残業?ナニそれおいしいの
やららら
グランディール王国の第一王子エドワードが、作務衣姿で「床の木目が光るまで磨き上げます!」と涙ながらに雑巾がけに勤しむ平和な午後。
俺は、彼が磨き終わった端からペタペタと歩き回り、ごく微量のスライムエキスでワックスがけの仕上げをしてやっていた。
「おい新入り! そこはまだ拭き残しがあるぞ! 我が魔界の城ならば、一族郎党火あぶりの刑レベルだ!」
「ひぃぃっ! も、申し訳ありません料理長(魔王)! すぐにやり直します!」
かつて世界を恐怖に陥れた魔王と、傲慢の塊だった第一王子による、謎のスパルタ清掃指導。
もはやこの旅館の日常風景である。
そんな長閑な空気を切り裂くように、玄関の引き戸が「ガラッ」と力なく開いた。
『いらっしゃいませ。当館へようこ……そ……?』
帳場にいたアイリスのアバターが、珍しく言葉を詰まらせた。
無理もない。そこに入ってきたのは、モンスターでも宇宙人でもなく、「生ける屍」のような男だったからだ。
ボロボロの麻の服を着ているが、その下にはなぜかワイシャツとネクタイの残骸のようなものが覗いている。目の下には真っ黒なクマが広がり、頬はこけ、虚ろな目は宙を彷徨っていた。
「あ、ああ……休める、場所……。もう、エクセル……いや、魔力羊皮紙の月次決算は、終わったのか……? 稟議の、ハンコは……」
男がうわ言のように呟いたその単語を聞いて、俺のゼリー状の体はピタッと硬直した。
(その声、その疲労困憊のオーラ……そして、そのハゲかけた頭頂部……まさか!?)
俺はポヨンと飛び跳ねて、男の顔を下から覗き込んだ。
間違いない。元の世界(現代日本)で、俺を毎日終電までこき使っていたブラック企業の上司、田中部長だ!
どうやら田中部長も、俺と同じように異世界に転生(または召喚)されていたらしい。
アイリスの魔力で少し正気を取り戻した部長を縁側に座らせて話を聞くと、彼は「内政チート勇者」としてある国に召喚されたのだという。
しかし、そこは超絶ブラック国家。来る日も来る日もダンジョン討伐の収支報告、兵站のロジスティクス、さらには貴族たちの横領の帳尻合わせまで丸投げされ、週休ゼロ・睡眠時間2時間の過労死寸前まで追い詰められ、夜逃げ同然でここまで辿り着いたらしい。
「……なるほど。内政スキルを与えられたばかりに、前世以上の社畜になってしまったのですね」
俺は低い声(アイリスの魔力駆動)で、同情を込めて相槌を打った。
部長は、目の前にいる星雲柄のスライムが、かつて自分に死ぬほど残業を強いていた部下の「成瀬」だとは夢にも思っていない。ただの親切な魔物だと思って、ポロポロと涙を流している。
「うっ、うぅっ……! なぜだ、異世界に行けばスローライフが待っているとラノベには書いてあったじゃないか! なぜ私は、剣と魔法の世界で徹夜でエクセルを叩いているんだ……!」
かつての恨みを晴らすチャンス……と一瞬思ったが、同じブラック労働の被害者となってボロ雑巾のようになった元上司を見ると、元・社畜としての同族嫌悪と哀愁が入り混じり、なんだか不憫になってきた。
『……どうするの、ナルセ。このおじさん、魔力じゃなくて「生気」が枯渇してるわ。このままだと死ぬわよ』
アイリスが念話で呆れたように聞いてくる。
(……決まってる。徹底的に『ふやかして』やる。うちの宿のモットーは、どんな客でも極上の湯で癒やすことだ)
俺は触手を伸ばし、田中部長の背中をポンッと叩いた。
「お客様。当館の『宇宙源泉・特別デトックスコース』をご用意いたします。パソコンも、稟議書も、納期も、ここにはありません。あるのはただ、温かいお湯と美味い飯だけです」
「ほ、本当か……? 明日の朝イチの会議の資料は……?」
「そんなもの、勇者の聖剣でシュレッダーにかけておきます」
俺はアーサーとエドワード王子を呼びつけ、田中部長を一番景色のいい露天風呂へと連行させた。
数十分後。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
宇宙の星屑が溶け込んだ『銀河の湯』に浸かった田中部長の口から、魂の底からの咆哮(というより嗚咽)が漏れ出した。
俺はスライムの体を適度な硬さに調整し、彼のガチガチに凝り固まった肩や首筋に浸透圧マッサージを施す。
「こ、これは……なんという……。私の肩に乗っていた重役たちのプレッシャーが、嘘のように溶けていく……。ああっ、スライムさん、そこ、肩甲骨の裏……ああっ!」
「部長……いや、お客様。力を抜いてください。深呼吸です」
さらに、湯上がりには魔王が腕によりをかけた「大地の竜のスタミナ薬膳鍋」が振る舞われた。
魔界のスパイスが疲労回復を促進し、ひとくち食べるごとに部長の顔色に血の気が戻っていく。
「う、美味い! 美味すぎる! コンビニの栄養ゼリー以外を口にしたのは何ヶ月ぶりだ……!」
涙を流しながら鍋を平らげる部長を見て、俺は縁側で冷たい麦茶をすすりながら深く頷いた。
(良かったな、部長。俺はあんたを絶対に許さないが、この宿のオーナーとしては、あんたを最高の状態に回復させてみせるぜ)
翌朝。
すっかり生気を取り戻し、肌つやまで良くなった田中部長は、憑き物が落ちたような爽やかな笑顔で帳場にやってきた。
「本当に、何から何までありがとうございました。私、決めたんです。あのブラック国家にはもう戻りません」
『それは賢明な判断ね。で、これからどうするおつもり?』
「はい! もしよろしければ、この素晴らしい宿で私を雇っていただけないでしょうか! 経理でも、在庫管理でも、なんでもやります!」
田中部長が、元・営業部長の完璧なプレゼン顔で俺たちに頭を下げた。
……一瞬、空気が凍りついた。
俺はスライムの体でブルブルと震え上がった。
(冗談じゃない!! せっかく異世界でスローライフ(?)を満喫してるのに、なんでまた元上司の下で……いや、仮に俺がオーナーだとしても、あの部長が経理に入ったら絶対に「利益率改善」とか言って過酷なノルマを課してくるに決まってる!!)
俺は全力でアイリスのアバターに向かって念を送った。
(断れ! アイリス、絶対に断れ! あいつを雇ったら、この宿の労働環境が現代日本のブラック企業になっちまう!!)
アイリスは俺の必死な様子に少し驚いたようだが、すぐに冷静な営業スマイルを作った。
『申し訳ありません、お客様。当館は現在、スタッフの募集を行っておりません。それに、お客様のその優秀な事務処理能力は、こののんびりとした宿にはもったいなさすぎますわ』
「そ、そんな……! 残業代ゼロでもいいんです! どうか!」
『ダメなものはダメです』
アイリスが(物理的な冷気で)ピシャリと撥ね付けると、田中部長は肩を落とした。
しかし、すぐに顔を上げ、爽やかに笑った。
「わかりました。ならば、私は別の国で商会を立ち上げ、必ず大成功を収めてみせます。そして、この宿の『最高のVIP客』として、またここに戻ってきますよ!」
そう言って、田中部長は晴れやかな顔で宿を去っていった。
数年後、彼が本当にこの世界の物流を牛耳る大商会のトップとなり、毎週のようにこの宿のスイートルームを貸し切る常連客になるのだが、それはまた別の話である。
「……ふぅ。危ないところだった」
俺が安堵のため息を漏らすと、アイリスが不思議そうに俺を覗き込んできた。
『どうしたのナルセ。あんなに慌てて。あの人、事務仕事ができそうだったから、雇えば私の帳簿付けが楽になったのに』
「バカ言うな。あいつを雇ったら、お前なんて真っ先に『女将業務の効率化』とか言われて、エクセル地獄に落とされるぞ」
『えくせる? 何それ、新しい拷問の魔法?』
「……そんなもんだ」
俺は青空を見上げながら、ポヨンと一回跳ねた。
魔王がいて、勇者がいて、テンプレ王子がいて、宇宙人がいる。
そんなカオスな従業員たちとのドタバタな日々のほうが、現代社会のブラック労働に比べれば、何万倍も自由で、温かくて、心地よいのだ。
「さーて。今日の分の俺の仕事(昼寝)を始めるか」
『ちょっと! まだ302号室の四次元ドラゴンの部屋の掃除が終わってないわよ!』
最近音楽いっぱい聞いてます。
朝の光の中でっていうね。
押せッ!!




