プロローグ 荒野の看板
ルグラ荒野を通る旅人にとって、道標はありがたい。まして、それが「水」を示しているなら、無視する方が難しかった。
「……泉?」
街道脇に立つ粗末な板を見つけた男は、思わず足を止めた。板に書かれた文字はかなり歪んでいる。上手とは言い難いが、読めないほどではない。――泉。その下には街道から外れる方向を示す印があり、さらに少し先の枝には細い布が結びつけられていた。
「こんなところに水場なんてあったか?」
隣を歩いていた連れが水袋を持ち上げる。中で残り少ない水が小さく揺れた。
「少なくとも、俺は聞いたことがない」
「罠じゃないだろうな」
「こんな荒野で旅人を待つ方が大変だろ」
「それもそうか」
二人は顔を見合わせた。ルグラ荒野には水場がほとんどない。だから旅人は、この区間へ入る前に余分な水を積む。それでも荷物には限界があるし、予定より時間がかかれば水は減っていく。もし本当に途中で補給できるなら、それはかなり助かる。
「少しだけ行ってみるか。変だと思ったら戻ればいい」
「ああ」
二人は街道を外れた。最初の目印は、腰ほどの高さまで積まれた石だった。その先にはまた布。そのさらに先にも、同じような石積みがある。完全な道ではないが、薄い轍がいくつか重なり、最近になって荷車が通ったことを示していた。
「誰か使ってるな」
「しかも一回じゃない」
荒野の奥へ進むほど、人工の跡が少しずつ増えていく。やがて、一人が前を指した。
「……あれ、屋根じゃないか?」
陽炎の向こうに、小さな建物が見えた。一つ。いや、二つ、三つ。近づけば、その周囲に緑まで見える。
「畑?」
「こんなところで?」
乾いた荒野の真ん中に、枝と葦で作った柵がある。その中には確かに作物が並び、細い水路が畑の脇を通っていた。大きな水瓶。小屋。物置らしい建物。そして、岩の近くには焚き火の跡まである。どれも立派ではない。むしろ、手作りだと一目で分かるほど粗い。それでも、放置されたものではなかった。使われている。直されている。暮らしの跡がある。
「開拓途中って感じだな」
「誰がこんな場所を選んだんだろう」
その疑問は、住人らしい女性を見つけても消えなかった。畑の脇で一人の女性が鉄の鍬を使っていた。他に人影は見えない。大勢の開拓団がいる様子もない。男が手を上げた。
「すみませーん!」
女性が顔を上げる。そして、なぜか向こうの方が驚いた。
「……人?」
「看板を見た! 水があるって!」
「あ」
女性の表情が変わる。
「看板、本当に人来るんだ……」
「え?」
「なんでもないです!」
慌てて鍬を置くと、女性はこちらを手招きした。
「水なら、こっちです」
二人は歩みを速めた。誰もいないはずだった荒野。地図にもまだ大きく載らない場所。けれどそこはもう、ただの「何もない土地」ではなかった。水があり、食料があり、屋根があり。旅人が、わざわざ街道を外れて立ち寄る理由のある場所になり始めていた。
◇
二人が湧水へ案内されていく途中、男は何度も振り返った。街道からここまで、決して近くはない。なのに、道標が途切れず続いていた。石を積み、布を結び、轍がつき、最後には畑と家がある。偶然できた場所ではない。誰かが、何度も手を動かして作った場所だ。
「ここ、名前あるのか?」
男が聞くと、女性は少しだけ胸を張った。
「泉の開拓地です」
「開拓地」
「まだ住人は私だけですけど」
「これで一人?」
「よく聞かれます」
女性は少し困った顔をした。二人はまた顔を見合わせる。荒野の途中に、水を飲める場所がある。その話だけでも十分珍しい。そこに家があり、畑があり、泊まれる小屋まであるとなれば、次に街道で誰かと会った時、話題にしない方が難しい。本人がまだ気づいていないだけで。泉の開拓地は、すでに人から人へ伝わり始める条件を揃えていた。




