プロローグ 荒野の灯り
もう、どれくらい歩いたのか分からなかった。
「……くそ」
アルド・レイスは乾いた唇を舐め、すぐに後悔した。ひび割れた部分へ舌が触れ、鈍い痛みが走る。腰に下げていた水袋を持ち上げても、軽い。振ってみても音はしなかった。
「分かってるっての……」
水が残っていないことくらい、何度確かめても変わらない。それでも、底に一口くらい残っていないかと期待してしまう。
目の前にあるのは、乾いた土と岩、それから地面へ張りつくように生えた低い草だけだった。どちらを向いても似た景色で、自分が進んでいるのか、それとも大きく円を描いているのかさえ自信がなくなる。
ベルクを出た時は、こんなことになるはずではなかった。
北の村まで、いつもの街道を通る。それだけの仕事だった。何度も往復している道だし、一泊して翌日の夕方には到着する予定だった。
問題が起きたのは、昼を少し過ぎた頃。
街道脇から魔獣の群れが現れた。
戦うという選択肢はなかった。行商人は冒険者ではない。護身用の短剣くらいは持っているが、それで何匹もの魔獣を相手にできるほど自惚れてもいない。
だから逃げた。
最初は荷車ごと。だが追いつかれそうになり、荷を捨てた。それでも駄目で、最後には荷車まで捨てた。
商品も、食料も、大半を置いてきた。
命と水袋だけ持って街道を外れ、ひたすら走った。魔獣の姿が見えなくなった時には、助かったと思った。
そこまではよかった。
「街道に戻れなきゃ、意味ねえだろ……」
逃げることに必死で方角を失った。
戻ろうとしているうちに、さらに奥へ入り込んだ。
そして今いる場所が、ルグラ荒野。
商人なら名前くらいは知っている。
水がない。人が住まない。街道を外れてまで入る価値もない。昔どこかに街があったとか、遺跡が残っているとか、そんな話も聞いたことはある。だが、行商人にとって重要なのはそこではない。
売る相手がいない土地には用がない。
アルドも、今まで一度も来ようとは思わなかった。
「……水」
声に出した瞬間、喉が余計に痛んだ。
足も重い。
朝から何度も転びそうになっている。座れば楽になるのは分かっている。でも、一度座り込めば、もう立てない気がした。
だから歩く。
一歩。
もう一歩。
砂混じりの地面が靴の下で鳴る。
「街道……いや、せめて水場……」
そんな都合のいいものが、この荒野にあるわけがない。
自分自身が一番よく知っている。
それでも歩くしかなかった。
やがて視界が揺れ始めた。遠くの地面が波打っているように見える。
「まずいな……」
足がもつれた。
片膝をつきそうになり、どうにか踏みとどまる。
その時だった。
「……ん?」
陽炎の向こうに、妙な影が見えた。
岩ではない。
もっと角ばっている。
アルドは目を細めた。
「屋根……?」
自分で言ってから笑いそうになった。
幻覚に決まっている。
ここはルグラ荒野だ。
しかも街道から大きく外れた奥地。そんなところに家なんてあるはずがない。
けれど。
その影の近くで、橙色の光が一度揺れた。
消えた。
また見える。
「火……?」
焚き火。
自然の火なら、あんなふうに一定の場所で揺れ続けたりしない。
誰かがいる。
「人……」
声が震えた。
助かる。
そう思った瞬間、張りつめていたものが切れたように、身体から力が抜けた。
膝をつく。
「待て……あと、少し……」
地面へ手をつき、立ち上がろうとする。
腕が震えるだけだった。
それでも顔を上げる。
屋根。
焚き火。
そして、その向こう。
緑。
畑のようなもの。
「……畑?」
あり得ない。
ここは、何もないはずの荒野だ。
最後までそんなことを考えながら、アルドの視界はゆっくり暗くなっていった。
残ったのは。
誰もいないはずの荒野に灯る、小さな火だけだった。




