第16話 「 黒衣の少女 」
朝の光はまだ冷たく、風もどこか眠たげだった。
湿った土の匂いがかすかに残る道端で、苑里は黙って澪の隣に立っていた。
「 .....身体は大丈夫か? 」
その問いに、澪はふと目を細め、すぐに小さく笑ってみせた。
「 あぁ、大丈夫。それより──昨日の続きを話そうか 」
苑里が頷くと、澪は遠くの山を見上げた。
少しだけ肩が震えたのは、朝の冷気のせいか、それとも。
「 場所は、ここから少し走った高い山の上。....登るのは、ちょっとした運動だったかな 」
冗談めかした口ぶりとは裏腹に、澪の目はどこか鋭さを帯びていた。
「 そいつは、現れてすぐに言ったの。“ ほんの少しか ”って 」
苑里の表情がわずかに曇る。
「 それが何を意味してたのかは分からない。けど...あの後すぐに、一撃を加えてきて、それで姿を消したの 」
澪は、自分の腕に巻かれた包帯を一瞥した。
染みついた乾いた血は、夜の間に色褪せていた。
「 .....殺す気はなかったと思う。力を抜いてた。多分、試されただけ 」
「 試された? 」
「 うん、そんな気がした。....あれは、敵っていうより.....何か別の、もっと面倒な何かかもしれない 」
苑里は黙って聞いていたが、しばらくしてぽつりと呟く。
「 “ ほんの少し ”...何のことだ 」
「 分からない。でも──あの目は、私たちのことをよく知ってるようだった。まるで.....前から見ていたみたいに 」
言い終えたあと、澪は目を伏せる。
その沈黙に、風の音だけが入り込んだ。
「 .....まるで、前から見ていたみたいに 」
澪がそう言い終えた直後、控えめなインターホンの音が部屋に響いた。
空気が一瞬で現実に引き戻される。
「 あ、アサギさんたちが帰ってきたみたいなので、ちょっと行ってきますね 」
ぱっと立ち上がったのは紬だった。少しほっとした表情でドアの方へ向かおうとする。
だが、その背に向けて、安都が低い声で呼び止めた。
「 待って。....もしかしたら、神蝶かもしれない。私が行きます。私が合図したら、みんなは逃げて 」
その言葉に、場が一瞬凍る。
確かに今は、誰が来てもおかしくない状況だ。紬が立ち止まると、澪が口を開いた。
「 いや、大丈夫。私が行k── 」
ドンッ!
言いかけた瞬間、床が揺れた。まるで地震のような突発的な衝撃が、建物全体を軋ませる。
「 っ!? 」
「 な、何っ!? 」
みんなが身構えた直後、今度は下の階から明らかに人為的な大音響が響いた。
床の下、まさに真下から──
「 何事だ! 」
久遠が立ち上がりざまに声を上げる。
その直後。
「 なーんだ。澪、起きてるじゃん! 」
あまりに陽気な、場違いとも思える声が、下の階から飛んできた。
そして、ドドドドッ!と軽快な足音が階段を駆け上がってくる。
近づいてくるその音に、誰もが固唾を呑む。
全員が目を向ける中、現れたのは──
一回り大きな黒い服をまとった少女だった。
そのだぼついた服を軽やかに着こなし、無防備なほどに堂々とした足取り。
けれど、次の瞬間。
「 ....ん、何だお前ら 」
吐き捨てるような一言と同時に、少女の全身から殺気が放たれた。
久遠と安都が、まるで反射のように動く。
どちらも無言で構えを取り、気配が一瞬で変わる。
その気配に、俺も思わず息を呑んだ。
だが、少女の姿を目にした澪が──
ベッドから勢いよく飛び起きた。
「 ノアー!会いたかったー! 」
放たれていた殺気がまるで嘘だったかのように、少女は笑顔で駆け寄ると、そのまま澪に抱きついた。
まるで再会を待ちわびていたかのように。
けれど、澪はそれをすぐに押し返し、ひとつ息をついてから一歩後ろへ下がった。
「 ノア、一応私以外の子たちからすると“あなたこそ誰”って思われてるわよ..... 」
「 ──あっ、確かに.... 」
ノアは照れたように笑うと、くるりと勢いよく振り返り、こちらを見て頭を下げた。
「 私はノア。澪の友達。一応、神逐の副総長。...まぁ仲良くするつもりではあるよ 」
「 え、神逐の副総長.....!? 」
俺以外の皆が、一斉に声を上げ、唖然とした顔を浮かべた。
その反応に、ノアはうんざりしたようにため息をついて、ぼそりと呟く。
「 そんなに叫ぶなよ、鬱陶しい.... 」
さっきまでの殺気は嘘みたいに消えていたが──
とんでもなく厄介そうなやつが現れた、という実感だけが、じわじわと胸に染みてきた。
ノアは腕を軽く組んだまま、再び澪の方を振り返った。
「 ねぇ、澪。この子たちって、どれくらい強いの? 」
唐突な問いかけに、場が少しざわつく。
澪は特に驚いた様子も見せず、さらっと答えた。
「 .....神蝶の第什部隊に勝ったくらいだから、結構だね 」
「 ふーん 」
ノアは目を細めて、しばらく何かを考えるように黙り込んだ。
そして、ほんの数秒後。
「 澪....私、この子たちと戦ってみたい 」
それは、あまりにも自然な口調だった。
日常の延長線上みたいな感じで、爆弾を落とす。
「 は、えっ...? 」
碧が目を丸くして声を上げる。
「 神逐の副総長と!?いやいやいや、勝機ないって! 」
完全に引き気味の碧に対し、ノアは露骨に眉をしかめ、ため息をついた。
「 はぁ....謙虚かよ。面倒..... 」
その苛立った声に、碧がさらに肩をすくめた。
場の空気が一気に張り詰める。
ノアはちらりと澪に視線をやり、周囲を見回した。
「 ここじゃ澪に迷惑だな。.....場所を変えよう 」
軽い調子でそう言うと、彼女は先に歩き出す。俺たちは顔を見合わせたあと、無言で後を追った。
向かった先は、少し離れた丘の上。見晴らしはいいが、身を隠すものは何もない。
ノアはそこで立ち止まり、振り返った。
そして、ゆっくりと構える。その姿は、どこまでも堂々としていて、挑発的ですらあった。
「 お前ら、全員でかかってこい 」
短い言葉が、風を切った。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる感覚がした。
碧が小さく息を呑むのが、隣でわかった。
「 ....こうなったら、やるしかないな 」
久遠が、低く呟いた。
そのまま懐からナイフを抜き放ち、無駄のない動きで駆け出す。
一直線に、ノアへ向かって──
「 はぁ...なんでそんなに真っ直ぐ攻めるかなぁ..... 」
その声は、あくまで退屈そうで。
次の瞬間、ノアの姿が視界から消えた。
いや──違う。飛んだんだ。
「 っな──!? 」
思わず声が漏れた。見上げれば、ノアは垂直に15メートル近く跳躍していた。
ありえない。そんな高さ、常識じゃない。
「 高すぎだろっ!? 」
碧が叫ぶ。だが久遠は止まらない。
地面を蹴り、膝に力を溜め──次の瞬間、彼もまた跳び上がった。
ノアを追うように、空へ。
「 ....跳躍力ないなぁ。大した修行もしてない... 」
空中で交差する瞬間、ノアが呟いた声が風に乗って届いた。
久遠の一撃──鋭い突き。
しかし、それをノアは軽やかに避け、そのまま拳を握る。
ゴッ──
鈍い衝撃音とともに、久遠の顔面に拳が叩き込まれた。
空中で、その身体がのけ反る。
「 ....っ、グハッ! 」
吐き出された血が、赤い軌跡を描いた。
そして久遠は、何もない空を落ちていく。
ノアは軽やかに着地し、淡々と口を開いた。
「 次は....誰だ 」
その声音には、欠片も焦りがなかった。
地面に伏した久遠を見て、誰もが言葉を失っていた。
その沈黙を破ったのは、安都だった。
「 ....久遠が勝てなかった時点で、私たちの負けです 」
彼女は静かに言い切り、ゆっくりとノアの正面に歩を進めた。
その声音には、悔しさよりも現実を受け止める冷静さがあった。
ノアは彼女を一瞥しただけで、小さくため息をつく。
「 つまんないなぁ....お前らも掛かってこればいいのに... 」
そう言うと、ノアは踵を返し、澪の元へと戻っていく。
彼女の足取りは、戦闘の直後とは思えないほど軽やかで、まるでただの散歩帰りのようだった。
アサギの家に戻る道を辿ろうとした、そのとき──
「 ちょっと、ノア!あなた....本気で殴ったの!? 」
澪の声が響く。
振り返ったノアの目の前に、彼女が立っていた。
「 澪ー!そんな訳ないじゃん 」
ノアは、にこやかに笑った。
その笑みは、戦いのときに見せていた殺気とは正反対で、子どものように無邪気だった。
澪はそのままノアに身を寄せ、小さく耳打ちをする。
「 ....と、とりあえず...久遠さんの治療を..... 」
その光景を、俺はぼんやりと見つめていた。
さっきまでの緊張が嘘みたいに、現実味を取り戻していく。
紬が駆け寄り、焦った様子で久遠に手を伸ばす。
俺も、それに続くように足を動かした。
碧と安都も同じだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ノアの登場で一気に空気が変わりましたね。久遠の一撃が軽くいなされるあたり、彼女の実力は桁違い。これから彼女が物語にどう絡むのか、ぜひ楽しみにしてください。
では、また次の話でお会いしましょう。──広瀬




