第五章
図書室の扉が閉まると、そこは別世界のように静かだった。志乃の言葉が耳に残っている。「記憶の操作」──それは柊一にとって信じがたい話だったが、一方で、どこか納得してしまっている自分がいた。確かに、自分の記憶には綻びがある。誰を傷つけたのか、どうしてここにいるのか、霧のように曖昧で、確証が持てない。
柊一は本を拾い上げ、再び表紙裏のメモに目を落とした。《君の記憶は消されていない。鍵は“あの夜”にある》。あの夜──激しい雨の音、誰かの叫び声、鈍い衝撃。視界の端に落ちていた、赤黒い液体と白いワンピース。その断片は彼の意識の底に、重く沈んでいる。
志乃が語った話が真実であるなら、柊一は“被害者”である可能性もある。だが、今のままではそのどちらとも言えない。ただ一つ確かなのは、ここシリウス療養施設が、患者の「真実」を意図的に操作しているということだった。
「私の姉も、雨の夜に消された。記録には“自殺”とあった。でも、そんな痕跡はどこにもなかった」と志乃は言った。彼女は患者としてここに入り、やがて看護師という立場を得ることで内部から真相に迫ろうとしていた。だが、五年という歳月はその信念すら磨り減らす。「ここにいるとね、自分が正気なのか、段々わからなくなるのよ」と、彼女は微笑んだ。まるで、自嘲と救済の間で揺れる囚人のように。
「……柊一さん、ひとつお願いがあるの」志乃の目が真剣だった。「記録室のさらに奥に、封印された部屋がある。“Bブロック観察室”。元々は犯罪性の高い患者の行動観察のために使われていた部屋。そこに、すべての“原資料”があるはず」
柊一は黙って頷いた。その部屋に行けば、自分が何者なのか、少なくとも“誰に騙されているのか”を突き止められるかもしれない。志乃は鍵の在処を教えてくれた。「東棟の備品庫、奥の鉄製ロッカー。合鍵がある。誰にも見つからないように、夜明け前に行って」
その夜、施設は雨に沈んでいた。時計は午前三時を指している。廊下の灯りは一部が消え、影がやけに濃い。柊一はスニーカーの音を殺しながら、東棟へと向かった。備品庫のドアはすんなり開いた。ロッカーの中にあった小さな鉄箱、その中には古びた鍵と、黒いリボンが結ばれた手帳がひとつ。
手帳を開くと、日付と共に無機質な記録が並んでいた。
2019年6月12日 観察対象:F-112 女性患者 24歳
異常行動記録あり。夜間徘徊、叫び声、自己申告による記憶の混乱。
特別処置申請、許可。心理誘導実験開始。
柊一はページを繰りながら息を呑んだ。そこには彼の知らない名前と、誰かの「人格の上書き」が記されていた。
2020年1月4日 観察対象:F-119 男性患者 28歳
昏睡後に記憶混濁あり。誘導暗示、定着完了。
被験者に“偽りの罪”を認識させることに成功。反応良好。
ページの端に、細いペンで書かれた文字があった。──「その名は“藤堂柊一”」
震える手で柊一は手帳を閉じた。自分が、誰かの手によって「加害者」として再構築された……? だが、なぜ? 誰が? そのとき、背後で僅かな金属音がした。振り向くと、そこにいたのは三嶋医師だった。
「……随分と深いところまで来てしまいましたね、藤堂さん」三嶋は相変わらず穏やかな微笑みを浮かべていたが、その目には明らかに冷たい光が宿っていた。
「あなたは、僕に何をした?」柊一の声はかすれていた。
「何を、とは……正しい“治療”を施したまでですよ。あなたは苦しんでいた。自分の罪を受け入れられずに。だから、私たちはあなたに“納得のいく罪”を差し上げたのです」
「ふざけるな……俺は……!」
「本当に、何も覚えていないんですね」三嶋は一歩、柊一に近づいた。「……あなたは、殺したんですよ。恋人を、自分の手で。雨の夜、ここに連れてきたのはあなたです。そして、彼女を階段から──」
その言葉で、柊一の脳裏に鮮明な映像が蘇った。白いワンピース、濡れた髪、そして彼女の瞳──泣いていた。助けを求めるように、自分の名を呼んでいた。
「──違う……彼女を、殺したのは……!」
その瞬間、電灯が一斉に消えた。廊下に響く警報音、走り去る足音。混乱の中、志乃の声が遠くから響いた。「柊一さん、今よ、逃げて!」
彼は手帳を抱え、闇の中を走った。雨が建物を叩き、扉を叩き、彼の心をも叩いていた。
真実は、まだすべてが明かされたわけではない。けれど──柊一は確かに、今、自分の記憶と向き合いはじめていた。