約束
水面から落ちる光が、揺れながら深みに吸い込まれていく。
セレーネとネモは、静かな水中施設の通路を進んでいた。
「まさか、こんな場所があったとはな」
漆黒の機体を見つめながら、ネモが呟く。
「研究資料はこっち」
セレーネは淡々と案内する。
光はゆっくりと揺れ薄く滲んでいた。
ネモは部屋に入るなり、片っ端から資料を読み漁り始める。
ページをめくる音だけが、静かな空間に響く。
セレーネは、タケル達と訪れた際の記憶を頼りに、ネモに関する研究資料を探す。
一冊のレポートを手に取り、読み進めるセレーネ。
ページの端がわずかに揺れ、薄い光が紙の上を滑っていく。
「……これだ」
小さく呟いた瞬間、ネモがすかさず駆け寄ってくる。
「やはり、ここに俺の全てが……」
ネモはセレーネから資料を受け取り、黙って読み始める。
ページをめくる音だけが、研究室の冷たい空気に吸い込まれていく。
セレーネは静かに立ち上がり、研究室の扉へ向かう。
「……外で待ってるね」
扉が静かに閉じる音が、薄い光の中に沈んでいった。
それから三日三晩、ネモは部屋からほとんど出ず、ただひたすらに資料を読み漁った。
四日目の朝。
セレーネはネモを尋ね、部屋へと足を運ぶ。
「おはよう」
「……あぁ」
資料に夢中で、適当に返事をするネモ。
「少しは休んだら」
「余計なお世話だ」
セレーネはそんなネモを見つめ、水の入ったコップをテーブルに置く。
「水くらいは飲まないと」
ネモは黙ったまま、資料から目を離さずに水を飲み干す。
すると、突然
ネモの視界が霞み、足元が揺れた。
「なっ……!? テメェ……」
ネモはセレーネの顔を見ようともがく。
「ごめんなさい」
ネモの身体が崩れ落ちるように沈み、研究室の床に倒れ込む。
荒れた声が響く、小汚い町。
通りには怒号と罵声が絶えず流れ、砂埃が風に巻かれていた。
一人の男が人を掻き分け、必死に逃げている。
肩がぶつかるたびに、周囲から怒鳴り声が飛ぶ。
「おいおい、なんだよ!」
「前見て歩け! このやろー!」
男はそんな罵倒を気にも留めず、額に汗を流しながら走り続けた。
「なんなんだよあいつ!」
そう叫びながら路地を曲がると、目の前で一人の女性が待ち構えていた。
「さぁ、返してもらおうか。私の旦那の遺品」
そう言って、男に迫るジェスミー。
「墓を荒らしたのは、俺じゃねーんだよ! ただ買っただけなんだよ!」
男は後退りしながら必死に言い訳をする。
背中が誰かとぶつかる。
おそるおそる振り向くと、そこにはアランが立っていた。
アランは懐から金貨を一枚取り出す。
「だったら、買ってやるよ」
薄暗く騒々しい酒場。
「思ったより長くかかっちまったね」
ジェスミーはグラスを軽く揺らしながら微笑む。
乾いた声だが、どこか安堵が混じっていた。
「墓が荒らされていた時は、どうしようかと思ったよ」
アランは席に腰を下ろし、ウイスキーを一口飲む。
懐から、手に入れたキーを取り出す。
ジェスミーはそれを見て、目を細めた。
「全く、大したもんだよ」
騒がしい酒場のざらついた空気の中で、
ジェスミーはどこか嬉しそうにアランを見つめていた。
「オヤジ! もう一杯持ってきておくれ!」
ジェスミーが叫ぶ。
酒場の騒ぎに負けない、よく通る声だった。
店主がぶっきらぼうにうなずき、グラスを新しく置く。
周囲では誰かが怒鳴り、誰かが笑い、床が軋んでいた。
アランはその喧噪の中で、ウイスキーを静かに口へ運ぶ。
その瞬間――
アランの表情が、ふっと固まった。
まるで何かを思い出したように、
あるいは胸の奥で何かが急に疼いたように。
「……早く戻らないと」
声は低く、さっきまでの落ち着きが消えていた。
酒場の騒々しさとは対照的に、
アランの周囲だけが静かに沈んでいくようだった。
塔の一室。
天井の光源は弱く、白い光がゆっくりと揺れながら床へ落ちている。
機材の低い駆動音だけが、静かな空間を満たしていた。
シモンズが古い端末を操作している。
「……で、条件は?」
そう言って視線を上げる。
「ネモのチップを無効化して」
セレーネは迷いなく答えた。
塔の静けさが、二人の声を吸い込んだ。
シモンズは手を止め、セレーネをじっと見つめる。
「グリーンハウスから離れると爆発するチップ……。
旧時代の人々は、恐ろしいことを考える」
乾いた声のシモンズ。
「本当にいいんですね。あなたを実験に使用しても」
「約束、守ってくれる?」
「えぇ」
シモンズは淡々と答えた。
セレーネは目を逸らさず、静かにうなずく。
その背後には、深い眠りに落とされたネモが、静かに横たわっていた。
静まり返った会議室。
塔の内部にあるその部屋は、壁面の配線が弱く光り、冷たい空気が沈んでいた。
「タケルさんにはどうご説明されるつもりで?」
タツが問いかける。
シモンズは端末から目を離さず、
「秘密にしておきます。この研究だけは私の手で行おうかと。」
「承知しました。」
タツは短くうなずいた。
「チップの方はどういたしますか?」
「……? そんなことしませんよ。」
シモンズは淡々と言い放つ。
「彼に自由を与えるなど、そんなことする訳がないでしょう。」
机の上に置かれたネモの武器を手に取る。
「その前に、ケリをつけなければいけない相手が……」
そう言って、腕にアーマーを取り付けていくシモンズ
機械の締まる音が、静かな部屋に乾いた響きを落とした。
「ベックさんは戦いに飢えている。カートさんの血を飲んだあの日から。
今は、その矛先がショクブツやネモに向いているが……
ショクブツを全滅させた後の世界で、彼は危険因子となる。」
会議室の空気がわずかに沈んだ。
「覚悟はできています。彼の元を離れたあの時から」
タツはそう言って歯を食いしばる。
会議室の薄い光が、二人の影をゆっくり揺らしていた。
「……何が約束だ」
ネモの呟きが、研究室に低く響く。
地べたには研究員が倒れていた。
「ま、待て……実験体……」
震える手がネモへ伸びる。
ネモはその手を、ただ無表情に見下ろした。
外した拘束具を床へ投げ捨て、
そのまま研究室を後にする。




