15|『テンタクルウィッチ・シュガーゴースト』
アリィスは空を見上げた。
ライラックシティを外側から包んでいた、あの紫色の天体。その内側に入ったいま、それを直接認識することはできなかった。頭上に広がっているのは、無数の星々が瞬く夜空。白銀色の満月。そして、シャボン玉みたいに浮遊する水の球。
耳をすませば、どこか遠くからふくろうの鳴き声が聞こえる。
小人エリアからアリィスたちが次に向かったのは、魔法機械工学エリアだった。今度は、小人エリアの街路の隅に置かれた巨大な自動販売機の下を通って向こう側へ抜ける。その先にあったのは――十数機ものカルディアが展示された、白い倉庫。
周囲の物体や人のスケールは普通に戻っている。
広大な倉庫の中には、魔法起動機兵がガラスパネルに囲まれて展示されていた。
量産機、個性的なデザインの機体、有名パイロットがかつて搭乗していた機体などが、白を基調とした清潔な空間の中、来場者たちを遥か高みから見下ろしている。
壁際にはディスプレイ用の什器が並び、カルディアのパーツが製造企業ごとに分けて展示されていた。天井からは、原寸大で作られたカルディアの模型がワイヤーで吊り下げられている。
巨人の人形の次は、人型の機兵。
アリィスは目を輝かせ、目の前の赤い機体へ駆け寄った。
「ヘルファイア第二世代だ! こうしてちゃんと見てみると、こいつのデザインけっこうカッコいいな!」
〈アリィスはちゃんと見る前に触手でもぐもぐしちゃったもんねぇ~〉
イフもアリィスの隣に並び、赤い機体を見上げている。
機体を囲むガラスパネルには、製造年月、開発企業、メカニックデザイナーの名前や詳しい解説などが刻まれていた。どうやらこの竜理の国でも、ヘルファイア第二世代は、手に入れやすいお手頃価格の量産機として人気があるらしい。
ウィンターも近くまでやってきて、補足するように話し始める。
「ちなみに。この国やと、パイロットが魔導エクスマキナで反射神経とか脳の処理速度を上げてたりするから、チープなカルディア相手でも油断したらダメだかんねぇ」
「魔導エクスマキナってそんなに簡単に手に入れられるもんなのか?」
「ぶっちゃけ、ピンキリじゃんね。んでも、魔導エクスマキナを埋め込む手術は資格さえ持ってれば、アタシみたいに個人でクリニックやってる医師でもできるし。ていうかそもそも、治安が悪い街とかだと、資格なしで改造手術やってる本物のヤブ医者とかゴロゴロいるかんね」
ウィンターは目を伏せる。
「……金無いやつとかは、わざわざそういう街まで行って、安い値段で改造してたりすんね。まぁ、その代わり、失敗して死んでも自業自得ってわけさ」
「へー」
アリィスはウィンターの話を聞きながら、ふと疑問を抱く。
「あれ? ウィンターはどっちなんだっけ? ヤブ医者だけど資格は持ってるの?」
「きみぃ、ずいぶんと失礼ねぇ。お姉さん泣いちゃうよー。アタシはこれでも、一番上の一級資格を持った魔法医師なのだよ」
ウィンターは鼻の下を指でこすり、妙に得意げに胸を張る。
「それにさー? ヤブ医者って能力が劣った医者のことだから。アタシ、これでも、能力、ある、医者、なん!」
〈なにその言い方……?〉
イフは大変困惑した目で、ウィンターを横目に見ていた。
アリィスはガラスパネルの前から離れて、倉庫の中を見渡す。
「(……サナがいない?)」
イフとウィンターは、すぐ近くでカルディアの展示を見ている。だが、いつの間にかサナの姿だけが消えていた。たしかに、地図を覚えるのは苦手だと言っていた。だが、この一瞬ではぐれるとなると、もはやそれは短所ではなく超能力である。
倉庫の中央では、各企業のスーツを着た社員たちが、自社の新型カルディアを来場者へ紹介していた。その中にはテロメア社のブースもあり、サンフロゥやキルキリカといった見慣れた人物の姿もある。
そして、アリィスは気づいた。
倉庫全体が、かすかな銀色の煙に満ちていることに。最初は照明か、展示演出の一部のようにも思えた。けれど、その煙には覚えがある。爽やかで、涼やかな空気の匂い。それは間違いなく、リューガローガを静かに満たしていた煙と同じだった。
アリィスはイフを右眼へ呼び戻し、低く命じる。
「イフ、周囲を探って。ナスタルギアでしか見えないものがあるかもしれない」
〈了解だよっ! ……うーんとね~、あっ! あそこの壁、なんか変かもぉ~〉
イフが示した方へ、アリィスは駆け出した。それを見たウィンターも、慌てて彼女のあとを追う。――そこにあったのは、一見すると何の変哲もない壁だった。
しかし、アリィスがそっと手を伸ばすと、指先が、壁の表面へ沈んだ。壁はまるで煙のように揺らめき、アリィスの手を向こう側へすり抜けさせる。
「おーい、アリィス。なんだよその壁、気味悪ぃな。んで、サナは?」
「行方不明。どうやらサナの方が、迷子の天才だったみたいだな」
「いや、それはどうかにゃー? やっぱりアタシの方が――って、おぉおい!!」
ウィンターが言い終える前に、アリィスは壁の中へ飛び込んだ。
取り残されたウィンターは、前髪を指先でくるくる回す。
「はぁ……行くしかないよね、この流れ。やー、どうにでもなれーっ!」
ぶつぶつと独り言をこぼす。
それから最後に大きく深呼吸し、ウィンターも壁の中へ飛び込んだ。
その光景を、テロメア社の展示ブースにいたキルキリカが、黙って見ていた。
―― 15.『テンタクルウィッチ・シュガーゴースト』 ――
壁の向こうへ飛び込んだアリィス。
刹那、体が宙に浮いて、なにか柔らかいモノの上に着地する。その瞬間、アリィスの下から「むぴィぁ!」と奇妙な悲鳴が鳴った。――視線をゆっくりと落としていくと、そこには、着地したアリィスに踏み潰された黒髪の女の姿があった。
女は、路上でくたばったカエルみたいなポーズで、床にべちゃっと打ちつけられている。身にまとっているのは、真っ赤なインクでびっしりと魔法譜が書き込まれたクローク。――その女の口から、白い靄がふわりと漏れた。
靄はゆっくりと人の形を取り、
やがて半透明の幽体になる。
ふわふわと宙に浮かぶ幽体の女が、
恨めしそうな目でアリィスのことをじっと睨んだ。
「……私のこと、踏んだの……だれだ――」
だが、女はアリィスの顔をはっきり認識した瞬間、また奇妙な悲鳴を上げる。
「ぴィぇやぁ……! で、でた……でたぁ……なんで、おまえ……ここに……!」
アリィスは、踏みつけていた女の実体から足をどける。
そして、目の前に浮かぶ幽体の女を見上げた。
「――ん? あっ、てめぇ!! ネプオンっ!!」
「ありぃす……てれじあっ……!!」
二人は互いに名前を呼び合って、喧嘩中の猫のように背中を丸めた。低く構えて、先に動き出したのはアリィスだった。数歩動けば壁にぶつかるような、立方体の狭い密室。アリィスは左腕から触手を伸ばし、鋭くネプオンへ叩きつける。
――床に倒れた肉体へ魂を戻す、ネプオン。すぐさま、クロークの隙間から漆黒の触手を伸ばして、アリィスの攻撃を受け止めた。ネプオンの触手は、アリィスのものよりもかなり太い。タコの吸盤が無数に並び、ぬらぬらと不気味に輝いていた。
四方の壁に絵画が飾られた、薄暗い密室。
その中央で、アリィスとネプオンは触手と触手をぶつけ合う。
鈍い衝撃音。
舞い上がる埃。
揺れる絵画。
その埃をまともに吸い込んだネプオンが、
大きく声を破裂させ、くしゃみをした。
「びぁ……ぶしぁゃっ!!」
「うおぉ、きったねぇぇっ!!」
アリィスは反射的に、くしゃみの飛沫を避けようとして姿勢を崩した。その一瞬を、ネプオンは見逃さなかった。太い触手がアリィスの全身へ巻きつき、床へ引き倒す。そのまま、ぐるぐる巻きにして拘束した。
ネプオンはギザギザの歯をのぞかせ、不気味に笑う。
「うへへ……私の、かち……ざまぁ……!」
「は、離せぇ!! このやろーっ!!」
〈これは完全にアリィスの負けだね~〉
イフは空白の世界から、冷静に二人のキャットファイトを観戦していた。
しばらくジタバタと暴れていたアリィスは、やがて動きを止める。
「……降参。私の負けだ」
ネプオンは、まるで檻からライオンを解き放つみたいに警戒しながら、そろそろとアリィスを解放した。そしてすぐに部屋の角へ逃げ、距離を取る。
アリィスは服についた埃を払いながら、ぺたんと床へ座り込んだ。
「まぁ、いったん冷静に話し合おうか。ネプオン」
「さきにケンカ売ってきたの……おまえ……だろ……」
アリィスを睨みながら、ネプオンも対角線上の反対側へ座った。
「で、ネプオン。久しぶりだな。なんでここに?」
「ありぃすこそ……なんで……りゅうりの国に……」
「私は任務だよ」
〈それにしても、まさかこの二人がここで再会するとはねぇ~〉
右眼の奥で、イフがかつての日を思い返していた。
墨を垂らしたような濡羽色の髪、三つ編みのハーフアップ。重たいまぶたと、目元の大きなクマ。ギザギザの歯。赤いインクで呪文のように魔法譜が書かれたクロークが全身を覆い隠す。――彼女の名前は、ネプオン・チェシア。
異名、呪いの魔序。
一時期アリィスとともにアスハイロストを旅したかつての仲間であり、ある事件をきっかけに袂を分かつことになった好敵手でもある。
それは、二年前のこと。
当時、同じアトリエに所属していたアリィスとネプオンは、アスハイロストの地表を汚染する瘴気への新たな対抗策として、浄化魔法【イ=ルハの灯儀】を共同開発した。その研究結果が魔序協会に認められ、二人には“魔序”の称号が与えられた。
しかしある日。
色彩と呪い、二人の魔序は互いに別々の道を歩むことになる。その原因は主に、ネプオンの趣味のせいだった。呪術領域が専門のネプオンは、毎日のように魔法で新しい触手を生み出しては、小瓶に保管して可愛がっていた。
そのうちの一匹が逃げ出し、深夜、眠っていたアリィスの部屋を襲撃したのである。結果、アリィスの左腕には触手が寄生。その事件がきっかけで、アリィスはアトリエを飛び出し、ネプオンと絶交したのだった。
ネプオンは目を伏せ、ぼそっと呟く。
「あの……ありぃす。……あのとき、は……ごめん……」
「大丈夫だよ、ネプオン。謝らなくても。だって絶対に許さないから」
〈うわぁ~、アリィスの目が怖いよ~〉
アリィスの冷たい視線に刺され、ネプオンは膝を抱えてさらに小さくなった。四方の壁の絵画に描かれた四人の男が、二人の沈黙をじっと見ている。
やがて、アリィスが口を開いた。
その声が、狭い密室にかすかに反響する。
「んで、なんでネプオンがこの博物館にいんだよ」
「……やとわれた……から……学芸員、と……して……」
「はぁ? お前が学芸員って――あぁ、そういえば。マップに書いてあったな。たしか、呪術・呪物エリアだっけ? そこの担当? なら、お似合いだけど」
「うん……じゅじゅちゅ……じゅずつ、ずぶつえりあ……、……いえない……」
〈まったく言えてない〉
ネプオンは諦めず、もう一度挑戦する。
「じゅ、じゅ、つ……じゅ、ぶ、ちゅ……あ――」
「もういいよ。呪術・呪物エリアね」
「……ありぃす……かつぜつ……いい……」
「そんなことはどうでもよくて。私と一緒に来てた人がさ、急にいなくなったんだよ。ネプオン、なんか知らない? ってか、この変な部屋はなんだよ」
魔法機械工学エリアの倉庫の壁を通り抜けた先。
薄暗く、埃っぽく、ドアもない狭い密室。
アリィスはあらためて室内を見渡し、肩をすくめた。
ネプオンは、クロークの隙間からはみ出た太い触手を引きずりながら、のそっと立ち上がる。
「ここ……私の、ひみつ……きち……」
「秘密基地?」
「そう……さぼりべや……ふふふふふふ」
〈笑い方こわぁ~ぃ〉
「――じゅずつ、ずぶつえりあ、は……こっち……」
そう言って、ネプオンはアリィスがこの部屋へ吐き出された絵画とは反対側の壁へ向かう。そこに飾られた絵画の中へ、彼女はそのまま足を踏み入れた。
水面のように絵画が揺らめく。
ネプオンの体は、壁の向こう側へするりと消えていった。
アリィスも立ち上がり、そのあとを追おうとする。
そのとき。
あることに気づいたイフが、右眼の奥から声をかけた。
〈ねぇアリィス~。ウィンターは?〉
「……、え?」
いない。
「もしかして、二人とも迷子?」
〈ま、まっさか~?〉
アリィスは頭を抱えて、深く長いため息を吐いた。
◆
◇
◆
絵画を通り抜けた先は、気味の悪い展示品が大量に保管された、呪術・呪物エリアに繋がっていた。古びた洋館をテーマにデザインされた展示スペース。室内には、薄汚れたアンティーク家具が、埃と蜘蛛の巣にまみれて置かれている。
結界魔法を使って創り出された半透明な魔力の箱の中に、不気味なオーラを放つ“物”が展示されている。血濡れた黄金の王冠、錆びついて刃が欠けた刀剣、切り取られた右手と一体化したリボルバー。その他、眼球の鍵や、クリスタルの頭蓋骨、ムカデの足が生えたへその緒や、呪文が描かれた紫色の心臓などもあった。
どれも、ただそこにあるだけで、
空気をじっとりと腐らせるような存在感を放っている。
壁には恐ろしい絵画が飾られ、さまざまな色、形、大きさのドアが、意味もなく並んでいた。――窓の向こうの景色もばらばらだ。ある窓には、月夜の沼地。ある窓には、骨だけになった人々が海水浴を楽しむビーチが映っている。
そして何故か、部屋全体がわずかに傾いていた。
思わず足を取られそうになるアリィス。
その姿を見て、ネプオンがぼそりと言う。
「……へや、かたむいてる……から……きをつけて……」
「入ってから言うな、遅ぇよ」
「ふひひひひ……!」
「なんでこの部屋、傾いてんの?」
「……おもしろい……から……」
〈理由になってねぇ~〉
アリィスは室内を見渡し、鼻をひくつかせた。埃っぽい空気の中に、砂糖を煮詰めたような、甘ったるい香りが混ざっている。
その匂いに気づいた直後――
壁に並ぶドアのひとつが、ガタガタと音を立て始めた。
アリィスとネプオンは、反射的に肩を寄せ合う。
「な、なんだよ。演出か?」
「ちが……う……。なにか……どあの、むこうに……いる……っ!」
次の瞬間、勢いよくドアを破壊して室内に飛び込んできたのは、全身が青く染まったウィンターだった。そのままウィンターは、虫のような格好で傾いた床に這いつくばり、アリィスたちの方へ高速で迫ってくる。
右眼の奥で、イフが絶叫する。
〈ぎゃぁ~~っっ!!! お化けぇ~!!〉
もはや、そういうアトラクションだった。
ネプオンは、ウィンターの口元に付着した赤黒い液体に気づいて、声を上げる。
「あ、アレは……! それに……この、におい……のろいの、びーる……!!」
「うぉっと! って、呪いのビール? なんだよそれ、ネプオン!」
アリィスとネプオンは、四つん這いで迫ってくるウィンターから逃げながら、言葉を飛ばし合う。
「展示物の、じゅぶつ……の、ひとつ……! 酒好き、を操って……むりやり……飲ませて……センノウする……!! おそろしい、のろい……!!」
「――えーっと、つまり? ウィンターはその曰くつきビールに操られているってことだな、ネプオン。で、どうすればいい。お前、専門家だろ?」
ネプオンは息を切らして走りながら、
ウィンターが破壊してきたドアの先を指差す。
「あそこ……そうこ……! 本体、ある……っ!! 浄化、すれば……っ!!」
「オッケー!!」
〈うっぎゃぁ~!! アリィス、はやくなんとかしてぇ~!!〉
アリィスは天井から吊り下げられたシャンデリアへ触手を伸ばす。それを軸にして体を空中へ跳ね上げ、そのまま壊れたドアの向こうへ飛び込んだ。
倉庫の中央には、ひとつの台座が鎮座していた。
その上に置かれていたのは、ビール瓶。
中では赤黒い液体が、どくん、どくんと脈打っている。
台座の前へ着地するアリィス。
「――結界魔法が解かれている。こいつをどうすれば……?」
背後の展示室から、ネプオンの必死な声が飛んでくる。
「かい、じゅ……!! 解呪、して……ありぃす……!!」
「いや、お前がやれよ!! 呪いの魔序だろ!!」
「ぶひゃぁぁー……っっ!!」
ネプオンは情けない声を上げながら、派手に転んでいた。
そんな彼女の背中に、容赦なくウィンターがのしかかる。
――そのまま拳を振り下ろした。
しかし、非力なウィンターでは、
猫パンチ程度の威力しか出ない。
「よかった、ウィンターが弱くて。――で、どうやって呪いを解こうか」
アリィスは倉庫の中に置かれていた黒板とチョークを見つける。
それを使い、彼女はその場で魔法を組み立て始めた。さらさらと、アーキ語と英語を織り交ぜた式が、黒板の上へ紡がれていく。
背後の展示室では、
ネプオンがウィンターのか弱いパンチを受け続けていた。
「呪いの原因となっている不純物を取り出すために――まずは、えーっと。ビールをパンに再構築……麦、水、ホップをこっちにやって……」
口に出しながら式を組み立てていくアリィス。そのときだった。ウィンターが標的を変えて、今度は倉庫の中のアリィスへ向かって這い出した。
イフが気づいて、叫ぶ。
〈――アリィス!! きてる、こっちきてるよぉ~!!〉
「あーもうっ! ……ネプオン、立てっ!! 今度は私が注意を引きつけるから、式を完成させて!!」
アリィスは、展示室の隅で小さく丸まっているネプオンへ、持っていたチョークを思いきり投げつける。それから再びシャンデリアへ触手を伸ばし、展示室の中へ飛んだ。――空中でピストルを引き抜く。狙いは、ウィンターの背中。
麻酔弾を撃つ。
弾丸は命中した。
だが、ウィンターは止まらない。
「おいこの、アル中一級資格ドクターっ!! こっちこい!!」
〈アリィス~、それもう褒めてるよねぇ~!!〉
床へ受け身を取って着地したアリィスは、そのままウィンターへ向かって触手を薙いだ。床がえぐれ、木の粉が宙に舞う。
一方、ネプオンは傾いた床の上を転がっていくチョークを拾い上げ、倉庫へ駆け込んでいた。黒板には、アリィスが途中まで組み立てた式が残っている。
ネプオンはそれを見て、ぼそぼそと呟いた。
「えっと……なるほど……ここが、こう……で……」
その背中へ向かって、ウィンターの攻撃を避けながらアリィスが叫ぶ。
「大麦、ホルデイン!! 小麦、グルテン!! あとは分かるでしょっ!!」
「う……うん……。やっぱり……ありぃす、字……きれい……」
ネプオンはアリィスの助言を頼りに、チョークを走らせる。
黒板の式が完成していく。
ただし彼女の字は、ミミズが這ったように汚かった。
数秒後――
二人の魔序によって組み上げられた魔法。
ネプオンは呪いのビールに手をかざしながら詠唱する。
「――いくよ……再構築……っ!!」
魔法陣がビール瓶を中心に浮かび上がる。
ガラス容器の中で脈動していた赤黒い液体が、絵の具のように溶けていく。どろりと色を失い、形を変え、やがてその液体は一個のパンへと再構築された。
内側でパンが膨張し、瓶が粉々に割れる。
すると、そこから形のない声たちが溢れ出した。声は倉庫の中へ拡散し、壁、床、天井に、苦悶の表情を浮かべる亡者の顔を染み出させる。
やがて――
倉庫の中に、静寂が訪れる。
「ふぃぃ……おわった……」
一方、展示室では、顔色がもとに戻ったウィンターが、アリィスの膝の中で呑気に寝息を立てていた。これで終わり――そう思われた、その直後だった。
ウィンターが暴れ回った影響で、近くに置かれていたショーケースが割れていた。その中に展示されていた赤いリボンが、床へ落ちる。
リボンは、意思を持ったようにぴくりと動いた。
そして、アリィスへ襲いかかる。
「――え?」
逃げられない。
赤いリボンは、アリィスの頭上へ跳んだ。
ふわり。
するり。
きゅ、と結ばれる。
何が起きたのか理解できず、アリィスはきょろきょろと部屋の中を見渡す。――次の瞬間、壁に掛かった鏡に、自分の姿が映った。
「はぁぁぁっ!?」
そこには、赤いリボンで黄金の髪を二つに結んだ少女。
ツインテールになったアリィス・テレジアが座っていた。




