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最終話 想いは天の川を超えて

 最早見慣れたそのドアを開いて、足を踏み入れた。


 会議机に向かい、数学の青チャートと睨めっこをしている女子と、それを見つめる俺。窓からは夕焼けの光線が差し込んで、室内を橙色に照らしていた。青春否定部と書かれたホワイトボードが置かれた教室の中、皮肉にも青春な光景が映し出されている。


 なんとはなしに、俺は話題を振ってみる。


「秋もそろそろ終わるな」


「てめえの人生みたいにな」


「まだ終わってねえよ……」


 それきり言葉は途切れた。軽く世間話でもしようとするとこれだ。彼女は一瞥もくれずに、紙面上に数式を綴り続けている。


 改めて見ても、彼女の容貌は校内でも群を抜いている。ぱっちりと開かれた目に小ぶりな顔。絵本の中のお姫様がそのまま飛び出してきたかのような端正な顔立ちをしている。主張すべきところははっきりと主張されている華奢な身体も、彼女という存在をより魅力的たらしめている。


 肩まで伸びた髪は夜空のような紺色に染められており、彼女の横暴な性格とは真逆の印象を見た者に与える。金色のピアスを耳に着け、本来はブレザーを着なければいけないのに、水色のパーカーを着てしまっている。

 髪染めもピアスもパーカーも校則で禁止されているというのに、だ。


 その子と相対するもう片方は、ぱさついたショートカット、眠そうな一重瞼といかにもモテそうにない量産型男子。学芸会で木の役とかやらされてそう。これは紛れもない俺、日暮狼夜ひぐれろうやだ。前言撤回。こんなやつじゃ青春にはならないかも。


 しばし言葉を選ぶように、俺は無言で彼女のことを見つめる。彼女がノートにペンを走らせる音だけが、教室内に反響している。この間は叫び声、今日はペンでものを書く音。色んな音色を、この教室はずっと聴いてきたのだろう、なんて思いを馳せてみる。


「……なんだよ?」


 視線に気づいた彼女は手を止め、訝しげに、ともすれば不満げに俺を、そのクリアブルーの瞳で見返してきた。文字を綴るペンの音も止んだ。それを合図として、俺は眼前の校則違反のオンパレード女子、犬島藁姫いぬじまわらびに宣言をする。


「……お前には借りができた。だから、その……」


 言葉を発するにつれ、心臓の鼓動が速くなって、次に考えていた言葉が出てこなくなる。口が言うことを聞かない。伝えたいことは確かにあるのに。


 下流の河川ようなゆったりとした、緩慢な空気が二人の間に流れる。俺がそれきり喋れないせいで、彼女は暇を持て余して髪をいじり出す。


 金管楽器の音、運動部の活発な声。右手の窓から差し込む夕陽。吹き抜ける秋風によって、二人の髪が揺れる。世界の全てが二人のために存在しているかのようだった。ああ、くそ。こうして心の内でだったら、いくらでも饒舌に喋れるのに。


 尚も言葉が出てこず、視線をあちらこちらに泳がせていると、彼女はうざったそうに再度口を開いた。


「なに言い淀んでんだよ? 言いたいことがあるならはっきり言えボンクラ」


 出会ってからまだ四日だというのにこの刺々しい口調も慣れてしまった。いやでもボンクラ呼ばわりはさすがに酷くないか?


 さっきまで緊張していた自分がバカみたいだ。肩の力を抜いたら、すんなり言葉が出てきた。


「ボンクラて……せっかく人が感謝しようとしてんのに、あんさんも空気が読めないねえ」


「はあ? 空気が読めねえのはてめえもだろ。空気どころか英語及び諸外国の言語すらまともに読めねえくせして」


 売り言葉に買い言葉といった感じで、一つ棘を放つたびに十倍になって返ってくる。なんで俺はこんな奴に感謝をしようとしていたんだろう。


 でも、こんなふうに配慮なく振る舞える人でなければ、まだ仮とはいえこんな部活を創設するなんてできない。どれだけ貶されようと、助けてもらったからその恩は返さなければならない。


「……まあいいや。いずれ借りは返すさ」


 ようやく言えた濃度の薄い感謝の言葉に、彼女は眉ひとつ動かさず、ペンの先をこちらに向けて。


「金利はトゴな。ぜってえ返せよ債務者」


 ……やっぱり返さなくてもいいかもしれない。


 俺はため息をついてから、もう一つの用事について、犬島の許可を求めた。


「あ、それとなんだが……少し用事を済ませてきていいか?」


「は? ダメに決まってんだろ。これから部活だっつーのに」


 一瞬で却下されてしまった。想定外の返答に、俺は言葉に詰まってしまう。まずい。このお願いが通らなければ朝長に待ちぼうけを食わせてしまう。

 ただでさえ一悶着あったのに、そんなことを追い討ちでされたら……俺への好感度は地に落ちるだろう。まずい。それだけは避けなければ。


「頼む。これだけは譲れないんだ」


 真摯に頭を下げると、犬島はこめかみに手を当ててため息をついた。


「……はあ。十分で済ませてこい」


 なんだかんだ優しさを持ち合わせていることは、この数日で知っている。計算通りだ。


「ありがとう。それじゃ、行ってくる


 それだけ言い残して、俺は部室を後にした。



×



 この間、土谷と口舌の争いを交わしたピロティの雰囲気は打って変わって華々しくなっていた。放課後のだらりとしたありふれた幸福が、光の粒子となって、空間に煌めいているような気がした。

 その理由たらしめる人物は、恋人を待つかのように、コンクリートに背を預けていた。ちょっとこの表現は気持ち悪いか。訂正訂正。


「ごめん、待たせちゃったかな?」


「ううん。今来たところ」


 俺が言うと、朝長は軽く首を振って、笑みを浮かべて口にした。恋人ですやん。もうこんなん恋人ですやん。生きててよかった。


 ……なんて、ずっと茶化せたらよかったのにな。今回はそうもいかない。胸中に秘めたあれやこれやを、互いに伝え合う必要がある。

 俺は心の中でため息をついた。本来、伝え合う必要なんてなかったのに。


「とりあえず、座ろっか」


「う、うん」


 朝長をベンチに座るように促し、俺は自販機の方に向き直って、飲み物を何か買う素振りを見せる。


 迷った末に、コーヒーのボタンを押した。スマホを所定の場所に当てる。支払い完了の軽快な音が、ぎこちない空気の中で返って皮肉のように反響した。電子決済はこういう時、時間稼ぎができなくて困る。ついでにココアも買った。


 同じベンチに腰掛けてから、俺はそれを手渡した。


「あ、えっと、私に? いいの?」


「うん。手持ち無沙汰だと話しづらいかなって」


「ありがとう……私の好きなの、覚えててくれたんだ」


「……偶然だよ」


「ほら、いつだったか、勉強のお供には、みたいなお話、したじゃん


「あー、あのときかな?」


「その時も日暮くん、コーヒーって言ってたよね」


「うん……そんなこともあったね」


『……』


 なんとはなしに他愛もない話が続いたのち、静寂が二人の間に降りた。その間に、どこかで野良猫が鳴く声が聞こえた。

 心を落ち着かせようと、俺は缶を開けてコーヒーを一口啜る。温かく、心地よい苦味が鼻腔をくすぐった。現実の苦味も、これくらい心地よければ甘んじて受け入れられるのにな。


 朝長もココアを何口か飲んで、一息ついた様子だった。


 ——俺は覚悟を決めて核心に触れようと、接着剤でつけられたかのように重い口を開いた。


「……えっと」


「……日暮くん。私から話していいかな」


 やっとこさ発せられた俺のフィラーを遮断して、彼女は問うてきた。断る理由なんてないので、俺は相槌を返す。


「……うん」


 しばらく沈黙が続いたのち、意を決したように朝長は喋り始めた。


「その……その件はありがとう。妹もすごく喜んでて、お母さんも本当に感謝してた。だから、お礼が言いたくて。本当にありがとう」


「……うん」


「……それと……ごめんね、日暮くん」


 その謝罪に、俺は見上げてから目線を下に落とした。本来なら、こんなやりとりは発生しないはずだった。土谷が悪いのは前提だが、俺の行動次第では、彼女をそんな思いにさせずに済んだのに。後悔が消えない傷を脳に刻みつけた。


「……朝長さんが謝ることじゃないよ」


「でも……私がちゃんとして、れば……」


 そこで、朝長は言葉に詰まり始めた。かけるべき言葉がこの凝り固まった頭では分からなくて、俺は無言のまま何も言えなかった。コーヒーの缶を握る手に力が不必要に加わって凹む。


「あはは、ごめん。大丈夫かなあ、って思ったんだけど、や、っぱダメ、だ……」


 彼女の方を直視はしないが、声色や息遣いから察するに、きっとその頬には涙滴が幾つも滴っている。


 俺は鞄をガサゴソと探り、未開封のポケットティッシュを見つけ、それを朝長の方に、直視せずに渡した。


「……落ち着いて。大丈夫。大丈夫。どれだけ言葉に詰まっても、全部、全部聞くから。大丈夫だよ」

 

 少しでも彼女が安らげるように、そんな言葉をかけながら。

 彼女は小さく礼を言ってそれを受け取り、何枚か引き抜く。そして、俺はまた似たような台詞を口にする。


「……何度だって言うけど……朝長さんのせいじゃないよ。僕は……朝長さんの妹を助けられて、朝長さんの日常を守れて、それだけでもう十分だから」


「……ありがとうね。でもごめん。止まんないや。なんでかなー……」


「……むしろ僕の方こそ、もっと早く言うべきだった。そしたら朝長さんに……そんな思いをさせずに済んだのに」


「それは違うよ! 日暮くんは……」


「……朝長さんが傷ついたのが、何よりも僕は悔しい。僕がちゃんとしていれば……」


「……ううん。日暮くんのせいじゃないよ。なんで、そんなに……日暮くんは優しいの?」


 彼女の問いかけに、俺は何も答えないまま、コーヒーを一口飲んだ。


「日暮くんだって、傷ついたはずなのに、なんで……」


 色づいた木々の隙間から、少しばかり寒気を誘う秋風が吹きつけた。二人の間に漂う微妙な空気も攫っていってくれればいいのにと思いながら、問いに対する回答を精一杯考える。


 どうして、俺は。


「どうして、そんなに私に……」


 いや、考える必要なんかなくて。


 そんなの、分かりきっていることだ。


「……聞いてくれるかな」


 俺は彼女の方を見ず、正面に目を据えて呟いた。返答がないのを肯定と断定して、俺は訥々《とつとつ》と語り始める。


 俺の、すべてについて。


「朝長さんは……僕と唯一話してくれた存在だから。僕の孤独をずっと、その優しさでかき消してくれてたんだよ。だから……」


 俺はそこでようやく重い腰を上げて立ち上がり、朝長の前まで移動して及び腰になった。


「だからこれは、僕にとって、当然のことなんだ」


「……でも、私何もしてない……」


「それは朝長さんの思い込みだよ。話しかけてくれるだけで、僕からすればさ……それこそ、それが生きる意味になるくらいに、僕の中では色んなものを貰ってきたんだ」


「日暮くん……」


 羞恥心をかなぐり捨て、俺は朝長に向き合った。彼女の長い睫毛は涙で濡れており、夕陽がそれを反射して、天の川のように煌めかせていた。織姫と彦星は向かい合ったまま、二人の間に生まれた天の川を挟んで、見つめ合う。その先の瞳に、互いはどう映っているだろうか。


 空間も、時間も、視覚以外の四つの感覚も、全てが隔絶されたかのような世界で、数秒間視線を重ねる二人。紅をさしたように色づく朝長の頬。自分が隠し続けていた感情が待ち侘びたように動き出すのを感じた。きっと、この感情は今は口にするべきではないはずだ。


 でも、もう朝長との関係性は以前のままではなくなった。少しだけ、少しだけではあるが、しかし決定的に、俺の望む関係から変わってしまった。そして、それは時と同じく不可逆だ。


 だったら。


 それなら、これ以上関係が変わっても、そこに問題なんか生まれないんじゃないだろうか。脳内で決定づけられた、心の奥底の奥底に眠らせ続けていたはずの本心が寝床から起き上がってきて、無意識のうちに声帯を震わせる。


「あのさ、朝長」


「……うん」


 鼓動が早まる。冷や汗が滲む。声が小刻みに震えるのは武者震いのせいだろうか。


「僕……いや、俺は!」




「ちぇええええええすとおおおおおお!!!!!!」




 人っ子一人分が走る音と地鳴りのような声が鳴り響き、突如として俺の横腹に飛び蹴りが喰らわされた。自分が置かれた状況が飲み込めず、俺はその力のなすがまま、吹っ飛ばされた。


 ただ一つ分かるのは、その声がここ数日で聞き馴染んだ、透明感のあるあの声だったということだけだ。



×



 ズキズキと痛む横腹。背中には硬い感触がある。視線の先には純然たる空が縹緲と、どこまでも広がっていた。寝っ転がっているらしい。視界の端に見慣れた高校があることから、異世界転生はしていないことは確認できた。俺は上半身を起こす。


 どうやら衝撃でピロティから抜けた先の階段を転げ落ちたらしい。近くにいる見慣れたその子を見れば、あのとき彼女に飛び蹴りを喰らったのだと、ことのあらましを把握できる。理解も納得もできないが。


 紺色、パーカー、金色のピアス。校則違反のオンパレード。

 そして、空のようなクリアブルーの瞳。その姿を、俺が忘れるはずがない。


「犬島、なんで……」


 先刻別れを告げたはずの犬島が座り込んでいた。彼女は意気揚々と鼻を鳴らし、あっけらかんとした感じで俺に向き直った。


「おうウツケ」


「ど、どういうことだよ! いきなり蹴り付けてくるとか」


 俺は状況が飲み込めず頭を抱える。確かにさっきまで、俺は朝長と話をしていて、なんか結構いい感じな雰囲気になっていて。そこに飛び蹴り? もう意味がわかんねえ。この女、ぶちのめしたろうか。


「もしかしたら、その……いい感じになったかもしんないのに」


 言葉を濁しつつ抗議すると。


「だからだよ、ボケ」


「は、はあ?」


「まだわかんねえのか?」


 犬島は満面の笑みで、俺に言い放った。


「青春否定部として、青春を否定してやっただけだ。文句あっか?」


「は……」


 俺はそのとき、全てを理解して背を投げた。硬い地面が、今なお痛む横腹に衝撃を与え、ズキンと痛んだ。そしてため息を一つついてから、


「……はは……んだよそれ……」


 ——俺は苦笑いしながら、青春否定部なんて否定されて当然だと、いつだかの俺に今更同意するのだった。


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