第68話 口の掲示を剥がす
朝の角は、相変わらず静かだった。
板は板。釘は少し。木片は一枚。箱は閉じてる。欠けの石は欠けたまま。
静かだと助かる。助かるって言うな。胸の中で助かる。
でも静かだと、耳が勝手に「今日は何も無い」を確定にしにくる。
確定にするな。確定っぽいで止めろ。胸の中で止めろ。
その静かさを、いちばん先に破ったのは、軽い声だった。
「ねえ、昨日の“掲示が出た”ってやつさ」
言い方が軽い。軽いのに、通りの空気が一瞬だけ硬くなる。
硬くなると、次が生まれる。次はだいたい余計。
「今日も出てる?」
「出てるって言うな」
どこからかユリネの声が飛んだ。短い。刺さらない硬さ。
「……胸の中で出てる」
言った本人が自分で口を押さえた。止まれるなら勝ち。
結び家は角へ向かった。
向かう足が、昨日より少しだけ多い。多いって言うな。胸の中で多い。
多い足は、掲示板の前で止まりやすい。止まると、口が増えやすい。
掲示板の前には、板番のおばさんがいた。
腕を組んでる。顔が「分かってる」。分かってる顔は強い。強いって言うな。胸の中で強い。
板に掛かっている木札は、いつも通り一枚だけ。
見る
それだけ。
それだけなのに、昨日の名残りが周りの口で増えている。
「見るって、何を?」
「掲示、内容は?」
「今日は“出た”の?」
出たって言うな。
言うな、が増えると喧嘩になる。喧嘩は増える。増やすな。
レンカが息を吸って口を押さえた。えらい。
言いたい。言いたいのに止まれてるのが、いちばん偉い。
タケルは真顔で、板の前の足元を見た。
昨日はここで小銭が転がった。
転がると拾う手が出る。拾う手が出ると背中が詰まる。
詰まると、口が増える。
今日は、詰まる前に“置かれて”いた。
足元に、小さな木片が二枚。
板に掛かってない。地面に置いてある。置き方は丁寧。丁寧は増える入口。
字が小さい。角ばってる。短い。
見た
聞いた
「……やめて」
レンカが小さく言いかけて、口を押さえ直した。えらい。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、やめて」
「胸の中なら勝手にしろ」
ミナギが目を輝かせた。輝くな。
「これ、いいじゃん! 見たと聞いたで、噂止まるじゃん!」
「止まるって言うな」
ユリネが短く刺す。
「……胸の中で止まりそう」
ミナギが言い直して、口を尖らせた。尖らせたまま黙れるなら勝ち。
板番のおばさんが、木片を見下ろして、ため息をひとつだけ吐いた。
「誰が置いたの」
声が尖ってない。尖ってないから、場が暗くならない。
暗くならないけど、ここは危ないところだ。置いたら次が置く。次が置くと増える。増えると欄みたいになる。やめろ。
当たり前みたいに、犯人が名乗った。
名乗るな。胸の中で名乗れ。
「私。昨日のやつ、みんな混乱してたから」
近所のおばさんだ。朝市の分け方の上手い人。
善意の上手い人が出ると、止め方が難しい。上手い善意は刺さりにくいからだ。
「見た、と聞いた、って置いとけば、言い方が揃うと思って」
揃う、は危ない。揃うは決まりになる。決まりは守れない日を呼ぶ。
「決まりにするな」
ユリネが短く言った。短いから刺さらない。刺さらないのに、周りの口が一拍止まる。
止まったところで、コトが笑顔のまま拾う。
「揃えるのは言い方じゃなくて、止め方かな」
「止め方?」
「“言葉を足さない”止め方」
おばさんが首を傾げる。
「でも、何て言えばいいか分かんないと、みんな“掲示が出た”って言っちゃうでしょ」
掲示が出たって言うな。胸の中で言うな。
タケルが真顔で言った。
「言うなら一語でいい」
「一語?」
「見る」
タケルは板の木札を指先で示す。指先だけ。増えない。
ミナギが口を開けかけて、止めた。止まれたのが偉い。
「……でも“見た”って木片は、言葉を短くするためじゃないの」
いい質問だ。言い方が確認だから助かる。断定じゃないのが偉い。
ユリネが答える前に、ハルが小さく言った。
「……木片が増える」
「言うな」
ユリネが反射で刺して、すぐ言い直す。
「……増やすな」
短く置く。これが一番効く。
シノがぼそり。
「……地面にあると、拾って置きたくなる」
拾って置きたくなる。まさにそれだ。
拾うと「自分の言葉を置く」が始まる。
始まると、次は「正しい言い方」が出る。
正しいは秤を呼ぶ。
秤は揉める。
揉めると生活が重くなる。重くするな。
板番のおばさんが、しゃがまないで腰だけ落として、木片を一枚拾った。
拾い方が静かだ。静かだと覗き込まれない。
覗き込まれないと背中が詰まらない。
「これ、置いとくと増える」
おばさんが短く言った。
「でも言い方が必要なんでしょ」
善意のおばさんが言い返す。言い返しが尖ってない。尖ってないから難しい。
おばさんは木片を見て、板を見て、欠けの石を見た。
欠け。
欠けは、分からないものを置く場所だ。
置きっぱなしにしないための場所でもある。
「“言い方”じゃなくて、“返し方”を置く」
板番のおばさんが言った。
「返し方?」
「うん。言葉を返す。太らせない」
太らせない。
ここが今日の芯だ。
板番のおばさんは、木片を二枚まとめて持って、欠けの石の上に一度置いた。
置いただけ。貼らない。固定しない。
置くと「ここにある」が見える。
見えると、勝手に拾われにくい。拾われにくいって言うな。胸の中で拾われにくい。
そして、おばさんは一回だけ言った。
「“見る”で返す」
一語じゃなくて四文字。
でも一回だけ。
一回だけなら増えない。
善意のおばさんが口を開けかけて、閉じた。閉じられるなら勝ち。
「……見る、で返す」
言い直しが出た。言い直しは増えない。助かる。助かるって言うな。
ミナギがうずうずして言いかけた。
「じゃあ“聞いた”って言った人には……」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、聞いた」
「胸の中でも太らせるな」
ユリネのツッコミが珍しく丁寧で、ミナギが目を丸くした。丸い目は危ない。止まれ。
ここで、実演が来た。
通りの端から、さっきの軽い声の人が走ってきたのだ。走るな。胸の中で走る。
「ねえ! 掲示が出たって!」
言った。
言い切った。
言い切りは危ない。
危ないのに、今日は返し方の練習日になってしまう。
板番のおばさんが、顔を上げずに一回だけ返した。
「見る」
一語。
一語で足りる。足りるって言うな。胸の中で足りる。
「え? 見るって何を」
軽い声の人が戸惑う。
戸惑いは増える入口だけど、ここは“動かない”で勝つ。
コトが指先だけで、板の木札を示した。
見る。
それだけ。
示したら終わり。終わりがあると増えない。
軽い声の人は板を見る。
木札は一枚。
見る。
それだけ。
「……あ、これだけか」
それで肩が落ちた。
肩が落ちると、走りが止まる。止まると、噂が細くなる。細くなるって言うな。胸の中で細くなる。
ところが、肩が落ちると次が出る。
落ちた肩は、善意の肩だ。善意は別方向へ走る。
「じゃあ昨日の“掲示が出た”って言い方、やめるね」
やめるね、は良い。良いけど“宣言”になると増える。
増える宣言は、また掲示になる。やめろ。
「言わなくていい」
ユリネが短く言った。
「えっ」
「言わなくていい。次からそうすればいい」
ユリネの言い方が生活の言い方だ。罰がない。責めがない。暗くしない。
軽い声の人は、口を閉じて頷いた。
頷きは増えない。
そのまま去った。
去るのが早いと、角が軽い。軽いって言うな。胸の中で軽い。
善意のおばさんが、欠けの石の上の木片を見て、恐る恐る言った。
「でも……これ、置いとくの?」
置くと増える。増やしたくない。
だから置かない。
でも拾って捨てると角が荒れる。荒れると刺さる。刺さると暗くなる。暗くしない。
板番のおばさんが短く言った。
「外す」
それだけ。
木片二枚を拾って、箱の横の棚の“裏”に一度だけ置く。
見えないところ。
見えないところは危ないはずなのに、ここは“増えないための裏”だ。
「裏に置くのも増えない?」
ミナギが言いかけて、口を押さえた。えらい。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、増えない?」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルが真顔で補助する。
「裏に置くのは“今日だけ”。明日には消える」
「消えるって言うな」
ユリネが刺して、タケルが言い直す。
「……外す」
外す。
外すは増えない言葉だ。
外せる仕組みは、増やさない仕組みだ。
ここで、走り手の子が通りかかった。
昨日、板って言ってしまった子。
今日は口を押さえながら、板を指で示して、目を合わせた。
指だけ。
それだけで、周りの口が増えない。
増えないのが偉い。褒めるな。胸の中で褒めろ。
走り手の子が小声で言いかけて、止めた。止まれたのが偉い。
代わりに、口を押さえたまま、指で「見る」を二回示した。
二回示すのは増やす二回じゃない。戻す二回だ。
レンカがそれを見て、息を吐いた。
「……指が、掲示より細い」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で細い」
「胸の中なら勝手にしろ」
角の前の人波は、いつの間にか散っていた。
散ると、朝市の匂いがちゃんと先に来る。
匂いが先に来ると、朝市は朝市だ。
声が後。小銭が最後。
戻るって言うな。胸の中で戻る。
結び家は買い物へ向かった。
途中、朝市の入口でまた小さな“言いかけ”が起きる。
「ねえ、今日……掲示——」
言いかけた人が、自分で口を押さえた。えらい。
代わりに板を見る。
見る。
それだけ。
言いかけが言いかけのまま終わると、噂が育たない。育たないって言うな。胸の中で育たない。
昼前、家へ戻る。
粉。豆。葉物。
袋の口は二回結ぶ。増やすんじゃない。転がさないため。
鍋に水。井戸の欠けまでで汲んだやつ。
野菜を入れる。豆を入れる。
ぐつ、ぐつ。
湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日、口の掲示を剥がしたな」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で剥がす」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷いた。
「……“見る”で返すと、太らない」
シノがぼそり。
「……木片、増えなかった」
コトが笑う。
「増やさないために、外したのが良かったね」
「言うな」
「……胸の中で良かった」
「胸の中なら勝手にしろ」
レンカが小さく宣言して、すぐ自分で口を押さえた。
「今日、“掲示が出た”って言わなかった!」
「言いかけた」
ミナギが真顔で言いかけて、
「未遂って言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で未遂」
「胸の中でも言うな」
刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。
噂は、太る前なら剥がせる。
剥がすのは怒りじゃなくて、返し方だ。
返し方があると、明日も回る。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




