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第六章

柊一は、廊下を走っていた。手帳を胸に抱え、冷たい床を蹴りながら、闇の中をただひたすらに。非常灯の明滅が彼の足元を照らし、廊下の影が生き物のように蠢く。背後には誰かの足音。早鐘のように響く鼓動は、彼の心と一体化していた。恐怖ではない。それは、確かに怒りだった。


突き当たりを曲がった先で、彼は志乃の姿を見つけた。彼女は扉の前で待っていた。白衣の裾を揺らしながら、「こっち」と声をかける。その声に導かれ、柊一は重い扉を開けた。そこは、Bブロックの最深部。閉ざされた観察室の内部だった。


室内は古びたモニターと記録機器が並び、時間が止まったような空間だった。埃が舞い、鉄臭い空気が鼻をつく。志乃は迷いなく壁の隠しスイッチを押した。すると、一枚の壁面が音を立ててスライドし、奥から鉄製のキャビネットが姿を現した。その中には、分厚いファイルが何十冊も並んでいた。患者の記録、生体反応、観察映像、心理誘導の実験データ──全てが、隠されていた真実だった。


「ここにあるのよ。私の姉の記録も、あなたの記録も」志乃は手早くファイルを探り、目的のものを引き出した。F-119──藤堂柊一。表紙には赤いスタンプで“治療成功”の文字が押されている。中をめくると、そこには一枚の静止画像が挟まれていた。監視カメラの映像らしい。薄暗い廊下で、白い服の女性が階段から落下する瞬間。そのすぐそばに、誰かが立っていた。


「これが……俺?」柊一は言葉を失った。画像の人物は確かに彼に見える。だが、よく見ると微かに違和感があった。顔の輪郭、肩幅、体格……似ているが、どこかが違う。


「それはあなたじゃない」志乃が言った。「これ、私の姉が残した記録の一部よ。彼女は事件の夜、ここの監視システムに異常があることを突き止めていた。カメラ映像はすり替えられていたの。被写体を別の患者と入れ替えるために、AI処理された映像を利用していたのよ」


「つまり……俺は、最初から犯人に仕立て上げられていた?」


「ええ。あなたは“罪を受け入れる素質のある患者”だった。ここではそういう人間に、架空の“罪と記憶”を与えて、“回復”という名の人格改変を行っていたの」


柊一の脳裏に、三嶋の言葉が蘇った。「あなたは、殺したんですよ。恋人を、自分の手で」。あの冷ややかな微笑みとともに刷り込まれた罪悪感。だがそれは、巧妙に与えられた“罪の物語”だったのだ。


「でも、どうして……なぜそんなことを?」


志乃は答えた。「“再犯率の低い完全治療”。それがこの施設の目的。国と大手医療財団が裏で関与してるわ。重大事件の犯人や精神疾患を抱えた人間を、記憶を書き換え、罪を再構築し、“更生”させる。その成果を売りにして、実績と資金を得ているのよ」


柊一は膝から力が抜けるのを感じた。自分が信じていた“治療”も、“反省”も、全て誰かのシナリオだったのか。記憶の改ざん、映像のすり替え、情報操作──この施設は、人間の精神を実験台として扱っていた。


志乃はキャビネットの奥からもう一冊のファイルを取り出した。F-107、彼女の姉、藤崎玲。記録にはこう書かれていた。


“観察対象、他患者の映像改ざんに気づく。対応として隔離処置を提案。6月17日、失踪”


「……姉は、殺されたのよ。真実に近づいたから」


言葉の重みが空気を支配する中、突然、外から警報が鳴り響いた。志乃が顔を強張らせた。「気づかれたわ。柊一さん、この記録を持って逃げて。私は囮になる」


「そんなこと、できるわけないだろ!」


「私がここに入ったのは、真実を暴くためよ。あなたは外に出て、この記録を公表して。私たちの声を、世界に届けて……」


志乃は一瞬だけ微笑み、扉を閉めた。その後ろで、鍵がかかる音が響く。柊一は扉を叩きながら叫んだが、彼女はもう姿を見せなかった。


重たいファイルを抱え、柊一は走った。雨の音が再び強くなり、施設の外壁を激しく打つ。出口へと続く道は、果てしなく遠く、だが彼の中にはもう迷いはなかった。


記憶の迷路から抜け出した彼は今、自分自身の足で“真実”を背負い、歩き出していた。

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