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110話 観測開始:5年19日目-1 / 商人の福眼

 ベッドの上に身を乗り出したアリシアが、不思議そうに首を傾げた。


「キーシュくん、おねぼうさん?」


「ううん。体調が悪かったからみたいだから、仕方ないの」


 静かな寝息を立てているキーシュの身体は、使用人たちの手によって汚れが落とされている。

 すでにお昼が近い時間だが、少年が目覚める気配は依然としてない。

 急遽用意された簡素な客室。

 アリシアは小声で「おきてー、あさだよー」と囁きながら、キーシュの頬を指先でつついた。


「起こしたら可哀そうよ。寝かせてあげないと」


「うん。……おきてー」


「もう、駄目だってば」


 どこか心配そうにキーシュを見守るアリシアに、エデンはまあいいかと振り返った。

 客室の調度品は最低限だが、それでも清潔感に満ちている。

 対面式のソファに座り、険しい表情で足を組んでいるダリヤへとエデンは歩み寄った。


「ダリヤ。貧民街について悩んでいるのですか?」


「ん……まあ、そうなんだけど」


 ダリヤの視線が、目の前でテーブルに雑多な物を並べているオスカーからエデンへと移った。


「何か出来ることがないか、考えてみたんだけど……正直に言って、今のうちの財政状況はかなり厳しいのよ」


「そうなのですか? ネストは活気ある街に見えますが」


 エデンがダリヤの隣に腰掛けると、彼女は重い溜息と共に頷いた。


「ネストはね、魔物が多く危険な土地だから。防衛設備の維持費や職人たちへの援助、それに冒険者ギルドへの依頼費用とか何かとお金がかかるのよ。……それと、鉱山の稼働が数ヶ月止まってるから」


「なるほど。具体的な数値は分かりませんが、状況は理解しました」


「炊き出しくらいならと思ったんだけど、やるなら子供だけじゃない。貧民街の住民に向けてやらないといけないでしょう? けれど、どれだけの人がいるか把握できていないし、それに……」


「それに?」


「……納税している市民の理解を得られるか分からない。子供たちはかわいそうだけど、あそこに住む者たちの中には、当然悪人も大勢潜んでいるから。そんな彼らに、税を使って施しをするの?」


「それは……確かに、反発を招く可能性が高いですね」


 もしギズーのような男に自分たちの血税が使われると聞けば、エデンとて納得はできないだろう。


「それに、一度だけの炊き出しには意味がない。継続させるにも、お金がね……」


「身寄りのない子供を保護するような施設はないのですか?」


「以前はセレーネ教が運営していた孤児院があったんだけど。もう何年も前に引き払ってしまったわ」


「セレーネ教……宗教組織、ですか」


「知らない? 聖都オリビアを聖地とする宗教国家、聖国オルレインの国教よ。とはいっても、信徒は世界中にいるけどね」


「聖国、ですか」


 そういえば、レイラは美しい都だと言っていた。いつか、この目で見ることもあるのだろうか。

 エデンの思考が横に逸れると、作業を終えたオスカーが微笑みながら顔を上げた。


「ほっほ。ダリヤ様。少々、悪い癖が出ておりますぞ」


「ん。……そうね、そうだったわ」


 意味が分からずエデンが首を傾げると、老執事は楽しそうに目を細めた。


「できない理由ばかりを並べるのは、思考を停止した愚者の考えですな。街の発展とは、常に今できる最善の積み重ねでございます」


「ええ。……もう少し、考えてみるわ」


「それがよろしいです。……ところで」


 オスカーの老獪な瞳が、探るようにエデンへと向けられた。


「いかがでしょう、エデン様。何か思いつかれたことはございませんか?」


 その期待するような眼差しに、エデンは思わず身体を固くした。

 昨晩、どうしても気になってしまい、貧民街の子供たちの映像を繰り返し再生していたのは事実だ。


「……そう、ですね……案がないわけでは、ないのですが……」


「ほほう? ぜひ、拝聴したいものですな」


「えっ!? なに、何を思いついたの?」


 食いつくダリヤに、エデンは自信なさげに視線を落とした。


「いえ、ですがこれは……あまりに突拍子もない案で。それに、私一人で出来るようなことでもありませんし……」


 エデンが言葉を濁すと、オスカーは再び笑いながら顎髭を撫でた。


「何をおっしゃる。一人で成せることなど、誰であっても高が知れております。周りを頼りなされ」


「そうよ。私だって、リリカやオスカーには助けてもらってるわ」


「そ、そう、でしょうか」


「それで、どんな案なの?」


 前のめりになったダリヤに、エデンは悩むように瞼を閉じた。

 その時、ベッドがもぞりと動き、傍らにいたアリシアが声を上げた。


「あ、おねえちゃん! キーシュくんおきた! おきたよ!」


「……無理やり起こしてない?」


「してないもん!」


 エデンが駆け寄ると、キーシュが焦点の定まらない瞳を彷徨わせていた。


「ん、んん……ここ、どこ?」


「おはよう!」


「……おはよ、う? ……あれ、なんで君が?」


 ゆっくりと身体を起こしたキーシュが、酷く眠そうな目でアリシアを見つめる。

 ダリヤもベッドの傍らへと歩み寄り、落ち着いた声で少年に語りかけた。


「おはよう。昨晩のこと、覚えているかしら? モニカがね、意識を失っていたあなたをここまで連れてきたのよ」


「……あー……」


 キーシュの視線が、アリシアからゆっくりとダリヤへとスライドしていく。

 その目が彼女を捉えると、数秒の間を置いて、彼の瞳が見開かれた。


「えっ! あ、き、貴族の子!?」


「ダリヤ・エルネストよ。落ち着きなさい」


「なに、取って食いやしませんぞ。それより、加減はいかがかな?」


 キーシュをオスカーが宥めると、タイミングよく扉が開き、リリカが食欲をそそる香りを漂わせるワゴンを押して入室した。

 立ち上るスープの匂いに、キーシュの目が釘付けになる。

 

「お話は後にしましょう。まずは栄養の摂取が最優先ですな。医者には、栄養失調と診断されましたので」


「え……? た、食べて、いいの?」


「はい。キーシュさんの為に用意したものです。遠慮なさらず、召し上がってください。熱いので、お気をつけて」


 リリカが流れるような所作で、ベッドの上でも食事が取れるようセッティングを進めていく。

 その光景を、キーシュは呆然と口を開けて眺めていた。


「ど、どうして? 僕、何かしたっけ?」


「いいから食べなさい。確認しないといけない事はあるけれど。とにかく、食べちゃいなさい」


「う、は、はい」


 震える手で、キーシュがスープを一口、おずおずと口へ運ぶ。

 すると、「あつっ!?」と驚いた拍子に、スープをこぼしてしまう。


「ご、ごめんなさい! よ、汚しちゃって」


 謝罪するその顔には、失態を犯したことへの恐怖が張り付いている。

 その怯えを察したのか、ダリヤは軽やかに笑うと、一歩前に出た。

 

「いいのよ。少しずつ食べるといいわ。火傷しないようにね」


「ねえねえ、アリシア、ふーふーしてあげよっか!?」


「アリシア。ほら、ご飯の邪魔になっちゃうから、私たちはソファに行きましょう」


 エデンがアリシアの手を引いて離れようとすると、キーシュがスプーンを置いた。


「あ、あの……みんなはどこ? みんなも、同じの食べてるの?」 


「……いいえ。ここにいるのはあなた一人よ。けれど、あなたが食べないとその食事は無駄になるから。……しっかり、食べなさい」


 ダリヤが告げた事実に、キーシュは顔を曇らせた。

 それでも彼の手はもう一度スプーンを掴み、零さないように慎重にスープを口に運ぶ。


「……おいしい」


 ぽつりと呟きながら、もう一口と手を動かす。

 それきり無言で食べ続ける彼を見つめ、アリシアは首を傾げた。


「……おいしいのに、なんで泣いてるの?」


「それは……どうして、だろ?」

 

 エデンもキーシュを見つめながら、同じように首を傾げた。

 

 

  *********



「ど、銅貨十枚、です」


「八枚だと思う!」


 オスカーが差し出した白磁の花瓶。

 キーシュが震える声で話すその横で、アリシアが手を上げている。

 

「アリシア、しーっ」


「では、こちらは?」


 次々と示される品に対し、キーシュはこわごわと少しだけ見つめると、迷うことなく金額を答えていく。

 そして最後、オスカーはテーブルに三本のワインを並べた。ラベルも形状も、全く同じ銘柄だ。


「では、こちらはそれぞれいくらですかな?」


「え、えっと……右のは、銀貨三枚だけど……真ん中が四枚で、左のは……銀貨十二枚?」


「ほお」


 その返答に、オスカーが感心したように顎に手を添えた。

 エデンもなるほどと頷いていると、アリシアが顔を寄せて囁いてきた。


「ねえねえ、なんでちがうの? ぜんぶ同じのだよ?」


「左のはたぶん、作られた時期が違うんだと思う。コルクの状態が新しい物には見えないから」


「エデン様のおっしゃる通り、こちらのワインは十年熟成された品ですな」


「おー……? じゃあ、右のは?」


「……どうしてだろう?」


 エデンとアリシアが首を傾げる。見た目上の劣化も、ラベルの剥がれもない。

 オスカーは悪戯っぽく目を細めると、右の瓶をひょいと持ち上げた。


「ほっほ。実はこちら、一度開栓しているのですよ」


「なるほど。商品としての価値が落ちたのですね」


「えーっ! そんなのずるい! 分かんないよ!」


「ふふ、ごめんねアリシア。これはべつにクイズではないからね」


 ダリヤもどこかおかしそうに笑う傍らで、オスカーの手が年代物のワインをキーシュの前に出した。


「では、キーシュ殿。こちらのワイン、ネストではいくらで売られていますかな?」


「……え? し、知らない、ですけど」


「ふむ。では、王都での値段は、分かりますか?」


「お、同じじゃないの?」


 おどおどと答えるキーシュに、オスカーは微笑みながら一枚の紙を出した。


「ここにエルネストの家紋が入った契約書があります。まだ署名が入っていないため、手続きは済んでおりません。ダリヤ様」


 手渡された書類を、ダリヤの瞳がさらっと撫でた。


「……指定のワインを、一本銅貨一枚で売買することとする? ああ、なるほど」


 その場でダリヤの手が、サラサラと綺麗な文字を書き連ねる。

 その内容をオスカーが再度読み上げた上で、もう一度尋ねた。


「キーシュ殿。今のあなたには、このワインはいくらに見えますかな?」


「ぎ、銀貨十二枚だけど……う、嘘ついてないよ! 本当に、そう見えるんだから!」


「いえ、素晴らしいですぞ。キーシュ殿の眼は、物本来の価値を捉えております」


「そうね。……ちょっと、融通が効かないかもしれないけど」


「なんとも、有意義なスキルですね」


「……キーシュくん、すごいの?」


「ええ。非常に稀なギフトスキルですな」


 断定したオスカーに、ダリヤも力強く頷いた。


「おねえちゃん、どういうこと?」


「物の値段はね、場所や条件で変わることがあるの」


「あー、うん?」


「ほら、ルルが一個銅貨二枚だったのに、二個なら銅貨三枚で買えたでしょう? キーシュさんの目はそれに影響されないってこと」


「ふーん?」


「……ええっとね……」


 どう伝えたらアリシアも理解できるかとエデンが悩んでいると、オスカーが穏やかな視線をキーシュへと送った。


「よろしければ、ギフトスキルの名称をお聞きしても?」


「え、あ、うん……商人の福眼ハンデリン。……モニカとルークには、絶対に誰にも言うなって言われてたけど……」


「ふむ。賢明な判断ですな。さて……」


 オスカーがダリヤへ顔を向けると、ダリヤは佇まいを直し、真剣な眼差しでまっすぐにキーシュを見つめた。


「キーシュ。モニカがあなたを連れて来た時、彼女に頼まれたの。あなたをうちで雇って欲しいって」


「……え?」


「正直に言うわ。あなたのその力を、私たちは欲しているの。……だから、どうかしら。エルネスト家で働いてみない?」


 唐突なスカウトに、キーシュは言葉を失って固まった。

 オスカーが畳み掛けるように、彼の肩に手を伸ばした。


「決して、楽な訳ではありませんぞ。学ばねばならないことも山ほどあります」


「おー! キーシュくん、良かったね!」


 これで、キーシュは貧民街を離れて落ち着いた生活を送ることが出来る。

 しかし、オスカーが続けた一言で、キーシュの顔色が変わった。


「生活は、この屋敷で安全に過ごしていただけます」


「え、あ……」


「そう、ね。……貧民街に戻すわけには、いかないから」


「な、なんで?」

 

「あなたの眼、貧民街でバレたらすぐ攫われるわよ」


「左様ですな。最初は慣れないかもしれませんが、しばらく経てば――」


「い、嫌だ!」


 キーシュの身体が、弾かれたように立ち上がる。


「か、帰る! 僕、帰るよ!」

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