第3話 文字の練習
朝の作業を一通り終える。畑。水路。罠。薪。そこまで片づけたら、今日はもう一つ仕事がある。
「勉強」
地面へ座り、枝を一本持つ。昨日アルドさんに教わった数字。一。二。三。最初の一文字を書いてみる。
「……違う気がする」
料金表を見る。やっぱり違う。
「もう一回」
消す。書く。また消す。
◇
文字は苦手だ。でも、必要性はかなり感じている。町の看板。商品の札。値段。管理所の書類。今までは全部、誰かに読んでもらわなければ分からなかった。
「《土地鑑定》で文字も読めないかな」
試しに料金表を見る。当然、何も出ない。
「ですよね」
土地鑑定は土地鑑定。そこまで万能ではない。なら、自分で覚える。
◇
数字の次は文字。水。食事。宿。料金表の字を見ながら、同じものを地面へ書いていく。気づけば周囲が同じ文字だらけになった。
「小学生みたい」
でも、小学生はちゃんと勉強していた。私は今、異世界で一から。
「がんばろ」
◇
数日後。ガランさんが荷車でやってきた。
「何だこれ」
地面に残っていた文字の跡を見ている。
「勉強です」
「字?」
「はい」
「読めるようになった?」
「水。食事。宿。あと一、二、三」
「少ないな」
「始めたばっかりです!」
ガランさんが笑う。
「なら、これ読め」
荷車の袋についている札を指差した。文字は二つ。
「……しお?」
「正解」
「やった!」
「塩は覚えるの早いな」
「必要なので」
自分でも納得。
◇
せっかくだから、商品札を使って練習する。
「布」
「これ?」
「そう」
「糸」
「こっち」
「針」
「短い」
「銅」
「これ」
知らない文字が一気に増えた。
「待って。これ、布?」
「違う」
「似てる」
「違う」
「アルドさんも同じこと言った」
「字だからな」
商人はどうして文字に厳しいんだろう。
◇
その日の午後。私は覚えた文字だけで小さな札を一枚作った。
《水》
たった一文字。でも、湧水の近くへ立ててみる。
「……読める」
自分で書いて、自分で読める。当たり前みたいなことなのに嬉しい。さらにその日、道標を見て旅人が一人やってきた。
「水、こっちで合ってる?」
札を見て尋ねられる。
「合ってます」
ちゃんと伝わった。説明しなくても。私が近くにいなくても。文字が代わりに伝える。
「これ、便利すぎる」
建物を一つ作るほどの大仕事ではない。でも、暮らしを楽にする。それなら文字も、立派な道具だ。
◇
夜。来客小屋に泊まったガランさんの荷から、小さな帳面が見えた。
「それ、何書いてるんです?」
「仕入れと売上」
「読んでいい?」
「駄目」
「なんで」
「商売の中身だ」
「じゃあ見せないでください」
「勝手に見たのはお前だろ」
それでも、数字だけなら少し分かる。
「これ、三?」
「そう」
「こっちは八?」
「正解」
今までただの模様だったものが、少しずつ意味を持ち始める。一文字覚えるだけで、世界から受け取れる情報が増える。それは《土地鑑定》が新しい情報を見せてくれた時と、少し似ていた。たぶん。覚えれば覚えるほど。この世界は、もっと読みやすくなる。
◇
文字を覚えるために、私は生活の中で使う言葉から増やすことにした。水。火。畑。宿。塩。布。
道。全部、今の私に関係がある言葉。アルドさんが次に来た時、一つずつ書いてもらう。
「多いな」
「覚えたい順です」
「普通はもっと基本からやる」
「基本って?」
「人、家、町、とか」
「家も欲しい」
「結局全部じゃないか」
笑われる。でも、意味のない文字を並べるより、使う言葉の方が覚えやすかった。畑へ《畑》の札。物置へ《物》とだけ書いた札。来客小屋へ《宿》。
「ちょっと町っぽい」
「三枚で?」
「気分です」
ガランさんに馬鹿にされたけれど、私は気に入った。名前がつく。文字になる。すると、ただそこにあるだけだったものが、少しだけ整理されたように見える。物が増えたから、場所を分けた。場所が増えたから、名前をつけた。名前が増えたから、文字を覚える。
開拓地が便利になるたび。私自身も、この世界で使えるものを一つずつ増やしていた。




