、どこへ逃げる者が愚かなのかも知っているということだ。
帝国兵だったから。
王都を攻めた側の人間だったから。
「こちらだ」
カイが短く言った。
「下層の穀物倉庫を抜ける。古い搬入口がある」
「なぜ、あなたがこの街の抜け道を知っているのですか」
アビシニアは問うた。
声が硬くなるのを止められなかった。
カイは振り返らない。
「三日前からいた」
「私を見張っていたのですか」
「そうだ」
ミラが不安そうに二人を見比べる。
アビシニアの胸に、冷たい怒りが広がった。
「いつから」
「君が記録保管所に入る時から」
「なら、軍が来る前に知らせることもできたはずです」
「確証がなかった」
「確証?」
彼女は足を止めた。
「あなたにとって、人を助けるには確証が必要なのですか」
カイも足を止めた。
雨が二人の間を斜めに落ちる。
「助ける相手を間違えれば、追手に場所を教えるだけになる」
「だから黙って見ていた?」
「そうだ」
アビシニアは笑った。
自分でも嫌になるほど、冷たい笑いだった。
「帝国軍らしい判断ですね」
ミラが小さく息を呑む。
カイの表情は変わらなかった。
だが、彼の目だけが少し細くなった。
「そうかもしれない」
「否定しないのですね」
「否定する材料がない」
その答えが、さらに彼女を苛立たせた。
謝罪してほしいのではない。
弁解してほしいのでもない。
ただ、彼が平然としていることが許せなかった。
王都を焼いた側の人間が。
十年間、記録の中で人を死者にしてきた国の兵が。
今さら自分の前に現れて、道を示している。
なぜ自分は、この男について歩いているのか。
「リーナさん」
ミラが袖を引いた。
「早く行かないと」
アビシニアは我に返った。
遠くで軍笛がまた鳴る。
今は言い争っている場合ではない。
分かっている。
分かっているのに、怒りが収まらない。
カイは低く言った。
「嫌ならここで別れろ」
「言われなくても、そうしたいところです」
「なら、なぜしない」
アビシニアは答えられなかった。
道を知らないから。
ミラがいるから。
王冠炉の情報を持っているから。
理由はいくつもある。
だが、それらを口にすれば、自分がこの男を必要としていると認めることになる。
それが嫌だった。
「行きます」
彼女は言った。
「ただし、あなたを信用はしません」
「何度も言わなくていい」
カイはまた歩き出した。
その背中に向かって、アビシニアは言葉を投げた。
「あなたは、王都で何人殺したのですか」
ミラが「リーナさん」と小さく言った。
カイの足が止まった。
雨音だけが続く。
やがて彼は答えた。
「数えていない」
アビシニアの中で、何かが燃え上がった。
「数えていない?」
「正確には、途中で数えられなくなった」
「それで、私に協力を?」
彼女は一歩近づいた。
「何のつもりですか。贖罪ですか。死者の代わりに私を助ければ、自分が許されるとでも?」
カイは振り返った。
その顔には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、疲労に似たものがあった。
「許されるとは思っていない」
「では、なぜ」
「王冠炉を帝国に渡したくない」
「私のためではなく?」
「違う」
即答だった。
その正直さが、また彼女を刺した。
アビシニアは唇を噛む。
「よく分かりました」
彼女は言った。
「あなたにとって、私はやはり鍵なのですね。帝国と同じです」
カイは少しだけ眉を動かした。
「今は、そう見ている」
ミラが顔を上げる。
「そんな言い方」
「事実だ」
カイはミラを見た。
「俺は彼女を王女として崇めない。救済者とも思わない。善人だとも思っていない。王冠炉を止めるために必要な人物だと思っている」
「ひどいです」
ミラが言った。
「そうだな」
カイは否定しなかった。
アビシニアは冷たく言った。
「安心しました。こちらもあなたを人として見なくて済みます」
その言葉を発した瞬間、ミラが彼女の手を離した。
アビシニアは振り向いた。
ミラは雨の中で立ち止まり、傷ついた顔をしていた。
「ミラ?」
「今のは、嫌です」
「何が」
「今の言い方です」
アビシニアは眉をひそめた。
「この人は帝国兵だったのですよ」
「分かってます」
「王都にいた。私たちの国を滅ぼした側の人間です」
「分かってます」
「なら」
「でも、人として見なくていいなんて、言わないでください」
ミラの声は震えていた。
「私は、そういう言葉が嫌いです」
アビシニアは黙った。
ミラは続けた。
「難民街で、帝国の人たちは私たちをよくそういう目で見ました。流民だから。旧王国の者だから。戸籍が汚いから。何をしてもいいみたいに」
雨が、少女の頬を伝った。
涙か雨か分からない。
「リーナさんまで、同じことを言わないでください」
アビシニアは、胸を突かれたように息を止めた。
同じ。
その言葉が、予想以上に深く刺さった。
自分は違うと思っていた。
帝国とは違う。
奪う側とは違う。
踏みにじる側とは違う。
けれど今、自分は確かに言った。
人として見なくて済む、と。
相手が加害者なら。
敵なら。
憎む理由があるなら。
人から外してもよいと。
それは、帝国がル・メイルにしたことと、どこが違うのか。
アビシニアは答えを探した。
相手は兵士だ。
王都を攻めた。
殺した。
ならば当然だ。
当然のはずだった。
だが、ミラの顔を見ると、その当然が急に脆くなる。
カイは何も言わなかった。
言い返さないことが、かえって彼女を追い詰めた。
謝ればよい。
たったそれだけのことだ。
しかし、喉が動かない。
王女としての誇りではない。
リーナとしての意地でもない。
もっと幼いもの。
自分の傷を、誰にも否定されたくないという感情。
「私は」
言いかけて、言葉が止まった。
遠くで馬の嘶きが聞こえた。
カイが顔を上げる。
「もう来る」
彼は短く言った。
「話は後だ」
アビシニアは頷くしかなかった。
だが、ミラはまだ彼女を見ている。
アビシニアは、ようやく声を絞り出した。
「……後で、話します」
謝罪ではなかった。
逃げだった。
ミラはそれを分かっていたようだった。
それでも、小さく頷いた。
三人は再び走り出した。
だが、先ほどまでとは違っていた。
ミラの手は、もうアビシニアの手を握っていない。
それだけのことが、彼女にはひどく重かった。
倉庫街へ入る頃には、雨はさらに強くなっていた。
穀物倉庫は、帝国の徴税品を一時保管するための建物で、今は半分が使われていない。カイは錆びた鉄扉の前で足を止め、腰の道具袋から細い針金を出した。
「鍵を開けられるのですか」
アビシニアが問う。
「軍で覚えた」
「便利ですね」
皮肉が漏れた。
カイは手を止めずに言った。
「そうだな」
また、否定しない。
鉄扉が小さく鳴って開いた。
中は暗く、乾いた穀物の匂いと、古い木箱の黴臭さが混ざっていた。屋根の隙間から雨が落ち、床に小さな水たまりを作っている。奥には使われていない荷役用の昇降機と、地下搬入口へ続く斜路があった。
カイは扉を閉め、内側から閂をかけた。
「ここで少し息を整える。長くは止まれない」
ミラは壁際に座り込んだ。
頬の腫れがひどくなっている。
アビシニアは近づこうとしたが、ミラがわずかに身を引いた。
その動きは小さかった。
だが、十分だった。
アビシニアは立ち尽くした。
カイが水筒を差し出す。
「冷やせ」
アビシニアは一瞬ためらい、それを受け取った。
ミラの前に膝をつく。
「頬を見せて」
ミラは黙っていた。
「ミラ」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「リーナさんには、分からないです」
その言葉に、アビシニアは手を止めた。
ミラは俯いている。
「何が」
「置いていかれる人の気持ちです」
アビシニアは息を呑んだ。
「私は」
「リーナさんは、置いていった方です」
倉庫の中が静まり返った。
カイは口を挟まない。
雨が屋根を叩いている。
ミラは、言ってしまったことに自分でも傷ついたような顔をした。だが、取り消さなかった。
「ごめんなさい。でも、そう思いました」
アビシニアの胸に、古い痛みが走る。
置いていった。
父を。
母を。
王宮の者たちを。
民を。
そして今も、ミラを置いていこうとした。
守るためだと思っていた。
危険から遠ざけるため。
巻き込まないため。
自分と関わらせないため。
だが、それは本当に相手のためだったのか。
それとも、自分がこれ以上、誰かを失う怖さに耐えられなかっただけか。
アビシニアは水筒を握りしめた。
「私は、あなたを守ろうと」
「はい」
ミラは頷いた。
「それは分かります」
その返事が、かえって苦しかった。
「でも、私に聞いてくれませんでした」
聞いてくれなかった。
それは、単純な言葉だった。
そして、反論できない言葉だった。
アビシニアは、初めて気づいた。
自分はミラを守ろうとしたのではない。
ミラを、自分の恐怖の外へ押し出そうとした。
相手の意志を聞かずに。
相手の痛みを見ずに。
自分の正しさだけで。
父が彼女を地下へ押し込んだ夜のように。
父は彼女を守った。
だが、彼女は十年間、その選択の意味を抱えきれずに生きてきた。
自分は今、同じことをミラにしようとしていたのか。
アビシニアは、ようやく水筒を布に含ませた。
「ごめんなさい」
声は小さかった。
ミラが顔を上げる。
「今の言葉も」
アビシニアは続けた。
「カイを、人として見なくていいと言ったことも。あなたの気持ちを聞かずに、置いていこうとしたことも」
言葉は拙かった。
王宮で習った謝罪の作法なら、もっと整えられただろう。
写字係としてなら、もっと正確な表現を選べただろう。
だが、人として謝る言葉を、彼女はあまり知らなかった。
「ごめんなさい、ミラ」
ミラの目から、今度こそ涙が落ちた。
「……はい」
アビシニアは、冷やした布をそっと頬に当てた。
ミラは今度は避けなかった。
そのことに、彼女は胸の奥でほっとした。
カイが倉庫の扉の方を見ている。
アビシニアは、彼にも視線を向けた。
言わなければならないことがある。
だが、口にするにはまだ苦しかった。
「カイ」
彼は振り返らずに「何だ」と答えた。
「先ほどの言葉は、取り消します」
「どれだ」
「あなたを人として見なくていいと言ったことです」
カイは少し間を置いた。
「取り消しても、事実は変わらない」
「事実?」
「俺が王都にいたことも、人を殺したことも、君が俺を憎む理由があることも」
アビシニアは黙った。
カイは続けた。
「憎めばいい。それは君の権利だ」
「権利」
「だが、俺を人でないものにすると、君は俺がしたことも見誤る」
アビシニアは眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
カイはようやく振り返った。
「怪物が街を焼いたと思えば楽だ。だが実際には、人間が焼いた。命令を受け、恐れ、従い、疑問を黙らせ、隣の兵と足並みを揃えた人間が焼いた」
彼の声は淡々としていた。
「俺もその一人だ」
アビシニアは言葉を失った。
カイは続ける。
「人間だったから止まれたはずだ。だが止まらなかった。だから罪になる」
倉庫の中に、雨音だけが残った。
アビシニアは、初めてカイを見た気がした。
帝国兵でも、脱走兵でも、王都を焼いた側の記号でもなく。
罪を言い訳にせず、許しも求めず、ただ背負っている一人の人間として。
それを受け入れることは、まだできない。
憎しみが消えたわけではない。
むしろ、重くなった。
怪物ではなく人間なら、なおさら許せない。
だが、ミラの言ったことが少し分かった。
人として見ることと、許すことは同じではない。
アビシニアは小さく息を吐いた。
「私は、あなたを許しません」
「それでいい」
「けれど、見誤らないようにはします」
カイはわずかに頷いた。
「十分だ」
十分。
その一言が、なぜか胸に残った。
その時、倉庫の外で馬の足音が止まった。
カイの表情が変わる。
「来た」
扉の向こうから声が響いた。
「中にいるのは分かっている」
記録保管所にいた将校の声だった。
「リーナ・メル。いや、名を伏せた王家の娘」
ミラが身を強張らせる。
アビシニアは立ち上がった。
将校は続けた。
「投降しろ。抵抗すれば、同行者は反逆幇助として処理する」
カイが剣を抜いた。
アビシニアは、ミラの前に立ちかけた。
だが、途中で止まった。
そして振り返る。
「ミラ」
「はい」
「あなたは、どうしたいですか」
ミラは驚いた顔をした。
アビシニアも、自分で驚いていた。
今までなら、命じていた。
下がりなさい。
逃げなさい。
黙っていなさい。
だが今は、聞いた。
ミラは涙を拭き、立ち上がった。
「一緒に逃げます」
「怖くても?」
「怖いです」
「後悔するかもしれません」
「それでも、自分で決めたいです」
アビシニアは頷いた。
「分かりました」
それは、小さな一歩だった。
王冠炉を止める決意でも、帝国に立ち向かう覚悟でもない。
ただ、一人の少女を守るという名目で支配しないこと。
相手の意志を聞くこと。
アビシニア・ル・メイルにとっては、それだけでも難しかった。
カイが斜路の奥を指した。
「地下搬入口から水運路へ出る。だが格子がある」
「開けられるのですか」
「古い鍵なら」
「壊すしかない場合は?」
カイは短く答えた。
「音が出る」
外で扉を叩く音がした。
一度。
二度。
三度。
将校の声。
「最後の警告だ」
アビシニアの耳の奥で、また低い律動が鳴った。
王冠炉の残響。
人の意志に触れる力。
使えば、扉の外の兵を一瞬止められるかもしれない。
だが、それは境界を越えることでもある。
さきほど、彼女はそれを破った。
怒りで。
衝動で。
今度は違う。
彼女はミラを見た。
カイを見た。
「一つ、試します」
カイが眉をひそめる。
「何を」
「人の意志には触れません」
アビシニアは、自分に言い聞かせるように言った。
「触れるのは、記憶です」
倉庫の壁には、古い帝国の印章が刻まれている。徴税倉庫に物資を運び込む際、門の開閉記録を残すための簡易機関印だ。王冠炉ほど高度なものではないが、ル・メイル由来の記録機関を帝国が流用したものだ。
記録は、文字だけではない。
触れた手。
押された印。
開いた扉。
閉じた格子。
物にも、わずかな履歴が残る。
それを読む力を、ル・メイル王家は持っていた。
アビシニアは壁に手を当てた。
冷たい石。
濡れた空気。
埃。
そして、その奥に沈む膨大な痕跡。
荷車の車輪。
穀物袋の重さ。
役人の退屈。
盗人の焦り。
夜中に開けられた裏格子。
錆びた鍵。
折れた留め金。
見えた。
「地下格子は、完全には閉まりません」
彼女は目を開けた。
「右下の留め金が折れています。力をかければ、人一人なら通れます」
カイが驚いたように彼女を見た。
「なぜ分かる」
「記録を読みました」
「紙ではなく?」
「石も記録します」
ミラが小さく呟いた。
「魔法みたい」
アビシニアは首を振った。
「魔法ではありません」
その声は、どこか寂しかった。
「ただ、残っているものを読むだけです」
外で、閂が軋んだ。
カイが剣を構える。
「行くぞ」
三人は斜路を駆け下りた。
背後で扉が破られる音がした。
だが今度のアビシニアは、ただ逃げているのではなかった。
彼女はミラに命じなかった。
カイを怪物にしなかった。
自分の怒りを正義だと呼ばなかった。
それでも、未熟だった。
怒りはまだある。
恐怖もある。
視野は狭い。
傷つけば、また誰かを遠ざけるだろう。
正しさの名で、また間違えるだろう。
だが、最初のひびは入った。
灰の下に伏せていた王女は、まだ王冠を戴く者ではない。
ただ、自分の手が誰かを守るだけでなく、誰かを押しのけることもあるのだと、初めて知ったばかりだった。
地下搬入口へ続く斜路は、湿った石の匂いがした。
背後では、破られた扉の音がまだ反響している。兵たちの怒号。軍靴。剣が鞘から抜かれる音。どれも近い。
だが、アビシニアは一瞬だけ、別の音を聞いていた。
水音ではない。
雨音でもない。
笑い声だった。
幼い子どもの笑い声。
よく晴れた午後の、光の中で弾けるような声。
それは自分の声だった。
石に触れた指先から、古い記録が流れ込んでくる。倉庫の壁に残った記憶ではない。もっと古い、もっと深いところに沈んでいたもの。王冠炉の残響に触れたせいで、封じていた記憶の一部が、割れた器から水が漏れるように戻ってきたのだ。
王宮の南庭。
白い柱廊。
湖から吹く柔らかな風。
花壇の端にしゃがみ込む幼いアビシニア。
彼女の手には、小さな銀の匙があった。
「姫様、それは土を掘る道具ではありませんよ」
侍女のナイラが困った声で言う。
幼いアビシニアは、真剣な顔で答えた。
「でも、王女は国を知りなさいって、お父様が言ったもの」
「国と花壇は違います」
「土がなければ花は咲かないわ。だから、国は土からできているの」
そう言うと、近くで誰かが笑った。
父だった。
王冠を外し、袖をまくった父王が、庭師の老人と並んで立っていた。
王座にいる時よりも、ずっと柔らかな顔をしていた。
「その通りだ、アビー」
アビー。
その呼び名に、今のアビシニアの胸が詰まる。
誰ももう、そう呼ばない。
父は幼い彼女の隣に膝をついた。
王の衣の裾が土で汚れる。侍女が慌てたが、父は気にしなかった。
「国は玉座でできているのではない。土と、水と、そこに立つ人でできている」
「じゃあ、私は土も覚えないといけないのね」
「そうだ」
父は銀の匙をそっと取り上げ、代わりに小さな木の移植ごてを渡した。
「ただし、道具は正しく選びなさい」
母もそこにいた。
薄い青の衣を着て、柱廊の影からこちらを見ていた。
母の顔は、長い間、曖昧だった。
声も、思い出せなくなっていた。
けれど今、その記憶の中で、母は笑っていた。
静かな、春の湖のような笑みだった。
「アビシニア」
母が呼ぶ。
「花を植える時は、根を傷つけないように」
「根?」
「見えないところで、その花を支えているものです」
母は幼い彼女の手に触れた。
「人も同じ。目に見える冠や名前より、見えないところでその人を支えているものを、大切にしなさい」
幼いアビシニアは、よく分からないまま頷いた。
「それは、心?」
母は少し考えた。
「心もそう。記憶もそう。誰かを大切に思う気持ちも」
父が笑う。
「難しい話になったな」
「あなたが土の話を始めるからです」
「土は大事だ」
「ええ。ですから、今日は王女も土まみれですね」
幼いアビシニアは、自分の手を見た。
指の間に黒い土が入り込んでいる。
王女なのに汚れてしまったと思った。
だが母は、その手を布で拭わなかった。
代わりに、自分の白い手で包んだ。
「忘れないで、アビー」
母は言った。
「あなたがいつか何者になっても、誰かの上に立つためではなく、誰かと同じ土の上に立つために、その名を持つのです」
その言葉の意味を、幼い彼女は理解していなかった。
けれど、幸せだった。
父がいて。
母がいて。
侍女が呆れながら笑っていて。
庭師が新しい苗を運んできて。
遠くの厨房から焼き菓子の甘い匂いがして。
王宮の外では市の鐘が鳴り、湖の上を白い鳥が渡っていく。
王国はまだ滅びていなかった。
誰も死んでいなかった。
その午後が永遠に続くと、幼い彼女は本気で思っていた。
「リーナさん!」
ミラの声で、記憶が砕けた。
アビシニアは現実へ戻った。
暗い地下斜路。
濡れた石。
背後から迫る兵の足音。
目の前には、錆びた格子。
胸が痛い。
今見たものは、失ったものだった。
けれど同時に、忘れてはならないものでもあった。
王国とは、王冠ではなかった。
父の言葉。
母の手。
土の匂い。
誰かと同じ場所に膝をつくこと。
アビシニアは、今まで王国を「滅びた場所」としてしか思い出せなかった。炎、悲鳴、逃亡、血、扉。
だが違う。
王国には、燃える前の日々があった。
笑っていた人々がいた。
花を植えた午後があった。
何でもない幸福があった。
それを忘れたまま復讐だけを抱けば、彼女はきっと王国を二度殺す。
カイが格子に手をかけた。
「右下だったな」
「ええ」
アビシニアは声を整えた。
「留め金が折れています。押すより、手前に引いてから斜めに」
カイが言われた通りに動かすと、格子は低く軋んだ。
人一人分の隙間が開く。
「ミラ、先に」
アビシニアは言いかけて、少し止まった。
命じるのではなく、尋ねる。
「先に行けますか」
ミラは頷いた。
「行けます」
その返事を聞いてから、アビシニアは道を譲った。
ミラが格子をくぐる。
次にカイ。
最後にアビシニア。
背後で兵の声が響いた。
「いたぞ!」
カイが格子の向こうから手を伸ばす。
アビシニアは一瞬ためらった。
帝国兵だった手。
王都を焼いた側の手。
だが今は、その手を取らなければ進めない。
彼女はカイの手を掴んだ。
強く引かれ、格子の向こうへ滑り込む。
すぐ後ろで剣が石に当たった。火花が散る。
カイが格子を蹴り戻し、壊れた留め金に短剣を差し込んで固定した。
「長くは持たない」
「十分です」
アビシニアは息を整えながら答えた。
狭い水運路の奥へ、暗闇が続いている。
ミラが不安そうに尋ねる。
「この先、どこへ?」
カイが答える。
「湖岸の廃船場に出る。そこから街外れへ抜ける」
アビシニアは振り返った。
格子の向こうで、兵たちがこちらを怒鳴っている。
その向こうに、ヴェルゼンの雨の気配がある。
さらに遠くに、王冠炉の低い律動がある。
彼女は胸元を押さえた。
母の声が、まだ耳に残っている。
誰かの上に立つためではなく、誰かと同じ土の上に立つために。
今の彼女には、まだその意味を十分には分からない。
だが、分からないままでも、忘れてはいけないと思った。
アビシニアはミラを見た。
「行きましょう」
今度は、カイにも視線を向けた。
「三人で」
ミラが小さく頷く。
カイは何も言わなかったが、先ほどより少しだけ目を伏せた。
三人は暗い水運路を進み始めた。
背後では、帝国兵が格子を壊そうとしている。
前方には、まだ何も見えない。
それでもアビシニアの中には、一つだけ新しい灯りがあった。
王国を忘れないとは、滅びを抱きしめ続けることではない。
幸せだった日を、なかったことにしないことだ。
見えるようにします。
ただし、派手な救済ではなく、暗い水路の奥に小さく差す光として。
水運路の闇は、思っていたより深かった。
足元を流れる水は膝より少し下まであり、冷たさが衣の裾から肌へ染み込んでくる。壁は狭く、三人が並んで歩くことはできない。先頭をカイ、真ん中をミラ、最後をアビシニアが進んだ。
背後では、まだ金属の軋む音が響いている。
帝国兵が格子を破ろうとしているのだ。
「急いだ方がいいですか」
ミラが小声で尋ねた。
カイは前を向いたまま答える。
「急ぎすぎると転ぶ。ここは底に割れ石が多い」
「よく知っていますね」
アビシニアが言った。
責める響きが混じった。
カイは少し沈黙した。
「昔、ここを通ったことがある」
「帝国兵として?」
「そうだ」
水音だけが続く。
ミラがちらりと振り返る。
アビシニアは目を逸らさなかった。
カイは続けた。
「王都ではない。ヴェルゼン制圧後の残党狩りだ。逃げた者がこの水路を使うと聞いて、部隊で入った」
ミラの肩が強張る。
アビシニアの胸にも、再び怒りが灯った。
だが、先ほどとは違う。
怒りのままに言葉を投げつける前に、彼女は一度だけ息を吸った。
「その時、見つけた人たちは?」
カイは答えた。
「三人」
「殺したのですか」
「一人は抵抗して斬られた。俺ではない」
「残りは」
「捕らえた」
「その後は?」
カイは答えなかった。
答えないことが答えだった。
ミラが小さく震えた。
アビシニアは、言葉を失った。
まただ。
また、この男を怪物にしてしまいたくなる。
そうすれば簡単だ。
憎めばいい。
切り捨てればいい。
今、自分が彼の背中を頼りに歩いている矛盾から目を逸らせる。
けれど、ミラの声がまだ耳に残っていた。
人として見なくていいなんて、言わないでください。
アビシニアは、冷たい水の中で拳を握った。
「なぜ、今は助けるのですか」
「助けているとは限らない」
「そういう答えは聞いていません」
カイの足が止まった。
狭い水路の中で、彼が半身だけ振り返る。
暗がりで表情はよく見えない。
「一度、見た」
「何を」
「王冠炉の試験起動だ」
水路の空気が、急に重くなった。
ミラが息を呑む。
カイは低い声で続ける。
「戦役の後、帝国は旧王都地下から持ち出した機関片を使って、小規模な実験をした。対象は捕虜と、命令違反をした兵士だった」
「兵士も?」
ミラが震える声で尋ねる。
「帝国は、役に立つなら味方も使う」
カイの声に、わずかな苦さが混じった。
「炉は、人を殺すだけのものではなかった。命令に逆らう理由を消す。恐怖を均す。怒りを薄める。人が何かを選ぶ前に、選ばなかったことにする」
アビシニアは、母の言葉を思い出した。
見えないところで、その人を支えているもの。
王冠炉は、そこへ触れる。
「あなたは、それで脱走したのですか」
「すぐには」
カイは答えた。
「俺はその時も、まだ従った」
その正直さは、刃のようだった。
「それから?」
「実験後の捕虜の一人が、俺に礼を言った」
「礼?」
「苦しくなくなった、と」
水の流れが、足元で黒く揺れている。
「家を焼かれたことも、子を失ったことも、もう痛くないと言った。帝国を恨む理由も分からなくなったと。あれは救いなのかと聞かれた」
カイは言葉を切った。
「俺は答えられなかった」
誰も何も言わなかった。
その沈黙の中で、アビシニアは初めて理解した。
王冠炉の恐ろしさは、死ではない。
痛みを奪うことだ。
怒りを奪うこと。
悲しみを奪うこと。
それでも生きているように見せること。
希望に似た空白を、人に与えること。
「それは救いではありません」
アビシニアは言った。
声が水路に静かに落ちた。
「たとえ苦しみでも、その人のものです」
カイは前を向いた。
「俺も今はそう思う」
「今は」
「遅すぎるがな」
その一言に、アビシニアは何も返せなかった。
遅すぎる。
それは、彼だけの言葉ではない。
自分にも刺さる。
父の言葉を理解するのも。
民の痛みに向き合うのも。
ミラの意志を聞くのも。
カイを人として見るのも。
何もかも遅いのではないか。
十年も逃げた後で、今さら何ができるのか。
その時、前方から薄い光が見えた。
ミラが顔を上げる。
「出口ですか?」
カイは首を振った。
「まだだ。採光孔だろう」
水路の天井に、崩れかけた細い穴が開いていた。
そこから、雨に濡れた外の光が一本だけ差している。灰色の光だった。明るいとは言えない。けれど、長い闇の中では十分すぎるほどだった。
その光の下に、何かが浮かんでいた。
白い花だった。
水路の壁の割れ目から、細い茎が伸びている。ほとんど土もない場所に根を張り、小さな花を咲かせている。雨水に打たれ、暗い空気にさらされながら、それでも白い花弁を開いていた。
ミラが足を止めた。
「こんなところに」
アビシニアも、その花を見つめた。
王宮の南庭の記憶が、胸の奥で静かに揺れた。
土がなければ花は咲かない。
けれど、この花は石の隙間に咲いている。
ほんのわずかな泥と、上から落ちる雨だけで。
ミラがそっと笑った。
逃亡してから初めて見る笑顔だった。
「強いですね」
アビシニアは答えようとして、言葉に迷った。
強い。
そうかもしれない。
だが、花は強くあろうとして咲いたのだろうか。
王国の象徴になろうとして、誰かを励まそうとして、ここにいるのだろうか。
違う。
ただ、残った場所で生きている。
それだけだ。
そして、それだけのことが、今のアビシニアには眩しかった。
「希望は」
彼女は小さく言った。
ミラが振り返る。
「え?」
「希望は、勝った者が掲げる旗ではないのかもしれません」
カイも黙って聞いていた。
アビシニアは白い花を見つめたまま続けた。
「何もない場所で、それでも消えなかったものを、後から人が希望と呼ぶのかもしれない」
ミラは花を見て、頷いた。
「じゃあ、あります」
「何が?」
「希望です」
ミラは、今度は少しだけはっきり笑った。
「だって、まだ消えていません」
アビシニアは胸を突かれた。
まだ消えていない。
王国も。
記憶も。
痛みも。
この少女の意志も。
そして、自分も。
カイが低く言った。
「持っていくか?」
ミラが驚く。
「花を?」
「目印になるなら置いていく。必要なら根ごと取る」
ひどく実務的な言い方だった。
だがミラは笑った。
「取ったら枯れます」
カイは少し考えた。
「そうか」
アビシニアは、初めて彼の言葉にかすかな可笑しさを覚えた。
この男は、花の扱いを知らない。
剣の扱いは知っている。
命令書の読み方も知っている。
逃走路も、追跡も、戦場も知っている。
だが、石の隙間に咲いた花をどうすればいいかは知らない。
その不完全さが、妙に人間らしかった。
「置いていきましょう」
アビシニアは言った。
「ここで咲いているから、意味がある」
ミラが頷く。
「また見に来られますか」
その問いは、あまりにも無防備だった。
また。
未来を当然のように含んだ言葉。
アビシニアは、すぐには答えられなかった。
追われている。
王冠炉が動いている。
帝国が彼女を探している。
明日がある保証もない。
それでも。
「来ましょう」
彼女は言った。
自分でも驚くほど自然に。
「三人で?」
ミラが尋ねる。
アビシニアは一瞬カイを見た。
カイは何も言わない。
「生きていたら」
彼女はそう答えかけた。
だが、やめた。
その言い方は、逃げだと思った。
「ええ。三人で」
ミラの顔が明るくなった。
小さな約束。
何の力もない約束。
国を取り戻すわけでも、帝国を倒すわけでも、王冠炉を止めるわけでもない。
ただ、いつか水路の花を見に戻るという約束。
それが不思議なくらい、アビシニアの胸を温めた。
背後で、遠く金属が砕ける音がした。
格子が破られたのだ。
カイが剣を握り直す。
「行くぞ」
三人は再び歩き出した。
闇はまだ続いている。
追手も近い。
出口の先に安全があるとは限らない。
それでも、アビシニアは先ほどより少しだけ息がしやすくなっていた。
希望は、大きな光ではなかった。
王座でも、勝利でも、奇跡でもない。
暗い水路の石の隙間に咲いた、小さな白い花。
そして、それをまた見に来ようと言える誰かがいること。
その程度のものだった。
だが今の彼女には、その程度のものが必要だった。
白い花を置き去りにしてから、しばらく三人は黙って歩いた。
水運路は緩やかに下っている。足元の水は少しずつ深くなり、壁に刻まれた古い水位線が、かつてここをもっと多くの水が流れていたことを示していた。天井は低く、時折、カイが身を屈める。ミラは両手で外套の裾を持ち上げ、転ばないよう慎重に歩いていた。
アビシニアは、先ほどの花を思い出していた。
暗い石の隙間に咲いた白。
それは王宮の南庭に咲いていた花とは違う。手入れされた土も、庭師の手も、湖からの風もない。名も知らない。誰かに見られるために植えられたわけでもない。
それでも、咲いていた。
「ル・メイルみたいでしたね」
ミラがふいに言った。
アビシニアは顔を上げた。
「何がですか」
「さっきの花です」
ミラは少し恥ずかしそうに笑った。
「暗いところに、少しだけ光が差していて。そこに咲いていたから」
アビシニアは答えなかった。
ミラは続けた。
「母がよく言っていました。ル・メイルは、光の国だって」
「光の国」
アビシニアは、その言葉を繰り返した。
それは帝国語に訳された、もっともありふれた解釈だった。
旧王国の民も、子どもにそう教える。ル・メイルは光の国。湖に朝日が差す国。白い石の王都を持つ国。滅びてもなお、人々の記憶の中で美しく輝く国。
だが、本当は少し違う。
「正確には、光そのものではありません」
アビシニアは言った。
ミラが振り返る。
「違うんですか?」
「古い言葉では、ルは光。メイルは、裂け目、境、薄明。夜が終わる前に、闇の中へ細く光が差す場所」
「じゃあ、光の国じゃなくて」
「光差す国」
口にした瞬間、胸の奥が微かに震えた。
光差す国。
幼い頃、教師から何度も聞かされた言葉だ。だが、その時の彼女にとって、それは王国の美称にすぎなかった。詩人が好む言い回し。王族の誇りを飾る古い語。
今は違う。
暗い水路を歩きながらその意味を口にすると、言葉の重さが変わる。
光とは、闇を消すものではない。
闇の中で、足元を知るために差すもの。
ミラは小さく呟いた。
「光差す国……」
その声には、子どもが初めて大切な言葉を手に取る時のような慎重さがあった。
「母は、そこまで知りませんでした。たぶん」
「多くの人は知りません」
アビシニアは言った。
「私も、知っていただけです。分かってはいませんでした」
カイが前を歩きながら、低く口を挟んだ。
「帝国の記録では、少し違う意味で載っている」
アビシニアは足を止めかけた。
「帝国の記録?」
「中央軍の資料庫で見た。ル・メイルは、旧神代機関封鎖領。別名、光差しの封地」
「封地……」
ミラが不安そうに繰り返す。
カイは振り返らない。
「帝国の学士たちは、王冠炉を神代機関と呼んでいる」
その言葉は、水路の闇に重く響いた。
神代。
アビシニアはその語を知っている。
どこの国にも、神代の伝承はある。神々がまだ地上を歩いていた時代。人に火を教え、暦を授け、病を退け、争いを鎮めた存在。古い歌では、神代は黄金の時代として語られる。
だが、ル・メイル王家の教育では、その言葉は少し違う響きを持っていた。
美しい時代ではない。
終わらせなければならなかった時代。
「神々なんて、本当にいたんですか」
ミラが尋ねた。
カイは短く答えた。
「俺は見たことがない」
「でも、王冠炉はある」
「そうだ」
アビシニアは静かに言った。
「神々と呼ばれたものが、本当に神だったかは分かりません」
ミラが彼女を見る。
「王女様でも?」
「王女でも、知らないことはあります」
そう言ってから、アビシニアは少しだけ苦く笑った。
「むしろ、知らないことの方が多い」
それを認めるのは、以前なら屈辱だったかもしれない。
王女は知っていなければならない。
王女は答えを持っていなければならない。
王女は民の前で迷ってはならない。
そう教えられてきた。
だが今は、分からないと言えることが、少しだけ必要に思えた。
「神代の神々は、奇跡を起こしたと伝えられています」
アビシニアは続けた。
「雨を呼び、疫病を鎮め、人々の争いを止めた。けれど、ル・メイルの古い記録では、彼らは奇跡を起こしたのではなく、機関を使ったとされています」
「機関……王冠炉みたいな?」
「ええ。王冠炉は、その一つです」
ミラは顔を曇らせた。
「でも、争いを止められるなら、悪いものじゃない気もします」
その言葉に、アビシニアはすぐには答えられなかった。
以前の彼女なら、即座に否定しただろう。
悪いものです、と。
人の意志に触れるものは許されません、と。
だが、それは本当にミラの疑問に答えることになるのか。
ミラは戦争を知らないわけではない。
むしろ、戦争の後に生まれた子だ。父を知らず、母を難民街で亡くし、帝国の戸籍に薄く記された名前だけで生きてきた。
その子が「争いを止められるなら」と言う時、そこには甘さだけではない。
切実さがある。
アビシニアは慎重に言葉を選んだ。
「争いが止まること自体は、悪いことではありません」
ミラが少し驚いた顔をした。
「でも」
「でも、どう止めるかが問題です」
水路の奥で、滴る水の音がした。
アビシニアは続ける。
「誰かが怒る前に、その怒りを薄める。悲しむ前に、その悲しみを鈍らせる。疑問を持つ前に、疑問そのものを消す。そうして争いを止めるなら、それは平和に見えても、その人のものではありません」
ミラは黙って聞いている。
「痛みは、ない方がいい」
アビシニアは言った。
「私も、そう思います。忘れられるなら、忘れたいことがあります。憎まずに済むなら、どれほど楽かと思うこともあります」
カイがわずかに視線を落とした。
「けれど、誰かに勝手に奪われていいものではない」
ミラは自分の胸元を押さえた。
「悲しいことも?」
「ええ」
「怒ることも?」
「ええ」
「嫌いだって思うことも?」
アビシニアは一瞬、カイを見た。
「ええ」
ミラは考え込んだ。
「難しいです」
「私にも難しい」
アビシニアは正直に言った。
「だから、たぶん神代は終わったのです」
「難しかったから?」
「人が、自分で難しさを引き受けることを選んだから」
その言葉を口にした時、彼女の中で古い誓約の一節が蘇った。
それは王宮の礼拝堂で聞いたものではない。
王族だけが入る地下の石室で、父王が一度だけ読んだ古文書の文言だった。
光とは、闇を消すものではない。
闇の中で、人が自ら歩くために差すものである。
ゆえに、我らは人の選択を奪わない。
ゆえに、我らは神の座に戻らない。
ゆえに、我らは炉を眠らせる。
あの時、幼いアビシニアは退屈していた。
石室は寒く、古文書の字は読みにくく、父の声は儀式の時のように硬かった。早く南庭へ戻りたいと思っていた。
今になって、その言葉が胸を打つ。
なぜ父は、あの日、彼女にそれを聞かせたのか。
王位継承の教育だったのか。
それとも、いつかこの時が来ることを知っていたのか。
「ル・メイルは」
アビシニアは小さく言った。
「光を持つ国ではなかったのかもしれません」
ミラが尋ねる。
「では、何だったんですか」
「光が差す余地を守る国」
答えながら、彼女自身も初めてその意味に触れていた。
「闇を消すのではなく、闇の中でも人が自分の足元を見られるようにする。王冠炉を使って人を導くのではなく、王冠炉を眠らせて、人が迷える余地を残す」
「迷える余地」
「間違える自由、と言ってもいいのかもしれません」
カイが低く言った。
「帝国の皇太子が聞いたら、笑うだろうな」
アビシニアは彼を見る。
「レオンハルト殿下ですか」
カイは頷いた。
「皇太子は、人の時代は失敗したと言っている」
「失敗」
「神代が終わってから、大陸は何度も戦争を繰り返した。飢饉も、反乱も、虐殺もあった。国は滅び、民は流れ、子どもは親を失った。人に選ばせた結果がこれなら、選択の一部を制御する方が慈悲だと」
ミラが小さく言った。
「少し、分かってしまいます」
アビシニアは責めなかった。
「私もです」
ミラが驚いて顔を上げる。
「分かるのですか」
「分かります」
それは苦い告白だった。
「私が王宮から逃げた夜、誰かが私の恐怖を消してくれたら、どれほど楽だったか。父を置いていく痛みを、母の顔を忘れていく苦しみを、誰かが消してくれたらと思ったことがあります」
水の流れが、足元で低く鳴る。
「でも、消されたら、私は何を失ったのかも分からなくなる」
彼女は胸元を押さえた。
「痛みは、失ったものが確かにあった証でもあります」
ミラは黙っていた。
カイも何も言わなかった。
その時、前方から外の音が聞こえた。
水鳥の鳴き声。
風。
雨が広い水面を叩く音。
出口が近い。
カイが手で二人を制した。
「廃船場だ。外に兵がいるかもしれない」
彼は身を低くし、先へ進む。
水運路の先は、半ば崩れた石造りの排水口になっていた。そこから灰色の湖が見える。湖岸には、使われなくなった小舟や壊れた桟橋が並び、雨に濡れた帆柱が黒い骨のように立っていた。
カイは外を確認し、短く言った。
「今は見えない。だが長くはいられない」
ミラがほっと息を吐いた。
アビシニアは出口の手前で立ち止まった。
湖。
ル・メイル王都の湖とは違う。
だが、水面に雨が落ちる様子は、どこか似ていた。
幼い頃、父と母と見た湖。
南庭から見えた白い鳥。
光が水面に細く差していた朝。
光差す国。
その言葉が、胸の中で形を変えていく。
王国は滅びた。
王都は焼かれた。
父も母もいない。
自分は逃げ、隠れ、名を捨てた。
それでも、王国の意味まで滅びたとは限らない。
「リーナさん?」
ミラが呼ぶ。
アビシニアは振り返った。
「ミラ」
「はい」
「あなたのお母様は、ル・メイルを光の国だと言ったのですね」
「はい。何度も」
「その時、どんな顔をしていましたか」
ミラは少し考えた。
「寂しそうでした。でも、少し嬉しそうでもありました」
「そうですか」
「私は、小さかったので、よく分かりませんでした。ただ、母はその話をする時だけ、背筋を伸ばしていました」
アビシニアは目を伏せた。
ミラの母は、王女を待っていたのではないのかもしれない。
王国の再興を夢見ていたのでもないのかもしれない。
ただ、自分たちの過去が、帝国の記録に書かれた敗戦や流民番号だけではないと、子どもに伝えたかったのだ。
光差す国に生まれたのだと。
あなたは、ただの敗者の子ではないのだと。
アビシニアは、今まで難民たちの期待を恐れていた。
彼らは自分に王女を求めているのだと思っていた。
旗を掲げ、復讐を誓い、失われた国を取り戻すことを求めているのだと。
そういう者もいるだろう。
だが、全員ではない。
ある者は、ただ覚えていてほしかったのかもしれない。
自分たちがどこから来たのか。
何を失ったのか。
そして、失ったものの中に、炎だけでなく光もあったことを。
アビシニアは、自分の視野がまた一つ狭かったことに気づいた。
難民たちを「自分に期待する者」としてしか見ていなかった。
ミラを「守るべき子」としてしか見ていなかった。
カイを「帝国兵」としてしか見ていなかった。
人は、そんな一つの言葉で収まるものではない。
分かっていたはずなのに、分かっていなかった。
「行きましょう」
カイが言った。
「ここから北へ抜ける。廃船場の奥に、古い漁師小屋がある。そこで服を替えられる」
アビシニアは頷いた。
三人は排水口から外へ出た。
雨は少し弱まっていた。
湖岸には霧がかかり、遠くの街壁は灰色の影になっている。ヴェルゼンの鐘楼は見えない。軍笛の音も、ここまでは届いていなかった。
だが安全ではない。
街門は封鎖され、帝国軍は彼女を探している。王冠炉は目覚めかけ、帝国の皇太子はその力を求めている。彼女が何者であるかを知る者は増えた。逃げ場は少なくなっていく。
それでも、アビシニアは先ほどより前を見ていた。
希望は、まだ遠い。
それは確かだった。
だが、希望が見えるかと問われれば、今ならこう答える。
見える。
勝利の旗としてではない。
王座の帰還としてでもない。
誰かがすべてを正してくれる奇跡としてでもない。
暗い水路に咲いた白い花。
母が子に伝えた国の名。
謝れば、まだ手を取ってくれる少女。
罪を抱えたまま、それでも止めようとする男。
そして、忘れていた誓約を思い出し始めた自分。
それらはどれも小さい。
けれど、闇を消すには足りなくても、足元を見るには足りる。
アビシニアは湖岸の泥に足を踏み出した。
その時、雲の裂け目から、ほんの一筋だけ光が差した。
湖面に細い銀の線が走る。
ミラが息を呑んだ。
「光……」
カイは空を見上げた。
アビシニアは、その光を見つめた。
ル・メイル。
光差すところ。
彼女は初めて、その名を王国の墓標としてではなく、これから歩く道の名として聞いた気がした。
第三章 光差す名
廃船場の小屋には、火があった。
それは暖炉と呼ぶには貧しく、焚き火と呼ぶには慎重すぎる火だった。
外から見えないよう窓には厚い布が詰められ、煙は壊れた煙突ではなく、床下の古い排気溝へ逃がされている。
そこに集まっていた者たちは、皆、火の扱いを知っていた。
大きく燃やせば見つかる。
小さすぎれば凍える。
それは、滅びた国の記憶とよく似ていた。
「遅かったな、カイ」
小屋の奥から声がした。
声の主は、片腕のない男だった。年は四十を少し過ぎた頃だろう。太い肩をしていたが、頬はこけ、右袖は肘の上で縛られている。漁師のような粗末な服を着ているが、立ち方は兵士に近い。
カイは濡れた外套を脱ぎながら言った。
「追われた」
「見れば分かる」
男の視線が、アビシニアとミラへ移る。
値踏みするような目ではなかった。
だが、警戒は濃い。
「連れが増えている」
「事情が変わった」
「お前が連れてくる事情は、だいたい悪い」
「今回は特に悪い」
男は短く笑った。
そして、アビシニアを見た。
その目が、一瞬だけ止まる。
アビシニアは身構えた。
まただ、と思った。
誰かが自分の顔に、死んだ王国の影を見る。
自分ではもう遠くなったはずの名を、他人の記憶が勝手に掘り起こす。
男は何も言わなかった。
代わりに、奥へ顎をしゃくる。
「まず濡れた服を替えろ。子どもが震えている」
ミラが慌てて首を振った。
「私は大丈夫です」
「大丈夫な者は、そういう顔をしない」
男は木箱から乾いた布を取り出した。
「名前は」
ミラが答える。
「ミラです」
「俺はガラン。ここでは船大工ということになっている」
「本当は?」
ミラが聞くと、ガランは少し笑った。
「本当のことを言うには、ここは壁が薄い」
小屋には、他にも数人いた。
痩せた女が一人。
十歳にも満たない子どもが二人。
老人が一人。
そして、十五、六歳ほどの少年が、入口の陰でこちらを見ている。
彼らは皆、アビシニアを見ていた。
露骨ではない。
だが、見ていた。
彼女はその視線が嫌だった。
期待される前の沈黙。
名を呼ばれる前の息づかい。
膝を折られる直前の、あの耐えがたい間。
「私はリーナ・メルです」
アビシニアは先に言った。
やや強くなりすぎた。
「記録保管所の写字係です。それ以上ではありません」
小屋の中が静まった。
ミラが心配そうに彼女を見る。
ガランは少しだけ眉を上げたが、何も言わない。
代わりに、痩せた女が乾いた服を差し出した。
「奥で替えなさい。ミラも」
「ありがとうございます」
ミラが受け取る。
アビシニアも受け取ったが、女の目を見られなかった。
奥の仕切り布の向こうで、濡れた服を脱ぐ。
指が冷えて、紐がうまく解けない。
ミラが隣で小さく言った。
「怒ってますか」
「誰に」
「みんなに」
アビシニアは答えに詰まった。
怒っているのだろうか。
違う。
たぶん、怖い。
彼らが自分に何かを求めることが。
自分がそれに応えられないことが。
応えられない自分を、また見せつけられることが。
「怒ってはいません」
少し遅れて答えた。
「ただ、私はあの人たちが望むものではありません」
ミラは濡れた髪を絞りながら言った。
「まだ、何も言われてません」
その一言に、アビシニアは手を止めた。
確かに、誰も何も言っていない。
膝もついていない。
王女とも呼んでいない。
旗を掲げてほしいとも、国を取り戻してほしいとも言っていない。
自分が先に拒んだだけだ。
まただ。
彼女は唇を噛んだ。
小屋へ戻ると、ガランが地図を広げていた。
湖岸と、北の湿地帯、旧街道、帝国軍の詰所が粗く描かれている。
カイはその前に立っている。
「街門は封鎖された」
「だろうな」
ガランは炭の欠片で地図に印をつけた。
「陸路は使えん。湖を渡るしかない」
「船は?」
「まともな船は帝国に登録されている。使えば足がつく」
「まともでない船は」
「沈むかもしれん」
カイは少し考えた。
「沈まない方を選べ」
ガランが鼻で笑った。
「簡単に言う」
その時、入口の陰にいた少年が口を開いた。
「北桟橋の底に隠してある小舟なら使える」
ガランが振り返る。
「エル」
「どうせ使うなら今です。隠しておいても、兵が港を調べれば見つかる」
少年はアビシニアを見た。
その目には、敵意に近いものがあった。
「その人を逃がすんでしょう」
アビシニアは、静かに見返した。
「その人、ですか」
「王女様と呼んだ方がいいですか」
小屋の空気が張った。
ミラが息を呑む。
ガランが低く言う。
「エル」
だが少年は止まらなかった。
「皆、分かってる。顔を見れば分かる人には分かる。マルタ婆さんから合図も来た。灰に伏した姫が戻ったって」
アビシニアの胸が硬くなる。
戻った。
その言葉が、重い。
「私は戻っていません」
声が鋭くなった。
「逃げているだけです」
エルは笑った。
若い、傷だらけの笑いだった。
「知ってます。十年前からずっとそうだったんでしょう」
ミラが叫びかけた。
「そんな言い方」
アビシニアが手で制した。
エルの言葉は、彼女自身が何度も自分に言ってきたことだった。
だから、反論できなかった。
エルは続ける。
「俺の父は、王都で死にました。母は流民登録の列で病気になって死にました。妹は帝国の救貧院に連れていかれたまま戻ってこない」
「エル、やめろ」
ガランが言った。
「やめません」
少年の目が赤くなっている。
「俺たちは、ずっと待ってた。王女が生きているなら、いつか何かが変わるって。なのに、あなたは記録保管所で帝国の帳簿を書いていたんですか」
その言葉は、刃だった。
アビシニアは受け止めた。
受け止めるしかなかった。
「そうです」
小屋が静まる。
「私は帝国の帳簿を写していました。ル・メイルの死者名簿も、流民登録も、税の未納記録も。自分の名が死亡者として書かれた紙も写しました」
エルの顔が歪む。
「それで、何も思わなかったんですか」
「思わないようにしていました」
正直に言った。
「思えば、生きていけなかったから」
エルは一瞬言葉に詰まった。
だが、怒りは消えない。
「ずるい」
「そうです」
アビシニアは頷いた。
「ずるかった」
ミラが彼女を見る。
アビシニアは続けた。
「私は、あなたたちに何も約束できません。王国を取り戻すとも、帝国を倒すとも言えません。あなたのお父様も、お母様も、妹さんも、私には返せません」
エルの拳が震える。
「そんなこと、分かってる」
声が掠れていた。
「でも、せめて覚えていてほしかった」
アビシニアは息を止めた。
エルは泣いていなかった。
だが、泣くよりも痛ましい顔をしていた。
「俺たちは、反乱の兵じゃない。旗が欲しいわけでもない。俺はただ、父が死んだ国の名前を、なかったことにされたくなかった」
その言葉が、小屋の火よりも静かに広がった。
アビシニアは、ようやく分かった。
また自分は間違えていた。
彼らが求めているのは、王女の帰還だけではなかった。
王国の再興だけでもなかった。
消されないこと。
帝国の記録に、敗者、流民、反逆分子、未納者としてだけ残されるのではなく、確かに光差す国に生きていたのだと、誰かに覚えていてもらうこと。
その誰かとして、彼らは王女を見ていた。
それは重い。
耐えがたいほど重い。
だが、迷惑と切り捨てていいものではなかった。
アビシニアは、エルの前に歩み寄った。
少年は身構える。
彼女は膝をついた。
小屋の中の全員が息を呑んだ。
王女が民に膝をつく。
その意味を、彼らは知っている。
アビシニア自身も知っている。
だからこそ、あえてそうした。
「あなたのお父様の名を、教えてください」
エルの目が揺れる。
「……何のために」
「覚えるために」
「今さら」
「今さらです」
アビシニアは言った。
「遅すぎるかもしれない。それでも、教えてください」
エルの唇が震えた。
「テオ・ランバル」
「テオ・ランバル」
彼女は繰り返した。
「お母様は」
「イリア」
「イリア・ランバル」
「妹は……リセ。リセ・ランバル」
アビシニアは頷いた。
「テオ、イリア、リセ。私は覚えます」
「覚えたって」
エルは顔を歪めた。
「何も変わらない」
「ええ」
アビシニアは否定しなかった。
「それだけでは、何も変わりません」
彼女は自分の未熟さを感じていた。
何か立派な言葉を言いたい。
彼の痛みを包めるような言葉を。
だが、そんな言葉は出てこない。
だから、正直に言うしかなかった。
「でも、忘れたままでは、私は何も始められない」
エルは黙った。
ミラも、ガランも、カイも、火の前でその姿を見ていた。
やがてガランが低く言った。
「立ってください」
アビシニアは顔を上げる。
ガランは片腕で、自分の胸に手を当てた。
「我々は、あなたに跪いてほしいわけではない」
その言葉は厳しかった。
「我々も、あなたに跪かない。だから、あなたも我々に跪くな」
アビシニアはゆっくりと立ち上がった。
ガランは続けた。
「膝ではなく、名を交わしましょう。そういう時代にするなら」
その言葉に、アビシニアは胸を打たれた。
膝ではなく、名を。
王と民ではなく、人と人として。
それが、光差す国の先にあるものなのかもしれない。
彼女は静かに頷いた。
「私は、アビシニア・ル・メイル」
その名を、自分から口にしたのは十年ぶりだった。
声は震えなかった。
「滅びた王国の王女です。けれど、あなたたちの上に立つために戻ったのではありません」
火が小さく音を立てる。
「私は、まだ未熟です。逃げてきました。間違えます。きっとまた、人を傷つけます」
ミラが彼女を見る。
カイの表情は読めない。
「それでも、覚えます。聞きます。私一人で決めないようにします」
それは誓いというには弱い。
宣言というには頼りない。
だが、今の彼女に言える本当の言葉だった。
エルはしばらく彼女を睨んでいた。
やがて、乱暴に目元を拭った。
「小舟は、俺が出します」
ガランがため息をつく。
「勝手に決めるな」
「名を交わす時代なんでしょう」
エルは不機嫌に言った。
「なら、俺も決めます」
ミラが少し笑った。
アビシニアも、ほんのわずかに口元を緩めた。
その時だった。
外で、鳥が一斉に飛び立つ音がした。
カイがすぐに扉へ向かう。
ガランも火に布をかぶせた。
小屋の中が薄暗くなる。
カイが隙間から外を見て、低く言った。
「兵じゃない」
「では?」
「皇太子旗だ」
空気が凍った。
アビシニアは窓の布の隙間から外を見た。
霧の向こう、湖岸の高台に数騎の騎馬が見える。
先頭に掲げられた旗は、帝国の黒鷲ではない。銀糸で縁取られた白い旗。中央には、片翼だけを広げた鷲。
帝国皇太子の旗。
カイが言った。
「早すぎる」
ガランが唸る。
「中央軍とは別に動いていたか」
アビシニアは、旗の下に立つ一人の人物を見た。
少年だった。
遠目にも分かるほど細い。
雨除けの外套を着ているが、鎧はない。
金に近い淡い髪が、霧の中で白く見える。
彼は馬から降り、湖岸を見下ろしていた。
周囲の兵は剣に手をかけていない。
追跡の構えではない。
待っている。
カイが低く呟いた。
「レオンハルト」
アビシニアは、その名を心の中で繰り返した。
レオンハルト・ヴァルグラント。
帝国皇太子。
王冠炉を求める者。
人の時代に諦めを抱いた少年。
その少年が、雨の湖岸に立っている。
敵にしては、あまりにも静かだった。
そして静かすぎるものほど、アビシニアは恐ろしかった。
皇太子旗を見たあと、小屋の中では誰も大きな声を出さなかった。
恐怖は、叫びになる前の方が重い。
ガランは火を完全に消し、エルは床板の下から古い短剣を取り出した。ミラはアビシニアのそばに立ったまま、外の気配を聞いている。カイだけが扉の隙間から湖岸を見続けていた。
「動かない」
彼は言った。
「囲む気配もない」
「誘っているのか」
ガランが低く問う。
「おそらく」
「罠だな」
「罠ではある」
カイは扉から離れた。
「だが、捕らえるだけならもう兵を入れている。皇太子は話すつもりだ」
アビシニアは外を見なかった。
見れば、考えてしまう。
なぜ同年代の少年が、あの旗の下に立っているのか。
なぜ彼は、帝国の暴力を知りながら、さらに大きな力を求めるのか。
今はまだ、会うべきではない。
そう思った。
会えば、自分の怒りが試される。
未熟さが暴かれる。
そして何より、彼の言葉の一部を理解してしまうかもしれない。
それが怖かった。
「小舟を出す」
エルが言った。
「今なら北の湿地へ抜けられる」
ガランは頷いた。
「霧が濃い。湖面に出れば見つかりにくい」
「なら急ごう」
カイが地図を畳む。
その時、アビシニアの足元がわずかに揺れた。
誰にも気づかれないほど小さな揺れだった。
だがカイだけが振り返った。
「顔色が悪い」
「問題ありません」
反射的に答えた。
「問題ある顔だ」
「あなたに判断されたくありません」
そう言った瞬間、自分でも少し刺々しすぎると思った。
カイは黙った。
ミラが心配そうに近づく。
「リーナさん、少し休んだ方が」
「休んでいる時間はありません」
そう答えたが、体は正直だった。
王冠炉の残響。
逃走。
記憶の奔流。
石の記録を読んだ負荷。
それらが遅れて来ていた。
目の奥が熱い。
耳鳴りがする。
指先が冷たいのに、胸の奥だけが熱を持っている。
アビシニアは壁に手をついた。
カイが近づいた。
「触れません」
彼は先にそう言った。
その言葉に、アビシニアは一瞬だけ目を上げた。
カイは腰の袋から小さな布包みを取り出した。
中には、乾いた黒パンと、薄く切った干し果物が入っていた。
「食べろ」
「今は」
「倒れたら運ぶことになる」
「それは脅しですか」
「事実だ」
彼の言い方は相変わらずだった。
けれど、差し出された干し果物は、半分に割られていた。
ミラの分と、自分の分。
そして彼自身の分はない。
アビシニアはそれに気づいてしまった。
「あなたは」
「俺は後でいい」
「後では来ないかもしれません」
「慣れている」
その言葉が、なぜか腹立たしかった。
自分を粗末にすることに慣れている人間の言い方だった。
アビシニアは干し果物を一切れ取り、もう一切れを彼に押し返した。
「食べてください」
カイがわずかに眉を動かす。
「君が食べろ」
「私は命令しています」
「王女としてか」
「いいえ」
アビシニアは、少しだけ言葉に迷った。
そして、静かに言った。
「同行者としてです」
カイは黙った。
ミラがそっと笑う。
ガランは見ないふりをしている。
カイはしばらく干し果物を見ていたが、やがて受け取った。
「分かった」
それだけ言って、彼は食べた。
ただそれだけのことだった。
けれど、アビシニアは妙に落ち着かなくなった。
礼を言われたわけでもない。
優しい言葉をかけられたわけでもない。
手を取られたわけでもない。
それなのに、自分が彼の空腹を気にしたことが、ひどく不自然に思えた。
王女としてではない。
敵への慈悲でもない。
必要な駒を保つためでもない。
ただ、この人が何も食べずにいるのが、少し嫌だった。
その感情に名前をつけるほど、アビシニアはまだ自分を知らなかった。
「行くぞ」
カイは何事もなかったように言った。
アビシニアは頷く。
小屋の裏口から出る時、雨はほとんど止んでいた。
湖の上には霧が低く漂い、廃船の影が水面に歪んで映っている。エルが先導し、壊れた桟橋の下へ回り込む。そこには、藻と古布で隠された小舟があった。
小さな舟だった。
三人乗れば沈みそうに見える。
「本当にこれで?」
ミラが不安そうに聞く。
エルはむっとした顔で答えた。
「沈まない。たぶん」
「たぶん」
「湖を信じろ」
「舟を信じたいです」
ガランが短く笑った。
その小さな笑いに、張り詰めた空気が少しだけ緩む。
アビシニアも、ほんのわずかに息を吐いた。
乗り込む時、舟が大きく揺れた。
アビシニアは体勢を崩しかける。
その腕を、カイが掴んだ。
強くもなく、弱くもなく。
逃げる余地を残した掴み方だった。
彼はすぐに手を離した。
「すまない」
短い謝罪。
アビシニアは、少し遅れて首を振った。
「助かりました」
それだけ言うのに、なぜか胸が苦しかった。
カイは何も返さず、櫂を取った。
舟は音を立てず、霧の中へ滑り出す。
岸では、ガランとエルが見送っていた。
エルは最後まで手を振らなかった。
ただ、じっとこちらを見ていた。
アビシニアは、その視線を受け止めた。
覚える。
そう約束した。
舟が廃船場を離れる。
霧が濃くなり、岸の姿が薄れていく。
その向こうに、皇太子旗がまだ立っていた。
レオンハルトは追ってこなかった。
ただ、霧の向こうから見ている。
まるで、こちらがどの道を選ぶのかを確かめるように。
アビシニアは膝の上で手を握った。
まだ会わない。
だが、いつか必ず会う。
その時、自分は今より少しでも広い目で、彼を見られるだろうか。
舟の中で、ミラが小さなくしゃみをした。
カイは黙って自分の外套を脱ぎ、ミラにかけた。
ミラが驚く。
「でも、カイさんが寒いです」
「漕いでいるから寒くない」
嘘だった。
彼の指先は白くなっていた。
アビシニアはそれを見て、何か言おうとした。
だが、言葉が見つからなかった。
代わりに、自分の肩掛けを外し、カイの膝の上に置いた。
カイが彼女を見る。
「これは」
「濡れていますが、ないよりはましです」
「君が寒い」
「私は寒さに強いのです」
今度は彼が少しだけ目を細めた。
「嘘が下手だな」
「あなたほどではありません」
ミラが肩を震わせて笑った。
カイも、ほんのわずかに口元を緩めた。
それは笑みと呼ぶには淡すぎた。
霧の中ですぐ消えてしまいそうな表情だった。
けれどアビシニアは、なぜか目を逸らした。
胸の奥に、知らない温度が灯っていた。
それは恋と呼ぶには小さく、信頼と呼ぶにはまだ危うい。
だが、憎しみだけでは説明できないものが、確かにそこにあった。
湖面に、雲の切れ間から差した光が揺れる。
舟はその細い光の上を、静かに進んでいった。
小舟は、思っていたよりも狭かった。
船底には古い水が少し溜まり、板の継ぎ目から冷気が上がってくる。櫂を握るのはカイ。その前にアビシニアとミラ。船首にはエルが座り、霧の向こうを睨むように見ている。
エルも乗ることになったのは、出発の直前だった。
「北の湿地は、俺がいないと抜けられない」
彼はそう言った。
ガランは反対した。
「お前は残れ」
「嫌です」
「子どもの意地で舟に乗るな」
「意地じゃない」
エルは、アビシニアを一度だけ見た。
「この人が本当に名を覚えるのか、見届ける」
それは信頼ではなかった。
むしろ、疑いだった。
だがアビシニアは、それを拒まなかった。
「来てください」
自分でも意外なほど、すぐに言えた。
エルは少しだけ目を見開いた。
ガランは深く息を吐いた。
「なら、戻る道も覚えてこい」
「戻るつもりで行きます」
「つもりではなく、戻れ」
その言葉には、命令よりも祈りに近い響きがあった。
エルは答えず、舟に乗った。
ガランは岸に残った。
片腕の男は最後まで手を振らなかった。
ただ、胸に手を当てた。
膝ではなく、名を。
アビシニアは舟の中から、その仕草に同じように返した。
名を交わす時代にするなら。
その言葉が、まだ胸に残っていた。
舟は霧の中へ進んだ。
廃船場の影が薄れ、湖岸の小屋も、ガランの姿も、皇太子旗も、すべて白い霧に飲まれていく。水面は静かだったが、遠くでは兵の声が微かに響いている。湖上に出たからといって、安全になったわけではない。
「右」
エルが短く言った。
カイは黙って櫂を動かす。
「もっと浅く。音が出る」
「分かっている」
「分かってるなら、さっきの音は何ですか」
「舟が古い」
「櫂の入れ方が悪い」
カイは返事をしなかった。
ミラが小声でアビシニアに言う。
「二人とも、仲が悪いんでしょうか」
「たぶん、悪くはないのでしょう」
「そう見えますか?」
「少なくとも、エルは本当に嫌いな相手には道を教えないと思います」
ミラは少し考えた。
「じゃあ、カイさんは?」
アビシニアはカイの背を見た。
濡れた外套を着たまま、無駄のない動きで櫂を操っている。肩には疲労が見える。だが、弱音は吐かない。
「カイは」
言いかけて、言葉に迷った。
帝国兵。
脱走兵。
罪人。
案内人。
同行者。
どれも正しい。
どれも足りない。
「まだ、分かりません」
ミラは頷いた。
「分からないって言うの、増えましたね」
アビシニアは少しだけ目を伏せた。
「悪いことですか」
「いいことだと思います」
ミラは真面目な顔で言った。
「前は、分からないことも分かっているみたいに言っていました」
その指摘は痛かった。
だが、不思議と腹は立たなかった。
「そうですね」
アビシニアは認めた。
「私は、知らないことが多い」
船首でエルが鼻を鳴らした。
「王女様なのに?」
「王女でもです」
「便利な言い方ですね」
「そうかもしれません」
アビシニアはエルを見る。
「だから、あなたに聞きます。北の湿地には何がありますか」
エルは警戒したように眉を寄せた。
「なぜ」
「知らないからです」
「カイに聞けばいい」
「カイは軍の抜け道を知っている。あなたは、そこに住む人の道を知っている」
エルは黙った。
カイの櫂が一度だけ水を押す。
ミラが二人を見比べる。
やがてエルは、霧の向こうを見たまま言った。
「北の湿地には、流民の小屋がいくつかある。漁師じゃない。戸籍から漏れた人たち。帝国の救貧院から逃げた子どももいる」
「妹さんも、そこに?」
エルの肩が強張った。
アビシニアは、すぐに言いすぎたと分かった。
「すみません」
エルは振り返らなかった。
「分からない」
声が低かった。
「リセがそこにいるかもしれない。いないかもしれない。何度か探した。でも、救貧院から出た子どもは名前を変えられる。番号で呼ばれて、別の地区に送られる。死んでいても、記録には残らないことがある」
アビシニアの胸が重くなる。
記録。
彼女は十年間、記録を書いてきた。
だが、記録に残らない者たちがいた。
記録されることで消される者もいれば、記録されないことで消える者もいる。
「私は」
アビシニアは言いかけた。
謝罪の言葉は、あまりにも軽い。
「探します」
エルが振り返った。
「何を」
「リセ・ランバルを。約束はできません。見つけられるとも言えません。でも、探すことはできます」
「どうやって」
「記録保管所の帳簿を知っています。救貧院の転送記録、流民番号、地区移送の書式も。帝国が人を消す時の書き方も」
エルの顔に、怒りとも期待ともつかない表情が浮かんだ。
「それを、今まで帝国のために書いていたんでしょう」
「ええ」
「なら、信用できない」
「それで構いません」
アビシニアは言った。
「信用できなくても、見張っていてください。私が逃げないように」
エルは何か言い返そうとして、やめた。
ミラが小さく息を吐いた。
カイは何も言わず、舟を進めている。
霧の中で、湖面に細い波が立った。
遠くで鐘が鳴る。
一つ。
二つ。
三つ。
エルが顔を上げた。
「巡視艇です」
カイの動きが止まる。
「どこだ」
「南東。鐘の間隔が短い。港から出たばかり」
「見えるか」
「霧で見えない。でも音は近づいてる」
ミラの顔が青ざめる。
アビシニアは周囲を見た。
白い霧。
灰色の水。
隠れる場所はない。
「湿地までは?」
カイが問う。
「まだ遠い」
「なら、廃杭群へ入る」
エルがすぐに首を振った。
「あそこは浅すぎる。舟底を擦ります」
「巡視艇よりはましだ」
「音が出る」
「出さないようにする」
「できるんですか」
「やる」
エルは舌打ちした。
「左。霧の濃いところ。杭が見えたら、そこからは俺が指示する」
舟は進路を変えた。
霧の中から、黒い杭が一本、また一本と現れる。かつて漁網を張るために打たれたものだろう。今は朽ち、傾き、水面から突き出している。舟が少しでもぶつかれば音が響く。
カイは櫂を浅く入れた。
エルは船首で身を乗り出し、手で合図する。
「右。止めて。少しだけ前。違う、押すな。流れに乗せて」
「命令が多い」
「下手だからです」
「なら代われ」
「腕の長さが足りない」
ミラが思わず小さく笑った。
その笑いは、すぐに自分で口を押さえるほど小さなものだった。
だが、舟の中の緊張を少しだけ和らげた。
アビシニアも、ほんの少しだけ息を吐いた。
その瞬間、舟が杭に擦れた。
ぎ、と低い音がした。
全員が凍る。
遠くの鐘が止まった。
水面の向こうから、男たちの声が聞こえる。
「今の音か?」
「北だ。霧の中を探せ」
ミラの手が震えた。
アビシニアは反射的に、その手を握ろうとした。
だが、止めた。
そして小さく尋ねる。
「握っても?」
ミラは驚いたように彼女を見て、それから頷いた。
「はい」
アビシニアはミラの手を握った。
冷たい手だった。
自分の手も冷たい。
けれど、握る前に尋ねられたことが、今の彼女には大事だった。
エルが振り返り、二人の手を見た。
何も言わなかった。
カイが舟を止めた。
「動くな」
霧の向こうで、巡視艇の櫂音が近づく。
帝国兵の声。
「灯りを上げろ」
淡い光が霧の中に滲んだ。
このままでは見つかる。
アビシニアの耳の奥で、低い律動が鳴った。
使えば、巡視艇の兵の注意を逸らせるかもしれない。
恐怖を薄め、別の方向を見させることもできるかもしれない。
だが、それは人の意志に触れることだ。
彼女は唇を噛んだ。
「使うな」
カイが低く言った。
アビシニアは彼を見る。
「何を」
「君が今考えたこと」
「分かるのですか」
「顔に出ている」
エルが小声で言う。
「何の話ですか」
アビシニアは答えなかった。
カイは続けた。
「人に触れずに済む方法を探せ」
その言葉は、命令ではなかった。
信頼でもない。
ただ、彼が彼女の選択を待っている言葉だった。
アビシニアは目を閉じた。
人に触れない。
意志を動かさない。
記憶を奪わない。
なら、何に触れる。
舟。
水。
杭。
霧。
古い漁場の痕跡。
彼女は指先を船底に当てた。
古い木の冷たさが伝わる。
この舟は何度も湿地を渡っている。
夜。雨。密航。子どもの泣き声。魚の匂い。隠された荷。ガランの片腕での修理。エルの苛立った手つき。ミラではない誰かの震える膝。
そして、廃杭群の奥にある沈んだ網。
水面の下、朽ちた網がまだ杭に絡んでいる。
「エル」
アビシニアは目を開けた。
「この先、左に沈んだ網がありますか」
エルが驚く。
「ある。古い網だ。舟が絡むから避ける」
「巡視艇は?」
「大きいから、絡めば動けなくなる」
カイがすぐに理解した。
「誘い込む」
「人には触れません」
アビシニアは言った。
「水路の記録を読んだだけです」
エルが呆然とする。
「何なんですか、それ」
「説明は後です」
カイは舟をわずかに動かした。
「エル、案内しろ」
エルは一瞬迷い、それから頷いた。
「右へ寄せて。こっちは通れる。巡視艇から見れば、逃げ道に見える」
舟は杭の間を滑った。
わざと、ほんの少しだけ音を立てる。
霧の向こうで兵が叫ぶ。
「いたぞ、あっちだ!」
巡視艇の櫂音が近づく。
エルが低く言う。
「今、止めて」
カイが舟を止める。
「少し下がる」
「下がれるのですか」
ミラが小声で聞く。
「下がらなければ沈む」
カイは短く答えた。
エルが苛立つ。
「縁起でもないこと言うな」
次の瞬間、霧の向こうで大きな音がした。
木が裂ける音。
兵の怒号。
水が跳ねる音。
巡視艇が沈んだ網に絡んだのだ。
「何だこれは!」
「櫂を上げろ!」
「動けません!」
カイは舟を押し出した。
「今だ」
小舟は霧の中を抜ける。
ミラが息を殺している。
エルはまだ緊張したまま前を見ている。
アビシニアは船底から手を離した。
指先が震えていた。
王冠炉の力を使った。
だが、人の意志には触れなかった。
それでも怖かった。
自分がどこまでなら許されるのか、まだ分からない。
正しい使い方など、本当にあるのかも分からない。
「今のは」
エルが振り返った。
「王家の力ですか」
アビシニアは答えに迷った。
隠したい。
ごまかしたい。
怖がられたくない。
だが、彼は舟に乗っている。
命を預け合っている。
「そうです」
彼女は言った。
「ただし、魔法ではありません。人や物に残った記録を読む力です」
「人にも?」
エルの声が硬くなる。
「触れようと思えば」
ミラの手がわずかに強くなる。
アビシニアは、その手を握り返した。
「でも、触れません。勝手には」
エルは疑うように彼女を見た。
「本当に?」
「本当に、と言い切れるほど、私は強くありません」
正直に言った。
「だから、見張っていてください。私が間違えそうになったら、止めてください」
エルは黙った。
カイが櫂を動かしながら言った。
「俺一人では足りない。見張る目は多い方がいい」
エルはカイを睨む。
「何で俺が」
「君が乗ると言った」
「そうだけど」
ミラが小さく言った。
「私も見ます」
アビシニアはミラを見る。
ミラは震えながらも、真剣な顔をしていた。
「リーナさんが私に聞いてくれるようになったから、私も言います。怖い時は怖いって。嫌な時は嫌だって」
その言葉に、アビシニアの胸が温かくなった。
「ありがとう」
素直に言えた。
エルはしばらく黙っていたが、やがて不機嫌そうに言った。
「じゃあ、俺も見ます」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。信用してないだけです」
「それでも」
アビシニアは頷いた。
「それでも、助かります」
エルは顔を背けた。
その耳が少し赤いことに、ミラが気づいて笑いそうになり、慌てて下を向いた。
舟の空気が、ほんの少し変わった。
恋ではない。
和解でもない。
信頼と呼ぶには、まだ早い。
だが、同じ舟に乗る者たちの間にだけ生まれる、奇妙な連帯があった。
誰か一人が全てを背負うのではなく、誰か一人を神聖なものとして崇めるのでもなく。
見張る。
止める。
支える。
疑う。
それでも一緒に進む。
それは、アビシニアがまだ知らなかった共同性だった。
やがて霧の向こうに、葦の影が見え始めた。
北の湿地だ。
エルが小さく息を吐く。
「着きます」
ミラも肩の力を抜いた。
その時、カイが自分の外套をミラにかけた。
「震えている」
ミラは驚いた。
「でも、カイさんが」
「漕いでいるから寒くない」
エルが即座に言った。
「嘘ですね」
カイは黙った。
「指、白いです」
ミラも気づく。
アビシニアは、カイの手を見た。
確かに、櫂を握る指が冷えきっている。
先ほどなら、彼女は何も言わなかったかもしれない。
気づいても、見ないふりをしたかもしれない。
帝国兵だったから。
罪があるから。
自分が気遣う理由などないから。
だが今は、舟の中に四人いる。
誰かが倒れれば、全員が危うい。
それだけではない。
彼が何も言わずに寒さを引き受けることが、少し腹立たしかった。
「カイ」
アビシニアは言った。
「外套はミラに。けれど、あなたも手を温めてください」
「今は無理だ」
「では、少し止まって」
「止まれない」
エルが前を見ながら言う。
「もうすぐ葦の影に入る。そこなら止められる」
アビシニアは頷いた。
「では、そこで」
カイが彼女を見る。
「必要ない」
「必要かどうかは、あなた一人で決めないでください」
その言葉は、彼に向けたものだった。
だが同時に、自分自身にも向けていた。
カイは黙った。
エルが小さく笑った。
「言われてますよ」
「聞こえている」
「返事は?」
「……分かった」
ミラが嬉しそうに笑った。
アビシニアは、自分が少し強引だったかもしれないと思った。
だが、今度の強引さは、相手の意志を奪うものではない。
少なくとも、そうでありたいと思った。
葦の影に入ると、舟はようやく止まった。
アビシニアは自分の肩掛けを外し、カイの手にかけた。
直接触れないように。
けれど、逃げ道を残すように。
「濡れていますが、ないよりはましです」
カイは肩掛けを見た。
「君が寒い」
「私はミラと半分使います」
ミラがすぐに頷いた。
「はい。二人で使えば大丈夫です」
エルが不満そうに言う。
「俺は?」
ミラが真面目に自分の外套の端を差し出した。
「エルも入りますか」
「入らない」
「寒くないんですか」
「寒いけど入らない」
「なぜ?」
「狭いからです」
ミラは少し考えた。
「では、端だけ」
「だから」
アビシニアは思わず小さく笑った。
本当に小さな笑いだった。
だが、笑った自分に驚いた。
エルが不機嫌そうにこちらを見る。
「何ですか」
「いえ」
「笑いましたよね」
「少し」
「王女様でも笑うんですね」
以前なら、その呼び方に身構えただろう。
だが今は、少しだけ違った。
「たぶん」
アビシニアは答えた。
「私も、まだ自分のことをよく知りません」
エルは何か言おうとして、やめた。
カイは肩掛けで手を包みながら、低く言った。
「それでいい」
アビシニアは彼を見た。
「何がですか」
「知っているつもりでいるよりは」
その言葉は短かった。
けれど、彼らしい慰めなのだと分かった。
アビシニアは目を伏せた。
胸の奥に、また知らない温度が灯る。
それは誰か一人に向かうものではなかった。
ミラの手の温かさ。
エルの不器用な怒り。
カイの短い言葉。
ガランが岸に残してくれた小舟。
名前を覚えてほしいと願った者たち。
それらが、少しずつ彼女の中で絡まり合っている。
恋と呼ぶにはまだ遠い。
だが、人を気にかけるということの入口に、彼女は立っていた。
そして、その入口は思っていたよりも騒がしく、面倒で、温かかった。
葦の向こうで、朝に近い薄明が広がり始めている。
ル・メイル。
光差すところ。
闇はまだ消えない。
けれど、同じ舟に乗る者たちの顔が、少しずつ見えるようになっていた。
北の湿地には、地図に載らない家があった。
家と呼ぶには低く、巣と呼ぶには人の手が入りすぎている。葦を編んだ壁、泥を塗った屋根、古い帆布で塞がれた入口。帝国の税吏が来れば一晩で消え、巡視兵が去れば翌朝にはまた煙が上がる。
そこに住む者たちは、国を持たなかった。
だが、名前だけは持っていた。
ある者は本当の名を。
ある者は失った名を。
ある者は、誰にも呼ばれなくなった名を。
小舟が葦の間へ滑り込むと、最初に子どもの目が見えた。
泥の塀の隙間から、いくつもの小さな目がこちらを見ている。警戒と好奇心。飢えと素早さ。逃げることを覚えた子ども特有の、静かな身構え。
エルが船首から降りた。
「俺だ」
葦の奥から、少年の声が返る。
「合図は」
エルは面倒そうに言った。
「湖に沈めた靴は片方だけ」
少し間があった。
「誰の靴?」
「ガランのじゃない。あの人は片腕だけで十分目立つ」
葦の奥で、誰かが小さく笑った。
張り詰めた気配が少し緩む。
やがて、泥と葦で作られた低い通路が開いた。小舟はそこへ押し込まれ、四人は湿った地面に降りた。
足元は柔らかい。
一歩ごとに泥が靴底を吸う。
ミラはふらつき、アビシニアは咄嗟に手を伸ばした。
けれど、触れる前に聞いた。
「手を貸しても?」
ミラは少し笑った。
「はい」
その小さなやり取りを、エルが横目で見ていた。
何も言わなかった。
湿地の集落は、思っていたよりも広かった。
葦の背丈に隠れるように、小屋が六つ、七つ。中央には水を受ける浅い桶が置かれ、煙の出ない炉で何かが煮られている。魚と野草の匂いがした。
大人は少ない。
老人が二人。
若い女が一人。
あとは子どもばかりだった。
「ここは?」
アビシニアが尋ねる。
エルは短く答えた。
「流れ損ねた場所」
「流れ損ねた?」
「救貧院から逃げた子、戸籍から漏れた子、親が死んで行き場がない子。港で働けない年寄り。そういう人が来る」
「誰が面倒を?」
「誰か」
エルは肩をすくめた。
「決まってない。食べ物を持ってこられる人が持ってくる。舟を直せる人が直す。熱を出した子がいれば、薬草を知ってる婆さんが見る。全員、足りないまま何とかしてる」
ミラが小さく言った。
「難民街と似ています」
「難民街より悪い。ここは地図にもない」
エルの声には、慣れた者の苦さがあった。
その時、集落の奥から少女が走ってきた。
十歳ほどだろうか。痩せていて、髪は短く切られている。片方の袖が破れ、頬に泥がついていた。
「エル!」
少女は笑っていた。
その顔を見た瞬間、エルが固まった。
本当に、呼吸すら忘れたように。
アビシニアは、その変化に気づいた。
少女はエルの前で止まり、首を傾げる。
「どうしたの」
エルは答えない。
その目は少女を見ているが、目の前の少女を見ていない。
もっと遠い誰かを見ている。
「リセ……?」
声は、ほとんど息だった。
少女の笑顔が消えた。
周囲の子どもたちも黙る。
カイが目を伏せた。
ミラがアビシニアの袖を握る。
少女は困ったように言った。
「違うよ。私はニナ」
エルの顔から血の気が引いていく。
「でも」
「ニナ。前にも言った」
「髪が」
「切っただけ」
「年が」
「知らない」
少女は少し苛立ったように言った。
「私はリセじゃない」
その一言で、エルの何かが崩れた。
彼は後ずさった。
「そうだな」
声が乾いていた。
「違う。分かってる」
ニナは気まずそうに視線を落とした。
「ごめん」
「謝るな」
エルの声が荒くなる。
「謝るなよ。お前は悪くない」
そう言って、彼は踵を返した。
アビシニアは思わず呼び止めた。
「エル」
彼は振り向いた。
その顔には、怒りがあった。
だが、それは誰かを責める怒りというより、自分が砕け散らないように握りしめている火のようだった。
「探すって言いましたよね」
エルは低く言った。
「あなたは、さっき簡単に言った。探すって」
アビシニアは息を呑む。
「簡単に言ったつもりは」
「言いました」
エルの声が強くなる。
「記録を見れば分かるみたいに。帳簿を読めば、消えた子どもが戻ってくるみたいに」
「そういう意味では」
「じゃあ、どういう意味ですか」
アビシニアは答えられなかった。
エルは一歩近づく。
「リセは番号で呼ばれていたかもしれない。名前を変えられたかもしれない。死んでるかもしれない。誰かに売られたかもしれない。全部分かってる。それでも探すしかないから探してるんです」
彼の声が震える。
「そこへ、あなたが来て、覚えるとか、探すとか、そういうことを言う」
アビシニアは、言葉を失っていた。
エルは泣いていなかった。
けれど、泣くよりも苦しそうだった。
「あなたに言われると、信じたくなる」
その言葉は、怒鳴り声より痛かった。
「信じたくないのに。裏切られたくないのに。もう何回も違ったのに。また、もしかしたらって思う」
アビシニアの胸が詰まる。
約束とは、こういうものなのだ。
言う側の慰めではない。
聞く側の傷に触れるものだ。
自分は、彼の名を覚えたいと思った。
妹を探したいと思った。
その気持ちは嘘ではない。
だが、真実だからといって、軽く差し出してよいわけではなかった。
「ごめんなさい」
アビシニアは言った。
エルの顔が歪む。
「謝らないでください」
「でも」
「謝ったら、俺がひどいことを言ったみたいになる」
「あなたは、ひどいことを言っていません」
「言ってます」
「言っていません」
その時だけ、アビシニアの声は少し強くなった。
エルが黙る。
「あなたは、失ったものを失ったと言っているだけです。怒っているだけです。疑っているだけです。それは、ひどいことではありません」
エルの唇が震えた。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
その問いは、少年のものだった。
怒れる難民でも、案内役でもない。
妹を失ったかもしれない兄の声だった。
「俺は、どうすればいいんですか」
アビシニアは、答えを探した。
見つからなかった。
だから、正直に言った。
「分かりません」
エルの目に失望が浮かぶ。
それでも、彼女は逃げなかった。
「でも、一緒に分からないまま探すことはできます」
「そんなの」
「足りません」
アビシニアは頷いた。
「足りないと思います。あなたが欲しい答えではないと思います。私にも、リセを返す力はありません」
彼女は一度息を吸った。
「それでも、私はあなたの妹を、帳簿の番号としてではなく、リセ・ランバルとして探します」
エルは何も言わなかった。
ニナが、少し離れたところで二人を見ている。
ミラも、カイも、集落の子どもたちも。
この場の全員が、名前を失う怖さを知っていた。
エルはやがて顔を背けた。
「信じません」
「はい」
「でも、見張ります」
「お願いします」
「逃げたら、怒ります」
「覚えておきます」
「忘れたら」
「その時は、もう一度言ってください」
エルは苦しそうに笑った。
「王女様って、思ったより面倒ですね」
アビシニアは少しだけ目を伏せた。
「私も、そう思います」
ミラが堪えきれず、少し笑った。
その笑いにつられたのか、ニナも小さく笑った。
エルはむっとした顔をしたが、怒鳴らなかった。
それだけで、場の空気が少し戻った。
カイが静かに言った。
「長居はできない」
現実が戻ってくる。
追手。
皇太子旗。
王冠炉。
帝国。
湿地の小さな集落は、外の世界から隠れているように見えて、その実、いつでも踏み潰される場所だった。
若い女が近づいてきた。
年は二十代後半ほど。痩せているが、目は鋭い。
「カイ、あんたがここに来る時はいつも面倒を連れてくる」
「否定しない」
「この人たちは?」
カイが答える前に、アビシニアが言った。
「アビシニア・ル・メイルです」
集落の空気が止まった。
女の目が細くなる。
子どもたちがざわめく。
エルが驚いたようにアビシニアを見た。
名乗るつもりではなかった。
少なくとも、今朝までの彼女なら名乗らなかった。
けれど、ここでは隠したまま助けを受けることが、何か違う気がした。
膝をつかせるためではない。
期待を受け入れるためでもない。
ただ、名を交わすために。
「追われています」
アビシニアは続けた。
「帝国は私を王冠炉の鍵として探しています。ここにいることが知られれば、この集落も危険になります」
女は腕を組んだ。
「それを正直に言えば、助けてもらえると?」
「いいえ」
アビシニアは首を振った。
「断る権利があると思っただけです」
女は少しだけ表情を変えた。
それは驚きだったかもしれない。
「断れば?」
「ここを出ます」
「どこへ?」
「分かりません」
「また分かりませんか」
エルがぼそりと言った。
アビシニアは彼を見た。
「ええ。分かりません」
エルは今度は笑わなかったが、目を逸らした。
女はしばらくアビシニアを見ていた。
やがて言った。
「私はサーシャ。ここでは薬と食べ物の番をしている」
「サーシャ」
アビシニアはその名を繰り返した。
サーシャは頷いた。
「王女だろうが鍵だろうが、ここでは働ける者は働く。怪我人は手当てする。食べるなら手伝う。祈られたいなら別の場所へ行って」
アビシニアは、少しだけ胸が軽くなった。
「分かりました」
「まず、その子の頬」
サーシャはミラを見た。
「腫れてる。兵にやられた?」
ミラが頷く。
「はい」
「冷やす。ニナ、水草の布を持ってきて」
ニナが走っていく。
ミラは戸惑いながらアビシニアを見る。
アビシニアは頷いた。
「行って」
ミラは小さく頷き、サーシャについていった。
その後ろ姿を見送りながら、アビシニアは気づいた。
自分がついていかなくても、ミラは大丈夫かもしれない。
いや、大丈夫であってほしいと思う自分がいる。
守るとは、常にそばに置くことではない。
そのことを、彼女はまだ学び始めたばかりだった。
エルは集落の端へ歩いていった。
先ほどのニナが、彼の近くを少し距離を取りながら歩いている。
「エル」
アビシニアが呼ぶと、彼は振り返らずに言った。
「少し一人にしてください」
「分かりました」
その返事に、エルは振り返った。
彼女が追いかけてくると思っていたのかもしれない。
慰めようとすると思っていたのかもしれない。
アビシニアは動かなかった。
ただ言った。
「でも、遠くへは行かないでください。探しますから」
エルは何か言おうとして、やめた。
「……はい」
小さく答え、葦の向こうへ消えた。
カイが隣に立った。
「変わったな」
アビシニアは彼を見た。
「少しだけです」
「少しでいい」
「あなたは、いつも十分だとか少しでいいとか言いますね」
「本当にそう思っている」
カイは湿地の奥を見た。
「急に変わる者は、急に壊れる」
その言葉には、経験の重さがあった。
アビシニアは尋ねかけて、やめた。
聞くべき時ではない。
彼にも、話す時を選ぶ権利がある。
「いつか」
彼女は言った。
「あなたのことも、聞いていいですか」
カイは少しだけ沈黙した。
「聞いて楽しい話ではない」
「楽しい話だけを聞きたいわけではありません」
「聞けば、俺をもっと憎むかもしれない」
「もう十分憎んでいます」
カイが彼女を見る。
アビシニアは、自分でも少し驚くほど穏やかに続けた。
「でも、憎むためだけに聞くのではありません」
カイは答えなかった。
だが、拒みもしなかった。
湿地の上に、薄い光が広がっていく。
朝だった。
長い夜が終わりかけている。
だが、夜が終わることと、危険が去ることは同じではない。
湿地の外では、帝国が動いている。
皇太子は待っている。
王冠炉は目覚めようとしている。
それでも、アビシニアは今、少しだけ分かり始めていた。
人を知ることは、歩みを遅くする。
怒りだけで進むより、ずっと面倒で、傷つきやすい。
聞けば背負うものが増える。
名を覚えれば、失うことが怖くなる。
けれど、名を知らないまま守る未来など、きっと王冠炉の作る平和と変わらない。
アビシニアは湿地の小さな集落を見渡した。
子どもたちの名。
エルの妹の名。
サーシャの名。
ミラの選ぶ意志。
カイのまだ語られない過去。
光差す国とは、もしかすると、そういうものを一つずつ見落とさないための名だったのかもしれない。
闇を消すのではなく。
闇の中にいる人の顔を、ひとりずつ見えるようにするための。
朝の湿地には、静けさがなかった。
鳥の声。
水草を踏む音。
子どもたちが低く言い合う声。
鍋の中で煮える野草の音。
遠く、湖の向こうから届く帝国軍の鐘。
隠れて暮らす者たちは、静かにしているのではない。
見つからない大きさで、生きているのだ。
アビシニアは、サーシャに渡された木桶を持って、集落の端にある水場へ向かった。
「王女にも水汲みをさせるのですか」とミラが慌てたが、サーシャは平然と言った。
「ここで一番手が空いているのは、その王女だよ」
ミラは言い返せなかった。
アビシニアも、言い返さなかった。
水場には、葦の根元を掘って作った浅い井戸があった。濁った水を布で濾し、煮沸して使うらしい。王宮の白い井戸とは似ても似つかない。けれど、ここではこれが命をつないでいる。
桶に水を汲んでいると、背後から声がした。
「持ち方が違う」
エルだった。
目元は少し赤いが、先ほどより落ち着いている。
「こうですか」
アビシニアが持ち直すと、エルは眉をひそめた。
「違う。そんな持ち方だと、半分こぼす」
彼は近づき、桶の取っ手を掴んだ。
「片手で釣るんじゃなくて、腰に寄せる。泥に足を取られるから、重さを体の横に逃がす」
「慣れていますね」
「ここで王女歩きをする人はいませんから」
嫌味だった。
だが、刺すためというより、距離を測るための言葉に聞こえた。
アビシニアは桶を持ち直した。
「王女歩きとは?」
「地面が裏切らないと思ってる歩き方です」
思わず黙った。
エルの言う通りだった。
彼女は王宮でも記録保管所でも、床が沈むとは考えずに歩いていた。足元は常に固いものだと思っていた。ここでは違う。一歩ごとに、泥が判断を求めてくる。
エルは少し視線を逸らして言った。
「……リセも、最初はよく転びました」
アビシニアは動きを止めなかった。
聞いてよいのか迷った。
けれど、彼が名前を出したのだ。
「ここに来たことがあるのですか」
「一度だけ」
エルは井戸の縁に腰を下ろした。
「救貧院に入れられる前。母がまだ生きていた頃、ここに隠れたんです。リセは泥が嫌いで、ずっと泣いていた。靴が汚れたって」
彼の声は、怒りではなく記憶の声だった。
「でも三日目には、誰より早く蛙を捕まえてた」
アビシニアは小さく言った。
「強い子だったのですね」
「強いというか、負けず嫌い」
エルの口元が少し緩んだ。
すぐに消えた。
「生きていれば、今は十歳です」
生きていれば。
その言葉の後、湿地の鳥の声が妙に大きく聞こえた。
アビシニアは何か言いかけ、やめた。
慰めは違う。
希望を押しつけるのも違う。
諦めを促す権利もない。
だから、ただ言った。
「十歳のリセを、探します」
エルは彼女を見た。
「今度は、軽く聞こえませんでした」
「少しは、重さを学びました」
「まだ少しです」
「はい」
エルは立ち上がった。
「桶、半分持ちます」
「私は持てます」
「持てるかどうかじゃなくて、早く戻らないとサーシャに怒られます」
アビシニアは少し考え、桶の片側を渡した。
二人で持つと、重さは確かに軽くなった。
ただ、歩調を合わせなければ水が揺れる。
エルが言う。
「速すぎる」
「すみません」
「遅すぎる」
「難しいですね」
「人と持つの、初めてですか」
アビシニアは答えに詰まった。
たぶん、初めてだった。
誰かに持たせるか、自分一人で持つか。
そのどちらかしか知らなかった。
エルは呆れたように息を吐いた。
「じゃあ、練習ですね」
その言い方に、わずかに責めよりも別のものが混じっていた。
アビシニアは頷いた。
「はい。練習します」
二人が集落へ戻ると、ミラが小さな子どもたちに囲まれていた。
彼女はサーシャから受け取った布で頬を冷やしながら、年下の子の髪を結んでいる。子どもたちはミラを気に入ったらしく、次々と髪紐や破れた袖を差し出していた。
「ミラは器用ですね」
アビシニアが言うと、ミラは少し誇らしげに笑った。
「記録保管所で紙の修繕をしていたので」
サーシャが横から言った。
「紙より子どもの方がよく動くけどね」
「はい。かなり」
ミラが真面目に頷くと、周囲の子どもたちが笑った。
その笑い声に、アビシニアは胸が少し緩むのを感じた。
けれど、その穏やかさは長く続かなかった。
集落の見張り台代わりになっている倒木の上から、少年が駆け下りてきた。
「南に兵!」
サーシャの顔が変わる。
「数は」
「三騎。湿地の入口で止まってる。こっちにはまだ入ってない」
カイがすぐに立ち上がった。
「斥候か」
「たぶん」
エルが言った。
「湿地に入る道は限られてる。まだここは見つかってない」
「時間の問題だ」
カイは低く言った。
サーシャは迷わず指示を出した。
「火を消して。鍋は倒すな、跡が残る。子どもは北の葦小屋へ。年寄りを先に」
集落が動き出す。
泣く子はいない。
騒ぐ者もいない。
皆、慣れすぎている。
アビシニアはそのことに胸を痛めた。
逃げる準備に慣れている子どもたち。
それを作ったのは帝国だけではない。
戦争そのもの。
神代が終わった後の人の時代。
そして、何もしなかった自分。
そこまで考えて、彼女は首を振った。
今、自分を責めることに沈む時間はない。
「私にできることは」
サーシャが短く答えた。
「子どもを数えて」
「名前で?」
サーシャは一瞬だけアビシニアを見た。
「そう。名前で」
アビシニアは頷いた。
彼女は子どもたちの前に立った。
「名前を言ってください。大きな声ではなく、私に聞こえる声で」
最初の子が言う。
「ニナ」
「ニナ」
「トル」
「トル」
「ハル」
「ハル」
「マイ」
「マイ」
一人ずつ。
番号ではなく、名で。
その間にも、南の葦原から馬の音が近づいていた。
カイが外を見る。
「まずい。湿地に入ってくる」
エルが言う。
「道を知らないはずです」
「案内がいる」
サーシャの顔が強張る。
「誰かが喋ったか」
「責めるのは後だ」
カイは剣を取った。
「ここで足止めする」
アビシニアは彼を見た。
「殺すのですか」
「必要なら」
その言葉に、彼女は反射的に否定しかけた。
けれど、止めた。
自分はまだ、代案を持っていない。
理想だけで、ここにいる子どもたちは守れない。
だが、殺す以外の道を探すことを諦めてもいけない。
「殺さずに止める方法を探します」
カイは彼女を見た。
「時間は少ない」
「分かっています」
アビシニアは周囲を見た。
泥。
葦。
水路。
干された網。
子どもたちが逃げる北の小屋。
南から入る兵。
彼女は地面に手を当てた。
湿地の記録が、指先から流れ込む。
ここは何度も逃げ場になってきた。
何度も足跡を隠し、何度も水を吸い、何度も人を迷わせた。
そして、南の細道の脇には、泥炭の薄い層がある。
重い馬が踏めば沈む。
「エル」
「何ですか」
「南の入口から三十歩ほど入ったところ、右側に黒い泥の溜まりがありますか」
「あります。底なしじゃないけど、馬なら膝まで沈む」
「そこへ誘導できますか」
「できます」
カイが言う。
「俺が出る。追わせる」
アビシニアは即座に首を振った。
「一人では行かせません」
「足手まといになる」
「それをあなた一人で決めないでください」
カイは少し黙った。
エルが割り込む。
「俺が行く。湿地の道は俺の方が分かる」
「だめです」
アビシニアは言いかけ、止まった。
また命じるところだった。
彼女は息を吸い直した。
「……危険です。それでも、行きますか」
エルは一瞬驚き、それから頷いた。
「行きます」
「理由は」
「ここを知られたら、リセみたいな子が増える」
その答えに、アビシニアは反論できなかった。
ミラが立ち上がる。
「私も」
「ミラ」
「行きません。分かってます」
ミラは自分で言った。
「私は足が遅いし、道も分からない。でも、戻ってきた人の手当てはできます。子どもたちを数えて、隠れ小屋へ連れていきます」
アビシニアは彼女を見た。
ミラは震えていた。
それでも、自分の役割を自分で選んでいた。
「お願いします」
アビシニアは言った。
ミラは頷いた。
「はい」
カイ、エル、アビシニアの三人は南へ向かった。
葦の中を進む間、エルが小声で道を指示する。
「左。そこは踏まない。水に見えて泥です。次、倒木を越えて」
アビシニアは必死についていった。
王女歩きでは、もう進めない。
泥は遠慮なく足を取る。
枝は衣を引く。
湿地は、誰が王族かなど知らない。
南の入口近くで、兵の声が聞こえた。
「この先か?」
別の声が答える。
「煙を見た。人がいる」
三騎。
その後ろに、地元の男らしき案内人が一人。顔は見えない。
エルの目が険しくなる。
「案内してるの、港の荷運びです。見たことがある」
「脅されたのかもしれません」
アビシニアが言う。
エルは歯を食いしばった。
「分かってます」
分かっている。
それでも怒りは消えない。
その苦さを、アビシニアは少しだけ理解し始めていた。
カイが低く言う。
「俺が姿を見せる。エルは泥炭の方へ走れ。アビシニアは後ろで」
「私は?」
「足場を読め」
命令ではなく、役割の提示だった。
アビシニアは頷いた。
カイが葦を出た。
「帝国兵」
兵たちが振り返る。
「何者だ!」
カイは剣を抜かなかった。
「元中央軍第九歩兵隊、カイ・オルヴァ」
兵の一人が叫ぶ。
「脱走兵!」
「そうだ」
次の瞬間、エルが別方向へ走った。
わざと音を立てる。
「そっちだ!」
馬が動く。
アビシニアは地面に手を触れたまま叫んだ。
「エル、右へ二歩!」
エルが即座に右へ跳ぶ。
その直後、馬の前脚が黒い泥に沈んだ。
騎兵が叫ぶ。
馬が暴れる。
後続の馬も止まりきれず、泥へ足を取られる。
カイが案内人へ走った。
男は腰を抜かしていた。
「殺さないでくれ!」
カイは剣を抜かず、男の襟を掴んだ。
「なぜ案内した」
「娘を捕られた! 道を教えなければ、娘を連れていくと」
アビシニアは息を呑んだ。
エルの顔が歪む。
裏切りではない。
また、誰かが誰かを守るために、別の誰かを危険に晒した。
単純な悪意ではない。
だからこそ、苦しい。
兵の一人が泥の中から弩を構えた。
「伏せろ!」
カイが叫ぶ。
矢が放たれる。
アビシニアは避けられなかった。
けれど、矢は彼女ではなく、横から飛び出したエルの肩をかすめた。
「エル!」
彼が泥に倒れる。
アビシニアの胸の奥で、王冠炉の律動が鳴った。
怒りが噴き上がる。
兵の意志に触れれば止められる。
恐怖を流し込めば、弩を落とさせられる。
命令を刷り込めば、二度と撃てなくできる。
できる。
その誘惑は、甘かった。
今使えば、守れる。
だが、エルが血を流しながら叫んだ。
「だめだ!」
アビシニアは動きを止めた。
エルは歯を食いしばっていた。
「言っただろ……見張るって」
その言葉が、彼女を引き戻した。
アビシニアは震える手で地面を掴んだ。
人ではなく、湿地へ。
泥。
水。
葦。
逃げ道。
「カイ、左の杭を倒してください!」
カイが迷わず動く。
古い杭を蹴ると、絡んでいた漁網が泥の上へ落ちた。兵の足に絡まり、弩が水に沈む。
殺さずに止めた。
完全ではない。
危険はまだある。
だが、できた。
アビシニアはエルへ駆け寄った。
「見せてください」
「かすっただけです」
「見せて」
「命令ですか」
「お願いです」
エルは少しだけ笑った。
「じゃあ、いいです」
傷は浅い。
それでも血が出ている。
アビシニアは布を裂き、肩を押さえた。
手が震えている。
エルが言った。
「今、使おうとしましたよね」
「はい」
「怖かったです」
「私もです」
「でも、止まった」
「あなたが止めてくれました」
エルは目を逸らした。
「見張るって言ったので」
アビシニアは、布を押さえたまま頷いた。
「ありがとう」
その時、湿地の奥から別の声が響いた。
「そこまでにしてください」
若い声だった。
静かで、よく通る声。
アビシニアは顔を上げた。
葦の向こうに、白い外套の少年が立っていた。
護衛は少ない。
剣も抜いていない。
淡い金の髪。
痩せた頬。
疲れた目。
帝国皇太子、レオンハルト・ヴァルグラント。
彼は泥に沈んだ兵たちを見て、次にエルの傷を見た。
そして、アビシニアを見た。
「殺さなかったのですね」
その声には、感心も嘲りもなかった。
ただ、確認するような響きがあった。
アビシニアは立ち上がった。
手には、エルの血がついている。
「殺す理由を、あなたたちが作ったのです」
レオンハルトは頷いた。
「そうです」
そのあまりに静かな肯定に、アビシニアは言葉を失いかけた。
彼は続けた。
「ですが、それでも殺さなかった。だから、話ができると思いました」
カイが剣に手をかける。
レオンハルトは彼を見た。
「カイ・オルヴァ。久しいですね」
カイの声は低い。
「殿下」
「まだ私をそう呼ぶのですか」
「他の呼び方を知りません」
「そうですか」
二人の間に、過去の影が落ちた。
アビシニアは気づいた。
カイと皇太子は、ただの追う者と追われる者ではない。
レオンハルトは、再びアビシニアを見た。
「アビシニア・ル・メイル」
彼は、名を正確に呼んだ。
「あなたを捕らえに来たのではありません」
「信じると思いますか」
「思いません」
「では、なぜ」
「あなたが逃げ続ければ、軍部はこの湿地を焼きます」
ミラたちのいる集落が、頭をよぎる。
レオンハルトは続けた。
「私なら止められる。少なくとも、今は」
「代わりに、私に王冠炉へ来いと?」
「いずれは」
彼は隠さなかった。
「ですが今は、選択肢を示しに来ました」
アビシニアは、冷たく問う。
「帝国が奪ってきたものを、今さら選択肢と呼ぶのですか」
レオンハルトの目が、わずかに揺れた。
少年の目だった。
だが次の瞬間には、皇太子の目に戻っていた。
「だからこそです」
彼は言った。
「人に任せておけば、奪い合う。憎しみは憎しみを生み、失った者はまた奪う側に回る。あなたも今、そうなりかけた」
アビシニアの手が震えた。
エルの血が、指の間で冷えていく。
レオンハルトは静かに続ける。
「私は、あなたを責めているのではありません。人はそうできていると言っているのです」
「だから、炉で抑えると?」
「はい」
その答えは、恐ろしいほど真っ直ぐだった。
「人が人を壊す前に、壊す衝動を鎮める。悲しみが復讐になる前に、痛みを和らげる。戦争になる前に、憎悪を減じる」
「それは救いではありません」
アビシニアは言った。
「奪うことです」
「痛みを?」
「選ぶ権利を」
レオンハルトは彼女を見つめた。
その顔は冷たいのではない。
悲しげだった。
「選ぶ権利で死ぬのは、いつも弱い者です」
その言葉に、湿地の空気が凍った。
ミラ。
エル。
ニナ。
リセ。
名を失った子どもたち。
アビシニアは、反論を探した。
すぐには見つからなかった。
レオンハルトはそれを見て、静かに言った。
「私は、あなたの敵です。けれど、あなたの問いを軽んじるつもりはありません」
彼は一歩引いた。
「三日後、旧ル・メイル北端の白塔で待ちます。来るかどうかは、あなたが選んでください」
「行かなければ?」
「軍部が先に動くでしょう。私が止められる時間には限りがあります」
「それは脅しです」
「はい」
また、彼は認めた。
「ですが、嘘ではありません」
アビシニアは彼を睨んだ。
レオンハルトは、泥に沈んだ兵へ視線を向けた。
「兵を引かせます。この湿地には、今日は手を出させません」
「今日は」
「私にできる約束は、今はそこまでです」
少年はそう言った。
皇太子としてではなく、一人の疲れた若者として。
そして、静かに背を向けた。
護衛が彼に続く。
泥に沈んだ兵たちは引き上げられ、案内人も連れていかれた。彼の娘がどうなるのか、アビシニアには分からない。
分からないことが、多すぎる。
レオンハルトの白い外套が葦の向こうへ消えていく。
エルが低く言った。
「行くんですか」
アビシニアは答えなかった。
行けば罠かもしれない。
行かなければ湿地が焼かれるかもしれない。
行っても何も変えられないかもしれない。
けれど、彼と話さなければ分からないことがある。
敵を知るためではない。
同じ時代に傷つきながら、まったく別の答えへ進もうとしている者として。
アビシニアは、エルの傷をもう一度押さえた。
「まず、戻りましょう」
「答えは?」
「今、一人では決めません」
エルは少しだけ目を見開いた。
カイが黙って彼女を見る。
アビシニアは湿地の奥、ミラや子どもたちが待つ方角へ視線を向けた。
「皆で話します」
それは、王女の言葉としては頼りない。
だが、光差す国の最後の娘が選ぶには、たぶん最初の正しい弱さだった。
湿地の集落へ戻る道は、来た時よりも長く感じられた。
エルの肩の傷は浅い。
そう分かっていても、布に滲む血は赤く、アビシニアの手からなかなか温度を奪っていった。
「歩けます」
エルは何度もそう言った。
だが、足取りはわずかに乱れている。
カイは何も言わず、彼の反対側に回った。肩を貸すのではなく、倒れた時に支えられる距離を保って歩く。エルはそれに気づいているのかいないのか、前だけを見ていた。
アビシニアは、その距離の取り方を見ていた。
近づきすぎない。
放っておきもしない。
それはカイらしい優しさなのだろう。
優しさと呼ぶには不器用で、本人はきっと認めないだろうけれど。
集落に着くと、ミラが真っ先に駆け寄ってきた。
「エル!」
彼女の後ろから、ニナや他の子どもたちも顔を出す。サーシャはすぐにエルの肩を見ると、短く舌打ちした。
「かすり傷で騒ぐなと言いたいところだけど、汚れた水に入ったね」
「少しだけです」
「湿地の水に少しも多いもない」
サーシャはエルを座らせ、傷口を洗い始めた。
エルは顔をしかめた。
「痛い」
「生きてる証拠」
「それ、慰めですか」
「文句を言う元気がある証拠」
ミラが横で布を渡す。
ニナは不安そうにエルの袖を掴んでいた。
「死なない?」
エルは少し困った顔をした。
「死なない」
「本当に?」
「本当に」
「前にもそう言って、三日寝込んだ」
「今回は寝込まない」
「サーシャ、寝込む?」
サーシャは傷を見ながら言った。
「寝込ませる。本人が何と言っても」
ニナは安心したように頷いた。
「じゃあ大丈夫」
エルは不満そうだったが、言い返さなかった。
アビシニアはそのやり取りを見て、胸の奥が少し痛んだ。
ニナはリセではない。
エルもそれを分かっている。
けれど、ニナはエルを心配している。
エルも、その心配を邪険にしきれない。
失ったものは戻らない。
だが、失った者が誰かを気にかけることまで失うわけではない。
それを見ているだけで、アビシニアは自分の中の何かが静かに動くのを感じた。
「王女様」
サーシャが呼んだ。
その呼び方に、アビシニアは一瞬だけ身構えた。
だが、サーシャの声に敬意も畏れもなかった。
ただ、そこにいる人を呼ぶための言葉だった。
「はい」
「手を洗って。血がついたまま子どもに触らない」
「分かりました」
アビシニアは素直に従った。
水桶の前に膝をつき、手を洗う。
エルの血が、水に溶けて薄く広がった。
それを見ていると、先ほどの瞬間が蘇る。
弩を構えた兵。
倒れるエル。
胸の奥で鳴った王冠炉の律動。
使えば止められた。
人の意志に触れれば、もっと早く、もっと確実に。
そう考えた自分がいた。
「怖い顔をしています」
ミラの声がした。
アビシニアは顔を上げた。
ミラは隣にしゃがみ、彼女の手元を見ていた。
「怖い顔?」
「はい。自分を責めている時の顔です」
「そんな顔を、私はよくしますか」
「最近、分かるようになりました」
ミラは少し得意そうに言った。
アビシニアは苦く笑いかけ、すぐに笑えなくなった。
「私は、使おうとしました」
「何をですか」
「人の意志に触れる力を」
ミラの表情が硬くなる。
アビシニアは続けた。
「エルが撃たれた時、兵を止めるために。恐怖を流し込めばいいと思いました。二度と弩を持てないようにしてしまえばいいと」
ミラは黙って聞いていた。
「私は、レオンハルト殿下を否定しました。人の選ぶ権利を奪うなと。けれど、私も同じことをしようとした」
「でも、しませんでした」
「エルが止めたからです」
「止まれたのは、リーナさんです」
ミラはそう言った。
アビシニアは首を振りかけた。
だが、ミラは珍しく強く続けた。
「エルが止めてくれても、止まらないことはできました。力があるなら、きっとできたんですよね」
「……できます」
「でも、しなかった」
ミラは水面を見た。
「私は、その力が怖いです」
アビシニアの胸が締めつけられた。
「そうですね」
「でも、リーナさんが怖いわけではありません」
ミラは顔を上げる。
「リーナさんが、その力を怖がっているから」
その言葉は、慰めではなかった。
信頼に近いが、盲信ではない。
アビシニアは静かに息を吸った。
「私が怖がらなくなったら?」
ミラは少し考えた。
「その時は、私が怖いと言います」
「言えますか」
「言います」
「私が聞かなかったら」
ミラは唇を結んだ。
「エルとカイさんとサーシャさんにも言います。みんなで止めます」
アビシニアは目を伏せた。
一人で背負わない。
それは言葉にすれば簡単だ。
けれど、こうして誰かに「止める」と言われると、胸の奥に小さな痛みと安堵が同時に生まれる。
「ありがとう」
「はい」
ミラは頷いた。
それから、少し迷って言った。
「私も、言わなきゃいけないことがあります」
「何ですか」
「白塔へ行くかどうかの話です」
アビシニアはミラを見る。
ミラの顔は真剣だった。
「私は、行ってほしくありません」
その言葉は、予想していたはずなのに、重かった。
「危険だから?」
「それもあります。でも、それだけじゃありません」
ミラは膝の上で手を握った。
「リーナさんが行ったら、帰ってこない気がします」
「私は」
「帰ると言っても、です」
ミラは遮った。
その声は震えていた。
「母も、帰ると言って出ていきました。ガランさんも、戻れと言ってエルを送り出しました。みんな、戻るつもりで行くんです。でも、戻れないことがある」
アビシニアは何も言えなかった。
ミラは続ける。
「私は、リーナさんに選んでほしいです。でも、置いていかれるのは怖いです」
その告白は、幼いわがままではなかった。
自分の恐怖を、自分の言葉で差し出している。
アビシニアは、ミラの手を見た。
握っていいか尋ねようとして、ミラの方から手を差し出した。
アビシニアはその手を取った。
「ありがとう。言ってくれて」
「怒りませんか」
「怒りません」
「行かないでと言っても?」
「怒りません」
「でも、困りますよね」
「困ります」
正直に答えた。
ミラは少しだけ笑った。
「リーナさん、そういうところは正直です」
「嘘をつくと、あなたには分かるので」
「はい。少し分かります」
二人はしばらく黙っていた。
その沈黙の中で、アビシニアはミラの言葉を胸に置いた。
行ってほしくない。
その願いを、重荷としてではなく、一つの意思として。
守るべき子どもの不安ではなく、共に考える者の声として。
やがてサーシャが皆を集めた。
中央の低い炉は消され、代わりに湿った地面の上に古い帆布が広げられた。そこに、集落の者たちが輪になって座る。
サーシャ。
カイ。
ミラ。
エル。
ニナ。
老人二人。
数人の子どもたち。
そしてアビシニア。
王宮の会議室とは違う。
椅子も机もない。
印章もない。
発言順を示す侍従もいない。
だが、ここには、王宮の会議室にはなかったものがある。
話の結果で、直接傷つく者たちが、その場にいる。
サーシャが口火を切った。
「皇太子は三日後、白塔で待つと言った。王女様が行けば、少なくとも話はできる。行かなければ、軍部が湿地を焼くかもしれない」
老人の一人が言った。
「焼くでしょうな」
声は乾いていた。
「帝国軍は湿地を嫌う。見えない場所を残したがらん」
もう一人の老人が頷く。
「皇太子が止めても、いつまでもではない」
エルが苛立ったように言う。
「だからって、行けばいいんですか。向こうは王冠炉が欲しいんでしょう」
サーシャが言う。
「欲しいだろうね」
「なら罠です」
「罠だろうね」
「分かってて話すんですか」
「分かっている罠なら、ただの罠より少しはましだよ」
エルは黙った。
カイが低く言った。
「白塔は旧ル・メイル領の北端にある監視塔だ。周囲は開けている。大軍を隠すには向かない。ただし、塔の地下に古い神代機関の中継室がある」
アビシニアは彼を見る。
「なぜ知っているのですか」
「中央軍時代に調査記録を見た」
「王冠炉と繋がっている?」
「完全ではない。だが、炉の残響を拾える場所だ。皇太子がそこを選んだなら、理由がある」
サーシャが眉を寄せる。
「話し合いの場所としては悪いね」
「悪い」
カイは認めた。
「だが、皇太子らしい」
「どういう意味ですか」
アビシニアが問う。
カイは少し沈黙した。
「彼は、相手に選ばせる形を取る。だが、選択肢の置き方で結果を誘導する」
エルが吐き捨てる。
「嫌なやつですね」
「賢い」
カイは言った。
「そして、自分が卑怯なことをしている自覚もある」
アビシニアは、湿地で見た少年の目を思い出した。
彼は脅しを脅しと認めた。
嘘ではないと言った。
自分の正しさを飾らなかった。
それが、かえって厄介だった。
悪意だけの相手なら、憎めばよい。
だがレオンハルトは、痛みを知っている。
そして痛みを知った上で、人から選択を取り上げようとしている。
ミラが小さく言った。
「私は、行ってほしくありません」
輪の中が静かになる。
ミラは俯きかけたが、顔を上げた。
「でも、行かないとここが危ないなら、行かないでとも言えません」
サーシャが静かに聞く。
「じゃあ、どうしたい?」
ミラは少し考えた。
「一人で行ってほしくないです」
エルがすぐに言った。
「それはそう」
カイも頷く。
「一人では行かせない」
アビシニアは言いかけた。
危険だから、と。
自分一人なら、と。
だが、皆の視線を見て、言葉を飲み込んだ。
一人で決めないと言ったのは自分だ。
ならば、一人で背負う言葉を最初に出してはいけない。
サーシャがアビシニアを見る。
「あなたは?」
「私は」
アビシニアは輪の中を見た。
エルは傷を押さえながら座っている。
ミラは不安を隠さずにいる。
カイは黙って待っている。
サーシャは、彼女を王女としてではなく、危険を持ち込んだ一人の人間として見ている。
「行くべきだと思っています」
ミラの手がわずかに動いた。
アビシニアは続けた。
「レオンハルト殿下が何を考えているのか、知らなければならない。彼は軍部を止められる立場にいる。王冠炉のことも知っている。逃げ続けるだけでは、いずれ誰かが代わりに焼かれます」
「自分が捕まるかもしれない」
エルが言う。
「はい」
「炉に使われるかもしれない」
「はい」
「それでも?」
アビシニアは少しだけ目を伏せた。
「怖いです」
その言葉に、輪の中の空気が変わった。
王女が怖いと言う。
以前の彼女なら、絶対に言わなかった。
「でも、怖いから行かない、とは言えません」
ミラの顔が歪む。
アビシニアは彼女を見る。
「ただし、一人では行きません。皆に、行き方を決めてほしい」
サーシャが頷いた。
「それなら話になる」
カイが地面に枝で簡単な地図を描いた。
湿地。
北の古道。
白塔。
帝国軍の哨戒路。
水路。
崩れた石橋。
「正面から行けば捕まる。湿地から北へ抜け、古い塩運びの道を使う。白塔の手前で二手に分かれる」
エルが身を乗り出す。
「俺も行く」
サーシャが即座に言う。
「傷がある」
「浅い」
「感染したら腕が腐る」
「脅しが雑です」
「事実だよ」
エルは唇を噛んだ。
アビシニアは彼を見る。
「エル、あなたにはここに残ってほしい」
彼の顔が険しくなる。
「また置いていくんですか」
「違います」
アビシニアは急いで否定しかけ、言葉を整えた。
「違う、と言い切る前に、理由を言います」
エルは黙った。
「あなたは湿地の道を知っています。ここに残る子どもたちを逃がす時、あなたが必要です。私が白塔へ行く間、この集落を移す準備をしてほしい」
エルは反論しようとした。
だが、ニナが彼の袖を掴んでいた。
「エル、残る?」
エルはニナを見た。
彼の中で、行きたい気持ちと、残るべき理由がぶつかっているのが分かった。
アビシニアは続けた。
「これは命令ではありません。お願いです」
エルは苦い顔をした。
「お願いって、ずるいですね」
「そうかもしれません」
「命令なら怒れるのに」
「怒ってもいいです」
「怒ってます」
「はい」
エルは深く息を吐いた。
「……分かりました。残ります。でも、逃げたら許しません」
「逃げません」
「それも軽く言わないでください」
「はい」
「戻ってきてから、リセの記録を探すんですよ」
「はい」
エルはようやく頷いた。
ミラが言った。
「私は行きます」
アビシニアは彼女を見る。
「危険です」
「分かっています。でも、私は自分で行きたいです」
ミラの声は震えていた。
それでも、逃げていない。
「リーナさんが怖くなった時、私は怖いと言います。リーナさんが一人で決めようとしたら、止めます。だから行きます」
アビシニアは、すぐには答えられなかった。
守りたい。
置いていきたい。
安全な場所にいてほしい。
だが、それはミラの意思を奪うことにもなる。
「サーシャ」
アビシニアは尋ねた。
「ミラを連れていくことは、無謀ですか」
サーシャはミラを見た。
「足は速くない。戦えない。けれど、怪我人の手当てと人の顔色を見る目はある。何より、本人が行くと言っている」
ミラは息を詰める。
サーシャは続けた。
「連れていくなら、守るんじゃなくて役割を持たせなさい」
アビシニアは頷いた。
「ミラ。あなたには、私を見ていてほしい。私が力を使いそうになった時、止めてください。それから、交渉の場で、私が見落としている人の反応を教えてください」
ミラの目が揺れた。
「私で、できますか」
「あなたにしか見えないものがあります」
ミラは唇を結び、頷いた。
「やります」
カイが言った。
「俺も行く」
「それは分かっていました」
アビシニアが言うと、カイは少しだけ目を細めた。
「止めないのか」
「止めても来るでしょう」
「そうだな」
「なら、最初から役割を決めます。あなたは道と帝国側の動きを見てください。レオンハルト殿下のことも、知っている範囲で教えてほしい」
カイは頷いた。
「分かった」
サーシャは地図を見下ろした。
「私はここを移す準備をする。エル、あんたは北の葦小屋へ子どもを分ける。ニナ、泣く子を見て。老人たちは荷を軽くして」
ニナが真剣に頷く。
「分かった」
老人の一人が笑った。
「子どもに指揮される日が来るとは」
サーシャは即座に言った。
「文句があるなら、もっと早く歩いて」
老人は肩をすくめた。
輪の中に、ほんの少しだけ笑いが生まれた。
その笑いは弱い。
明日の保証にはならない。
けれど、恐怖だけではないものが、確かにそこにあった。
会議が終わると、皆が動き出した。
荷をまとめる者。
水を汲む者。
傷薬を用意する者。
見張りに立つ者。
アビシニアは、しばらくその場に立っていた。
自分が命じたのではない。
皆がそれぞれ考え、選び、動いている。
それは不安でもあった。
統一された命令ではない。
完璧な計画でもない。
誰かが間違えるかもしれない。
誰かが遅れるかもしれない。
だが、これが人の時代なのだろう。
失敗する余地を残しながら、それでも共に進む。
カイが隣に来た。
「休め。三日あるが、実際に使える時間は少ない」
「眠れると思いますか」
「眠れなくても横になれ」
「あなたは?」
「見張る」
アビシニアは彼を見る。
「それも、一人で決めないでください」
カイは少し黙った。
それから、低く言った。
「なら、一刻だけ見張る。その後、交代する」
「誰と」
「サーシャが決める」
「よろしい」
カイはわずかに息を吐いた。
「王女らしくなったな」
アビシニアは眉を寄せた。
「今のどこが?」
「命じずに、決めさせた」
「それは王女らしいのですか」
「少なくとも、俺が知っている将校よりはましだ」
褒め言葉なのか分からなかった。
だが、悪い気はしなかった。
その夜、アビシニアは葦小屋の隅で横になった。
隣にはミラがいる。
少し離れたところに、エルがサーシャに無理やり寝かされている。
外ではカイと湿地の若者が交代で見張っている。
眠れないと思っていた。
だが、疲労は思考より強かった。
目を閉じると、白塔の影が浮かぶ。
レオンハルトの静かな声。
選ぶ権利で死ぬのは、いつも弱い者です。
その言葉は、今も胸に刺さっている。
反論したい。
しなければならない。
けれど、簡単な答えでは届かない。
アビシニアは、眠りに落ちる直前、母の声を思い出した。
幼い日の南庭。
湖からの風。
白い花。
母の手。
「光は、闇を責めないのよ」
母はそう言った。
「ただ、そこにいる人の顔を見えるようにするの」
その時の自分は、意味が分からなかった。
今も、完全には分からない。
けれど、白塔へ行くなら、その言葉を持っていこうと思った。
剣ではなく。
旗ではなく。
王冠でもなく。
人の顔を見るための、細い光として。




