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第四章

翌朝、シリウス療養施設の空気は重たかった。

 湿り気を帯びた風が窓の隙間から入り込み、薄いカーテンをじわじわと揺らしている。


 


 朝食の時間。食堂には十数人の患者たちが静かに並んでいた。


 誰もが無言で食器を動かし、視線を交わす者は一人もいない。

 まるでここが“日常の時間”であるかのように振る舞いながら、全員が何かを疑っている──そんな空気だった。


 


 柊一は一口だけトーストを齧ったが、まるで紙のような味しかしなかった。

 昨夜の出来事が、頭の中で繰り返し反芻されている。資料室の封印された日記、改ざんされた患者記録、そして……三嶋医師の目。


 


 「……“まだ知るには早すぎる”か」


 


 口の中のパンをゆっくりと噛みながら、彼はぼんやりと窓の外を見た。


 


 その時だった。

 遠く、林の向こうに見える正門のあたりに、“黒い傘”がふたつ、並んでいるのが見えた。


 


 施設の外部と接触することは基本的に禁止されているはずだ。あの傘は職員のものか、それとも……。


 


 柊一が目を凝らして見つめていると、その一人がゆっくりと顔を上げた。

 その瞬間、ふと胸が締め付けられるような感覚に襲われる。


 


 ──知っている。

 ──どこかで、あの顔を……。


 


 視線を逸らしながら、柊一は手に持ったフォークを強く握った。

 黒い傘の影が脳裏に焼きつく。


 


 「藤堂さん、体調……悪そうですね」


 


 声をかけてきたのは、またしても三嶋医師だった。

 今日も白衣の襟は整えられ、笑顔の仮面は相変わらず崩れない。


 


 「気分が優れないなら、今日は特別に、図書室の使用を許可しましょうか?」


 


 唐突な提案。

 妙な親切。

 柊一は警戒しながらも、その提案を受け入れることにした。


 


 ──図書室。

 閉鎖された館の中で唯一、“思考すること”が許された場所。


 


 午前十一時。

 案内された図書室には古びた棚が並び、埃の匂いが漂っていた。


 分厚い精神分析の本。宗教と妄想の関係を語る書物。

 誰も借りないまま長い時を経た紙たちが、重苦しい沈黙を保っていた。


 


 そんな中、一冊だけ──まるで彼を待っていたかのように、テーブルの上にぽつんと置かれた本があった。


 


 『夢と狂気の構造』


 


 柊一はそれを手に取った。

 中を開くと、表紙の裏に一枚のメモが貼り付けられていた。


 


 《君の記憶は消されていない。鍵は“あの夜”にある》


 


 “あの夜”──柊一の心が激しく波打つ。


 


 彼には、確かに一つだけ、“抜け落ちた夜”がある。

 雨が降っていた。

 誰かと争った。

 そして──血。


 


 彼女は、誰だったのか?

 “見ていた”のは、自分だったのか、それとも……。


 


 その瞬間、背後から重い足音が近づく。


 


 「ここに来たということは、もう気づいているのね」


 


 声の主は、看護師の志乃だった。

 普段は無口で、ほとんど会話に参加しない彼女が、今日に限って、妙に明確な意思を持っているように感じられた。


 


 「……志乃さん?」


 


 彼女はゆっくりと柊一に近づき、窓の外に目をやった。


 


 「私も、かつてここに“患者”としていたのよ」


 


 その言葉に、柊一は目を見開く。


 


 「五年前。雨の夜に、私の姉が“消えた”。死体もなく、記録も消され、家族にも“事故”とだけ伝えられた」


 


 柊一の心臓が再び跳ね上がる。

 彼女の語る“消えた姉”──それは、昨日見た記録にあった名前と一致していた。


 


 「だから私、ここに潜り込んだの。この施設が、何かを“隠している”と確信して」


 


 「……何を?」


 


 志乃は小さく息を吸い込み、柊一の目を見つめて言った。


 


 「“記憶の操作”。この施設では、特定の患者に、薬と心理誘導で“罪”の記憶を書き換えてる。被害者と加害者の記憶が、意図的にすり替えられてるのよ」


 


 柊一の手から本が滑り落ちた。


 


 「俺が……“犯人”じゃない?」


 


 「可能性はある。でも、君は自分の記憶を信じない限り、永遠に“囚われたまま”よ」


 


 図書室の静寂の中で、雨がまた強くなった。


 


 その音は、遠くで泣いている誰かの声のようだった。


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