序文 王国が滅びた夜
※ChatGPTを全文で使用しています。
王国が滅びた夜、空は赤くなかった。
炎は確かに上がっていた。
城下の織物市場から、書庫街から、王宮へ続く白石の大路から。燃えるものはいくらでもあった。旗、木戸、帳簿、乾いた屋根、逃げ遅れた荷車、そして人が一生をかけて積み上げた小さな暮らし。
それでも、幼いアビシニア・ル・メイルが最後に見た空は、赤ではなかった。
冬の終わりの、深い藍だった。
窓枠の向こうに広がる夜空は、戦火など知らない顔をしていた。星は王都の悲鳴にも曇らず、冷えた湖の上には月が落ちていた。白く、薄く、あまりにも静かに。
その静けさが、彼女には恐ろしかった。
「姫様、お急ぎを」
誰かがそう言った。
声の主を、アビシニアはもう思い出せない。
侍女のナイラだったのか。
近衛隊長のエルンだったのか。
それとも、もっと近くにいた誰かだったのか。
十年という歳月は、悲しみを薄めるには短すぎた。
けれど記憶を壊すには、十分だった。
アビシニアは、母の顔を正確に思い出せない。父王が最後に着ていた外套の色も、王宮の南庭に咲いていた花の名も、幼いころ毎朝飲まされていた薬草茶の苦味も、今ではすべて輪郭を失っている。
ただ一つだけ、消えずに残っているものがある。
地下へ続く螺旋階段。
その石段は、ひどく冷たかった。
裸足だったのか、靴を履いていたのか、それすら曖昧だ。だが足裏に染み込む冷気だけは、今でも骨の奥に残っている。壁には灯りがなかった。先導する者が掲げた手燭の火が、青灰色の石壁を浅く照らしていた。
地上では王国が死んでいた。
だが地下は静かだった。
静かすぎた。
王宮の地下深くには、王族だけが降りることを許された場所がある。
祭壇ではない。
墓所でもない。
まして神の座などではない。
そこは、王国が王国であるために隠し続けてきた、古い機関の眠る場所だった。
ル・メイルの民は、それを畏れてこう呼んだ。
王冠炉。
王冠の形をした炉ではない。
火を焚く炉でもない。
けれど、それは確かに何かを燃やす。
人の記憶を。
声を。
選ばれなかった未来を。
そして、王の血を。
「お父様は」
幼いアビシニアは、そう尋ねたはずだった。
返事はなかった。
「お母様は」
やはり、返事はなかった。
手を引く指が、痛いほど強くなった。急がせるためではない。泣かないために、誰かが彼女の手を握り潰していたのだと、今なら分かる。
階段の先には、黒い扉があった。
扉には取っ手がなかった。鍵穴も、蝶番もなかった。
ただ、中央に細い溝があり、そこへ王家の血を一滴落とすと、石そのものが呼吸するように開いた。
父王は、そこで待っていた。
記憶の中の父は、いつもそこだけ鮮明だ。
額に血が流れていた。
片膝をついていた。
王冠はなかった。
剣も持っていなかった。
ただ、アビシニアを見ていた。
王としてではなく、父としてでもなく、何かを終わらせる者として。
「アビシニア」
父の声は低く、かすれていた。
「よく聞きなさい」
彼女は頷いたのだと思う。
あるいは、ただ震えていただけかもしれない。
父は言った。
「お前は、国を取り戻すために生きるのではない」
その言葉の意味を、彼女は理解できなかった。
王女とは、国のために生きるものだと教えられていた。
王女とは、名を継ぎ、血を守り、民の前に立つものだと教えられていた。
王女とは、逃げてはならないものだと。
だが父は、彼女に逃げろと言った。
「王女としてではなく、生きよ」
背後で、遠い爆音がした。
天井から細かな砂が落ちた。手燭の炎が揺れ、壁に映る大人たちの影が歪んだ。誰かが扉の外で叫んだ。帝国兵か、近衛か、民か。分からない。
父は、アビシニアの額に手を当てた。
その手は熱かった。
「いつか、お前を探す者が現れる。ル・メイルの名を掲げよと言う者も、復讐を望む者も、王冠炉を開けろと言う者も」
父は咳き込んだ。口元から血が落ちた。
それでも、彼は言葉を続けた。
「そのすべてを、疑いなさい」
幼いアビシニアは、泣きそうになりながら首を振った。
「分かりません」
「分からなくてよい」
父は微かに笑った。
その笑みは、王のものではなかった。
ただの、疲れ果てた父親の顔だった。
「忘れてもよい。憎んでもよい。逃げてもよい。だが、最後に選ぶ時だけは、お前自身の意志で選びなさい」
その直後、父は彼女を扉の内側へ押し込んだ。
「お父様」
扉が閉じ始めた。
「お父様!」
最後に見えた父の姿は、細くなる隙間の向こうにあった。
父は何かを言った。
けれど、扉が閉じる音にかき消されて、聞こえなかった。
それ以来、アビシニアは何度も夢に見る。
あの時、父は何と言ったのか。
生きろ、だったのか。
許せ、だったのか。
すまない、だったのか。
あるいは。
「滅ぼせ」
そう言ったのではないかと、疑う夜もある。
十年後。
滅びた王国の王女は、名を捨て、髪を切り、灰色の外套をまとって、帝国辺境の記録保管所で写字係をしている。
彼女の名は、もうアビシニアではない。
少なくとも、誰もそう呼ばない。
だが、死んだはずの王国は、まだ彼女を手放してはいなかった。




