第80話 忘れないために結ぶ
角の朝は、静かだった。
板は板。釘は一本。木札は一枚。輪は一つ。箱は閉じてる。欠けの石は欠けたまま。
静かだ。静かって言うな。胸の中で静か。
静かなのに、今日の困りは“静かに増える”種類だった。
待たない。溜まらない。口も太らない。
でも、みんなの手の中だけが少しずつ重い。
昨日、欠けの前で待つのはやめた。
木皿に置きっぱなしもやめた。
“今じゃない”は胸にしまう。
そこまでは出来た。
問題は、その次だ。
「……胸にしまうと、忘れる」
レンカが小さく言って、すぐ口を押さえた。
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で忘れる」
「胸の中でも困る」
板番のおばさんが腕を組んだ。
「忘れるのは、当たり前」
雑だ。雑だけど合っている。
当たり前と言われると、みんな少しだけ肩を落とせる。落とせると、余計な知恵が太りにくい。
若い人が、手の中の小さい鍵を見せた。
「夕方、箱が開くときに入れたいんだけど」
「入れたいは持っとけ」
ユリネが短く言う。
「置くな」
「……はい」
別のおばさんは、布を握っていた。
「湯屋番に返したい手ぬぐい」
「返すのは返せ。朝に置くな」
「じゃあ忘れる」
「忘れる前提で箱を増やすな」
直し屋の留め具もいる。
朝市で間違って持ってきた木皿もいる。
箱の前で拾った針金もいる。
みんな“夕方の予定”を手の中に抱えていた。
抱えるのはいい。
でも抱えると、手が塞がる。
手が塞がると桶が持ちにくい。
桶が遅れると井戸が遅れる。
井戸が遅れると、洗いも干し場も重くなる。
生活は、予定に足を引っ張られると急に軽くなくなる。
ミナギが口を開けた。
「じゃあさ、角に“夕方箱”——」
「作るな」
ユリネが切った。
「えっ、でも忘れないように」
「忘れないための箱が増えると、今度は箱を忘れる」
「それはやだ」
「だろ」
タケルが真顔で欠けの石を見た。
欠けは便利じゃない。便利じゃないから太らない。
でも便利にしようとすると、すぐ役目が増える。
役目が増えると、朝が重くなる。
コトが笑顔のまま、一歩だけ前へ出た。
一歩だけ。増やさない距離。
「置かないで忘れない方法、だね」
言い方が軽い。軽いのに、場がちゃんとそこを見る。
ハルが籠の持ち手を指でつついた。
「……結ぶ」
ユリネが反射で、
「言う——」
まで言って止まった。
止まったのが助かる。
ハルの“結ぶ”は、増やす結ぶじゃない。思い出す結ぶだ。
「何を」
若い人が聞く。
確認だけの声だ。断定じゃない。こういう声は場を荒らさない。
ハルは、自分の籠の持ち手の端を見せた。
細い紐が通っている。
その端に、ひと結び。
小さい結び目。
言われないと見落とすくらいの大きさだ。
「……指が当たる」
ハルが言う。
「当たると、あ、ってなる」
「それだけ?」
レンカが首を傾げる。
「……それだけ」
ハルは頷いた。
「それだけで、思い出す」
板番のおばさんが、短く言った。
「置かない。結ぶ」
その一言で、場の空気が少し整う。
置くは場所を呼ぶ。結ぶは自分に戻る。
その違いは大きい。
でも、ここからが危ない。
結ぶ、は簡単だ。
簡単だと、人はすぐ増やしたがる。
「じゃあ二回結べば絶対忘れないよね!」
ミナギが言いかけて、ユリネに見られて口を押さえた。遅い。
「二回結ぶな」
ユリネが言う。
「一回でいい」
「なんで」
「ほどけないと次が面倒だ」
タケルが真顔で補助した。
昨日の布で学んだやつだ。学んだことが生活に戻るのはいい。
直し屋の人が、こり、こりしながら角を通った。
通りながら一言だけ落とす。
「結ぶなら、本人が触る場所」
短い。短いから増えない。
本人が触る場所。
それだけで十分だった。
若い人が、鍵を持つ手と反対の腰紐の端をつまんだ。
ひと結び。
小さい。
それだけで、鍵はポケットへ戻る。
手が空く。
手が空くと桶が持てる。
桶が持てると、朝は朝の順番へ戻る。
今日はそれでいい。
「わ、みんな結んでる」
子どもが寄ってきた。
こうなる。
結び目は子どもの目を引く。目を引くと、触りたくなる。触りたくなると、遊びになる。増やすな。
「触るな」
ユリネが短く言った。
短いのに、子どもの手が止まる。止まれるなら勝ちだ。
シノがぼそり。
「……自分のだけ」
「そう」
コトが拾う。
「人のを結ぶと、誰の用か分からなくなる」
子どもは少し考えてから、自分の服の端をつまんだ。
「ぼくも?」
「お前は用がある時だけ」
ユリネが言う。
「いまは」
タケルが真顔で続ける。
「背中に手」
「……はい」
子どもは素直に背中へ手を回した。
それでいい。
結ばないで守れるなら、その方が軽い。
案の定、“結び係”も出た。
「結べない人、結んであげるよ」
善意だ。善意はすぐ走る。
「結ぶな」
ユリネが切る。
「えっ、でも不器用な人いるし」
「不器用は不器用のまま一回やれ」
「言い方」
「言うな」
コトが笑う。
「上手い結び目じゃなくていいんだよ。ある、でいいの」
ある、でいい。
それなら比べない。
比べないと、並ばない。
板番のおばさんが地面を指でとん、と叩いた。
「本人の手だけ」
「一回だけ」
「結べないなら、胸で持て」
三つ。
三つだけ。
増やすためじゃなく、戻すための三つだ。
それで足りた。
みんな、自分の紐にひと結びだけ作って、角を離れた。
離れると角が軽い。
軽いと朝市の匂いが先に来る。
匂いが先に来ると、朝は朝の顔へ戻る。
昼。
結び家は生活を回した。
井戸は欠けまで。
干し場は空ばさみ。
朝市は内と外。
箱は閉じてる。
板は見るだけ。
輪は箱にならない。
欠けの前は空いている。
誰も、思い出すために立ち止まらない。
立ち止まらなくていいように、手の近くに小さい合図だけがある。
夕方。
結び目が効いた。
腰紐の結び目に指が当たる。
そこで、あ、と思う。
思い出したら、角へ寄る。
寄るけど、溜まらない。待たないからだ。
若い人は鍵を持ってきた。
箱は一回だけ開いた。
板番のおばさんが見る。
入れたら終わり。
湯屋番の手ぬぐいも戻った。
ハルが小さく、
「……手ぬぐい」
一回だけ言う。
湯屋番が頷いて受け取る。
渡したら終わり。
直し屋の留め具も戻った。
朝市の木皿も戻った。
針金も戻った。
どれも、そこで話が太らなかった。
返したい気持ちは胸に置いたまま、返す手だけが動いた。
誰かが拍手しそうになって、やめた。
それもよかった。
今日は褒める日じゃない。
増やさないで戻せたことが、そのまま今日の形だからだ。
夜。家。
鍋が鳴っている。
ごっちゃ煮スープの湯気が上がる。
湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝ちだ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが引っ込める。引っ込められるなら大丈夫だ。
レンカが小さく笑った。
「今日、置かなかったね」
「待たなかった」
タケルが真顔で言う。
「結び目、一回で足りた」
ハルが頷く。
「……手が覚えた」
シノがぼそり。
「……触らないで守れた」
コトが笑って、椀を配る。
いつもの順番だ。
いつもの順番なのに、少しだけ違う。
今日は、誰かが大声で正解を言わなくても、昼と夕方までちゃんと戻れた。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」
湯のあと、家へ戻る頃には、角はもう暗かった。
板は板。
釘は一本。
木札は一枚。
輪は一つ。
箱は閉じてる。
欠けの石は欠けたまま。
見えるものは、ほとんど増えていない。
それなのに、朝より出来ることだけが少し増えていた。
置かないで戻す。
待たないで回す。
人の手を借りすぎず、自分の手で思い出す。
大きな決まりは増えていない。
札も、箱も、欄も増えていない。
増えたのは、小さい結び目ひとつぶんの手順だけだ。
それで足りる朝まで、ようやく来た。




