イカ
イカ以下
世界を背負う伝説の神獣『ワールド・タートル』を丸ごと露天風呂に改造し、星の海を優雅に遊覧する「動くインフィニティ・プール」の営業が始まってから数日。
うちの温泉宿は、文字通り次元の壁を越えて宇宙空間をゆったりと航行していた。
甲羅の上に増設されたヒノキ造りの露天風呂からは、息を呑むような星雲のグラデーションや、遠くで瞬く超新星爆発の光が特等席で見渡せる。客たちは無重力スライム特製ドリンクを片手に、完全に浮世離れした極楽を満喫していた。
俺も、甲羅の端っこでゼリー状の体をでろーんと広げ、宇宙のマイナスイオンを全身で吸収しながら究極のサボり……もとい、監視業務を行っていた。
「フハハハ! 見よ勇者よ! あのペガスス座の輝きを! 我の暗黒魔力でさらに黒く塗りつぶしてやろうか!」
「やめろ魔王! お客様の景観を壊すな! ていうか、お前は厨房で星屑チャーハンの鍋を振る時間だろ!」
相変わらず魔王と勇者が騒がしくやり合っている。
そんな平和な宇宙遊覧の最中だった。
突如、カメの進む先にある空間が、インクを零したように真っ黒に染まり始めた。
星々の光が遮られ、巨大な影がワールド・タートルの行く手を塞ぐ。
『……な、なによあれ。太陽系くらい大きくない?』
帳場から飛び出してきたアイリス(アバター姿)が、扇子を取り落として空を仰いだ。
闇の中からうねうねと姿を現したのは、無数の吸盤を持った超巨大な触手だった。一つ一つの吸盤が、小さな隕石ほどのサイズがある。
それは、宇宙の船乗りたちから最も恐れられている伝説の星間魔獣、『ギャラクシー・クラーケン』だった。
「ギュオォォォォォォッ!!」
鼓膜ではなく脳を直接揺らすような咆哮とともに、巨大な触手がワールド・タートルの甲羅をぐるぐると締め付け始めた。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
「キャアアアッ! 揺れるわ!」
露天風呂に浸かっていた宇宙人や神様たちがパニックに陥る。
「フハハハハ! 飛んで火にいる夏のイカとはこのことよ! 今夜の夕食は『宇宙規模のイカリング』に決定だ!」
魔王が歓喜の声を上げ、巨大な出刃包丁を構えて飛び出していく。
勇者アーサーも「お客様の安全は俺が守る!」と聖剣を抜き放ち、臨戦態勢に入った。
だが、俺はギャラクシーボディの感覚器官で、クラーケンの触手から伝わってくる「ある異変」に気がついていた。
(……待て。こいつ、攻撃してきてるんじゃない。それに、この触手の表面……)
「ストーップ! 魔王、アーサー、武器を下ろせ!」
俺はぽよんと跳ね上がり、クラーケンの巨大な吸盤の前に立ちはだかった。
「よく見ろ。こいつの触手、カサカサに乾燥してひび割れてるぞ。たぶん、近くの恒星の太陽フレアをまともに食らって、深刻な『乾燥肌』に悩まされてるんだ」
俺の言葉に、クラーケンは図星を突かれたように「キュゥゥ……」と情けない鳴き声を漏らした。
どうやら、温泉の豊富な水気と星屑の魔力に引き寄せられて、保湿を求めてしがみついてきただけらしい。
『……乾燥肌? 宇宙最強の魔獣が?』
アイリスが呆れたようにため息をつく。
「冬場の乾燥は、種族を問わず大敵だからな。よし、従業員一同、特大の『保湿ケア』コースの準備だ!」
俺の号令で、血に飢えていた(?)スタッフたちは一瞬で「最高のおもてなしモード」へと切り替わった。
「チッ、イカリングはお預けか。ならば、我の特製『魔界深層水ローション』の出番だな!」
魔王が厨房から大量のドラム缶を運び出し、アーサーが聖剣の腹を使ってそれをクラーケンの巨大な触手に均等に塗り広げていく。
シルフィエットは風の魔法で蒸気を発生させ、天然のスチームサウナ状態を作り出し、乾燥しきったクラーケンの皮膚に水分を叩き込む。
そして俺は、自身の一部を細かく分裂させ、吸盤の隅々まで入り込んで古い角質を溶かす『スライム・ピーリング』を施した。
「ギョピィィィィィ……(しっとりするぅぅぅ)……」
数十分の集中ケアの結果。
ギャラクシー・クラーケンの触手は、カサカサのひび割れ状態から、赤ちゃんのようにぷるんぷるんで艶やかな、見事な「もっちり肌」へと生まれ変わった。
すっかり満足したクラーケンは、お礼として大量の「深宇宙の希少真珠」を甲羅の上にジャラジャラと吐き出すと、滑らかな動きで闇の中へと帰っていった。
『よ、よし! この真珠で、次はカメの頭の上に特別展望ラウンジを作るわよ!』
アイリスが目をドルマークにして真珠に飛びつく。
「フハハ! 結局イカは食えなかったが、まあ良い運動になったわ!」
「やっぱり保湿は大事ですね、オーナー」
アーサーが汗を拭いながら笑う。
俺は真珠の山を避けながら、ピカピカに潤った自分のスライムボディをブルブルと震わせた。
なるへそ。




