猫(首根っこ)
つかまれるやつ
路地裏の木箱の影で息を潜める俺の前に、カツン、カツンと下駄の音を響かせてアイリスが歩み寄ってきた。
『光学迷彩なんて、私の魔力探知の前では無意味よ。さあ、大人しく年貢を納めて、302号室のブラックホール・ドラゴンの部屋を掃除しなさい』
「……ごめんなさい。ほんの数時間だけ、土の匂いを嗅ぎたかったんです」
俺が迷彩を解いてペチャンコに潰れると、広場の方から「何事だァァァッ!」という鼓膜を劈くような怒声が響き渡った。
現れたのは、身の丈3メートルはあろうかという筋骨隆々の大男だ。全身に禍々しいドクロのタトゥーを刻み、巨大な鉄球を振り回している。彼こそが『暗黒結社ブラック・スカル』の総帥なのだろう。
「我が結社の精鋭たちを、こんな骨抜きにしやがって! 貴様ら、ただで済むと……」
総帥が凄んだ、まさにその瞬間だった。
「やかましいわッ! 貴様のような三流の悪党が、我が主の休日の……いや、我が職場のオーナーのサボりを邪魔するな!」
魔王が一瞬で総帥の背後に回り込み、暗黒闘気を纏った巨大なお玉を首筋にピタリと当てた。
さらに正面からは、勇者アーサーが聖剣の峰を向け、爽やかすぎる(しかし絶対に逃げられない)笑顔で立ちはだかる。
「強制労働なんて古いですよ。今は福利厚生と適切な休日こそが、最高のパフォーマンスを生むんです。……さあ、あなたも俺たちと一緒に、健全な汗を流しませんか?」
「ヒィィィッ!? ま、魔王様!? なんで伝説の魔王様と勇者が一緒にいるんだよォォォッ!?」
ファンタジー世界の(一般的なレベルの)悪の組織のトップなど、ステータスがカンストしているうちのバケモノ従業員たちからすれば、ただの威勢のいいサンドバッグでしかない。
総帥は鉄球をポロリと落とし、ガクガクと膝を震わせてその場に崩れ落ちた。
『……というわけで。この街の悪の組織は、今日からうちの【ワールド・タートル甲羅磨き部隊】の下請けとして強制雇用するわ。もちろん、ちゃんと週休二日で、温泉のまかない付きよ』
アイリスが帳簿にサラサラとペンを走らせながら、総帥に向かってにっこりと微笑んだ。
悪の組織のトップは「は、はいぃぃぃ! 一生懸命磨かせていただきますゥゥ!」と土下座で快諾(?)した。
こうして、俺のささやかな脱走劇は、街のブラック結社をホワイト企業(温泉宿の下請け)へと更生させるという思わぬ形で幕を閉じた。
「……で、俺の有給はどうなるんだ?」
俺が恐る恐る尋ねると、アイリスは扇子でピシャリと俺のゼリー状の体を叩いた。
『有給? 何言ってるの。あなたが勝手に街をウロウロしたせいで、この街の人たち全員が「あの温泉に行ってみたい」って言い出して、団体予約が入ったのよ。さあ、帰って大浴場のお湯を沸かすわよ!』
広場を見ると、先ほどまで虚ろな目をしていた街の住人たちが、「温泉! 温泉!」と目を輝かせて大合唱している。
(……なんで俺は、休もうとするたびに自分の仕事を増やしてしまうんだろうか)
俺はアイリスにヒョイと抱え上げられ、神獣ワールド・タートルの背中へと強制送還されていった。
数話サイクル♪




