第1話 荒野の名前
鍋の中で、土芋と野豆がふつふつと煮えている。
私は火の様子を見ながら、何度目か分からない視線を家の中へ向けた。寝台には、昨日助けた男の人が横になっている。
「……本当に人がいる」
この世界へ来てから、ずっと一人だった。だから誰かの寝息が聞こえるだけで、自分の家なのに自分の家じゃないみたいな妙な感じがする。
昨日、見慣れない足跡を追って、その先で倒れている人を見つけた。水も持っていなかったから、家まで戻って枝と葦で簡単な担架を作り、何度も休みながら運んだ。
水を少しずつ飲ませたあと、一度だけ目を覚ましたけれど、すぐにまた眠ってしまった。
今は呼吸も落ち着いている。顔色も昨日よりはいい。
「大丈夫……だよね」
医者じゃないから分からない。
《土地鑑定》も、人の身体は見てくれない。できることは、水を飲ませて休ませるくらいだった。
それに、聞きたいことが山ほどある。
ここはどこなのか。町はあるのか。私以外の人はどこに住んでいるのか。角の生えたウサギみたいなものは普通なのか。地面の下に埋まっている石造りのものは何なのか。
「……順番、順番」
起きたばかりの人を質問攻めにするのは違う。
まず食事。
そう自分に言い聞かせて、鍋を枝でかき混ぜた。
その時だった。
「……いい匂いだな」
「あ」
家の中。男の人がゆっくり身体を起こしていた。
「大丈夫ですか?」
私は鍋から離れ、入口まで寄る。
「無理して起きない方が」
「いや……昨日よりは、ずっといい」
声はまだ少しかすれている。でも、昨日の弱々しさとは違った。
「水、飲みます?」
「ああ」
小型の粘土器に湧水を入れて渡す。
男の人は一気には飲まず、少しずつ口に含んだ。
「うまい……」
「水ですけど」
「昨日の俺には、何よりうまい」
そう言って少し笑う。その表情を見て、ようやく少し安心した。
「食べられそうなら、これも」
鍋から煮込みをよそう。
土芋と野豆。味付けらしい味付けは一切ない。
「熱いので気をつけてください」
「すまない」
男の人は器を受け取ったあと、中をじっと見た。
「……これは?」
「芋と豆みたいなものです」
「みたいな?」
「正式な名前を知らないので」
男の人の眉が上がる。
「食えるんだよな?」
「私は食べてます」
「……そうか」
一瞬だけ不安そうな顔をされた。
「大丈夫です。たぶん」
「そこで『たぶん』を付けるのか?」
「ちゃんと何度も食べてますから!」
「ならいい」
一口。
少し噛む。
「……悪くない」
「ほんとですか?」
「ああ。ただ」
「ただ?」
「塩があれば、もっといい」
「塩!」
思わず身を乗り出した。
「塩、あるんですか?」
「そりゃある」
「この辺に?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「あ……」
肩が落ちる。
男の人が苦笑した。
「本当に何も知らないんだな」
「はい」
もう誤魔化しても仕方がない。
「じゃあ、聞いていいですか?」
「助けてもらったからな。答えられることなら」
「ここって、どこですか?」
「…………」
固まった。
「そこからか?」
「そこからです」
「街道から何日とかじゃなく?」
「街道がどこかも知りません」
男の人は額を押さえた。
「俺より遭難してないか?」
「ここに家あるので、遭難ではないです」
「そういう問題か?」
でも、家に帰れる。水もある。畑もある。
だから私は、少なくとも今は遭難者ではない。
「ここはルグラ荒野だ」
「ルグラ荒野」
初めて聞く。
「広いんですか?」
「広い。というより、好き好んで奥まで来る奴がいない」
「どうして?」
「水がないからだ」
私は湧水を見る。男の人も見る。
「……ありますけど」
「それなんだよ」
今度は向こうが身を乗り出した。
「起きてからずっと気になってた。なんでルグラ荒野のこんな奥に水がある?」
「地下にあったので」
「地下に?」
「掘ったら出ました」
「……どうやって場所を?」
「あ」
口が止まる。
《土地鑑定》。
この世界で能力がどう扱われているのか、私はまだ知らない。何でも話すのは怖い。
男の人は少し私を見たあと、肩をすくめた。
「言いたくないなら聞かない」
「え?」
「商人だって仕入れ先ややり方は隠す。能力だろうが技術だろうが同じだ」
「……助かります」
私は少しだけ息を吐いた。
「そういや、まだ名乗ってなかったな」
男の人が器を置く。
「アルド・レイス。行商人だ」
「行商人……」
「町と村を回って、必要な物を売る」
私の頭の中に、一気に色々な物が浮かんだ。
「塩も?」
「また塩か」
「布は?」
「ある」
「針は?」
「ある」
「金属のナイフは?」
「扱うこともある」
「鍋は?」
「待て待て」
止められた。
「一気に聞くな」
「すみません……」
でも。塩。布。針。金属の刃物。全部、欲しくても作れなかった。
「町に行けば買えるんですね?」
「ああ」
「お金ないです」
「だろうな」
「…………」
一瞬で現実へ戻った。
アルドさんが少し笑う。
「物々交換もある」
「え?」
「毛皮、作物、薬草、魔物の素材。価値があるものなら金の代わりになる」
毛皮。
ある。
「角のあるウサギの毛皮ならあります」
「角兎か?」
「たぶんそれです」
「見せてみろ」
私は家の奥から、最初に仕留めた角ウサギの毛皮を持ってくる。
乾かしただけ。硬い。形も悪い。
アルドさんは受け取って、広げ、裏を見て、また表を見た。
「……酷いな」
「やっぱり?」
「剥ぎ方も乾かし方も酷い」
「初めてだったので」
「自分でやったのか?」
「はい」
「仕留めるところから?」
「落とし穴で」
「解体も?」
「……はい」
アルドさんの表情が少し変わった。
「よくやったな」
「え?」
「普通、初めてなら途中で投げ出す」
「食べ物だったので」
「そうか」
少しだけ。褒められた気がした。
「これ、売れます?」
「状態が悪いから大した値段にはならん。それでもゼロじゃない」
「じゃあ、ちゃんと処理したら?」
「毛皮も売れる。肉も売れる。角も使う奴がいる」
「角……」
私は目を逸らす。
「捨てたか」
「……はい」
「知らなかったなら仕方ない」
もったいなかった。
「次は取っておこう……」
「その前に、ちゃんと処理を覚えろ」
「教えてもらえます?」
反射的に聞いた。
アルドさんが少し驚く。
「俺でよければな」
「お願いします」
勢いよく頭を下げる。
「命を助けてもらった借りがある。解体の一つくらい安い」
それから、アルドさんは外へ出た。
湧水。畑。水路。家。
一つずつ見て。
「これ、本当に全部あんたが?」
「はい」
「一人で?」
「一人で」
「……信じられん」
「そんなにですか?」
「そんなにだ」
即答された。
少し歩いた先。
土から出ている平たい石も見せた。
「これです。地下にも人工物があるみたいで」
アルドさんの表情が変わる。
「……これ」
「何か知ってます?」
「いや。俺も詳しくはない」
石へ手を置く。
「ただ、昔この荒野に街があった、って話は聞いたことがある」
「街?」
「ああ。相当昔らしい。今は場所も分からないって話だ」
胸が高鳴る。
地下構造物。石畳。貯水槽。
全部。
もしかしたら。
「本当に、人が住んでたんだ……」
「かもしれない、だ。まだ決めつけるな」
「はい」
でも。
初めて。
この荒野について。
私以外の人間から、何かを聞いた。
ルグラ荒野。
ようやく知った。
私が暮らしている場所の名前。
そして。
ここには昔。
本当に誰かの暮らしがあったのかもしれない。




