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五話 犬島は俺の絶望を否定する

 翌日の昼。移動教室の帰りの廊下を歩いていた。昼休み前の音楽はどうにも眠くなってダメだ。楽器を弾く授業であれば別だけど。


 そうして廊下の途中でふと、俺は少しだけ歩む速度を緩める。

 立地上、芸術棟にある音楽室に行くときにはB組の前を通る。毎回とは言わないが、つい俺は朝長の姿を探して、ドアの向こうに視線をやってしまう。


 一のBと書かれた札が貼られた教室の中。カーテンが揺れる窓際に、髪を(なび)かせながら朝長は佇んでいた。彼女は昨日一緒にいたお友達と楽しそうに、何かを話している。その一挙手一投足、身振り手振りの全てが可愛らしい。あの笑顔が見えるだけでもう十分幸せだ。生きる活力が湧き水のようにじゃぶじゃぶと湧いてくる。


 遠巻きに眺めるだけの、俺のそのささやかな幸せの形は、しかし彼女の話に不定形にされた。


「そういえばさ〜、昨日私の妹が迷子になって」


「え、やば! 大丈夫だったの? それ」


 開け放たれたドアからうっすらと聞こえるその声に、俺は思わず足を止めた。あれ、どこかで聞いたような話だな。


 何か引っ掛かる俺を意に介することなく、彼女はその小ぶりな口を動かし続ける。聞き耳を立てるのは行儀が悪いが、それを承知で俺は内耳神経の活動に集中する。


「それがさ〜なんか親切なうちの生徒の人が交番に届けてくれたっぽくて。かっこよくな〜い? 妹もめちゃくちゃ懐いてたらしくて」


 うちの生徒。


「え、メロ。迷子届けてさらに子どもに好かれるとかメロすぎ。絶対かっこいいじゃんそいつ」


 迷子を届けた。


「ね。だから、もし会えたらお礼とかしたいなーって」


「え、誰か分からないの? 名乗ってないのもまじメロい」


 名乗っていない。


 ……俺じゃねえか。え、嘘だろ。


 俺はそこで、昨日あの子に抱いた既視感の正体を捕まえた。あの茶色がかった髪色。あどけない笑顔。その姿は——朝長にそっくりだったのだ。

 まじかよ。え、俺朝長の妹を助けたの? まじかよ。あまりの急展開に脳が処理できてない。じゃああの後交番には朝長のお母さんが現れて……くっそ、残っておけば。ついでに挨拶を済ませておけばよかった。


 いや、今からでも名乗り出ればいいんじゃないか、とも思ったが、しかしそこでジレンマが俺を苛んだ。ここで名乗り出るようなやつ、いわばメロくないんじゃないか?


 いや、そもそも名乗り出たから何になるのだろう。朝長と俺との間にいらぬ貸し借りが発生してしまうだけじゃないか。俺は彼女にそんな、負い目を抱かせるようなことはしたくない。

 俺の欲望風にいえば、彼女とは対等でありたい。

 それに、朝長との関係性は今くらいが丁度いい。日々の隙間に栞を挟むように、彼女が俺の世界に顔を出してくれることが、俺にとっての何よりの幸せだ。

 いやでもなあ。


 ——そうして、優柔な頭でああだこうだ考えていたから。


 俺は、彼女に近づくどす黒い悪意に気が付かなかった。

 見るからにチャラい、金髪の男が二人に接近して。


「それ、多分俺だわ!」


 …………は?



×



 脳内で、いつも聴いている音楽が流れる。


『少女はやがて 手を離れていく 透き通る世界で 心悲しく思いを馳せて それもひっくるめて 僕らは夏』


 耳に入る歌詞が今の俺と重なって、嫌になって止めかけて、それでも頭の中でその音は鳴り続けた。



×



「……そもそも青春の起源とは古代中国まで遡り、当時の春を表した語だ。そこから時は流れ明治時代、とある小説家が……」


 その日の放課後。犬島がご高説を垂れる芸術棟の空き教室。俺はすっかり気力がなくなって、机に突っ伏して自分の爪を眺めていた。少し深爪気味だな。先端の白い部分が少ない。


「……故に、青春ってのは作品の中だけの絵空事に過ぎない……って、聞いてんのか? おーい」


 犬島が話し終えて一区切りつき、俺に意識を向ける。

 やがて、向き合わなければならない残酷な現実が頭を支配しそうになる。俺は慌てて、部屋の彼方此方(あちらこちら)に視線をやる。積まれた段ボール、半分切れている蛍光灯。チョークが少ない黒板……。


「……どうしたってんだウツケ。昨日の今日で随分様子が違えじゃねえか」


 現実逃避の途中に茶々が入る。

 犬島のその問いかけで、考えたくもないのに、そのことを考えてしまう。


 あのチャラ男は名前を土谷といい、どうやら朝長とお近づきになりたいがために嘘をついたらしかった。あいつが名乗り出た時の朝長の喜びようったらもう。


 ……本当は、俺が主観的に見る光景だったはずなのに。第三者視点で見るそれは、あまりにおぞましくて、気持ちが悪くて……その後のことはよく覚えていない。気がついたら今に至っていた。


 何回この考えを抱いただろう。何度目かのそれを終えて、俺はため息をついた。


『彼は嘘をついている。昨日、迷子を届けたのは僕だ!』


 あの場でそう言ったところで、どちらの言い分が信じられるかなんて一目瞭然。周りから信用、信頼されている方の言い分が信じられるに決まってる。


 ぼっちな俺には、どうすることもできないのだ。


 仮にこちらの言い分が信じられたところで、それを証明する必要が出てくる。そのためには朝長を、ひいては朝長の妹も巻き込んで、迷惑をかけてしまう。それは避けたかった。


「別に……犬島には関係ないし」


「関係ない? 馬鹿かてめえは。んな辛気くせえ顔で部室にいられちゃ、こっちにまで被害があんだよ」


 彼女は俺の不貞腐れた態度を見て、イライラを隠さずに言い放ってきた。俺はカバンを手に取って立ち上がる。


「……そうか。じゃあ、出ていくよ。すまなかった」


「は? そうは言ってねえだろ。そもそもこの部屋から勝手に出るんなら、あのノートを……」


「別にもういいよ」


「え……」


 俺は投げやりに返答する。

 諦念がぐるぐると、俺の脳内に渦巻いていた。きっとあれをきっかけに、朝長と土谷は仲良くなるんだろう。さらには付き合い出すかもしれない。美男美女のカップルの成立。めでたしめでたし。その裏で、心を殺された人間がいる以外は、全てがめでたい。


 いや、朝長が誰と恋愛をしようがそれは自由だ。寧ろ、風景に溶け込んでしまうような俺ごときが、そんなふうに断定することすら烏滸がましい。

 しかし、人の功績を横取りするような——ましてやそれが俺の功績——人間とは、仲良くなってほしくない。そんな、嘘をついてまで自分の欲求を優先させるような奴とは。


 でも、俺には手のうちようがない。


 いや、考え方を変えよう。俺が傷つこうが、他の誰かに不利益が生じたわけじゃない。ただ嘘つきが利益を得ただけだ。

 俺以外の人間は、今日も穏やかに日々を送っている。


 よかったじゃないか。朝長の妹を救えて。それだけで、俺はいいんだ。朝長の日常を、朝長の妹の日常を守れただけで、俺があの行動を取った意味は確かにあった。


 だから、その結末がどうなろうが、いいんだ。


「いいわけねえだろボケ。あれが脅迫材料にならねえと私が困んだよ」


 ……人がせっかく気持ちの整理をつけて前を向こうとしてんのに、どうにも邪魔が入るなあ。


 俺は決心して、半ば自暴自棄になりながらぶっきらぼうに言い放つ。


「いいんだよ、もう。俺は……あのノートを広められることよりも、更に大きい絶望を知ったから」


「……」


 あの忌々しいノートを書いた中学時代から、俺は彼女のことを思っていた。クラスの隅っこで誰とも関わっていなかった俺にも、時々話しかけてくれて。ときには図書館で一緒に勉強をしてくれたりもした。もちろん(ほとん)ど俺が教わる側で。少ないかもしれないが、色んな思い出が脳裏によぎる。


 そして、その物語の終焉は、今日の昼休みのあの場面だ。あの廊下で、俺のささやかな日常の幸福は(とこ)しえの眠りについたのだ。


「……何かあったのか?」


 その——少しだけ優しさを含んだような——案じるような問いに答えることもなく、俺は椅子に座り直してなおも思いを馳せる。


 俺の方が先に好きだったのにな。いや、対外的なときにしか使わないが、僕、と改めた方がいいだろうか。BSSに倣うなら。


 脳内で女々しい結論に至って、無言なままの俺に対し、彼女は再度、真顔で口を開く。


「……何があったんだよ。話してみろ」


「……もういいって」


 ああ、しつこい。俺は犬島から顔を逸らして、腕で顔を覆う。ここ数日こんなことばっかりだ。惨めな思いはもうたくさんだ。こんな姿を、これ以上見られたくない。

 俺がどうなろうが、俺が俺自身をどうしようが、犬島には関係ない。


 そう思って、カタツムリのように殻に閉じこもったのに。


「……あのなあ」


 不満げな彼女は俺の元に近づいてきて肩を掴み、むち打ちになりそうなくらいの力で、俺の上半身を強制的に上げた。


「……もういいなんて思ってる奴が、泣くわけねえだろ!!!」


 彼女の叫び声が教室内に木霊した。

 こんな面を見られたくはなかったのに。俺はみっともなく、頬に水滴を滴らせて、彼女に向き直らされた。垂れた大粒の雫に斜陽がきらりと反射して、灯台の単閃光のように光った。



×



 瞑目して頷いたのち、彼女は情報を整理するように口を開いた。


「なるほどねえ……チャラ男にBSSされそうと」


 朝長に想いを寄せていることを知られたくはなかったが、あんな泣き顔を見られた以上、もう恥を気にする必要などない。


「……情けないことにな」


 ことの顛末を一通り話し終えてからティッシュを鼻に当てつつ、さてどんな罵倒の限りを尽くされるかと身構える。こんな惨めな話、犬島からすれば格好の的だ。


 そう思っていたのだが、彼女は眉を八の字にした。


「はあ? 何が情けねえんだよ。お前は立派じゃねえか。迷子を助けた。それだけで十分立派だ。クソなのはその土谷とかいう脳みそチ○コの鼻くそ人間だろ」


 意外にも、彼女は俺を肯定してくれた。ついでに土谷をボロクソにこき下ろしてくれた。だめだ。普段から悪口しか言われてないから追い打ちをかけるように涙が……。


 ていうかなんとなく俺に向ける悪口と土谷に向けられる悪口の質が違うような。あれ、もしかして犬島って結構分かりやすい人間なのか?


 しかし犬島が優しかったのも束の間、彼女はがしがしと頭を掻きながら、不満をぶつけるようにぶつくさと呟く。


「ったく……なんでもっと早く言わねえんだよ」


「言ったところで、何が変わるでもないだろ」


 ぶっきらぼうに俺は本心を告げた。

 犬島が褒めてくれたのは嬉しい。土谷某を貶してくれたのも胸が幾分かはスッとした。が、とはいえ、だ。それで状況が好転するわけじゃない。

 現状朝長の中では、妹を助けたヒーローは土谷で、俺はモブA或いはB、なんだったらMくらいまで行ってるかもしれない。


 だから話したところで無駄だと思ったのだが。


 俺は少し、犬島のことを侮っていたらしい。


「はあああ? お前頭大丈夫か? BSSされた影響で脳にとんでもないデバフかかってんじゃねえの?」


「……うるせえ。余計なお世話だ」


 ずび、と鼻を啜ってから俺は弱々しく反論する。さっき褒められたから少しは見直そうと思ったのにこれだ。しかしその表情から察するに、彼女は彼女なりに考えがあるらしい。


「てめえが入ってる部活はなんだ? 読み上げてみろ」


 そう言いながら、彼女はホワイトボードを握り拳で軽くコツコツと叩いた。

 そこに書かれた五文字を、俺は指示された通り、懇切丁寧に読み上げた。


「青春……否定部……あっ!」


 得意げに笑う彼女の意図するところを察して、俺は目を見開く。


「ふふん、そうだよ。てめえは、私たちは、青春否定部の部員だ」


 彼女の笑みには蔑みもありつつ、どこか優しさがあって。


「青春は悪だ。唾棄すべき存在だ。そんなもんは中指を立てて、否定してやればいいんだよ」

 

 実際に中指を立てるその姿はまるで、航海に出る前の船頭のような頼もしさで。


「否定してやろうじゃねえか。そのチャラ男の思い描く青春をな!」


 彼女は口端を釣り上げて、勇ましくそう言い放つ。窓から吹き抜けてきた風が、彼女の紺色の長髪を揺らめかせた。夜空のような髪の隙間から橙が覗いて、あの幻想的な世界が一瞬にして広がる。

 絶望に満ちていた俺の脳内に、一筋の光明が差し込んだのだった。

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