回戻
よくあるやつ
冥界と天界のトップが仲良く肩を並べて茶を啜るようになり、スライム温泉郷は「全次元の不可侵領域(絶対的な癒やし空間)」として完全に定着した。
もはや宇宙の法則すら俺たちの宿には手を出せない。
ワールド・タートルは、今日も悠々と次元の狭間を泳ぎ、星々の間を漂っていた。
だが、平和(?)な日常は、いつだって若女将の強欲によって打ち破られる。
『ああっ! ナルセ! あっちの次元の裂け目から、見たこともない「幻の黄金エネルギー」の匂いがするわ! カメさん、全速前進よ!!』
帳場から飛び出してきたアイリスが、扇子を振り回して亀の頭をペシペシと叩いた。
「ちょ、待てアイリス! 未確認の次元の裂け目に突っ込むのは危ないって!」
俺の制止も虚しく、売上アップの亡者となった魔剣の指示により、ワールド・タートルは「ウオォォォッ!」と雄叫びを上げて次元の渦へとダイブしてしまった。
視界がぐにゃりと歪み、凄まじい次元の摩擦熱が温泉郷を包み込む。
そして数秒後。
「ポォォォォンッ!」という間の抜けた音とともに、カメは新しい世界へとポロリと吐き出された。
「……おい。ここは、どこだ?」
俺は縁側から身を乗り出し、眼下に広がる景色を見て絶句した。
そこは、星降る宇宙でも、緑豊かなファンタジー世界でもなかった。
見渡す限りのコンクリート・ジャングル。天を突くようにそびえ立つ無数のガラス張りの高層ビル群。そして、道路を血液のように流れる赤いテールランプの光。
『……なにここ。魔力が全然ないわ。空気が淀んでて、星も見えないし』
アイリスが鼻をつまむ。
「フハハ! 奇妙な鉄の箱が走り回っておるな! あれがこの世界のモンスターか!」
魔王が下を走る自動車を見て目を輝かせている。
(間違いない。ここは……俺の前世の世界。現代の日本だ!)
時計の概念が正しければ、今は金曜日の深夜23時過ぎ。場所はビルの形からして、恐らく大阪のビジネス街のど真ん中。
ワールド・タートルは、高層ビルの谷間にすっぽりと挟まるようにして、空中にふんわりと浮遊していたのだ。
その時、ビルの谷間から、フラフラとゾンビのように歩いてくる一人の男の姿が見えた。
ヨレヨレのスーツ、乱れたネクタイ、片手にはコンビニの袋。生気のない目は焦点が合っておらず、口からは「……稟議書……あと三枚……明日の朝イチ……」と呪詛のような言葉が漏れている。
俺は、その男の顔を見て息を呑んだ。
(あ、あのハゲ頭……いや、見覚えのある福耳は! 前世で俺を過労死寸前まで追い詰めた、ブラック企業の権化・田中部長!!)
なんという運命のイタズラか。
異世界転生して宇宙一の温泉宿のオーナーになった俺が、かつての上司の残業明けの帰り道に遭遇するとは。
田中部長は、ふと顔を上げ、ビルの谷間に浮かぶ「巨大な亀と、その上に乗ったヒノキ造りの温泉宿」をぼんやりと見上げた。
「……ははっ。ついに俺も、過労で幻覚を見るようになったか。空飛ぶ温泉旅館なんて……いや、でもあの看板……『スライム&ソード』……?」
部長がその場に崩れ落ちそうになった瞬間。
俺はぽよんと跳ね上がり、上空からダイブして彼の目の前のコンクリートにポチャリと着地した。
「……ひっ!? な、なんだお前! ゼリー!? 宇宙柄のゼリーが喋った!?」
腰を抜かす田中部長に、俺はかつての部下としての恨み……ではなく、全宇宙を癒やす温泉宿のオーナーとしての誇りを胸に、静かに語りかけた。
「……お疲れ様です、部長。金曜のこんな時間まで残業ですか。相変わらずブラックな働き方してますね」
「な、なんでゼリーが俺の役職を知ってるんだ……!? ていうか、お前……その生意気なトーン、まさか……成瀬か!?」
俺はギャラクシーボディをプルプルと震わせた。
「今の俺は、ただの温泉宿のオーナー(スライム)ですよ。……さあ、ノルマも稟議書も全部忘れて、うちの温泉に入っていきませんか? 究極の『福利厚生』、お見せしますよ」
俺の言葉を合図に、上空のワールド・タートルから光の階段がスルスルと降りてくる。
階段の上では、魔王、勇者、死神、そして大天使が「いらっしゃいませー!」と最高の笑顔で手を振っていた。
現代社会の究極の社畜を、異世界最強の温泉宿が全力で癒やす。
よくあるやつ。最終回ていき




