第一章 灰を写す女
※ChatGPTを全文で使用しています。
帝国辺境都市ヴェルゼンには、雨がよく降る。
山脈から吹き下ろす冷たい風が、湖面で湿り気を拾い、石造りの街に重く垂れ込める。春であっても空は低く、朝は霧に沈み、昼は薄暗く、夜には屋根を叩く雨音だけが通りを満たした。
王都ル・メイルの雨は、もっと柔らかかった。
そう思いかけて、アビシニアは筆を止めた。
思い出そうとしてはいけない。
思い出すことには、いつも代償がある。
彼女は小さく息を吐き、乾きかけた羊皮紙の上へ視線を戻した。
目の前には、帝国第七税務局から回されてきた穀物輸送記録が積まれている。古い帳簿を写し、欠けた文字を補い、濡れて滲んだ印章を読み解く。ヴェルゼン記録保管所の仕事は退屈で、目が疲れ、手首が痛む。
だが、退屈であることはありがたかった。
退屈な仕事は、人を殺さない。
少なくとも、たいていは。
「リーナ、三番棚の鉱山台帳は終わったか」
奥の机から、主任写字官のボルグが声をかけた。
リーナ。
それが今の彼女の名だった。
アビシニア・ル・メイルという名は、十年前、王国とともに燃えた。今ここにいるのは、辺境都市の記録保管所で働く、痩せた若い写字係リーナ・メル。黒に近い灰褐色の髪を首元で切り揃え、目立たない外套を着て、誰より早く出勤し、誰より遅く帰る女。
「終わっています。湿気で二枚ほど剥離しかけていたので、乾燥箱に移しました」
「相変わらず気が利くな」
ボルグは、鼻先にずり落ちた眼鏡を押し上げた。
太った男で、声は大きいが、悪い人間ではない。少なくとも、部下の過去を詮索しない程度には賢かった。
「午後は帝国軍の閲覧が入る。南棟の閲覧室を空けておけ」
アビシニアの指先が、紙の端をわずかに折った。
「帝国軍、ですか」
「そうだ。中央から来た連中らしい。古い戸籍と難民登録を見たいそうだ」
「難民登録」
言葉が喉の奥で硬くなった。
「十年前から十五年前までのものを全部だ。まったく、今さら何を探しているのやら」
ボルグは愚痴のように言い、茶の入った木杯を持ち上げた。
「まあ、上からの命令だ。余計なことは言わず、必要な箱を出してやれ。お前は文字が読めすぎるからな。軍人の前では黙っているくらいでちょうどいい」
「承知しました」
アビシニアは頭を下げた。
その動作は、もう身についている。
王宮で教え込まれた礼ではない。身を低くし、目を合わせず、相手の記憶に残らないための礼だ。
ボルグが再び帳簿に視線を落とすと、彼女は静かに立ち上がった。
記録保管所の南棟は、かつて修道院だった建物を改修したものだ。高い天井、細長い窓、厚い壁。湿気を避けるため床は一段高く、壁一面に棚が並び、棚には番号札のついた木箱が詰められている。
帝国はよく記録する国だった。
征服した土地の名を変え、住民を数え、税を割り当て、死者を分類する。
誰がどこから来て、どこへ移され、どの家に属し、何を失ったのか。すべて紙に書き、印を押し、棚にしまう。
ル・メイル王国の滅亡も、帝国にとっては記録の一部にすぎない。
戦役名。
制圧日。
没収財産。
移送民数。
処刑者名簿。
逃亡者推定数。
そこに、悲鳴はない。
アビシニアは南棟の鍵を開け、閲覧室の雨戸を半分だけ開いた。薄い光が机の上に落ちる。埃が光の中で揺れた。
彼女は棚番号を確認し、難民登録簿の箱を選び始めた。
十年前から十五年前。
つまり、ル・メイル戦役の前後だ。
なぜ今なのか。
帝国は、ル・メイル王家の血を絶やしたと公表している。父王、王妃、王弟、従兄弟たち。王位継承権を持つ者はすべて死んだことになっている。王女アビシニアについては、公式記録では「王宮地下崩落により死亡」と記載されていたはずだ。
彼女はその記録を、三年前に自分の手で写した。
死亡者名簿に自分の名を書くのは、不思議な感覚だった。
その時は、何も感じなかった。
いや、感じないようにした。
棚の奥から、革紐で束ねられた登録簿を取り出す。
表紙には、帝国語でこう記されていた。
旧ル・メイル領流民登録 第一期
アビシニアは表紙を撫でた。
その中には、死ななかった者たちの名がある。
死ねなかった者たちの名も。
彼女は帳簿を机へ運び、閲覧用の手袋と重石を並べた。軍人たちが扱いやすいように索引札も添える。仕事としては、いつも通りだった。
だが、胸の奥が冷えていた。
雨音が強くなる。
遠くで鐘が鳴った。午前の終わりを告げる鐘だ。
その少し後、記録保管所の正面扉が開く音がした。
複数の靴音。
硬い軍靴の音。
アビシニアは南棟の扉の影に立ち、呼吸を整えた。
恐れるな。
急ぐな。
目立つな。
十年かけて覚えた、生き延びるための祈りのようなものだった。
やがて、ボルグの声が廊下に響いた。
「こちらです。古い登録簿は南棟にまとめてあります」
続いて、低い男の声。
「閲覧は我々だけで行う。職員は下がらせろ」
「しかし、資料の扱いに慣れた者がいませんと」
「命令書に書いてあるはずだ」
紙が開かれる音。
沈黙。
ボルグが短く息を呑んだ。
「……失礼しました。リーナ」
呼ばれて、アビシニアは廊下へ出た。
軍人は三人いた。
一人は中年の将校。濃紺の軍服に銀の飾緒。帝国中央軍の所属を示す徽章が胸にある。残る二人は護衛兵だ。どちらも若いが、手の位置に無駄がない。剣を抜くことに慣れている者の立ち方だった。
将校はアビシニアを見た。
ほんの一瞬。
その目は、彼女を人として見ていなかった。棚や机や鍵束と同じ、用件を処理するための部品として見ていた。
ありがたいことだった。
「資料は準備してあります」
アビシニアは静かに言った。
「閲覧時は手袋をお使いください。破損のある頁には赤い紙片を挟んでいます。開く場合は職員にお声がけを」
「下がれ」
将校はそれだけ言った。
ボルグが気まずそうに彼女を見る。
アビシニアは軽く頷き、鍵束を机に置いた。
「では、隣室におります」
「不要だ」
将校の声が鋭くなった。
「南棟から出ろ」
ボルグが慌てて口を挟んだ。
「リーナ、北棟の整理に戻れ」
「はい」
アビシニアは頭を下げ、廊下へ出た。
扉が閉まる。
その瞬間、彼女は自分の心拍が速くなっていることに気づいた。
難民登録だけなら、南棟を封鎖する必要はない。
職員を追い出す必要もない。
中央軍の将校が直接来る必要もない。
彼らは何かを探している。
彼女は北棟へ戻るふりをして、廊下の角を曲がった。
そこからさらに奥へ進むと、古い修道院時代の告解室が残っている。今は壊れた椅子や使わない燭台を置く物置になっているが、壁の一部が南棟の閲覧室と接している。
そして、その壁には細い通気孔があった。
アビシニアは物置へ入り、扉を閉めた。
暗がりの中で、雨音と自分の息だけが聞こえる。
彼女は通気孔に耳を近づけた。
最初は紙をめくる音だけだった。
やがて、護衛兵の一人が言った。
「本当にこの街にいるのでしょうか」
将校が答える。
「可能性が高い。十年前、王宮地下から脱出した子どもが一人いたという証言が出た」
アビシニアの喉が凍った。
「王女ですか」
「名を口にするな」
将校の声が低くなった。
「中央ではまだ死亡扱いだ。だが、上は生存を疑っている」
「なぜ今になって」
「王冠炉が反応した」
その言葉を聞いた瞬間、アビシニアの視界が暗く揺れた。
王冠炉。
十年ぶりに耳にする名だった。
忘れたかった名。
忘れられなかった名。
「三日前、旧王都地下で封鎖していた機関が起動兆候を示した。完全起動ではない。だが、炉心が王家の血を探している」
「王家は全滅したはずでは」
「だから探している」
紙が乱暴にめくられる音がした。
「ル・メイル王家の直系、あるいは近縁。年齢は十七から二十二。女。戦役直後に流民として登録された者、または登録を逃れた者。特に、文字を扱う職に就いている者を洗えとの命令だ」
アビシニアは、壁に手をついた。
息を殺す。
文字を扱う職。
それは偶然ではない。
ル・メイル王家の教育では、古王朝文字、帝国語、湖岸諸語、数理記号、機関銘文の読解が必須だった。幼い王族は剣より先に文字を覚える。王冠炉を封じるため、王家は記録を読む血筋でなければならなかったからだ。
「この保管所の職員名簿も確認しますか」
「当然だ」
椅子が軋む。
「特に、十年前に身元保証なしで雇われた者。出自が曖昧な者。名前を変えた形跡のある者。女なら全員だ」
護衛兵が小さく笑った。
「辺境の写字女まで疑うのですか」
「王女とは、そういうものだ」
将校の声には感情がなかった。
「生き延びるためなら、どんな姿にもなる」
アビシニアは目を閉じた。
その通りだと思った。
王女とは、民の前に立つ者ではなかったのか。
王女とは、国の名を背負う者ではなかったのか。
違う。
少なくとも彼女は、十年間、ただ逃げるために生きてきた。
その時、閲覧室の扉が開く音がした。
「失礼します」
若い女の声。
アビシニアは眉をひそめた。
ミラだ。
記録保管所で雑用をしている少女だった。十五歳。難民街の出身で、読み書きはまだ不完全だが、手先が器用で、資料の修繕を覚え始めている。アビシニアによく懐いていた。
「誰だ」
将校が問う。
「お茶をお持ちしました。主任から」
「頼んでいない」
「でも、中央からのお客様には必ず出すようにと」
ミラの声は明るい。
明るすぎる。
あの子は、何かを見たのだ。
アビシニアは唇を噛んだ。
ミラは勘がいい。南棟が封鎖され、アビシニアが戻らないことを不審に思ったのだろう。様子を見に来た。あるいは、助けようとした。
愚かな子。
優しい子。
「置いて出ろ」
将校が言った。
陶器の盆が机に置かれる音。
その直後、紙束が落ちた。
「あっ、すみません」
ミラの声が震えた。
「触るな」
護衛兵が怒鳴った。
「申し訳ありません、すぐに」
「触るなと言った」
鈍い音がした。
人が床に倒れる音だった。
アビシニアの中で、何かが切れた。
考えるより先に、彼女は物置を出ていた。廊下を走り、南棟の扉を開ける。
閲覧室の中で、ミラが床に膝をついていた。頬が赤く腫れている。割れた茶器から茶が広がり、古い登録簿の端を濡らしていた。
護衛兵が彼女の腕を掴んでいる。
将校がアビシニアを見た。
「出ろと言ったはずだ」
アビシニアは、答えなかった。
彼女の視線は、ミラの頬にあった。
腫れた頬。
震える唇。
それでも泣くまいとしている目。
十年前、地下へ引かれていく自分の手を握っていた誰かの指を、ふと思い出した。
痛いほど強かった指。
泣かないために、誰かが握り潰していた手。
「その子を離してください」
アビシニアは言った。
声は驚くほど静かだった。
将校の目が細くなる。
「職員風情が、命令するのか」
「資料を濡らした責任は私が取ります。その子は修繕係です。軍の閲覧には関係ありません」
「関係があるかどうかは、こちらが決める」
護衛兵がミラの腕をさらに強く引いた。
ミラが小さく呻く。
アビシニアは一歩進んだ。
「離してください」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
雨音が遠のく。
灯りの炎が、細く伸びる。
将校がわずかに身構えた。護衛兵の手が剣に近づく。だが、彼らはまだ理解していなかった。目の前の写字女が何をしたのかを。
アビシニア自身も、ほとんど理解していなかった。
ただ、怒りがあった。
十年かけて押し殺してきた怒り。
王国を焼いた者たちへの怒り。
死者を数字にした者たちへの怒り。
生き残った者の頬を、何のためらいもなく打つ手への怒り。
その怒りが、胸の奥で古い機関の残響と触れ合った。
彼女の耳の奥で、低い律動が鳴る。
心拍ではない。
雨音でもない。
もっと深く、石の下から響くような音。
王冠炉の名を聞いたせいだろうか。
あるいは、炉の方が彼女を呼んでいるのか。
アビシニアは、護衛兵の目を見た。
「手を」
彼女は囁いた。
「離しなさい」
護衛兵の表情が抜け落ちた。
彼の指が、ミラの腕からほどける。
まるで、自分の手が何をしていたのか分からなくなったように。
ミラが床に崩れた。
将校が椅子を蹴って立ち上がる。
「貴様」
その声には、初めて感情があった。
驚愕。
恐怖。
そして、確信。
「名を言え」
アビシニアは動かなかった。
「貴様の名を言え!」
護衛兵二人が剣を抜いた。
その音で、ミラが顔を上げた。
「リーナさん……?」
その名で呼ばれるたび、胸の奥に小さな痛みが走る。。
アビシニアは、ようやく自分が何をしたのか理解した。
認識への干渉。
王家に伝わる、王冠炉の微弱共鳴。
人の注意と判断の境目に触れ、命令と錯覚させる力。
幼い頃、父はそれを禁じていた。
人の意志に触れるな。
それは、王が最初に破ってはならない境界だ。
その教えを、彼女は今、破った。
将校が短剣を抜いた。
「拘束しろ。生かして中央へ送る」
アビシニアは後退した。
逃げ道は一つ。
廊下へ出て、北棟を抜け、裏口から雨の街へ。
だが、ミラがいる。
ミラはまだ立てない。
アビシニアは、ミラの前に立った。
剣を持たない。
鎧もない。
王冠もない。
ただの写字女として。
それでも、その姿を見た将校の顔色は変わっていた。
彼は見てしまったのだ。
灰の下に隠れていたものを。
「やはり、生きていたか」
将校が低く言った。
「アビシニア・ル・メイル」
その名が部屋に落ちた瞬間、窓の外で雷が鳴った。
リーナではない名。
捨てたはずの、けれど捨てきれなかった名。
アビシニアは、十年ぶりに自分の名を聞いた。
それは、呪いのようでもあり、帰還の鐘のようでもあった。
ミラが息を呑む。
ボルグが廊下の向こうで何かを叫んでいる。
雨音が激しくなる。
護衛兵が踏み込む。
アビシニアは、十年ぶりに自分の名を聞いた。
それは、呪いのようでもあり、帰還の鐘のようでもあった。
彼女は机の上の燭台を掴み、最初の兵の顔へ投げつけた。
炎が散る。
古い帳簿に火が移る。
死者の名が、煙を上げ始めた。
「ミラ、走って」
アビシニアは言った。
「でも」
「走りなさい」
その言い方が、あまりにも昔の誰かに似ていたせいで、彼女自身が一瞬だけ傷ついた。
ミラは立ち上がり、泣きそうな顔で頷いた。
二人は廊下へ飛び出した。
背後で将校が叫ぶ。
「逃がすな! 王女を捕らえろ!」
王女。
その言葉が、石壁に反響する。
記録保管所の職員たちが振り返る。
誰かが悲鳴を上げる。
誰かが祈りの言葉を漏らす。
誰かが、古い国の名を呟く。
ル・メイル。
死んだはずの名が、雨の匂いのする廊下に蘇る。
アビシニアは走った。
十年前と同じように。
だが、あの夜と違うことが一つだけあった。
今度は、彼女の手を引く者はいない。
彼女が、誰かの手を引いていた。
雨の街へ出た瞬間、世界は白く煙っていた。
ヴェルゼンの雨は、空から落ちるというより、街全体を内側から濡らしているようだった。石畳は黒く光り、屋根から流れ落ちる水が細い滝となって路地を塞いでいる。馬車の轍には泥水が溜まり、遠くの鐘楼は霧に沈んで輪郭を失っていた。
アビシニアはミラの手を引き、記録保管所の裏口から狭い路地へ飛び出した。
背後で扉が開く音がする。
「止まれ!」
帝国兵の声。
アビシニアは振り返らなかった。
「こっちです!」
ミラが息を切らしながら言った。
「難民街へ抜ける道があります。市場の裏、洗濯場の横を通れば」
「案内して」
「はい」
ミラの手は冷たかった。
だが、しっかり握り返してくる。
その感触に、アビシニアは胸の奥が痛んだ。
十年前、自分の手を引いていた者も、こんなふうに冷たい手をしていたのだろうか。恐怖で震えながら、それでも離すまいとしていたのだろうか。
思い出そうとした瞬間、耳の奥で低い音が鳴った。
ずん、と。
遠い地底で、巨大な歯車が一つ噛み合ったような音。
アビシニアは足を止めかけた。
「リーナさん?」
ミラが振り返る。
「何でもない」
嘘だった。
何でもなくはない。
さきほどから、胸の奥に異物のような感覚がある。王冠炉の名を聞いた時からだ。いや、もっと前からかもしれない。三日前の夜、眠っている最中に突然目が覚め、理由もなく涙が流れていた。あの時も、遠くで何かが鳴っている気がした。
王冠炉は停止していたはずだった。
十年前、父が最後に何をしたのか、アビシニアは知らない。
けれど少なくとも、炉は沈黙していた。だから彼女は生き延びられた。王家の血を追う機関が眠っていたから、帝国は彼女を探せなかった。
いや、正確には、探しても見つけられなかった。
帝国は記録を洗った。
難民を調べた。
孤児院を調べた。
国境を越えた商隊まで調べた。
だが王冠炉が沈黙している限り、彼女はただの一人の娘にすぎなかった。
名前を変え、髪を切り、出自を曖昧にし、古い言葉を話さず、王族の癖を消せばよかった。
十年、それで足りた。
だが今、炉が起きようとしている。
それが何を意味するのか、考えたくなかった。
「リーナさん、こっち!」
ミラが細い路地へ入った。
アビシニアも続く。
路地は人一人がやっと通れるほど狭く、両側の壁から濡れた布が垂れ下がっていた。洗濯場の裏だ。石鹸と湿った木材の匂いがする。ミラは迷いなく進み、低い梁の下をくぐり、積まれた空樽の隙間を抜けた。
背後の足音が遠ざかる。
少なくとも、兵たちはこの道を知らない。
「ここを抜ければ、下層の水路に出ます」
「ミラ」
アビシニアは言った。
「あなたはそこで別れて」
ミラが足を止めた。
「嫌です」
即答だった。
「聞きなさい。私と一緒にいれば、あなたまで追われる」
「もう追われてます」
「今ならまだ、巻き込まれただけで済む」
「済みません」
ミラの声が震えた。
「だって、聞きました」
アビシニアは黙った。
「兵隊が言ってました。王女って」
雨音が強くなる。
路地の奥で、どこかの雨樋が外れたのか、水が激しく落ちる音がした。
ミラは、濡れた髪を頬に貼りつかせたまま、アビシニアを見上げていた。まだ少女の顔だった。だが、その目には、ただの好奇心ではないものがあった。
期待。
恐れ。
そして、十年もの間、難民街の底で消えずに残っていた何か。
アビシニアは、その目を知っていた。
ル・メイルの民の目だ。
彼らは滅びた国を忘れたふりをして生きている。帝国の税を払い、帝国の言葉を使い、帝国の法に従う。けれど、古い歌を完全には捨てない。子どもに昔の地名を教える。市場の片隅で、王国時代の暦を使う。
そして、死んだはずの王女の噂を、まだ語る。
生きているかもしれない。
どこかで戻る日を待っているかもしれない。
王国は終わっていないのかもしれない。
アビシニアは、その噂が嫌いだった。
噂は人を生かす。
だが同時に、死なせもする。
「私は、あなたたちが思っているものではありません」
彼女は静かに言った。
「王国を取り戻すために隠れていたわけではない。兵を集めていたわけでもない。誓いを守っていたわけでもない。ただ、逃げていただけです」
ミラは唇を噛んだ。
「それでも」
「それでも?」
「生きていてくれたんでしょう」
その言葉は、あまりにまっすぐだった。
アビシニアは返せなかった。
生きていた。
確かに、彼女は生きていた。
だがそれは、誇れることなのだろうか。
王宮が燃えた夜、彼女は逃げた。父を置いて。母を置いて。名も知らない兵士や侍女や民を置いて。十年もの間、誰かが自分の名を祈りのように呼んでいると知りながら、聞こえないふりをしていた。
それを、生きていてくれた、と呼んでよいのか。
路地の向こうで、男の声がした。
「こっちだ! 足跡がある!」
アビシニアは顔を上げた。
早い。
兵たちは地理を知らなくても、追跡には慣れている。雨で足跡は消えるが、濡れた石畳の泥の流れ、落ちた布の揺れ、通行人の視線。訓練された者なら、十分に追える。
「行くわ」
アビシニアはミラの手を引いた。
今は答えを出している暇はない。
二人は水路へ出た。
ヴェルゼンの下層には、古い排水路が網の目のように通っている。もともとは修道院時代の地下水路だったものを、帝国が拡張したらしい。幅の狭い石橋がいくつもかかり、雨水が濁った流れとなって湖へ向かっている。
水路沿いには貧しい家々が密集していた。
板を継ぎ合わせた壁。傾いた屋根。煙突のない炉。濡れた薪。軒下で雨を避ける子どもたち。帝国の戸籍には載っているが、帝国の街には属していない者たちの場所。
難民街。
ル・メイルから流れてきた者も多い。
アビシニアがそこへ足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線が彼女に向いた。
警戒。
疑念。
そして、認識。
まずい、と彼女は思った。
自分は今、記録保管所の写字係リーナではない。濡れた外套、乱れた髪、ミラの手を引いて逃げる姿。帝国兵に追われている。それだけで、人々の記憶に残る。
「ミラ、顔を伏せて」
「でも」
「早く」
ミラが外套のフードを深く被る。
だが遅かった。
水路脇の古い屋台の前にいた老婆が、アビシニアを見て固まっていた。
老婆の片目は白く濁っている。頬には古い火傷の痕。手には乾いた薬草の束を握っていた。
アビシニアはその顔を知らない。
知らないはずだった。
しかし老婆は、震える唇で言った。
「……リーナ」
アビシニアは足を止めた。
その呼び方が、記録保管所の者たちとは違っていた。
帝国語の平凡な女名としてではない。
古いル・メイル語の響きで。
灰に伏す者。
名を隠す者。
リーナ。
それは、彼女が受け取った名だった。
王宮地下から逃がされた後、彼女は三日三晩、山中の炭焼き小屋に匿われた。そこで彼女を迎えた老女が、血で汚れた王女の衣を脱がせ、髪を切り、灰を頬に塗り、こう言った。
「今日から、あなたはリーナです」
老女は、その名を誰かから預かっていたもののように言った。
「灰の中に伏す者。名を隠す者。誰にも見つからぬ者。けれど、消えてしまう者ではありません」
その老女の名を、アビシニアは忘れていた。
いや、忘れたと思っていた。
目の前の老婆の濁った片目を見た瞬間、記憶の奥で何かが割れた。
炭の匂い。
粗い毛布。
熱い粥。
泣くことを禁じられた夜。
そして、片目に白い膜のある老女。
「マルタ……?」
声が漏れた。
老婆の手から薬草が落ちた。
「姫様」
その一言で、周囲の空気が変わった。
水路沿いにいた者たちが、次々と振り返る。
子どもが母親の袖を掴む。
男が屋台の奥から出てくる。
誰かが口元を押さえる。
アビシニアは、息を呑んだ。
「違う」
反射的に言った。
「人違いです」
だが老婆は首を振った。
「その目を、見間違えるものですか」
「黙って」
「十年……」
「黙ってください」
アビシニアの声が鋭くなった。
老婆はびくりと震えた。
その瞬間、アビシニアは自分の声に父の響きを聞いた。
命じる声。
従わせる声。
王族の声。
嫌悪が胸を刺す。
彼女は一歩下がった。
だが、もう遅い。
背後の路地から帝国兵が現れた。
「いたぞ!」
水路の反対側からも二人。
橋の上にも一人。
挟まれた。
将校の姿はまだない。だが兵たちは剣を抜いている。ここが難民街であることなど、彼らには関係ない。むしろ好都合だろう。目撃者が貧民や流民なら、あとでいくらでも黙らせられる。
ミラがアビシニアの袖を掴んだ。
「どうしますか」
どうする。
その問いが、胸に落ちる。
逃げるだけなら、方法はある。水路へ飛び込み、下流の暗渠へ潜ればいい。アビシニア一人なら逃げ切れるかもしれない。十年前から、逃げることだけは覚えてきた。
だがミラは。
マルタは。
ここにいる人々は。
兵の一人が叫んだ。
「女を渡せ! 匿えば反逆罪だ!」
難民街にざわめきが広がる。
反逆罪。
帝国では便利な言葉だった。
税を払えない者にも、古い歌を歌った者にも、兵に逆らった者にも、死者の名を口にした者にも使える。
アビシニアは、水路の濁った流れを見た。
逃げれば、彼らは罰せられる。
残れば、自分は捕まる。
王女なら、どうするべきか。
そう考えた瞬間、父の声が蘇った。
王女としてではなく、生きよ。
では、王女としてでなければ。
ただのリーナなら。
ただの、灰に伏して生きてきた女なら。
アビシニアはミラの手を離した。
「マルタ」
老婆が顔を上げる。
「この子を連れて、下がってください」
「姫様」
「私は姫ではありません」
アビシニアは兵たちの方を向いた。
「まだ」
兵がじりじりと距離を詰める。
アビシニアは両手を上げた。武器を持っていないことを示すために。
「私は、記録保管所の写字係リーナ・メルです」
声は雨の中でもよく通った。
「この街の者たちは、私の素性を知りません。私を匿った事実もありません。必要なら、私だけを連れて行きなさい」
兵たちは一瞬ためらった。
捕縛対象が自ら投降するなら、難民街で騒ぎを広げる必要はない。彼らにも判断がある。
だが、橋の上の兵が言った。
「全員調べる。命令だ」
アビシニアの目が冷えた。
「誰の命令ですか」
「中央軍だ」
「命令書を見せなさい」
兵が笑った。
「貴様に見る権利はない」
「なら、あなたにもこの街を調べる権利はありません」
「何だと」
兵が踏み込む。
その時、横合いから声がした。
「その通りだな」
男の声だった。
低く、乾いていて、雨音の中でも不思議とよく届く声。
アビシニアは振り向いた。
水路沿いの古い鍛冶場の軒下に、一人の男が立っていた。
年は二十代半ばほど。濡れた黒髪を後ろへ撫でつけ、肩に古びた旅外套をかけている。腰には剣。だが帝国兵のものではない。装飾のない実用剣だ。
男は片手に、金属製の小さな筒を持っていた。
帝国軍の伝令筒。
兵たちの顔色が変わる。
「貴様、何者だ」
男は答えず、筒の封を指で弾いた。
「中央軍の臨時捜索令。対象は旧ル・メイル領流民登録に該当する候補者の確認。市街区域における強制検分は、地方総督府の立会いを要する。難民街での無差別拘束は、命令範囲外」
彼は淡々と読み上げた。
「字が読めないなら、読んでやろうか」
兵の一人が剣を向けた。
「その命令書をどこで」
「落ちていた」
「嘘をつけ」
「では奪った」
男はようやく薄く笑った。
「どちらが好みだ」
アビシニアは、その男を見つめた。
見覚えはない。
だが立ち方で分かる。
兵士だ。
それも、ただの兵ではない。人を斬ることにも、人に斬られることにも慣れている。
橋の上の兵が叫んだ。
「反逆者だ! 捕らえろ!」
男はため息をついた。
「帝国兵は、すぐに語彙が反逆へ戻る」
次の瞬間、彼は動いていた。
速かった。
剣を抜いた音が雨音に紛れる。橋の上の兵が踏み込むより早く、男は水路脇の木箱を蹴り上げた。箱が兵の膝に当たり、体勢が崩れる。続けて剣の柄で顎を打つ。兵は声もなく倒れた。
殺してはいない。
だが、迷いもない。
残る兵二人が同時にかかる。男は一人目の剣を受け流し、もう一人の足首を払った。濡れた石畳で兵が滑る。そこへ肩からぶつかり、水路へ落とした。
水しぶきが上がる。
難民街の人々が息を呑む。
アビシニアは動けなかった。
男の剣筋には、帝国式の癖があった。
それを彼女は知っている。
十年前、王宮へ攻め込んできた兵たちが使っていた剣だ。
最後の兵が後退する。
「貴様、所属を名乗れ!」
男は剣先を下げたまま答えた。
「元、帝国中央軍第九歩兵隊」
兵の顔が歪む。
「脱走兵か」
「そう呼ぶ者もいる」
男は視線だけをアビシニアへ向けた。
「逃げるなら今だ。将校が来る」
アビシニアは問い返した。
「あなたは誰です」
「カイ・オルヴァ」
その名に、マルタが小さく息を呑んだ。
アビシニアは気づいた。
彼女だけではない。難民街の年長者たちが、その名に反応している。
「知っているのですか」
ミラがマルタに尋ねる。
マルタは青ざめた顔で言った。
「オルヴァ……ル・メイル戦役で、北門を破った部隊の名です」
雨音が、急に遠くなった。
アビシニアはカイを見た。
彼は否定しなかった。
ただ、濡れた剣を下げ、静かに立っていた。
「あなたは」
アビシニアの声は、自分でも驚くほど低かった。
「王都にいたのですか」
カイは答えた。
「いた」
ミラが震えた。
マルタが祈るように胸元を握った。
アビシニアは、一歩だけカイへ近づいた。
「なら、あなたは私の敵です」
「そうだ」
即答だった。
その潔さが、かえって彼女の怒りを深くした。
カイは続けた。
「だが今、君を帝国へ渡す気はない」
「なぜ」
「王冠炉が動いた」
また、その名。
アビシニアの耳の奥で、低い律動が鳴った。
カイは雨の向こう、記録保管所の方角を見た。
「中央軍は君を王女として探しているんじゃない。鍵として探している」
「鍵」
「炉を開くための」
彼の視線が、アビシニアに戻る。
「アビシニア・ル・メイル。君が捕まれば、帝国は王冠炉を起こす」
その名を、今度は誰も否定しなかった。
雨の中で、難民街の人々が膝をつきかける。
アビシニアは鋭く言った。
「跪かないで」
人々が動きを止める。
「誰も、跪かないでください」
声が震えていた。
怒りのせいか。
恐怖のせいか。
それとも、十年間避け続けたものが、ついに目の前に形を取ったせいか。
カイが言った。
「時間がない。ここにいれば、街ごと封鎖される」
「あなたについて来いと?」
「他に道があるなら、そちらを選べ」
アビシニアは彼を睨んだ。
帝国兵。
脱走兵。
王都を焼いた側の男。
信じられるはずがない。
だが、彼の手には命令書がある。
王冠炉の情報を知っている。
そして何より、彼は今、帝国兵を殺さずに止めた。
殺せたのに、殺さなかった。
それが善意からなのか、計算からなのかは分からない。
背後で、遠く軍笛が鳴った。
一度。
二度。
三度。
街門封鎖の合図だった。
カイが短く言う。
「決めろ」
アビシニアはミラを見た。
「あなたはここに残って」
「嫌です」
また即答だった。
「ミラ」
「リーナさんが誰でも、私は行きます」
「これは子どもの意地で済む話ではありません」
「知ってます」
ミラの目には涙が浮かんでいた。
だが、逸らさなかった。
「でも、置いていかれるのはもう嫌です」
その言葉に、アビシニアは何も言えなくなった。
ミラもまた、滅びた国の子なのだ。
誰かに置いていかれた側の子。
アビシニアはマルタを見た。
「この子を」
マルタは首を振った。
「姫様」
「私は」
「いいえ」
老婆の声は静かだった。
「あなたが姫様であるかどうかは、今はどうでもよいのです」
アビシニアは息を止めた。
「ただ、あの子があなたを選びました」
ミラがアビシニアの袖を握る。
カイが軍笛の方角を見た。
「早くしろ」
アビシニアは、目を閉じた。
十年前、父は言った。
最後に選ぶ時だけは、お前自身の意志で選びなさい。
これは最後ではない。
だが、選ばなければならない時だった。
逃げるか。
残るか。
信じるか。
疑うか。
彼女は目を開けた。
「カイ・オルヴァ」
「何だ」
「あなたを信じたわけではありません」
「それでいい」
「私を鍵として扱うなら、あなたの喉を裂きます」
「覚えておく」
「ミラを危険に晒したら」
「その前に俺が死ぬ」
アビシニアは一瞬、言葉に詰まった。
カイは表情を変えない。
冗談ではないのだろう。
誓いでもない。
ただ、事実として言っている。
それがかえって不気味だった。
「行きましょう」
アビシニアは言った。
カイは頷き、路地の奥へ歩き出した。
その背中を追いながら、アビシニアは一度だけ振り返った。
マルタが雨の中に立っていた。
難民街の人々も、誰一人跪かず、ただ黙って彼女を見ていた。
それでよかった。
跪かれたら、彼女は逃げられなくなる。
だが、去り際にマルタが唇だけで何かを言った。
声は雨に消えた。
それでも、アビシニアには分かった。
お帰りなさい。
そう言ったのだ。
彼女は前を向いた。
帰る場所など、もうない。
だが、追われる理由なら戻ってきた。
王冠炉。
帝国。
滅びた王国。
そして、アビシニア・ル・メイルという名。
灰の下に伏せていたものが、雨に洗われ、少しずつ形を取り戻していく。
その形が王冠なのか、鎖なのか。
彼女にはまだ分からなかった。




