5|『竜理の国』
――――
――
青。
私の視界の端から端まで、
いくつもの青と青が広がっていた。
幾億もの星々が瞬く宇宙の深海、その深い青と、
晴れ渡る空、無限の大気、その鮮やかな青とが混ざり合う。
その境界線。宇宙と晴天の狭間に、
頭からつま先まで、私の全身があった。
――正確に言えば、
現在進行形で私は落下していた。
永遠の蒼穹と、風。
はるか下方の地上から吹き上げてくる風が、
透明な手になって、私の背を下から力強く押し上げているみたいだ。
その感覚が、こそばゆくて。
すこしだけ、心地いい。
〈ねぇ、アリィス~。きもちよさそーな顔してるけど、状況わかってるぅ?〉
私の右眼、ナスタルギアの内側から、
いつもの調子でイフが話しかけてくる。
イフと話しているところを他人に見られたら、
きっと変な人だって思われるだろう。
けれど、いつでも話し相手がすぐそばにいるのは、退屈しなくていい。
「落ちてるね~。触手も出てきてくれないし、成すすべなしだねー」
〈イフね~。出会ってからまぁまぁ経つけど、未だにアリィスのことが理解できんのです。本気なのか、ふざけてるのか、ぜんっぜんわかんねぇ~のですよ〉
「真意が読めないミステリアスな最強の傭兵。どう? カッコいいでしょ?」
〈自分で言うなぁし~〉
さて、どうしようか。
かの有名な魔法使い、ほうき使いのジュカ=レディは、
周りからバカにされながら、自分の理論を信じて、
物語に出てくるような空飛ぶほうきの魔法を発明した。
カルディアの父と呼ばれた、
伝説のメカニックデザイナー、フジイは、
重力魔法を応用して、鋼鉄の塊であるカルディアを、
浮遊・飛行させることに成功した。
また、新時代の奇術師トビラは、
キィズ魔法体系を使わず、独自の魔法体系だけで、
七十秒間の空中飛行を成し遂げた。
なら――
魔法使い、アリィス・テレジアはどうする。
「飛べないなら、羽を生やせばいい」
そう、
鳥みたいに。
「オーパス・ナインティファイブ、『新世界より』――展開」
〈おぉ? アリィス、なにか思いついたぁ~?〉
私の呼びかけに応じて、
ブックホルスターから魔導書がひとりでに飛び出す。
ぱらり、と白紙のページが開く。
「魔法機械工学の領域では、アスハイロストの主な交通手段である飛行艇やエアクラフトを、より効率よく飛ばすために、日々、最新の告式が研究されている」
独り言をつぶやきながら、私はペンを走らせる。
告式のインクは、魔法血液とラピスラズリ粉末を混ぜたもの。
術紋のインクは、魔力血液と染料を混ぜたもの。
触媒のインクは、瘴気を溶かした黒のインク。
それぞれ専用のインクを使う、間違えてはいけない。
ただ、熟練の魔法使いでも間違えることはあるので、
失敗しても気にせずに再挑戦しよう。
「(まぁ、私は絶対に失敗しないけど……)」
落ちながら、
空のど真ん中で魔法譜を書き記していく。
〈アリィスぅ~、なに書いてるの~?〉
「私に羽を生やすための魔法の譜。えっと……【ディステルの骨格新論】と【ファダム式変身魔法】の一部を応用して、魔法温度は32度シータ以下に調整。さらに、【マルシェの火契】と【飛対録】は便利だからとりあえず入れておいて、触媒は少々。術紋は……あ、そうだ。牢獄艇でも書いてぇー、っと。これで完成」
さっとペンを滑らせ、見開きいっぱいに新たな魔法譜を書き上げる。文字と絵がじわじわと赤く変色すれば、契約成功。この魔導書の契約者である私は、完成させた魔法を発動することができる。
私は、新たに創り上げた魔法譜の告式を詠唱した。
瞬間――
背中から、まるで花が開くように、鳥の羽を模した人工骨格が生成される。不思議な感覚だけど、その羽は私の体の一部だと脳は認識している。だから、手や足を動かすように、私の意志で羽を羽ばたかすことができた。
空を、飛んでいる。
――鳥のように。風のように。
―― 5.『竜理の国』 ――
雲海へとダイブする。
大きく羽を打ち、
アリィスはさらに下へ、下へと降りていく。
この先には何が待っているのだろうか。
アスハイロストの夜空を落ちて、
竜の背の大穴の向こう側へ――
『竜理の国』とは、いったい。
傭兵として淡々と任務をこなすだけの日々を生きてきたアリィスは、いまだけは、年相応の少女のように。未知を前にした魔法使いのように、その瞳を輝かせていた。
雲海から再び空へと抜ける。
突き破ってきた雲が、白い尾となって彼女を追う。
その姿は、さながら彗星。
金色の髪をなびかせた少女が、一つの星になって、
どこか遠い銀河から、この世界へ墜ちてくる。
そんな、御伽噺の幕開けのように――
アリィスとイフは、
同じ眼、同じ視点から、新たな世界を。
見た。
〈うわぁ~!! アリィスあれっ!! すっごいおっきな街!!〉
「……うん。これが……竜理の国――」
青と青を超え、晴天を落ちた先。
そこには、天を衝く摩天楼で埋め尽くされた、新世界があった。
どこまでも、どこまでも続く終わりなき都市。
地平線の彼方では、超高層ビル群が蜃気楼のように揺れながら、何層にも重なっていた。果てなど最初から存在しない、と錯覚してしまうほど、地上のすべてが無数の高層建築と、幾重にも交差した道路に呑み込まれていた。
天を照らす太陽の明かりさえも押し返すほど、圧倒的な、都市のネオンと光。――企業名や識別コードを掲げた超高層ビルのあいだを、何本もの高架道路が蜘蛛の巣みたいに這い回る。それはまるで、都市全体に血を送り続ける血管のようだ。
宙にはホログラムの立体広告やオブジェクトが浮遊し、箱型の飛行ビークルや無数のドローンが、層をなして、魚の群れのようにビルの谷間を流れている。
無限の光が、無限の情報が、無限の移動が、
絶え間なく都市を更新し続けている。
まるで、この世界そのものがひとつの巨大な演算基盤であり、走る車の流れが都市を動かし、人の流れが都市を生かし、データの奔流が都市の心臓を鼓動させているようだった。――終わることのない歯車仕掛けの永久機関。膨張し続ける情報宇宙。その内部に、人も、建物も、光も、音も、すべてが組み込まれている。
アリィスは、都市の光景に圧倒され、
羽を羽ばたかせたまま、完全に言葉を失っていた。
都市国家を基本単位とするアスハイロストでは、都市同士の交流は最低限の交易と観光に限られている。聖戦や内戦が絶えず、昨日まで存在していた街が、今日には地図から消えることも珍しくない。――都市を繋ぐ道路が整備されることもほとんどなく、長距離移動は空路か海路が中心。車文化もとうの昔に廃れ、旧世界の科学技術の多くは、魔法起動式へ置き換えられて久しい。
だからこそ、アリィスには信じられなかった。
ここは、本当にアスハイロストの一部なのだろうか。
そんな疑問が、胸の底から静かに浮かび上がってくる。
アスハイロスト全域を統べるアークステラの力すら届かない別世界――そんな噂はたしかに聞いていた。けれど、まさかここまで徹底して“別の文明”が息づいているとは、アリィスも想像していなかった。
「こっからどうしようね、イフ」
〈まずは任務かなぁ~?〉
「だねー。とはいっても、情報量がすごすぎて……」
〈おっきすぎて、目がチカチカするよ~〉
アリィスとイフは、そろって首を傾げた。
◆
◇
◆
気がつけば、都市のすぐ上空まで降りてきていたアリィス。
――そのとき。
背後から、無機質な機械音声が唐突に鳴り響く。
「配達経路に異物を発見。エラー、エラー」
振り返る。
そこにいたのは、段ボール箱を四本のアームで抱えた小型ドローンだった。単眼のようなライトが赤く点滅し、アリィスを不審物として認識している。――アリィスは咄嗟に、その場から離れようとする。だが、次の瞬間。
生成した羽が、
ぱっと消滅してしまう。
魔力切れだ。
〈ちょっとアリィス~。デジャブだよー! また落ちる~っ!!〉
視線を下へ向ける。
そこには、絶えず車が通過する車道が遠くにあった。かなり低い位置まで降りてきたとはいえ、アリィスの現在地は、なお高層ビルの屋上より高い。
ここから落ちれば、無事では済まない。
そんなことは、考えるまでもなかった。
アリィスは今度こそ、と命じる。
「この引きこもり! 言うことを聞きなさいって!」
――落ちる、刹那。
彼女の左腕から、触手が弾けるように飛び出し、
目の前のドローンをがしりと掴んだ。
〈おぉ~! 危機一髪だぁ!〉
「ふぅ……助かったー」
だが、アリィスの災難はそこで終わらなかった。
「え? え、どこ行くの?」
「エラー、エラー。ルートを変更し、メンテナンス区画へ移動します」
アリィスをぶら下げたまま急加速するドローン。
「ちょ、ちょっと待って!」
小柄な身体が一気に引っ張られる。猫じゃらしみたいに、右へ、左へ、前へと振り回されるアリィス。だが、ここで触手を解けば、そのまま道路へ真っ逆さま。
いまや、左腕から伸びた触手だけが彼女の命綱だった。
ビルの谷間を縫うように、ドローンは都市の空気を切り裂いていく。眼下の車道では車が途切れず流れ、頭上では別のドローンが何層にも交差していく。浮遊しているホログラムの広告が視界の端で流れ、アリィスの頬を赤や青に染めた。
そのとき。
前方から、飛行ビークルのバスが迫ってくる。
巨大な箱型の車体が、空中の魔力レーンを唸りながら滑ってきた。
側面の窓越しに、乗客たちの顔がいっせいにこちらを向く。
「おい、あれ! 女の子がドローンにぶら下がってるぞ!!」
深くため息をつくアリィス。
「はぁ……いやいや、アクション映画じゃないんだからさぁ」
触手を振り子みたいにしならせ、タイミングを計る。ひゅん、と身体が大きく振れた瞬間――アリィスは、近くのビルの窓ガラスを足場にして、強く蹴る。反動で宙へと跳び、くるりと一回転。そのまま、飛行バスの屋根へ軽やかに着地した。
「――っと!」
ブーツの靴底が、金属の屋根をきゅっと擦る。
だが、ドローンは止まらない。
触手の先でなおも暴れながら、前方へ飛び続けている。
〈アリィス、どうするのよぉ~!〉
「……もうさ、このまま行けるとこまで行ってみよっか」
アリィスはふっと目を閉じた。
都市は、独特のにおいと音に満ちている。
無機質な金属と、魔力血液の気化したにおい。
雨の残り香みたいな湿った空気。
遠く近くで重なり合うエンジン音、
警告音、雑踏、広告放送。
未知の都市、落ち着かない旅の始まり。
――それでも。
アリィスは、不思議とわくわくしていた。




