表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰冠のアビシニア  作者: 相生 紡
PR
2/9

第一章 灰を写す女

※ChatGPTを全文で使用しています。

帝国辺境都市ヴェルゼンには、雨がよく降る。

山脈から吹き下ろす冷たい風が、湖面で湿り気を拾い、石造りの街に重く垂れ込める。春であっても空は低く、朝は霧に沈み、昼は薄暗く、夜には屋根を叩く雨音だけが通りを満たした。

王都ル・メイルの雨は、もっと柔らかかった。

そう思いかけて、アビシニアは筆を止めた。

思い出そうとしてはいけない。

思い出すことには、いつも代償がある。

彼女は小さく息を吐き、乾きかけた羊皮紙の上へ視線を戻した。

目の前には、帝国第七税務局から回されてきた穀物輸送記録が積まれている。古い帳簿を写し、欠けた文字を補い、濡れて滲んだ印章を読み解く。ヴェルゼン記録保管所の仕事は退屈で、目が疲れ、手首が痛む。

だが、退屈であることはありがたかった。

退屈な仕事は、人を殺さない。

少なくとも、たいていは。

「リーナ、三番棚の鉱山台帳は終わったか」

奥の机から、主任写字官のボルグが声をかけた。

リーナ。

それが今の彼女の名だった。

アビシニア・ル・メイルという名は、十年前、王国とともに燃えた。今ここにいるのは、辺境都市の記録保管所で働く、痩せた若い写字係リーナ・メル。黒に近い灰褐色の髪を首元で切り揃え、目立たない外套を着て、誰より早く出勤し、誰より遅く帰る女。

「終わっています。湿気で二枚ほど剥離しかけていたので、乾燥箱に移しました」

「相変わらず気が利くな」

ボルグは、鼻先にずり落ちた眼鏡を押し上げた。

太った男で、声は大きいが、悪い人間ではない。少なくとも、部下の過去を詮索しない程度には賢かった。

「午後は帝国軍の閲覧が入る。南棟の閲覧室を空けておけ」

アビシニアの指先が、紙の端をわずかに折った。

「帝国軍、ですか」

「そうだ。中央から来た連中らしい。古い戸籍と難民登録を見たいそうだ」

「難民登録」

言葉が喉の奥で硬くなった。

「十年前から十五年前までのものを全部だ。まったく、今さら何を探しているのやら」

ボルグは愚痴のように言い、茶の入った木杯を持ち上げた。

「まあ、上からの命令だ。余計なことは言わず、必要な箱を出してやれ。お前は文字が読めすぎるからな。軍人の前では黙っているくらいでちょうどいい」

「承知しました」

アビシニアは頭を下げた。

その動作は、もう身についている。

王宮で教え込まれた礼ではない。身を低くし、目を合わせず、相手の記憶に残らないための礼だ。

ボルグが再び帳簿に視線を落とすと、彼女は静かに立ち上がった。

記録保管所の南棟は、かつて修道院だった建物を改修したものだ。高い天井、細長い窓、厚い壁。湿気を避けるため床は一段高く、壁一面に棚が並び、棚には番号札のついた木箱が詰められている。

帝国はよく記録する国だった。

征服した土地の名を変え、住民を数え、税を割り当て、死者を分類する。

誰がどこから来て、どこへ移され、どの家に属し、何を失ったのか。すべて紙に書き、印を押し、棚にしまう。

ル・メイル王国の滅亡も、帝国にとっては記録の一部にすぎない。

戦役名。

制圧日。

没収財産。

移送民数。

処刑者名簿。

逃亡者推定数。

そこに、悲鳴はない。

アビシニアは南棟の鍵を開け、閲覧室の雨戸を半分だけ開いた。薄い光が机の上に落ちる。埃が光の中で揺れた。

彼女は棚番号を確認し、難民登録簿の箱を選び始めた。

十年前から十五年前。

つまり、ル・メイル戦役の前後だ。

なぜ今なのか。

帝国は、ル・メイル王家の血を絶やしたと公表している。父王、王妃、王弟、従兄弟たち。王位継承権を持つ者はすべて死んだことになっている。王女アビシニアについては、公式記録では「王宮地下崩落により死亡」と記載されていたはずだ。

彼女はその記録を、三年前に自分の手で写した。

死亡者名簿に自分の名を書くのは、不思議な感覚だった。

その時は、何も感じなかった。

いや、感じないようにした。

棚の奥から、革紐で束ねられた登録簿を取り出す。

表紙には、帝国語でこう記されていた。

旧ル・メイル領流民登録 第一期

アビシニアは表紙を撫でた。

その中には、死ななかった者たちの名がある。

死ねなかった者たちの名も。

彼女は帳簿を机へ運び、閲覧用の手袋と重石を並べた。軍人たちが扱いやすいように索引札も添える。仕事としては、いつも通りだった。

だが、胸の奥が冷えていた。

雨音が強くなる。

遠くで鐘が鳴った。午前の終わりを告げる鐘だ。

その少し後、記録保管所の正面扉が開く音がした。

複数の靴音。

硬い軍靴の音。

アビシニアは南棟の扉の影に立ち、呼吸を整えた。

恐れるな。

急ぐな。

目立つな。

十年かけて覚えた、生き延びるための祈りのようなものだった。

やがて、ボルグの声が廊下に響いた。

「こちらです。古い登録簿は南棟にまとめてあります」

続いて、低い男の声。

「閲覧は我々だけで行う。職員は下がらせろ」

「しかし、資料の扱いに慣れた者がいませんと」

「命令書に書いてあるはずだ」

紙が開かれる音。

沈黙。

ボルグが短く息を呑んだ。

「……失礼しました。リーナ」

呼ばれて、アビシニアは廊下へ出た。

軍人は三人いた。

一人は中年の将校。濃紺の軍服に銀の飾緒。帝国中央軍の所属を示す徽章が胸にある。残る二人は護衛兵だ。どちらも若いが、手の位置に無駄がない。剣を抜くことに慣れている者の立ち方だった。

将校はアビシニアを見た。

ほんの一瞬。

その目は、彼女を人として見ていなかった。棚や机や鍵束と同じ、用件を処理するための部品として見ていた。

ありがたいことだった。

「資料は準備してあります」

アビシニアは静かに言った。

「閲覧時は手袋をお使いください。破損のある頁には赤い紙片を挟んでいます。開く場合は職員にお声がけを」

「下がれ」

将校はそれだけ言った。

ボルグが気まずそうに彼女を見る。

アビシニアは軽く頷き、鍵束を机に置いた。

「では、隣室におります」

「不要だ」

将校の声が鋭くなった。

「南棟から出ろ」

ボルグが慌てて口を挟んだ。

「リーナ、北棟の整理に戻れ」

「はい」

アビシニアは頭を下げ、廊下へ出た。

扉が閉まる。

その瞬間、彼女は自分の心拍が速くなっていることに気づいた。

難民登録だけなら、南棟を封鎖する必要はない。

職員を追い出す必要もない。

中央軍の将校が直接来る必要もない。

彼らは何かを探している。

彼女は北棟へ戻るふりをして、廊下の角を曲がった。

そこからさらに奥へ進むと、古い修道院時代の告解室が残っている。今は壊れた椅子や使わない燭台を置く物置になっているが、壁の一部が南棟の閲覧室と接している。

そして、その壁には細い通気孔があった。

アビシニアは物置へ入り、扉を閉めた。

暗がりの中で、雨音と自分の息だけが聞こえる。

彼女は通気孔に耳を近づけた。

最初は紙をめくる音だけだった。

やがて、護衛兵の一人が言った。

「本当にこの街にいるのでしょうか」

将校が答える。

「可能性が高い。十年前、王宮地下から脱出した子どもが一人いたという証言が出た」

アビシニアの喉が凍った。

「王女ですか」

「名を口にするな」

将校の声が低くなった。

「中央ではまだ死亡扱いだ。だが、上は生存を疑っている」

「なぜ今になって」

「王冠炉が反応した」

その言葉を聞いた瞬間、アビシニアの視界が暗く揺れた。

王冠炉。

十年ぶりに耳にする名だった。

忘れたかった名。

忘れられなかった名。

「三日前、旧王都地下で封鎖していた機関が起動兆候を示した。完全起動ではない。だが、炉心が王家の血を探している」

「王家は全滅したはずでは」

「だから探している」

紙が乱暴にめくられる音がした。

「ル・メイル王家の直系、あるいは近縁。年齢は十七から二十二。女。戦役直後に流民として登録された者、または登録を逃れた者。特に、文字を扱う職に就いている者を洗えとの命令だ」

アビシニアは、壁に手をついた。

息を殺す。

文字を扱う職。

それは偶然ではない。

ル・メイル王家の教育では、古王朝文字、帝国語、湖岸諸語、数理記号、機関銘文の読解が必須だった。幼い王族は剣より先に文字を覚える。王冠炉を封じるため、王家は記録を読む血筋でなければならなかったからだ。

「この保管所の職員名簿も確認しますか」

「当然だ」

椅子が軋む。

「特に、十年前に身元保証なしで雇われた者。出自が曖昧な者。名前を変えた形跡のある者。女なら全員だ」

護衛兵が小さく笑った。

「辺境の写字女まで疑うのですか」

「王女とは、そういうものだ」

将校の声には感情がなかった。

「生き延びるためなら、どんな姿にもなる」

アビシニアは目を閉じた。

その通りだと思った。

王女とは、民の前に立つ者ではなかったのか。

王女とは、国の名を背負う者ではなかったのか。

違う。

少なくとも彼女は、十年間、ただ逃げるために生きてきた。

その時、閲覧室の扉が開く音がした。

「失礼します」

若い女の声。

アビシニアは眉をひそめた。

ミラだ。

記録保管所で雑用をしている少女だった。十五歳。難民街の出身で、読み書きはまだ不完全だが、手先が器用で、資料の修繕を覚え始めている。アビシニアによく懐いていた。

「誰だ」

将校が問う。

「お茶をお持ちしました。主任から」

「頼んでいない」

「でも、中央からのお客様には必ず出すようにと」

ミラの声は明るい。

明るすぎる。

あの子は、何かを見たのだ。

アビシニアは唇を噛んだ。

ミラは勘がいい。南棟が封鎖され、アビシニアが戻らないことを不審に思ったのだろう。様子を見に来た。あるいは、助けようとした。

愚かな子。

優しい子。

「置いて出ろ」

将校が言った。

陶器の盆が机に置かれる音。

その直後、紙束が落ちた。

「あっ、すみません」

ミラの声が震えた。

「触るな」

護衛兵が怒鳴った。

「申し訳ありません、すぐに」

「触るなと言った」

鈍い音がした。

人が床に倒れる音だった。

アビシニアの中で、何かが切れた。

考えるより先に、彼女は物置を出ていた。廊下を走り、南棟の扉を開ける。

閲覧室の中で、ミラが床に膝をついていた。頬が赤く腫れている。割れた茶器から茶が広がり、古い登録簿の端を濡らしていた。

護衛兵が彼女の腕を掴んでいる。

将校がアビシニアを見た。

「出ろと言ったはずだ」

アビシニアは、答えなかった。

彼女の視線は、ミラの頬にあった。

腫れた頬。

震える唇。

それでも泣くまいとしている目。

十年前、地下へ引かれていく自分の手を握っていた誰かの指を、ふと思い出した。

痛いほど強かった指。

泣かないために、誰かが握り潰していた手。

「その子を離してください」

アビシニアは言った。

声は驚くほど静かだった。

将校の目が細くなる。

「職員風情が、命令するのか」

「資料を濡らした責任は私が取ります。その子は修繕係です。軍の閲覧には関係ありません」

「関係があるかどうかは、こちらが決める」

護衛兵がミラの腕をさらに強く引いた。

ミラが小さく呻く。

アビシニアは一歩進んだ。

「離してください」

その瞬間、部屋の空気が変わった。

雨音が遠のく。

灯りの炎が、細く伸びる。

将校がわずかに身構えた。護衛兵の手が剣に近づく。だが、彼らはまだ理解していなかった。目の前の写字女が何をしたのかを。

アビシニア自身も、ほとんど理解していなかった。

ただ、怒りがあった。

十年かけて押し殺してきた怒り。

王国を焼いた者たちへの怒り。

死者を数字にした者たちへの怒り。

生き残った者の頬を、何のためらいもなく打つ手への怒り。

その怒りが、胸の奥で古い機関の残響と触れ合った。

彼女の耳の奥で、低い律動が鳴る。

心拍ではない。

雨音でもない。

もっと深く、石の下から響くような音。

王冠炉の名を聞いたせいだろうか。

あるいは、炉の方が彼女を呼んでいるのか。

アビシニアは、護衛兵の目を見た。

「手を」

彼女は囁いた。

「離しなさい」

護衛兵の表情が抜け落ちた。

彼の指が、ミラの腕からほどける。

まるで、自分の手が何をしていたのか分からなくなったように。

ミラが床に崩れた。

将校が椅子を蹴って立ち上がる。

「貴様」

その声には、初めて感情があった。

驚愕。

恐怖。

そして、確信。

「名を言え」

アビシニアは動かなかった。

「貴様の名を言え!」

護衛兵二人が剣を抜いた。

その音で、ミラが顔を上げた。

「リーナさん……?」

その名で呼ばれるたび、胸の奥に小さな痛みが走る。。

アビシニアは、ようやく自分が何をしたのか理解した。

認識への干渉。

王家に伝わる、王冠炉の微弱共鳴。

人の注意と判断の境目に触れ、命令と錯覚させる力。

幼い頃、父はそれを禁じていた。

人の意志に触れるな。

それは、王が最初に破ってはならない境界だ。

その教えを、彼女は今、破った。

将校が短剣を抜いた。

「拘束しろ。生かして中央へ送る」

アビシニアは後退した。

逃げ道は一つ。

廊下へ出て、北棟を抜け、裏口から雨の街へ。

だが、ミラがいる。

ミラはまだ立てない。

アビシニアは、ミラの前に立った。

剣を持たない。

鎧もない。

王冠もない。

ただの写字女として。

それでも、その姿を見た将校の顔色は変わっていた。

彼は見てしまったのだ。

灰の下に隠れていたものを。

「やはり、生きていたか」

将校が低く言った。

「アビシニア・ル・メイル」

その名が部屋に落ちた瞬間、窓の外で雷が鳴った。

リーナではない名。

捨てたはずの、けれど捨てきれなかった名。

アビシニアは、十年ぶりに自分の名を聞いた。

それは、呪いのようでもあり、帰還の鐘のようでもあった。

ミラが息を呑む。

ボルグが廊下の向こうで何かを叫んでいる。

雨音が激しくなる。

護衛兵が踏み込む。

アビシニアは、十年ぶりに自分の名を聞いた。

それは、呪いのようでもあり、帰還の鐘のようでもあった。

彼女は机の上の燭台を掴み、最初の兵の顔へ投げつけた。

炎が散る。

古い帳簿に火が移る。

死者の名が、煙を上げ始めた。

「ミラ、走って」

アビシニアは言った。

「でも」

「走りなさい」

その言い方が、あまりにも昔の誰かに似ていたせいで、彼女自身が一瞬だけ傷ついた。

ミラは立ち上がり、泣きそうな顔で頷いた。

二人は廊下へ飛び出した。

背後で将校が叫ぶ。

「逃がすな! 王女を捕らえろ!」

王女。

その言葉が、石壁に反響する。

記録保管所の職員たちが振り返る。

誰かが悲鳴を上げる。

誰かが祈りの言葉を漏らす。

誰かが、古い国の名を呟く。

ル・メイル。

死んだはずの名が、雨の匂いのする廊下に蘇る。

アビシニアは走った。

十年前と同じように。

だが、あの夜と違うことが一つだけあった。

今度は、彼女の手を引く者はいない。

彼女が、誰かの手を引いていた。


雨の街へ出た瞬間、世界は白く煙っていた。

ヴェルゼンの雨は、空から落ちるというより、街全体を内側から濡らしているようだった。石畳は黒く光り、屋根から流れ落ちる水が細い滝となって路地を塞いでいる。馬車の轍には泥水が溜まり、遠くの鐘楼は霧に沈んで輪郭を失っていた。

アビシニアはミラの手を引き、記録保管所の裏口から狭い路地へ飛び出した。

背後で扉が開く音がする。

「止まれ!」

帝国兵の声。

アビシニアは振り返らなかった。

「こっちです!」

ミラが息を切らしながら言った。

「難民街へ抜ける道があります。市場の裏、洗濯場の横を通れば」

「案内して」

「はい」

ミラの手は冷たかった。

だが、しっかり握り返してくる。

その感触に、アビシニアは胸の奥が痛んだ。

十年前、自分の手を引いていた者も、こんなふうに冷たい手をしていたのだろうか。恐怖で震えながら、それでも離すまいとしていたのだろうか。

思い出そうとした瞬間、耳の奥で低い音が鳴った。

ずん、と。

遠い地底で、巨大な歯車が一つ噛み合ったような音。

アビシニアは足を止めかけた。

「リーナさん?」

ミラが振り返る。

「何でもない」

嘘だった。

何でもなくはない。

さきほどから、胸の奥に異物のような感覚がある。王冠炉の名を聞いた時からだ。いや、もっと前からかもしれない。三日前の夜、眠っている最中に突然目が覚め、理由もなく涙が流れていた。あの時も、遠くで何かが鳴っている気がした。

王冠炉は停止していたはずだった。

十年前、父が最後に何をしたのか、アビシニアは知らない。

けれど少なくとも、炉は沈黙していた。だから彼女は生き延びられた。王家の血を追う機関が眠っていたから、帝国は彼女を探せなかった。

いや、正確には、探しても見つけられなかった。

帝国は記録を洗った。

難民を調べた。

孤児院を調べた。

国境を越えた商隊まで調べた。

だが王冠炉が沈黙している限り、彼女はただの一人の娘にすぎなかった。

名前を変え、髪を切り、出自を曖昧にし、古い言葉を話さず、王族の癖を消せばよかった。

十年、それで足りた。

だが今、炉が起きようとしている。

それが何を意味するのか、考えたくなかった。

「リーナさん、こっち!」

ミラが細い路地へ入った。

アビシニアも続く。

路地は人一人がやっと通れるほど狭く、両側の壁から濡れた布が垂れ下がっていた。洗濯場の裏だ。石鹸と湿った木材の匂いがする。ミラは迷いなく進み、低い梁の下をくぐり、積まれた空樽の隙間を抜けた。

背後の足音が遠ざかる。

少なくとも、兵たちはこの道を知らない。

「ここを抜ければ、下層の水路に出ます」

「ミラ」

アビシニアは言った。

「あなたはそこで別れて」

ミラが足を止めた。

「嫌です」

即答だった。

「聞きなさい。私と一緒にいれば、あなたまで追われる」

「もう追われてます」

「今ならまだ、巻き込まれただけで済む」

「済みません」

ミラの声が震えた。

「だって、聞きました」

アビシニアは黙った。

「兵隊が言ってました。王女って」

雨音が強くなる。

路地の奥で、どこかの雨樋が外れたのか、水が激しく落ちる音がした。

ミラは、濡れた髪を頬に貼りつかせたまま、アビシニアを見上げていた。まだ少女の顔だった。だが、その目には、ただの好奇心ではないものがあった。

期待。

恐れ。

そして、十年もの間、難民街の底で消えずに残っていた何か。

アビシニアは、その目を知っていた。

ル・メイルの民の目だ。

彼らは滅びた国を忘れたふりをして生きている。帝国の税を払い、帝国の言葉を使い、帝国の法に従う。けれど、古い歌を完全には捨てない。子どもに昔の地名を教える。市場の片隅で、王国時代の暦を使う。

そして、死んだはずの王女の噂を、まだ語る。

生きているかもしれない。

どこかで戻る日を待っているかもしれない。

王国は終わっていないのかもしれない。

アビシニアは、その噂が嫌いだった。

噂は人を生かす。

だが同時に、死なせもする。

「私は、あなたたちが思っているものではありません」

彼女は静かに言った。

「王国を取り戻すために隠れていたわけではない。兵を集めていたわけでもない。誓いを守っていたわけでもない。ただ、逃げていただけです」

ミラは唇を噛んだ。

「それでも」

「それでも?」

「生きていてくれたんでしょう」

その言葉は、あまりにまっすぐだった。

アビシニアは返せなかった。

生きていた。

確かに、彼女は生きていた。

だがそれは、誇れることなのだろうか。

王宮が燃えた夜、彼女は逃げた。父を置いて。母を置いて。名も知らない兵士や侍女や民を置いて。十年もの間、誰かが自分の名を祈りのように呼んでいると知りながら、聞こえないふりをしていた。

それを、生きていてくれた、と呼んでよいのか。

路地の向こうで、男の声がした。

「こっちだ! 足跡がある!」

アビシニアは顔を上げた。

早い。

兵たちは地理を知らなくても、追跡には慣れている。雨で足跡は消えるが、濡れた石畳の泥の流れ、落ちた布の揺れ、通行人の視線。訓練された者なら、十分に追える。

「行くわ」

アビシニアはミラの手を引いた。

今は答えを出している暇はない。

二人は水路へ出た。

ヴェルゼンの下層には、古い排水路が網の目のように通っている。もともとは修道院時代の地下水路だったものを、帝国が拡張したらしい。幅の狭い石橋がいくつもかかり、雨水が濁った流れとなって湖へ向かっている。

水路沿いには貧しい家々が密集していた。

板を継ぎ合わせた壁。傾いた屋根。煙突のない炉。濡れた薪。軒下で雨を避ける子どもたち。帝国の戸籍には載っているが、帝国の街には属していない者たちの場所。

難民街。

ル・メイルから流れてきた者も多い。

アビシニアがそこへ足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線が彼女に向いた。

警戒。

疑念。

そして、認識。

まずい、と彼女は思った。

自分は今、記録保管所の写字係リーナではない。濡れた外套、乱れた髪、ミラの手を引いて逃げる姿。帝国兵に追われている。それだけで、人々の記憶に残る。

「ミラ、顔を伏せて」

「でも」

「早く」

ミラが外套のフードを深く被る。

だが遅かった。

水路脇の古い屋台の前にいた老婆が、アビシニアを見て固まっていた。

老婆の片目は白く濁っている。頬には古い火傷の痕。手には乾いた薬草の束を握っていた。

アビシニアはその顔を知らない。

知らないはずだった。

しかし老婆は、震える唇で言った。

「……リーナ」

アビシニアは足を止めた。

その呼び方が、記録保管所の者たちとは違っていた。

帝国語の平凡な女名としてではない。

古いル・メイル語の響きで。

灰に伏す者。

名を隠す者。

リーナ。

それは、彼女が受け取った名だった。

王宮地下から逃がされた後、彼女は三日三晩、山中の炭焼き小屋に匿われた。そこで彼女を迎えた老女が、血で汚れた王女の衣を脱がせ、髪を切り、灰を頬に塗り、こう言った。

「今日から、あなたはリーナです」

老女は、その名を誰かから預かっていたもののように言った。

「灰の中に伏す者。名を隠す者。誰にも見つからぬ者。けれど、消えてしまう者ではありません」

その老女の名を、アビシニアは忘れていた。

いや、忘れたと思っていた。

目の前の老婆の濁った片目を見た瞬間、記憶の奥で何かが割れた。

炭の匂い。

粗い毛布。

熱い粥。

泣くことを禁じられた夜。

そして、片目に白い膜のある老女。

「マルタ……?」

声が漏れた。

老婆の手から薬草が落ちた。

「姫様」

その一言で、周囲の空気が変わった。

水路沿いにいた者たちが、次々と振り返る。

子どもが母親の袖を掴む。

男が屋台の奥から出てくる。

誰かが口元を押さえる。

アビシニアは、息を呑んだ。

「違う」

反射的に言った。

「人違いです」

だが老婆は首を振った。

「その目を、見間違えるものですか」

「黙って」

「十年……」

「黙ってください」

アビシニアの声が鋭くなった。

老婆はびくりと震えた。

その瞬間、アビシニアは自分の声に父の響きを聞いた。

命じる声。

従わせる声。

王族の声。

嫌悪が胸を刺す。

彼女は一歩下がった。

だが、もう遅い。

背後の路地から帝国兵が現れた。

「いたぞ!」

水路の反対側からも二人。

橋の上にも一人。

挟まれた。

将校の姿はまだない。だが兵たちは剣を抜いている。ここが難民街であることなど、彼らには関係ない。むしろ好都合だろう。目撃者が貧民や流民なら、あとでいくらでも黙らせられる。

ミラがアビシニアの袖を掴んだ。

「どうしますか」

どうする。

その問いが、胸に落ちる。

逃げるだけなら、方法はある。水路へ飛び込み、下流の暗渠へ潜ればいい。アビシニア一人なら逃げ切れるかもしれない。十年前から、逃げることだけは覚えてきた。

だがミラは。

マルタは。

ここにいる人々は。

兵の一人が叫んだ。

「女を渡せ! 匿えば反逆罪だ!」

難民街にざわめきが広がる。

反逆罪。

帝国では便利な言葉だった。

税を払えない者にも、古い歌を歌った者にも、兵に逆らった者にも、死者の名を口にした者にも使える。

アビシニアは、水路の濁った流れを見た。

逃げれば、彼らは罰せられる。

残れば、自分は捕まる。

王女なら、どうするべきか。

そう考えた瞬間、父の声が蘇った。

王女としてではなく、生きよ。

では、王女としてでなければ。

ただのリーナなら。

ただの、灰に伏して生きてきた女なら。

アビシニアはミラの手を離した。

「マルタ」

老婆が顔を上げる。

「この子を連れて、下がってください」

「姫様」

「私は姫ではありません」

アビシニアは兵たちの方を向いた。

「まだ」

兵がじりじりと距離を詰める。

アビシニアは両手を上げた。武器を持っていないことを示すために。

「私は、記録保管所の写字係リーナ・メルです」

声は雨の中でもよく通った。

「この街の者たちは、私の素性を知りません。私を匿った事実もありません。必要なら、私だけを連れて行きなさい」

兵たちは一瞬ためらった。

捕縛対象が自ら投降するなら、難民街で騒ぎを広げる必要はない。彼らにも判断がある。

だが、橋の上の兵が言った。

「全員調べる。命令だ」

アビシニアの目が冷えた。

「誰の命令ですか」

「中央軍だ」

「命令書を見せなさい」

兵が笑った。

「貴様に見る権利はない」

「なら、あなたにもこの街を調べる権利はありません」

「何だと」

兵が踏み込む。

その時、横合いから声がした。

「その通りだな」

男の声だった。

低く、乾いていて、雨音の中でも不思議とよく届く声。

アビシニアは振り向いた。

水路沿いの古い鍛冶場の軒下に、一人の男が立っていた。

年は二十代半ばほど。濡れた黒髪を後ろへ撫でつけ、肩に古びた旅外套をかけている。腰には剣。だが帝国兵のものではない。装飾のない実用剣だ。

男は片手に、金属製の小さな筒を持っていた。

帝国軍の伝令筒。

兵たちの顔色が変わる。

「貴様、何者だ」

男は答えず、筒の封を指で弾いた。

「中央軍の臨時捜索令。対象は旧ル・メイル領流民登録に該当する候補者の確認。市街区域における強制検分は、地方総督府の立会いを要する。難民街での無差別拘束は、命令範囲外」

彼は淡々と読み上げた。

「字が読めないなら、読んでやろうか」

兵の一人が剣を向けた。

「その命令書をどこで」

「落ちていた」

「嘘をつけ」

「では奪った」

男はようやく薄く笑った。

「どちらが好みだ」

アビシニアは、その男を見つめた。

見覚えはない。

だが立ち方で分かる。

兵士だ。

それも、ただの兵ではない。人を斬ることにも、人に斬られることにも慣れている。

橋の上の兵が叫んだ。

「反逆者だ! 捕らえろ!」

男はため息をついた。

「帝国兵は、すぐに語彙が反逆へ戻る」

次の瞬間、彼は動いていた。

速かった。

剣を抜いた音が雨音に紛れる。橋の上の兵が踏み込むより早く、男は水路脇の木箱を蹴り上げた。箱が兵の膝に当たり、体勢が崩れる。続けて剣の柄で顎を打つ。兵は声もなく倒れた。

殺してはいない。

だが、迷いもない。

残る兵二人が同時にかかる。男は一人目の剣を受け流し、もう一人の足首を払った。濡れた石畳で兵が滑る。そこへ肩からぶつかり、水路へ落とした。

水しぶきが上がる。

難民街の人々が息を呑む。

アビシニアは動けなかった。

男の剣筋には、帝国式の癖があった。

それを彼女は知っている。

十年前、王宮へ攻め込んできた兵たちが使っていた剣だ。

最後の兵が後退する。

「貴様、所属を名乗れ!」

男は剣先を下げたまま答えた。

「元、帝国中央軍第九歩兵隊」

兵の顔が歪む。

「脱走兵か」

「そう呼ぶ者もいる」

男は視線だけをアビシニアへ向けた。

「逃げるなら今だ。将校が来る」

アビシニアは問い返した。

「あなたは誰です」

「カイ・オルヴァ」

その名に、マルタが小さく息を呑んだ。

アビシニアは気づいた。

彼女だけではない。難民街の年長者たちが、その名に反応している。

「知っているのですか」

ミラがマルタに尋ねる。

マルタは青ざめた顔で言った。

「オルヴァ……ル・メイル戦役で、北門を破った部隊の名です」

雨音が、急に遠くなった。

アビシニアはカイを見た。

彼は否定しなかった。

ただ、濡れた剣を下げ、静かに立っていた。

「あなたは」

アビシニアの声は、自分でも驚くほど低かった。

「王都にいたのですか」

カイは答えた。

「いた」

ミラが震えた。

マルタが祈るように胸元を握った。

アビシニアは、一歩だけカイへ近づいた。

「なら、あなたは私の敵です」

「そうだ」

即答だった。

その潔さが、かえって彼女の怒りを深くした。

カイは続けた。

「だが今、君を帝国へ渡す気はない」

「なぜ」

「王冠炉が動いた」

また、その名。

アビシニアの耳の奥で、低い律動が鳴った。

カイは雨の向こう、記録保管所の方角を見た。

「中央軍は君を王女として探しているんじゃない。鍵として探している」

「鍵」

「炉を開くための」

彼の視線が、アビシニアに戻る。

「アビシニア・ル・メイル。君が捕まれば、帝国は王冠炉を起こす」

その名を、今度は誰も否定しなかった。

雨の中で、難民街の人々が膝をつきかける。

アビシニアは鋭く言った。

「跪かないで」

人々が動きを止める。

「誰も、跪かないでください」

声が震えていた。

怒りのせいか。

恐怖のせいか。

それとも、十年間避け続けたものが、ついに目の前に形を取ったせいか。

カイが言った。

「時間がない。ここにいれば、街ごと封鎖される」

「あなたについて来いと?」

「他に道があるなら、そちらを選べ」

アビシニアは彼を睨んだ。

帝国兵。

脱走兵。

王都を焼いた側の男。

信じられるはずがない。

だが、彼の手には命令書がある。

王冠炉の情報を知っている。

そして何より、彼は今、帝国兵を殺さずに止めた。

殺せたのに、殺さなかった。

それが善意からなのか、計算からなのかは分からない。

背後で、遠く軍笛が鳴った。

一度。

二度。

三度。

街門封鎖の合図だった。

カイが短く言う。

「決めろ」

アビシニアはミラを見た。

「あなたはここに残って」

「嫌です」

また即答だった。

「ミラ」

「リーナさんが誰でも、私は行きます」

「これは子どもの意地で済む話ではありません」

「知ってます」

ミラの目には涙が浮かんでいた。

だが、逸らさなかった。

「でも、置いていかれるのはもう嫌です」

その言葉に、アビシニアは何も言えなくなった。

ミラもまた、滅びた国の子なのだ。

誰かに置いていかれた側の子。

アビシニアはマルタを見た。

「この子を」

マルタは首を振った。

「姫様」

「私は」

「いいえ」

老婆の声は静かだった。

「あなたが姫様であるかどうかは、今はどうでもよいのです」

アビシニアは息を止めた。

「ただ、あの子があなたを選びました」

ミラがアビシニアの袖を握る。

カイが軍笛の方角を見た。

「早くしろ」

アビシニアは、目を閉じた。

十年前、父は言った。

最後に選ぶ時だけは、お前自身の意志で選びなさい。

これは最後ではない。

だが、選ばなければならない時だった。

逃げるか。

残るか。

信じるか。

疑うか。

彼女は目を開けた。

「カイ・オルヴァ」

「何だ」

「あなたを信じたわけではありません」

「それでいい」

「私を鍵として扱うなら、あなたの喉を裂きます」

「覚えておく」

「ミラを危険に晒したら」

「その前に俺が死ぬ」

アビシニアは一瞬、言葉に詰まった。

カイは表情を変えない。

冗談ではないのだろう。

誓いでもない。

ただ、事実として言っている。

それがかえって不気味だった。

「行きましょう」

アビシニアは言った。

カイは頷き、路地の奥へ歩き出した。

その背中を追いながら、アビシニアは一度だけ振り返った。

マルタが雨の中に立っていた。

難民街の人々も、誰一人跪かず、ただ黙って彼女を見ていた。

それでよかった。

跪かれたら、彼女は逃げられなくなる。

だが、去り際にマルタが唇だけで何かを言った。

声は雨に消えた。

それでも、アビシニアには分かった。

お帰りなさい。

そう言ったのだ。

彼女は前を向いた。

帰る場所など、もうない。

だが、追われる理由なら戻ってきた。

王冠炉。

帝国。

滅びた王国。

そして、アビシニア・ル・メイルという名。

灰の下に伏せていたものが、雨に洗われ、少しずつ形を取り戻していく。

その形が王冠なのか、鎖なのか。

彼女にはまだ分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ