109話 観測開始:5年18日目-9 / ギズーの最期
ネストの街でも指折りの高級宿、その一室。
傾けられていたグラスが乱暴にテーブルへ叩きつけられ、跳ねた琥珀色の酒が、それを握る男の手を汚す。
「くそっ! なんであのガキが無事でいやがんだ!」
「がはは。随分と荒れてるじゃねえか、ピゴット」
「っ黙れザッハ! あの男、腕が立つと聞いてたがとんだ雑魚じゃねえか!」
どこかへ消息を絶った顔を思い浮かべながら、商人のピゴットが毒づく。
その醜態を、ソファで踏んぞり返ったザッハが、不機嫌そうに鼻で笑った。
「ヴァイスだったか? まあ、いなくなっちまったもんはしょうがねえ。それより、あの貴族のガキはどうすんだ?」
「知るか! あんな小娘、ロンメーヌ様の企てじゃないんだ。……どうでもいいんだよ!」
ピゴットは震える手でデキャンタを掴むと、空になったグラスになみなみと酒を注いだ。
そのグラスの向こう側で、ザッハが獣のような瞳で彼を射抜く。
「おい、ピゴット。儲かる話だから乗ってやったんだぜ。……もし、これでおじゃんだってんなら――」
「な、な……っ。も、問題はない! 落ち着きたまえ」
ピゴットは背中に嫌な汗が伝うのを感じながら、緊張を押し殺すように酒を一気に煽った。
「予定通り、主な薬師の引き抜きには成功した。あとは残っている工房だが」
「ああ。殺っちまっていいんだろ?」
「確認が済んでからだがな」
ピゴットは満足げに笑みを浮かべ、顎を撫でた。
「回復薬の供給が絶たれたところで、我が商会から高額で売りつける。わざわざこんな辺境まで届けてやるのだ。対価として鉱山の利権、その半分を条件に引き受けよう」
「……まどろっこしいな。直接奪い取っちまえばいいじゃねえか」
「馬鹿言うな。鉱脈は領境に近いが……あんな危険な場所。維持するだけで一苦労だ」
「へー、そうかよ」
ザッハが興味なさそうに吐き捨てると、テーブルの酒瓶をひったくり、らっぱ飲みで豪快に中身を胃へ流し込んだ。
「あっ、貴様! それは年代物だぞ!」
ピゴットは声を荒らげるが、ゲップと共に空になった瓶を突き返された。
「報酬は前金の三倍だ。てめえ、裏切ったら分かってんだろうな」
「も、もちろんだとも! 商人は信頼の仕事、前金も滞りなく支払っただろう!」
「ハッ、この街を荒らそうとしてる野郎が、信頼を語るのかよ。傑作だぜ」
ザッハの歪んだ嘲笑に、ピゴットは汚物を見るような目を向け、フンと鼻を鳴らした。
「こんな田舎、魔物の防波堤程度にしか役に立たん」
「あ?」
「だが、田舎者に金は不要だろう? ただでさえ、資源が多く魔物の素材で潤う土地だ。鉱山までも独占しようとするのは、増長が過ぎるとロンメーヌ様が仰せでな」
「あー、そうかい。……知らねえけど。それより酒が足りねえ」
「あ、おい待て! 高い酒なんだぞ!」
ザッハが席を立ち、棚にある未開封ボトルへ手を伸ばす。
その時、部屋の扉が丁寧にノックされた。
「……誰だ?」
「知らん。おい、出てきてくれ」
「あ? ……ったく、俺はてめえの召使じゃねえぞ」
悪態を吐きながらも、ザッハが扉へと歩み寄り、乱暴にそれを引き開けた。
そこに立っていたのは、背筋を真っ直ぐに伸ばし佇む老紳士。
武装した数名の騎士を影に従えたオスカーだった。
「……誰だ?」
「夜分に失礼いたしますな。私、エルネスト家で執事長を務めております、オスカーと申します。ピゴット殿に、少々お話しがありましてな」
「あー……おいピゴット。客だ」
部屋に招き入れられたわけでもないのに、オスカーは流れるような動作で室内へ足を踏み入れた。
ピゴットは座ったままオスカーを一瞥すると、ニタニタと見下すような笑みを浮かべる。
「おや? オスカー殿、こんな夜更けにわざわざ足を運ばれるとは。もしや昼間の商談について、首を縦に振る気になられましたか?」
「いいえ。あのような条件では、何度来られても返事は変わりませんな」
淡々と、そして冷徹に返された拒絶。
「……なら、一体何の用です。私は忙しいのだが」
「左様で。では単刀直入に。お会いいただきたい者がおりましてな」
オスカーが部屋の外に控える騎士へと、指先で合図を送る。
直後、騎士たちに引きずられ、一人の男が室内へ投げ込まれた。
「……う、あ……あ……」
床に転がされたのは、体中が汗と血にまみれ、意識も混濁としているギズー。
騎士の一人が髪を乱暴に掴み上げ、その顔をピゴットの正面へ晒す。
「ピゴット殿。この顔に見覚えはございますかな?」
オスカーの低く、静かな声が部屋の温度を一段下げる。
ピゴットは露骨に顔を顰め、ハンカチで鼻を覆った。
「……。なんだその汚らわしい男は? 私は知らん」
「左様ですか。ですが、この男は違うようですぞ」
オスカーはギズーの傍らに屈み込むと、その汚れた頬を鷲掴みにした。
「さて、先ほどした内容、もう一度この御方に聞かせて差し上げなさい」
「あ……あの、男だ! こいつ、らが……ガキを攫う、話し、てた!」
「おい、クソ爺。そんな死に損ないのたわ言、まさか信じてねえよな」
「いいえ。罪人の妄言ですからな。確認に来ただけです」
「だったら――」
「おい、ザッハ。下がりなさい」
オスカーに詰め寄ろうとしたザッハを、ピゴットが慌てて制止する。
そして懐から金細工が施された指輪を取り出した。
「私はロンメーヌ伯爵家御用達の商人でございます。まさか、エルネスト家はこの私を、ひいてはロンメーヌ様を疑うというのですか?」
誇らしげに掲げられた紋章入りの指輪。
それをオスカーは感情の読めない瞳で見つめると、ゆっくりと立ち上がった。
「もちろん、疑ってなどおりませんとも」
「はっはっは。そうだろう!」
「ですが我が主、エルネスト家を……随分と見誤っている愚か者が街に入り込んでいるようでしてな」
オスカーが静かに手を挙げた。
――次の瞬間。
騎士が剣を抜き放ち、鈍い音と共にギズーの首が床を転がった。
切断面から溢れ出した鮮血が絨毯を黒く染め、むせ返るような鉄の臭いが部屋を支配する。
「もう、そのような勘違いをする者はいないと願いたいのですが。いかがでしょうかな?」
「お……あ」
ピゴットは顔面を蒼白にし、溢れ出す吐気を抑えるように口元をハンカチで押さえた。
ザッハもつまらなそうに視線を逸らしてしまう。
オスカーは二人の反応を確認すると、騎士に死体を運ぶように指示を出した。
「いやはや、夜分に失礼いたしましたな。床が汚れてしまったので、部屋を移られるのがよろしいかと」
「お、おい……!」
何事もなかったかのように、悠然と立ち去ろうとするオスカーの背中に、ザッハが反射的に呼びかける。
オスカーは部屋の外で一度だけ立ち止まると、部屋の中を一瞥した。
「それでは、穏やかな良い夜を」
それだけ告げると、静かに扉が閉ざされた。




