八話 舞台上の紺色
翌日の登校時。早朝から雨が降り続いていた。徐々に気温も低くなっており、少し肌寒い。
『午後十六時半、第一講義室に来い』
昨日犬島に指定された時間及び場所を思い出す。
放課後のことを想起して、傘を持つ手が不必要に力む。大丈夫だ。やまない雨はない。分厚い雲の上に光る太陽が、いつか見える時が来る。
そう信じて、俺は昇降口で傘を閉じた。
×
放課後になる頃に雨は止んでいたが、仰ぐ先に雲はどんよりと鎮座して、日光を遮っていた。
第一講義室はA組の隣にあり、二クラス分の広さを有している教室だ。主に選択科目の授業や、校外から来た人の特別授業等を行う場所らしい。一年の俺らはあまり馴染みがない。
ドアの上部に設置された札で場所を再確認をし、足を踏み入れると、そこにはすでに朝長の姿があった。
「あれ、日暮くん? どうしたの?」
「……呼び出されてさ」
「そうなの? 私も、なんだけど……もしかして、犬島さんに?」
「ああ、うん……」
相変わらずぎこちない返答しかできない自分に腹が立つ。歯痒くて、握る拳に不必要に力が入り、手のひらが痛む。
「えー、なんの話だろ……日暮くんって犬島さんと接点とかないよね? 特に私もないんだけど……」
朝長は困ったような苦笑いを浮かべ、毛先だけに少し癖のある髪を触りながらそう言った。俺は部活仲間というバリバリの接点があるわけだが、関係ないので黙っておく。
「……なんでここに」
そこに第三者の声が響いた。入り口を見やると、不機嫌そうに俺を見つめる土谷の姿があった。
「土谷くん? どうして……」
「あー、なんか知らないけど犬島に呼び出されてさ。朝長も……お前もなんでこんなとこにいんだよ」
「私たちも犬島さんに呼び出されたんだよね……」
それきり、会話は途切れた。環境音がやたらとうるさく感じられた。なんとはなしに土谷から、俺に対する嫌悪感が伝わってくるばかりだ。
×
「いつまで待たせるんだ……」
土谷が怒気を隠し切れない声で呟いた。三人が集まってから十数分。犬島はまだ姿を表していない。
「うーん……犬島さんのイタズラだったのかな?」
困ったように苦笑いしつつ朝長が言った。それに呼応するように、土谷が威勢よく口を開く。
「そうだよ! イタズラだよこんなの。早く帰ろうぜ!」
「……多分だけど、彼女はそういうことをするタイプじゃないよ」
帰られそうになったので、俺は反論承知で口を挟んだ。土谷は首を気だるげに曲げ、俺を睥睨する。
俺は臆することなく更に言葉を紡ぐ。
「ここに呼んだのは、なんらかの意図があるはず」
「はあ? 冗談だろ? イタズラだったらどうすんだよ?」
「だから、彼女はそんなイタズラをするような人じゃないよ」
「……お前はあいつの何を知ってんだよ? なんであんなやつのことをそう言い切れる?」
その言葉に、俺は一瞬答えあぐねた。俺は犬島の何を知っているのだろう。
果たして彼女の好きなものは知らない。何を見て、何を聞いて、どんな境遇で育ってきたのか。そして何を考えて生きているのか。大部分を俺は知らないままだ。
しかし、ただ一つ知っていることがある。それは、彼女自身が語った彼女の人生観についてだ。
犬島は自身の人生観において、一般社会における道徳的な行いに対して敬意を払っている。
ここで俺を放置し、笑い物にするような人ではない。俺を、ひいては自身の人生観を蔑ろにするような人ではないのだ。これは断言できる。
「……」
息を吸い込むと同時に足音が鳴った。俺はその時がきたのを察知し、口を閉ざした。それが近づいてくると共にその音は大きくなって、やがて。
夜空のような紺色が現れた。
「んじゃ、とっとと始めるか」
あっけらかんとした物言いと共に、ヒーローのように犬島藁姫は姿を現したのだった。
×
窓の向こう側は未だ曇天が広がっている。室内は仄暗く、蛍光灯の灯りがかえって薄気味悪く感じられるように灯っていた。
「遅れといて謝罪もないのか? 犬島……さんさあ」
流石に呼び捨てにするのは怖いのか、土谷は中途半端な間を用いつつ、到着したばかりの彼女に言葉を浴びせた。
犬島はそれを受けて、明らかに憤った様子で舌打ちをした。
「はあ? そもそもてめえが問題行動を起こさなければこんな煩わしいことしなくて済んだんだよ、うすのろ。脳みそ腐れのゴミクズ」
「……てめえ」
初っ端からフルスロットルで飛ばす犬島に、土谷は相当効いているようだった。キレてくれるのは嬉しいが、話が進まなくなる上に俺と朝長が気まずいから程々にしてほしい。
「二人ともとりあえず落ち着いてくれ」
俺が仲裁しようと声を上げると、土谷が再度こちらを睨んだ。犬島もどこか不満気だった。しょうがないだろ。そうじゃないと殴り合いに発展しそうだもん。
「日暮くんの言う通りだよ、二人とも。えっと、問題行動っていうのは一体……?」
仕切り直すように朝長が、犬島の発した言葉の意味を探ろうとすると、それに土谷も追従した。
「その通り。俺が何かしたってのか? こいつならともかく」
流し目で俺を指し示す彼に苛立ちを覚えつつ、俺は犬島を見る。
「自分の胸に手を当ててみろ、って言いてえが、てめえみたいに頭スカスカだとそれも無理なんだろうな。いいぜ、てめえの悪事を私が言ってやろう」
またも喧嘩を売る犬島に、土谷は歯噛みしたが、その後に紡がれた言葉に彼は、或いは彼女は、絶句した。
「そいつは、先日迷子を届けたという嘘をついている」
「は?……」
「え?……」
それきり、土谷は黙りこくった。朝長も状況を飲み込めず、不安気に彼と犬島とを何度も見比べていた。
刹那の静寂ののち、犬島は朝長に向き直った。
「朝長、お前火曜に妹が迷子になったらしいな」
「う、うん。なんで……え?」
朝長は情報を処理しきれず、困惑しているようだった。犬島は意に介することなく、土谷の虚言を暴き続ける。
「それを届けた奴が私の知り合いでね。その名をAとしよう。Aは、朝長、お前さんとも知り合いだったが、お前に負い目を感じさせたくない……いわば、対等な関係でいたいという思いから、そのことを黙っておくことに決めたんだ。
でも、その功績をそこのカスが横取りした。おかげで思いやりもおじゃんになった。こいつのせいでお前は騙され、Aは心に深い傷を負った」
ところどころ脚色は入っているが概ね合っているお話を、犬島は訥々と語る。
「このカスが自分の性欲に基づく行動を起こさなければ、平穏なまま朝長も、Aも、変わらぬ日々を過ごせたはずだったんだ。なのに、そのカスが全てを台無しにしたんだ」
カス、もとい土谷は動揺したまま、反論しようとするが、口吻を細かく動かすだけで言葉を紡げていなかった。まさか、自分が吐いた嘘をクラスメイトに暴かれるとは思っていなかったのだろう。
「それが、そいつの起こした問題行動、ってやつだ」
犬島の弁論が終わるなり、四人の間に沈黙が生まれ、煩いくらいの静寂が耳鳴りを引き起こす。呼吸をするのも憚られるような空気が漂って、酸素濃度が薄いような心持ちに襲われた。
放課後の教室に似つかわしくない男女四人の光景。青春とは程遠いその鈍重な空気が錘のように四人を縛り付け、動くことを許さなかった。
次に声を発したのは、意外なことに朝長だった。
「……今の話、本当なの?」
裏切られたくない思いと、もし彼が嘘つきだったら、という思いが交錯している。土谷を見つめるその目には、不安と恐怖がないまぜになった感情が、蝋燭にゆらめく炎のように宿っていた。
「嘘ついてたってこと?」
「いや、俺は確かに……」
「ねえ、本当なの?」
静かに、それでも詰問するような感情をはらんだ声で、朝長は毅然と訊ねた。
それきりしばらく土谷は黙っていたのち、ようやく反論する気になったのか、土谷がおもむろに顔を上げ、口を開いた。
「いーや。俺は確かにあの日、迷子を届けた。色々言ってくれたが、証拠はあんのか?」
「証拠?」
「俺が嘘をついてる証拠なんかないだろ? 嫉妬か何か知らないが、俺を嵌めようってわけだろ?」
その返答がもはや嘘をついていると自白しているようなものだったが、証拠云々は確かに言う通りだ。朝長の妹御でも呼べば別だが、この場にそれは存在しない。あるとすれば、客観的証拠にならない俺の証言だけだ。
でも俺は知っている。犬島がそんな詰めの甘さでこんな舞台を用意しないことを。それなしに大見得を切るほど、彼女は馬鹿じゃない。
「……ここで認めたら、私からは何もせず解放するつもりだったけどな」
「はあ? 証拠がないのに認めるバカがどこにいんだよ」
「……貴様の頭の悪さには酷く絶望する。同じヒト科ヒト属であることに怒りすら覚えるよ」
犬島は心底失望し、汚物を見るような表情で、際限なく感情のこもっていない無機質な声で言った。
「もういいや。どうぞ、入ってください」
興味が無くなったように無表情で犬島は呟いたのち、やや後ろに顔をむけてドアの方に、その向こう側に人がいるかのように声を出した。
そしてそこから現れたのは、またも紺色だった。困り顔ではあるが、主婦からの人気がありそうな爽やかな笑顔を浮かべて。
「……えっと、揉めてるところごめんね」
「……は?」
その反応を示したのは誰だっただろうか。
戸の向こうから姿を現したのは——
——あの日迷子を届けた先のお巡りさんだった。




