女神
モジュール式のサイバーデッキ。ねェ。
全宇宙で視聴率99.8%を叩き出したドキュメンタリー番組の放送から数週間。
スライム温泉郷の影響力は、もはや一つの銀河を揺るがすどころの騒ぎではなくなっていた。
「……オーナー。大変です。星間連盟の経済指標が、前代未聞の大暴落を記録しています」
帳場で最新の宇宙新聞(ホログラム版)を読んでいたステラ姫が、青ざめた顔で報告してきた。
(なんだって? うちが大統領のリモート執務室になったから、政治はうまく回ってるはずだろ?)
俺が床の雑巾がけの手を止めて尋ねると、彼女は震える指で記事を空中に拡大した。
「政治は回っています。ですが……あの番組を見た全宇宙の労働者たちが、『俺たちもあんな温泉で癒やされたい!』『仕事なんかしてる場合じゃない!』と、一斉に有給休暇を申請し、宇宙規模のストライキに発展しているのです!」
……マジかよ。俺たちの宿が提供した「究極の癒やし」が、全宇宙の労働意欲を根こそぎ奪ってしまったらしい。
(まずい。これじゃあ、俺が元の世界で苦しめられていたブラック企業を撲滅できたかもしれないが、宇宙の経済が回らなくなったら、うちの宿の食材の仕入れにも影響が出るぞ)
俺が焦り始めたその時、上空のアストラル・スライム・ゲートから、これまでで最も神々しく、かつ「息苦しい」ほどの威圧感を伴った光の柱が降り注いだ。
光の中から現れたのは、純白のスーツを身に纏い、手には分厚い六法全書のような魔導書を抱えた、眼鏡の冷徹な女神だった。
「私は、全次元の勤労と生産を司る『労働の女神・ワークス』。……この宇宙の生産性を著しく低下させている元凶たる怠惰な温泉宿よ。神罰を下しに参りました」
女神ワークスが冷ややかに宣言すると、周囲の空気がピリッと張り詰めた。
彼女の背後には、無数の「タイムカード」のような光の板が浮かび上がり、チクタクと秒針の音を正確に刻んでいる。
「お前たちが提供する『過度な癒やし』は、知的生命体から勤労の喜びを奪い、宇宙を堕落させている。よって、この宿を即刻営業停止とし、従業員には懲役一万年の『強制労働の刑』を処す!」
「なにおぅ!? 貴様、我の神聖なる厨房での仕込みをブラックと呼ぶか!」
「俺の毎日の薪割りノルマを舐めないでいただきたい!」
「わたくしだって、毎日ボイラー室で汗水流して働いておりますのよ!」
魔王、勇者、元CEOのハイエルフが、一斉に女神に向かって抗議の声を上げた。
そう、うちの従業員たちは異世界最強クラスの力を持て余しているがゆえに、常軌を逸したワーカホリック(仕事中毒)の集まりなのだ。
女神ワークスは、彼らの猛反発を受けて少しだけ目を丸くした。
「……ほう? お前たち、この怠惰の温床にありながら、それほどの勤労意欲を保っているというのですか。……素晴らしい。ならば、なぜこの宿の客たちはあそこまで堕落するのです?」
『それはね、女神様』
アイリス(アバター姿)が、扇子をパチンと鳴らして前に出た。
『うちのスタッフが死ぬ気で働いて、究極の環境を整えているからこそ、お客様は完全に安心して「堕落」できるのよ。オンとオフの切り替え、労働と休息の完璧なバランス。それがうちの宿のモットーよ』
「詭弁です! 休息など、次の労働へのつなぎに過ぎない。この宇宙に『何もしない時間』など不要です!」
女神が声を荒らげ、手元の魔導書を開こうとした瞬間。
俺はぽよんと跳ね上がり、彼女の持つ魔導書の上にペチャリと張り付いた。
「まあまあ、女神さん。あんた、ずっと立ちっぱなしで宇宙の労働管理をしてるんだろ? 肩、ガチガチじゃないか」
「なっ!? 軟体生物、気安く私に触れるな! 私は疲労など……ッ!?」
俺はギャラクシーボディから、極上のマイナスイオンと、宇宙源泉の温もりを直接彼女の腕から肩へと流し込んだ。
数億年休まず働き続けてきた「労働の女神」の肉体は、実は宇宙で一番、癒やしに飢えていたのだ。
「あ、ああっ……! な、なんだこの、細胞の奥底まで染み渡るような脱力感は……! いけない、これでは私が、怠惰に……!」
女神は必死に抵抗しようとしたが、俺の【スライム・ディープ・リラクゼーション】の前には無力だった。
俺が肩甲骨の裏のツボを絶妙な弾力で押し込むと、彼女はついに膝から崩れ落ちた。
「ほら、アーサー! 女神さんを大浴場へご案内だ!」
「おう! VIP待遇でいくぜ!」
数十分後。
銀河の湯に浸かった女神ワークスは、眼鏡を外し、完全にふやけた顔で湯船の縁に顎を乗せていた。
「……あぁ……。勤労も、生産性も……もうどうでもいい……。このお湯に浸かっている時間こそが、宇宙の真理……」
「だろ? 極限まで働いた後の温泉は、最高の贅沢なんだよ。あんたも、たまには有給取って休めばいい」
俺が湯船に浮かびながら言うと、女神はとろんとした目で頷いた。
その後、労働の女神は自ら「休息の重要性」を宇宙に布教するようになり、宇宙の労働基準法が大幅に改定された。全宇宙の労働者に「完全週休三日制」と「年一回の温泉旅行」が義務付けられ、リフレッシュした労働者たちのおかげで宇宙の生産性は逆に爆上がりしたという。
そして、当然のように増えた「年一回の温泉旅行」の予約客によって、俺たちスライム温泉郷は今日も戦場のような忙しさに見舞われている。
「オーナー! 第9銀河から、団体旅行客三万人の予約が入りましたァァァ!」
「フハハ! 厨房の火力を全開にせよ!」
俺は、ピカピカの床を這い回りながら、静かに悟りを開いた。
宇宙がどれだけ平和になっても、俺の定時退社は絶対にやってこないのだと。
だが、忙しく働く仲間たちの喧騒と、客たちの満足そうなため息がある限り、このぬるりとしたドタバタな日々も悪くない。俺は今日もしっかりと働き、そして誰よりも深く、温泉でふやけるのだ。
「ぬるり」
定期的に挟んでいく
「ぬるりるり」




