第10話 小さな畑
朝。
目を覚ました私は、枕元――と言っていいのか分からない場所に置いてある器へ手を伸ばした。
「……おお」
ちゃんと水が残っている。
昨日入れた時よりは減っていた。器の底を見ると、湿った跡ができている。やっぱり少しずつ染み出しているらしい。
それでも、器を持ち上げて口をつける。
「んっ……」
冷たい、とまではいかない。
でも、寝起きにその場で水を飲める。
「便利……」
今までなら、目を覚ますたびに水場まで歩いて、しゃがんで、両手ですくって飲んでいた。
ほんの数歩の距離。
それがなくなっただけなのに、ずいぶん暮らしが良くなったように感じる。
隣には、もう一つの器。
歪んでいる。
表面もざらざら。
元の世界なら、店に並ぶことすら許されなさそうな出来だ。
「でも、私が作ったんだよね」
少しだけ口元が緩んだ。
水場を見つけた時も。
火がついた時も。
初めて肉を食べた時もそうだったけれど。
何か一つできるたびに、この場所が少しだけ自分の居場所になっていく。
「今日は何しようかな」
器を置いて、身体を伸ばす。
まず焚き火を確認する。
灰の中を枝で探ると、まだ赤い部分が残っていた。
「よかった」
枯れ草を置き、細い枝を足す。息を吹きかけると、しばらくして小さな炎が戻った。
これで火も大丈夫。
食料は、角ウサギの肉がもう少し残っている。
水もある。
今日一日を生きるだけなら、すぐに困るものはない。
「……そうだ」
ふと思い出して、水場の横へ向かった。
そこには以前、芋を一つ埋めてある。
何も考えずに植えてみただけの、小さな実験。
見た目には特に変わっていない。
「まだかな」
しゃがみ込んで地面へ手をつく。
「《土地鑑定》」
《表土水分:少》
《植物生育適性:中》
《地下植物反応:あり》
「生きてる」
前と同じだ。
でも、今日はもう少し詳しく知りたくなった。
「ちゃんと育ってるのかな」
埋めた場所を意識する。
しばらくすると、表示が一つ増えた。
《地下植物反応:活性》
「活性……?」
悪い言葉には聞こえない。
少なくとも腐ってはいないらしい。
「じゃあ、水あげた方がいい?」
植物なのだから水は必要だろう。
でも、どれくらい必要なのかは分からない。
元の世界でも、観葉植物へ水をやりすぎて駄目にする話くらいは聞いたことがある。
「たくさんあげればいいってわけじゃないよね」
そこで。
私は振り返った。
屋根の下には、昨日完成した器が二つある。
「あ」
水を運べる。
当たり前のことなのに、今さら気づいた。
私は器を一つ取って、水場から水を汲む。
両手で運んでいた時とは違って、ある程度まとまった量を持って歩ける。
「これなら……」
植えた芋の周りへ、少しずつ水を流す。
土の色が濃く変わっていった。
「畑、作れるんじゃない?」
口に出した瞬間。
自分でも少し驚いた。
畑。
まだ、芋を一つ埋めただけだ。
農業のやり方なんて知らない。
でも。
食べられる植物がある。
水がある。
水を運ぶ器までできた。
なら。
「毎回探しに行かなくても、ここで育てられたら……」
かなり楽になる。
私は立ち上がった。
「やってみよう」
◇
まずは場所だ。
今植えている芋の周囲を、そのまま畑にするのが一番簡単そうだった。
水場が近い。
拠点からも近い。
ただ、それだけで決めるのは少し怖い。
私は数歩移動して地面へ触れた。
「《土地鑑定》」
《植物生育適性:やや低》
「ここは違う」
少し移動。
「《土地鑑定》」
《植物生育適性:中》
《表土水分:少》
《地盤:やや硬》
「硬い……」
さらに移動する。
今度は水場から少しだけ高い場所。
「《土地鑑定》」
《植物生育適性:中》
《表土水分:少》
《地盤:普通》
《降雨時浸水危険:低》
「ここがいいかな」
今植えている芋からも近い。
広さは。
「……これくらい?」
両手を広げる。
大きな畑なんて絶対に無理だ。
道具も尖った石しかない。
だから。
「最初は小さくていいよね」
私は地面へ線を引いた。
縦に三歩。
横に二歩くらい。
「……小さ」
畑というより、花壇くらいにしか見えない。
でも。
「私一人しかいないし」
それで十分だ。
問題はここからだった。
◇
「石、多いなあ……」
地面にしゃがみ込み、石を拾う。
一つ。
二つ。
三つ。
小石ならいい。
でも中には、握り拳くらいのものまで半分埋まっている。
「よいしょ……っ」
掘削用の石を差し込んで周囲を崩し、なんとか引き抜く。
「取れた」
ぽい、と外へ投げようとして。
止めた。
「……これ、使えるか」
取り除いた石を畑予定地の端へ並べていく。
一つ。
また一つ。
せっかく掘り出したのだから、捨てる必要はない。
「囲いにしておけば、どこまで畑か分かるし」
低い石の縁が少しずつできていく。
我ながら悪くない。
問題は、その後。
「土って……耕すんだよね」
そこまでは知っている。
畑の土を掘り返して、柔らかくする。
テレビでも見たことがある。
でも。
手元を見る。
尖った石。
「これで?」
仕方ない。
刺す。
ガッ。
「硬っ」
もう一度。
ガッ。
少し土が崩れる。
それを手でほぐす。
また石を刺す。
「これ……終わる?」
十回ほど繰り返したところで、早くも不安になった。
花壇程度の広さ。
それなのに。
全然進まない。
土は思ったより硬く、石器を深く差し込むだけでも力がいる。しゃがみっぱなしなので腰も痛い。
「農具……欲しい」
心の底から思った。
スコップ。
鍬。
名前しか知らないような道具まで恋しくなる。
「ホームセンターに行きたい……」
行けるはずもない。
私はため息をついて、再び石を地面へ突き刺した。
◇
「はあ……はあ……」
途中で何度休んだか分からない。
手は土まみれ。
爪の間にも土が入っている。
腰も痛い。
それでも。
「……できた?」
最初よりは、ずっと土が柔らかくなった。
完全にふかふか――なんて状態ではない。でも表面の硬い層は崩れ、大きな石もほとんど取り除いた。
周囲には拾った石を並べてある。
「畑っぽい」
本当に小さい。
でも、ただの地面だった場所と比べれば明らかに違う。
「よし」
次は植えるものだ。
今あるのは、すでに埋めている芋が一つだけ。
「増やさないと畑にならないよね」
私は北西を見る。
角ウサギが芋を食べていた場所。
そこへ行けば、まだ同じ植物が残っている。
「採りすぎないようにしないと」
全部持ってくるつもりはない。
もしここでの栽培に失敗したら、野生のものまでなくなってしまう。
私は石のナイフと掘削用の石を持ち、北西へ歩き出した。
◇
以前見つけた場所には、ちゃんと芋の葉が残っていた。
「よかった」
一度見つけたからといって、角ウサギに全部食べられている可能性も考えていた。
私は多く生えている場所を探す。
一ヶ所。
二ヶ所。
三ヶ所。
「これなら少しくらい……」
端に生えている株の周囲を掘る。
土を崩して。
根を切らないよう――にしたいけれど。
「あ」
ブチッ。
「……切れた」
早速失敗した。
細い根が途中で切れている。
「まあ……芋が無事なら」
正しいのかは知らない。
とりあえず茶色い芋を掘り出す。
もう一株。
今度は少し広めに周りから掘る。
「ゆっくり……」
時間はかかったけれど、さっきより綺麗に取れた。
「これならいいかも」
結局。
五個の芋を掘った。
それ以上はやめた。
「残しておこう」
元の場所には、まだかなり植物が残っている。
角ウサギの食料でもある。
全部取る必要はない。
私は芋を草で包んだ。
「……重ねて持つと落としそう」
籠が欲しい。
前にも思った。
「今度、本当に作ろう」
欲しいものがまた増えた。
◇
畑へ戻る。
五つの芋を地面へ並べた。
「さて」
どう植えるのか。
分からない。
「丸ごと……でいいのかな」
元の世界でジャガイモを切って植える、という話を聞いた覚えがある。
でも、この芋が同じとは限らない。
そもそも切る理由も知らない。
「だったら、今成功してる方法を真似しよう」
以前は丸ごと一個埋めた。
そして今のところ《地下植物反応:活性》。
なら。
「全部丸ごとで」
失敗しても仕方ない。
小さな穴を掘る。
一つ入れる。
土を被せる。
次。
また次。
間隔も、どれくらい空けるのが正しいのか分からないので、適当に手のひら数枚分ほど離した。
「近すぎるかな……」
不安になる。
でも。
「育ってから考えよう」
まず芽が出なければ始まらない。
五個すべてを植え終わる。
そして。
器の出番。
水場から水を汲む。
運ぶ。
少しずつ土へかける。
一杯目。
二杯目。
三杯目。
「……器、小さい」
畑が小さいからまだいい。
でも、これがもっと広くなったら。
何十往復することになるんだろう。
「大きい器、やっぱり必要だなあ」
第九話で考えたことが、もう現実の問題になった。
それでも。
今は運べる。
今までできなかったことが、できている。
「最後」
もう一杯の水を土へかける。
乾いていた土が、しっとりと色を変えた。
私はその場に座り込んだ。
「できた……」
小さい。
本当に小さい。
石で囲った、たった数歩分の土地。
植わっているのも、たった六個の芋だけ。
それでも。
「畑だ」
そう言ってみる。
思った以上に嬉しかった。
昨日までは。
食べ物は探しに行くものだった。
見つかるかどうかも分からない。
角ウサギを捕まえるなら、罠に入るのを待たなければならない。
でも。
もしここで芋が育てば。
自分の家のすぐ横で。
食べ物を作れる。
「すごいな……」
まだ一つも収穫していないのに。
未来が少し変わった気がした。
◇
夕方。
私はもう一度、小さな畑を見に行った。
当然。
数時間で何か変わるはずもない。
「……分かってるけどさ」
しゃがんで眺める。
変化なし。
そこで、最初に植えた一個が気になった。
あれだけは、他の五つより何日も早く植えている。
「そろそろ何か……」
土へ顔を近づける。
「ん?」
小さなものが見えた。
土の隙間から。
ほんの少し。
緑色の先端が覗いている。
「……え?」
指を近づけて。
止める。
触らない方がいい気がした。
「芽?」
じっと見る。
本当に小さい。
見落としてしまいそうなほど細い。
でも。
間違いなく緑色だ。
「出た……」
自然と笑顔になる。
「出た!」
声が荒野へ響いた。
誰も聞いていない。
でも構わない。
「育ってる!」
水を見つけた時とも。
火を起こした時とも。
少し違う嬉しさだった。
あれは、この土地に元からあったものを見つけたり、材料を使って作ったりした。
でも。
これは。
私が植えたものが。
自分で育っている。
「……すごい」
しゃがんだまま。
しばらく眺めてしまった。
荒野。
最初に来た時は。
本当に、何も育たない土地だと思った。
茶色い大地しかなかった。
でも今は。
私の拠点の横に。
たった一本だけ。
小さな緑が生えている。
「大きくなってね」
私は立ち上がる。
振り返れば。
粗末な屋根。
焚き火。
水の入った二つの器。
そして。
小さな畑。
まだ、家とは呼べない。
まだ、畑だって成功したとは言えない。
それでも。
この場所には。
転移した日にはなかったものが、確実に増えている。
「明日は何しようかな」
そんなことを考えながら。
私は自分の寝床へ戻った。




