第6話 生活に火を
帰ろう。
そう思って歩き出したところで、私は足を止めた。
「……いや」
振り返る。
角の生えたウサギが消えていった草むら。
せっかくここまで来たのだ。
何も分からないまま帰るのは、少しもったいない。
「追いかけるんじゃなくて……」
私は地面を見る。
ウサギがいた辺りには、小さな足跡がいくつも残っている。
それだけじゃない。
ところどころ、土が掘り返されていた。
「何してたんだろう」
近づいてしゃがむ。
浅く掘られた穴。
周囲には千切れた葉と、むき出しになった細い根。
「食べてた?」
ウサギが植物の根を食べていたのかもしれない。
だとしたら、この辺りには食べられる植物がある。
――ウサギにとっては。
「私が食べられるとは限らないよね」
さすがに、動物が食べていたから自分も大丈夫、とは思えない。
知らない世界だ。
知らない植物。
見た目だけで判断するのは怖すぎる。
「でも、覚えておこう」
葉の形。
赤っぽい茎。
地面から何本も細い葉が伸びている。
私はその特徴を頭に入れてから立ち上がった。
お腹は空いている。
でも、焦って変なものを食べて倒れる方がまずい。
「今日のところは、水があるだけでもマシ」
自分に言い聞かせる。
そして、石を積んだ目印を頼りに拠点へ戻り始めた。
◇
「ただいま」
岩の隙間へ戻り、自然とそんな言葉が出た。
当然、返事はない。
「……一人なんだけどね」
自分で言って、少しだけ寂しくなる。
それでも。
昨日作った屋根。
草の寝床。
石の道具。
少し離れたところには水場。
ほんの二日前まで何もなかった場所なのに、今は見慣れた景色になりつつある。
私は持って帰ってきた石のナイフを置いた。
「さて」
次にやることは決まっている。
「火」
昨日から何度も欲しいと思っていたものだ。
夜は寒い。
食べ物が見つかっても、生で食べられるとは限らない。
粘土の器を焼くにも必要になる。
「火があれば、一気にできることが増えるんだよね」
問題は。
「どうやってつけるか……」
昨日試した石同士では、火花すら出なかった。
葦のような茎を擦っても駄目。
「木が必要かな」
私は北西を見る。
さっき探索した場所。
草はかなり増えていた。
もう少し先へ行けば、木がある可能性もある。
「行ってみるか」
まだ日は高い。
往復する時間はありそうだった。
私は水を十分に飲んでから、もう一度北西へ向かった。
◇
角ウサギを見つけた場所を通り過ぎる。
さらに先へ。
ここからは完全に初めての場所だ。
背の低い草が増えていく。
地面も、最初に転移した場所ほど乾いていない。
「こっちの方が明らかに豊かだな」
私はしゃがみ込む。
「《土地鑑定》」
《半乾燥地》
《表土水分:少》
《植物生育適性:中》
《地下水脈:あり》
《周辺植生:増加》
「中まで上がった」
最初の荒野ではずっと《低》だった。
水場の近くでも《やや低》。
ここまで来て、ようやく《中》。
「じゃあ、もっと先なら……」
期待して進む。
そして。
「あった」
思わず声が出た。
木。
いや。
木と呼ぶには少し小さい。
私の身長より少し高いくらいの、枝を横へ広げた低木。
それが数本、離れて生えている。
「木だ……!」
こんなに木を見て嬉しいと思ったのは初めてだ。
近づいて枝を触る。
硬い。
ちゃんと木だ。
「これなら火を起こせるかも」
しかし。
私は石のナイフを見る。
この枝を切れるだろうか。
「やるしかないよね」
比較的細い枝を選ぶ。
石の刃を当てる。
何度も擦る。
「っ……硬い」
草とは比べものにならない。
それでも少しずつ表面が削れていく。
途中で枝を曲げながら、また削る。
五分。
十分。
「もう……ちょっと!」
バキッ。
「あっ」
枝が折れた。
「取れた……!」
両手で持てるほどの一本。
それだけなのに、思わず掲げたくなった。
「木材!」
大げさだけど。
今の私にはかなり貴重な資源だ。
さらに細い枝を数本。
地面に落ちている枯れ枝も拾う。
特に枯れ枝は軽くて乾いている。
「こっちの方が火にはよさそう」
抱えられるだけ集めた。
帰ろうとして。
「……これ」
低木の根元を見る。
枯れた葉がかなり溜まっている。
手ですくってみる。
乾いている。
「火種に使えるかも」
これも持って帰る。
こうして帰り道。
両腕には枝。
脇には枯れ草。
手には石器。
「持ちにくい……」
昨日から何度目か分からない感想だった。
「絶対、籠作ろう」
やることがまた一つ増えた。
◇
拠点に戻る頃には、腕がかなり疲れていた。
「重かった……」
枝を地面へ下ろす。
でも成果を見ると嬉しくなる。
木。
初めて手に入れた、本物の木材。
「じゃあ……やりますか」
私は座り込んだ。
元の世界で、火起こしの映像くらいは見たことがある。
板の上で棒を高速で回して、摩擦で熱を作る。
問題は。
「板がない」
持っているのは枝だけ。
いきなり詰まった。
「どうしよう」
少し考える。
太めの枝を石で割れば、平らな面を作れるかもしれない。
「やってみるしかないか」
太めの枯れ枝を地面へ置く。
大きな石を持つ。
「割れて!」
ガンッ。
一回。
ガンッ。
二回。
三回。
バキッ。
「お!」
綺麗ではない。
でも、枝が縦方向に割れた。
内側には比較的平らな面ができている。
「これでいける?」
そこへ小さなくぼみを作る。
尖った石で削る。
次に、なるべく真っすぐな細い枝を選んだ。
「これを回す」
枯れ葉を細かく揉んで、そのすぐ横へ置く。
「よし」
棒を両手で挟む。
回す。
手を下へ滑らせながら。
また上へ戻す。
回す。
「っ……」
すぐに手のひらが痛くなる。
「まだ!」
回す。
回す。
回す。
「……」
何も起きない。
「もう一回」
棒の位置を変える。
今度はもう少し強く押しつける。
回す。
「うう……!」
手が熱い。
腕も疲れる。
それでも続けた。
しばらくして。
「……ん?」
匂いがした。
焦げたような。
「え?」
手を止める。
木のくぼみを見る。
少し黒くなっている。
「いける!」
もう一度。
今度はさっきより速く。
回す。
回す。
回す。
「お願い……!」
薄い煙。
「出た!」
慌てて止めかける。
「違う、止めちゃ駄目!」
さらに回す。
煙が少し濃くなる。
黒い木屑がくぼみに溜まっていく。
やがて。
小さな赤い点が見えた。
「……火?」
炎ではない。
でも。
赤く光っている。
私は慎重に、その小さな塊を枯れ葉の上へ移した。
「ここから……」
息を吹きかける。
「ふっ」
煙。
「ふうっ」
もっと煙。
「お願い……お願い……」
顔を近づけ。
何度も。
ゆっくり息を吹き込む。
すると。
ぼっ。
「っ!」
小さな黄色い炎が上がった。
「ついた!」
思わず立ち上がる。
「火! 火!」
でも喜んでいる場合じゃない。
「消える!」
慌てて細い枯れ枝を入れる。
一本。
二本。
三本。
炎が枝を舐める。
少し弱くなる。
「消えないで……」
さらに細い枝。
乾いた草。
少しずつ。
少しずつ。
やがて。
パチッ。
パチパチ。
枝が燃え始めた。
「……」
私はその場に座り込んだ。
目の前には、小さな焚き火。
たったそれだけ。
元の世界なら、ライター一つで数秒だった。
コンロならボタン一つだった。
なのに。
「……できた」
何度失敗したか分からない。
手も痛い。
腕もだるい。
それでも。
自分で火を作った。
「すごい……」
私はしばらく、ただ炎を見つめていた。
暖かい。
まだ日中だから、必要な暖かさではない。
でも。
その炎を見ているだけで、安心する。
これで夜の寒さを少し防げる。
食べ物を焼ける。
水を沸かすこともできる。
器だって焼けるかもしれない。
「できること、一気に増えた」
嬉しくなる。
水を見つけた時とも違う。
屋根を作った時とも違う。
自分の生活が、一段階進んだ。
そんな気がした。
◇
「問題は……」
私は焚き火の横に置いた枝を見る。
「これ、ずっと燃やしてたらなくなるよね」
当然だった。
火を維持するには薪が必要。
今持ってきた量では、せいぜい今日の夜を越せるかどうか。
「毎日あそこまで取りに行くの?」
面倒だ。
かなり面倒だ。
でも。
今は他に方法がない。
「薪置き場も欲しいな」
雨が降ったら濡れる。
屋根の下へ置くには狭い。
「倉庫……」
いや。
さすがにまだ早い。
「まずは薪置き場」
石を積んで、その上に枝を置けば地面の湿気を避けられる。
簡単な屋根も付けたい。
また作るものが増えた。
「ほんと、終わらないなあ」
口ではそう言いながら。
なぜか嫌ではない。
私は焚き火に一本枝を足した。
パチッ、と火の粉が飛ぶ。
その時。
「……あ」
岩の上。
昨日作って置いておいた粘土の器が目に入った。
表面は昨日より乾いている。
「火がある」
器がある。
「……焼ける?」
私は立ち上がった。
また一つ。
試してみたいことができた。
そして同時に。
ぐうううう。
盛大にお腹が鳴る。
「……その前に食べ物か」
さすがに笑えなくなってきた。
昨日から水しか口にしていない。
身体にも力が入りにくくなっている。
火は手に入れた。
次は。
本当に。
「食べ物、見つけないと」
私は焚き火を見つめた。
小さな炎が揺れている。
何もなかったこの場所に。
水ができた。
寝床ができた。
屋根ができた。
道具ができた。
そして今日。
初めて火が灯った。
次に必要なのは――食べ物。
ようやく。
生き延びるための最低限が、少しずつ揃い始めていた。




