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第79話 欠けの前で“待つ”が増えそう

 角の朝は、静かだった。

 板は板。釘は一本。木札は一枚。輪は一つ。箱は閉じてる。欠けの石は欠けたまま。

 静かだ。静かって言うな。胸の中で静か。


 静かなのに、欠けの前だけ、人がいる。

 いるだけ。話してない。怒ってない。泣いてない。

 なのに、いる。

 いるってことは、そこに“待つ”が生まれている。


「……欠け、人気」

 ハルが小さく言いかけて、口を押さえた。押さえなくていいのに押さえた。癖だ。

「言うな」

 ユリネが即座に刺す。

「……胸の中で人気」

「胸の中なら勝手にしろ」


 欠けの石は、分からないものを置く場所。

 置きっぱなしにしないための場所。

 “今じゃない”を置く場所。

 だったはずが、今日は“待つ人”が置かれているみたいになっている。


 欠けの前で、若い人が指をもじもじさせている。

 その隣で、おばさんが腕を組んでいる。

 さらに隣で、子どもが欠けを覗き込んでいる。

 覗き込むと手が出る。手が出ると拾う。拾うと増える。増やすな。


「触るな」

 ユリネが短く言った。

 短いから刺さらない。刺さらないのに、子どもの手が止まる。止まれるなら勝ち。


 レンカが息を吸って口を押さえた。えらい。

 泣かせない係の肩が上がりかけている。上がると走る。走ると「どうしたの」になる。「どうしたの」は口が増える入口だ。

 止まれ。


 コトが笑顔のまま、一歩だけ欠けへ近づいた。

 一歩だけ。増やさない距離。

「待ってるの?」

 言い方が軽い。軽いのに、場が少し硬くなる。硬くなるのは、みんな“待ってる”って言いたくないからだ。言いたくないものほど口が太る。太らせるな。


 若い人が小さく言った。

「……直し屋さんに、これ返したくて」

 手の中に、小さな金具。留め具。

 昨日の“箱を挟む”のやつだ。

 返したいのは良い。良いけど、ここで待つと欠けが“返却所”になる。

 返却所は板を呼ぶ。板は欄を呼ぶ。欄は増える。やめろ。


「待つな」

 ユリネが短く言った。

「えっ、でも今じゃないと会えないかも」

「今って言うな」

「……胸の中で今」

「胸の中でも言うな」


 おばさんが腕を組んだまま言う。

「私は湯屋番に返したい。手ぬぐい」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で手ぬぐい」

「胸の中なら勝手にしろ」


 子どもが欠けを覗き込みながら、嬉しそうに言った。

「ぼくは待ってない! 見てるだけ!」

「言うな」

「……胸の中で見るだけ!」

「胸の中でも言うな」


 見てるだけの子どもが一番危ない。

 見てるだけ、は触る前の顔だからだ。

 触る前の顔には、見えるものを置かない。置くと拾う。拾うと増える。増やすな。


 タケルが真顔で欠けの石を見た。

 欠けの上に、何も無い。

 なのに人がいる。

 “物が無い待ち”が始まると、次は“物を置いて待つ”が始まる。

 始まったら終わり。終わりって言うな。胸の中で終わり。


「……欠けに物を置かない」

 タケルが言いかけて、ユリネの視線で口を閉じた。

 代わりに、欠けを指でちょん、と示した。

 指先だけ。増えない。


 コトが笑顔のまま、若い人の金具を見て言った。

「それ、箱を挟めるよ」

「箱、いま閉じてるし」

「閉じてるのが正しい」

 コトの言い方が生活だ。刺さらない。


 板番のおばさんが腕を組んで、欠けの前へ一歩だけ来た。

 一歩だけ。増やさない距離。

「欠けの前で待つな」

 言い切りそうになって、おばさんは言い直した。

「……今日は、待たないで回す」


 今日だけ。

 今日だけは助かる。決まりにならないからだ。

 決まりになると守れない日が来る。守れない日は揉める。揉めると暗くなる。暗くしない。


「でも待たないって、どうするの」

 若い人が言う。困り顔。困り顔は刺さる。刺さるとレンカが走る。走るな。


 レンカは息を吸って止めた。えらい。

 代わりに、ハルが小さく言った。

「……今じゃない、は胸」

「胸?」

「胸に入れて帰る」

 ハルの言い方が静かで強い。強いって言うな。胸の中で強い。


 ユリネが短く重ねる。

「待つなら、持て」

「持つなら、帰れ」

 言い方が硬いのに刺さらない。生活向きの硬さだ。


 おばさんが眉を上げた。

「でも返したいのに」

「返すのは返す。待つのは待つ」

 ユリネが短く切る。

「混ぜるな」


 混ぜるな。

 今日はこの一言が芯だ。

 返したい気持ちと、待つ行動を混ぜると、欠けが“待ち所”になる。

 待ち所になると、人が溜まる。溜まると道が死ぬ。死ぬって言うな。止まる。


 そこへ、直し屋の音が近づいた。

 こり、こり。

 すっ。

 とん。


 直し屋の人が、角の端を通る。

 通るだけ。止まらない。

 止まらないのが、逆に“会えそう”を生む。会えそうは待つを生む。増やすな。


 若い人が半歩前へ出かけて止まった。止まれるなら勝ち。

 コトが笑顔のまま、指だけで箱を示した。

 落とし物箱。閉じてる。

 閉じてる箱の前には、小さい木皿が一枚だけ置かれている。箱を挟むための“ここ”。

 今日だけの“ここ”。


「ここに置けば、直し屋さんが通った時に取れる」

 コトが言った。

「でも勝手に取られない?」

 若い人が不安顔。

 不安は分かる。分かるけど、ここで“守り”を増やすと終わる。守りが増えると決まりが増える。決まりは守れない。

 だから短く。


「板番が見てる」

 ユリネが言った。

 言い方が雑で、でも効く。雑な正しさは救命具だ。


 板番のおばさんが頷いた。

「見る」

 一語。

 一語で足りる。足りるって言うな。胸の中で足りる。


 若い人は金具を木皿に置いた。

 置いたら手を離す。

 手を離すと、責任が木皿に生えない。木皿は“ここ”でしかない。

 ここでしかないと、太らない。太らないって言うな。胸の中で太らない。


 次は湯屋番の手ぬぐいだ。

 おばさんが口を開けかけて、止めた。止まれるなら勝ち。

 代わりに、空中で手ぬぐいの形だけ指で描いて、すぐ手を下ろした。

 指は太らない。口ほど増えない。


 板番のおばさんが一回だけ頷いた。

「夕方」

 一語。

 夕方、と言えると朝の待ちが消える。消えるって言うな。胸の中で外す。


 問題は子どもだ。

 子どもは待ってないと言いながら、欠けの前から離れない。

 離れないと、そこが待ち所になる。待ち所になると、人が「じゃあ私も」になる。なると増える。


「坊主、欠けは見るな」

 ユリネが言いかけて、言い直す。

「……見るだけで止めろ」

「見るだけ!」

 子どもが言って、背中に手を回した。えらい。早い。


 レンカが息を吐いた。

「欠け、待ち所じゃないんだね」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で待ち所」

「胸の中でも言うな」


 タケルが真顔で、欠けから一歩だけ離れた場所に立った。

 立ち方が線だ。

 線があると、人は勝手に欠けの前を空ける。

 空けると、道が太る。

 太ると、朝市の籠がぶつからない。

 ぶつからないと、豆が転がらない。ころん、が来ない。

 相乗は結果一行でいい。今日はこれだ。

 欠けの前を空けたら、口が減った。


 ……なのに、まだ小さな芽が残る。

 芽って言うな。胸の中で芽。

 木皿が便利に見えた人が、別の物を持ってきたのだ。


「これも、ここに置いとけば返せる?」

 小さい鍵。

 鍵は物だ。物は箱。口は結ぶ。

 でも“返せる”が増えると木皿が“返却棚”になる。棚は増える。増えると欄になる。やめろ。


「置くな」

 ユリネが短く言った。

「えっ」

「箱を挟むのは“今ここで戻せる時だけ”」

 言い切りそうになって、ユリネは言い直す。

「……今日だけ」

「今日だけ」

 コトが笑って復唱して、場が少し柔らかくなる。刺さらない笑いは助かる。


 板番のおばさんが鍵を見て、短く言った。

「箱」

 一語。

 鍵を持ってきた人が戸惑う。

「箱って、閉じてるし」

「閉じてるのが箱」

 おばさんの言い方が雑で正しい。雑は救命具だ。


「朝と夕方、一回だけ」

 おばさんが言いかけて、ユリネの視線で言い直す。

「……胸の中で一回だけ」

「胸の中なら勝手にしろ」

 いつものやり取りが戻ると、角が角に戻る。


 鍵の人は、結局、鍵をポケットにしまった。

「……夕方、来る」

「よし」

 ユリネが短く頷く。

 しまえるなら増えない。

 増えないなら欠けの前も太らない。


 昼前、直し屋の人が角を通った。

 木皿の金具を見て、頷いて、取っていった。

 声は出ない。

 頷きだけ。

 終わり。終わりがあると増えない。


 夕方、湯屋番が角を通った。

 ハルが小さく、

「……手ぬぐい」

 一回だけ言う。

 湯屋番が頷いて、脱衣所から手ぬぐいを持ってきて、持ち主へ渡した。

 渡したら終わり。

 欠けの前に人が溜まらない。

 待たないで回る。

 それが今日の勝ち筋だ。勝ちって言うな。胸の中で勝ち。


 家に戻ると、鍋が鳴っていた。

 ごっちゃ煮スープの湯気が上がる。

 湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。


 ミナギが椀を取ろうとして、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 レンカが小さく宣言して、すぐ口を押さえた。

「今日、欠けの前で待たなかった!」

「待ちかけた」

 ミナギが真顔で言いかけて、

「未遂って言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で未遂」

「胸の中でも言うな」


 タケルが真顔で言った。

「欠けは待つ場所じゃない。胸が待つ」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で胸」

「胸の中でも言うな」

 コトが笑って、刺さらない笑いが湯気に混ざった。


 ハルが小さく頷く。

「……今じゃない、が言えた」

 シノがぼそり。

「……紙、出さなかった」


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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