第75話 【欄】(第七波)
織帳院の朝は、だいたい「揃えたのに揃わない」から始まる。
今日は、その先だ。揃える場所が無い。
申請受付審査室。
はんこ係のチヨは、机に突っ伏していた。
「……いや……いやぁ……」
悲しい泣きじゃない。業務の泣きだ。
机の上に積まれた申請書は、角だけが命だ。角が揃えば世界が回る。回るって言うな。胸の中で回れ。
チヨは儀式を始めた。
束の側面を机に、とん、とん、とん。
よし。揃った。
今日こそ、いける。いけるって言うな。胸の中でいける。
その瞬間。
紙の中で、罫線が一拍だけ増えた。
縦が一本。横が一本。
欄が、しれっと増えた。
増えた分だけ、揃ったはずの角が、やさしくズレる。
「……角が……角がぁ……!」
チヨは叫びかけて、すぐ自分の口を押さえた。
声を増やすと周りが動く。周りが動くと欄が喜ぶ。欄は動くのが好きだ。最悪。
背後の壁は、今日も壁をしていた。
張り紙。張り紙。張り紙。
主任級持ち回りの貼り癖が、今日に限って全部「ここで勝ちたい」になっている。
右端ぴし派。
中央揃え派。
上二ミリ空け派。
下余白残し派。
そして、なぜか一人だけ「斜めの方が人は読む派」。
「……読ませたい欲、出すなぁ……」
チヨの泣きが、A(角)からB(壁)へ移る。
角がズレる。壁がうるさい。
AとBを行ったり来たりすると、脳が熱い。熱いと欄が増える。増やすな。
ゆれりんが鳴った。
りん。
空気が固まる。固まると余計な手が止まる。
止まったのに、壁の張り紙だけが、なぜか増えたい顔をしている。紙の顔って何だ。胸の中で考えろ。
廊下から乾いた声。
「第七波?」
マドカだ。入って来ない距離で刺すのが上手い。入ると増えるからだ。
室内に、淡々が入ってきた。ナギだ。
壁を一瞥して、机を一瞥して、天井を一瞥した。
「……上」
「上?」
チヨが涙目で顔を上げる。
天井近く。
照明の周りに、薄い格子が漂っていた。
欄だ。
貼る場所を失った欄が、ついに“貼る場所を探す”のをやめて、“貼れる高さ”へ逃げた。
「……天井に逃げたぁ……」
チヨの泣きが、B(壁)で揺れて、A(角)に戻る。
「角も壁も天井も足りないって、何なんですぅ……!」
その時、最悪の元気が開いた。
「チヨー! おはよー!」
主犯神アマネだった。
元気。明るい。現場の酸素を吸って欄を吐くタイプの元気。
「……おねぇちゃんに、まかせて!」
「任せた結果がこれですぅ……!」
チヨは机に突っ伏し直す。A泣き。
すぐ壁を見る。B泣き。
忙しい。忙しいと欄が増える。増やすな。
アマネは天井の欄を見て、目を輝かせた。輝くな。
「見て見て! 欄、上に行った!」
「行ったって言うな」
マドカが廊下から刺す。
「でもさ、上に行ったってことは“貼る場所が増えた”ってことじゃん!」
「増えたって言うな」
チヨが泣き声で刺して、また口を押さえた。泣き声でも正しいことを言うのが、さらに悲しい。
アマネは大きく頷いた。頷くと決定が増える。増やすな。
「つまり! 欄は増えた! 解決!」
「解決するな」
ナギが淡々。
「えー? だって貼れるじゃん、ほら!」
アマネは椅子を引きずり出した。椅子が出ると現場が動く。動くと欄が喜ぶ。最悪。
椅子の上に立とうとするアマネの足元で、チヨが半泣きで叫びかけて止めた。
止めたのが偉い。止められなかったら今ごろ天井が申請書だ。
「……落ちるのは紙だけにしてぇ……!」
「落ちるって言うな」
マドカが刺す。
「紙が落ちるのも困るんだよ!」
チヨが言い返して、A泣きがB泣きに跳ねる。忙しい。
ナギが淡々と、天井の欄を見上げて言った。
「欄が上に行くと、読む角度が増える」
「角度増やすなぁ……!」
チヨが机に額を当てた。
その額の振動に反応するみたいに、天井の欄が、ふわ、と広がった。
照明の周りに、吊り下げ式の罫線が増えていく。
紙のモビールみたいに、欄だけが揺れる。揺れると、誰かが読みたくなる。読まれると、また増える。
最悪の循環が、上で静かに回っている。回るって言うな。
「ほら! 欄が空気に馴染んだ!」
アマネが元気に言う。
「馴染ませるな」
ナギが淡々。
「馴染んだら“常設”じゃん!」
「常設にするなぁ……!」
チヨが泣いた。A泣き。B泣き。どっちもセットで来る。来るな。
その時、にこにこが来た。
「おはようございます」
院代。にこちゃん先生。
にこにこ怖い。
椅子の上のアマネ。天井の欄。壁の張り紙。机の角。
全部を一度に見て、にこにこで“一言”だけ落とした。
「天井を申請書にしないでください」
一言。
一言だけで空気が一段だけ整う。
整うと、アマネの足が止まる。止まれるなら勝ち。
「……え」
アマネが口を開けかけて、閉じた。閉じられるなら勝ち(二回目)。
そして、朱肉の匂いが入ってきた。
ゲンだ。
「まだ終わってない顔だな」
「終わってません……!」
チヨが即答する。今日は泣きより怒りが勝ってる。怒れるなら生きてる。
ゲンは天井を見た。
次に壁を見た。
次に机を見た。
最後に、椅子の上のアマネを見て、雑に言った。
「上に貼るなら、上に印だろ」
意味が分からないのに、なぜか現場に効く。
雑は時々救命具だ。
ゲンは朱肉を開け、判を構えた。
ゲン印【幸】。
どん。
……どん、は本来机で鳴る音だ。
でも今日のどんは、椅子の上から天井へ向かって鳴った。
ゲンが椅子に乗った。乗るな。胸の中で乗るな。
乗ったのに、転ばない。転ばないのがゲンの雑な強さだ。
赤い【幸】が、天井の欄の中心に、きっちり乗った。
乗った瞬間。
欄が「仕事終わり」の顔になった。
ふわ、と揺れていた罫線が、すう、と薄くなる。
吊り下げ式の格子が、畳まれて、紙の内側へ戻っていく。
照明の周りの“貼れる高さ”が、ただの天井に戻る。
壁の張り紙も、ぴた、と止まった。
めくれかけていた紙の端が、元の位置に戻る。
貼り癖の主張が一段だけ静かになる。静かって言うな。
机の角が、やさしく揃い直された。
チヨの視界に、角が戻る。角が戻ると呼吸が戻る。戻るって言うな。
「……角……角が……」
チヨは泣きそうな顔で笑いそうになって、どっちにも行けずに机に額を当てた。
「……生きましたぁ……」
「生きたら飲め」
ゲンが雑に言って、湯呑みを指でちょん、と叩いた。
給湯室の方から急須が来る。急須は増えていい。増える急須は平和の匂いがする。
アマネが椅子から降りて、にこにこ先生を見て、胸の前で小さく拳を握った。
「……胸の中で、欄」
「胸の中なら勝手にしろ」
ナギが淡々と返して、なぜか全員が少しだけ笑った。刺さらない笑いがいちばん助かる。
チヨは最後に、壁を見た。
貼る場所は、ある。
でも今日は貼らない。貼らないのが一番の勝ちだ。勝ちって言うな。胸の中で勝ち。
ゲンが朱肉を閉めて、雑に言い放つ。
「終いが良ければそれでよし!」




