11|『分かつ軌跡のキルキリカ』
メインストリートから少し外れた場所にあるアパレルショップで、アリィスは服を選んでいた。ルッカから貰った服は、普段着としてはなんだかんだ気に入っている。だが、非常時には動きづらい。だからいま探しているのは、任務用の服だった。
店の外。通りを挟んだ反対側の歩道、花壇の陰には、アリィスのことをこっそり尾行しているサナの姿がある。イフはとっくにその尾行に気づいていた。だが、あえてアリィスには黙っている。理由は単純で、そのほうが、面白くなりそうだからだ。
ハート型のサングラスに、癖しかないデザインのタンクトップ。そんな格好をした店員が、むずかしい顔で店内を見回るアリィスへ、そっと近づいてくる。
「あのぉー、なにかお探しですか?」
「そうだな。できるだけ動きやすくて、汚れが付きにくい服を探している。あと、顔を隠せる被り物のようなものもあると助かる」
「え……なにか物騒なことしようとしてます?」
「いや、仕事で必要になったから買いに来ただけだ」
〈その仕事がちょぉ~っと物騒なんだけどね~〉
アリィスは、今晩のうちにウィンターから受けた依頼を片づけるつもりだった。潜入先が、たとえ超巨大企業の軍事工場だとしても、計画はあとで考える。まずはノリと勢いで飛び込んでみる。それが、傭兵アリィス・テレジアの仕事の流儀だった。
つまり、なんとかなるの精神である。
そして実際、彼女はこのやり方で一度も失敗したことがない。
一方そのころ。
尾行中のサナは、花壇の陰でひとり首をかしげていた。
「なんで服屋さんに? アリィスさん、ご飯を買いに行くんじゃなかったのかな」
彼女の背後を、人々が何事もない顔で通り過ぎていく。隠れているサナの後ろ姿を視界から外しながら、見ないふりをして。――変なひとには関わらない。厄介事に巻き込まれたくないのは、誰だって同じだった。
店員は、ハンガーラックにかかった服を持ち上げては首をひねり、あれこれ見比べる。そして数十秒後、何かひとつ決意した顔で戻ってきた。
その手にあったのは――
濃い紫色の、布地があまりにも薄いキャミソールだった。
「あのぉ、お客さん。こちらはどうでしょう?」
「なっ! なんだそのハレンチな服はっ! 私は絶対に着ないぞ!」
〈この独特なカッコーの店員のセンスを信じたアリィスが悪いと思うよ~〉
空白の世界で、イフがなかなか辛辣なことを言っていた。
「もういい! やっぱり自分で探すもん!」
「そ、そうですかー。ではごゆっくりー」
それからさらに数分間かけてアリィスが最終的に選んだのは、清掃現場で使われるような、真っ黒なつなぎ服だった。被り物はピエロかホッケーマスクしかなく、そんなものを被ってたらあまりにも怖すぎるので、顔は隠さないことにした。
服を着替えるためキャンピングカーへ戻っていくアリィスを、サナがこそこそと追いかける。その様子を見ながら、イフは静かに笑っていた。
*
立体駐車場。
キャンピングカーのドアを開け、アリィスが車室へ足を踏み入れた、その瞬間。車内のライトが、まるで彼女を待っていたかのように、ぱっと自動で灯る。
そして、いつの間にか助手席に座っていた男が口を開く。
「アリィス先生。我々に報告もせず、街の住人から依頼を受けたみたいですね」
「ポテトフライっ! お前、この登場の仕方気に入ってんのか?」
〈この不審者っ! いも野郎!!〉
言うだけ言ってから、アリィスは、勝手に車内へ入り込んでいたイモスコのことなどお構いなしに、仕切りのカーテンを閉めて着替え始める。
イモスコはひとつ咳払いをしてから、言葉を継いだ。
「自分の首に嵌められた首輪のこと、お忘れではないですよね?」
「おい、イモスコ。さっきからなんの話してんだ? お前、学校の教頭だろ?」
上着を脱ぎながら、アリィスはわざととぼけた口調で返す。
「えぇ、そうですね。では……授業について、なにか報告することはないですか?」
「なるほど、そのことについて聞きたかったなら最初からそう言えよ。牢獄艇の囚人、ギンスナ。そいつが前回の授業に現れた。で、ギンスナもナスタルギアの契約者だった。報告はこれで十分か? ポテトフライ」
「ご報告、ありがとうございます。それでは、奪われたナスタルギアについて追加の情報がございます」
イモスコは、助手席で背筋を正したまま、淡々と続ける。
「まず、奪われたナスタルギアは三つ。そして、そのすべてがこの竜理の国にあることが判明しました。奪った人物や組織などは、未だ不明――」
つなぎのチャックを上げながら、アリィスが言葉を差し挟む。
「三つ、ね。了解。ギンスナのナスタルギアは対象なのか?」
「いえ。彼女のナスタルギアは今回の件とは無関係です。よって、回収は不要です。……あと、アリィス先生。こちらを」
イモスコは、仕切りの隙間から車室へ手を差し入れる。
着替え終わったアリィスは、
その手の中のものを素早くひったくるように受け取った。
――それは、小さな“銀の鍵”だった。
「銀の鍵? もしかして、頼んでたのが完成したのか?」
「えぇ。これで、お二人の旅がより快適になるかと」
「テレトロイカのことだから、どうせ忘れてるだろうと思ってた。意外と真面目なんだな、あいつ。今回だけは感謝してるって伝えといてくれ」
「承知しました。では、これで……」
イモスコは丁寧に一礼し、
キャンピングカーを降りていく。
柱の陰へ隠れていたサナは慌てて身を引き、
イモスコから見えない位置へ移動した。
「あの紳士、誰でしょうか……?」
杖を突きながら、イモスコは静かに去っていく。
一方、キャンピングカーの車室。
アリィスは銀の鍵を手の中で転がしながら、イフへ声をかける。
「イフ? アップグレードしたいからさ、門を開いて」
〈了解だよ~。これでついに、イフちゃんもお外へ!!〉
ソファーへ深く腰を沈め、アリィスは両目を大きく見開く。
次の瞬間。彼女の赤い右眼が、赫々と燃えるように輝き始めた。瞳の奥に魔法陣が浮かぶ――回転する――収束する。やがて、その中心に『鍵穴』が顕現した。
アリィスは銀の鍵を、
右眼の瞳に開いた鍵穴へ差し込む。
ゆっくりと。
鍵は、瞳の中へ吸い込まれていった。
――――
――
〈ぴぴぴ……! アップグレードかんりょ~!!〉
晴の歯車の内側で、イフが嬉しそうにはしゃいでいる。
アリィスの右眼からは、すでに鍵穴がきれいに消えていた。
「どう? イフ、なにか変わった?」
〈うーんとね~。ちょっとまってね……よし。ふんっ!!〉
イフが力を込めて叫んだ。
アリィスは、床の方へ落としていた視線をゆっくり持ち上げる。すると、そこに、白髪の少女が立っていた。幼い顔立ち、腹部にぽっかりと開いた穴。その中に嵌め込まれた大きな歯車が、高速で回転している。
彼女こそが、晴の歯車の主。
ナスタルギア・イフだった。
もっとも、あくまでアリィスの視界内で具現化できるようになったに過ぎない。変わらず他人には認識されないし、アリィス自身ですら触れることもできない。
それでも――
イフは、この世界に存在していた。
「久しぶり、イフ。とりあえず服着よっか。そういう機能とかあるんだっけ?」
〈ちょっとお待ちを~。ふんっ!!〉
また鼻息荒くイフが叫ぶと、変身するようにぱっとローブが現れ、彼女の素肌を包み込んだ。手が隠れてしまうほど大きな、ぶかぶかのローブだ。
「ふっ、ちっさ。イフってそんなに小さかった?」
〈あの~、アリィスに言われたくないんですけど~!!〉
イフは頬をぷくっと膨らませた。
やがて、彼女の腹部の歯車が軋むような音を立てはじめる。
「あれ? もう限界?」
〈かも~。アリィス、ばいばい~〉
イフは、泡が弾けるように、ぱっと消えてしまう。
「あら、消えちゃった。じゃあ、そろそろ行こっか。任務」
〈りょ!! 潜入任務だ~!!〉
いつものように。
イフの声が、アリィスの右眼の内側から元気よく響いた。
―― 11.『分かつ軌跡のキルキリカ』 ――
アリィスは非常階段を上りきり、
とあるビルの屋上へ出た。
場所は、鋼鉄の壁で囲われたテロメア社軍事工場の真正面。日付はすでに変わり、時刻は深夜ゼロ時半を回っている。アリィスはフェンス際まで歩み寄り、屋上から軍事工場の敷地内を見下ろした。
壁の圧によって巨大に見えていたが、こうして俯瞰すると、工場の敷地そのものは意外にコンパクトだ。背の低い平屋根の建物群が「ロ」の字を描くように配置され、その中央に、都市全体と同じく黒く磨き上げられた一棟のビルがそびえている。
おそらく、周囲の低層棟が機械設備の集まった工場本体。中央の高層ビルには、研究室やオフィスが入っているのだろう。アリィスはその位置関係を目でなぞるように確認し、頭の中へ正確に叩き込むと、フェンスから離れた。
そして屋上の床へ、ぺたりと座り込む。
それから、用意していた羊皮紙を広げ、四隅に重石をどんっ。続いて、紙の上に、空き瓶、羽根ペン、ナイフを並べると、アリィスはふんふんと鼻歌を歌い始めた。
その様子を、まだ尾行を続けていたサナが、
貯水槽の陰からおそるおそる覗いている。
「怖っ! アリィスさん、こんな深夜に、こんな場所で何をしてるんですか……」
そんなサナの困惑に気がつくこともなく、
アリィスは羽根ペンを手に取った。
迷いのない手つきで、羊皮紙の上にまず大きな円をひとつ描く。
その円を核にして、告式、触媒記号、幾何学図形、生物や植物の意匠、魔力の導線を、隙間なく、しかし美しい均衡を保ちながらぽんぽんと配置していく。
インクの線はためらいなく走り、
やがて羊皮紙の上には、一枚の絵画のように精緻な魔法陣が完成した。
「さて、仕上げ」
独り言のようにつぶやくと、アリィスはナイフを手に取る。
そして、刃先で、自分の左手のひらを浅く切った。
それは魔力血管を傷つけるための専用のナイフだった。切り口から、とろりと垂れてきたのは、白く濁った魔力の血液。アリィスはそれを空き瓶へ受けていく。
最後に、魔力血液を入れたその瓶を魔法陣の中央へどんっ。
ブックホルスターから魔導書を引き抜き、アリィスは静かに詠唱する。
「――手眼の花」
瞬間、瓶の中の魔力血液が白銀色の光を放つ。どくん、どくん、と脈打つように瓶の内側でうごめき始める。アリィスはその瓶を右手で掴み、躊躇なく握り潰した。
ぱきん、と音を立てて瓶が砕ける。飛び散った白銀色の魔力血液が手のひらを濡らし、その中心に、赤い眼のシンボルが浮かび上がった。
アリィスはその右手を、
すっと魔法陣の中央へ差し入れる。
ぬぷり、と音を立てるように、手のひらが羊皮紙へ沈んだ。紙の表面に水面のような波紋が広がり、右腕は肘のあたりまで見えなくなる。
アリィスは、そっと目を閉じた。
すると、まぶたの裏に、手のひらへ刻まれた“眼”の視点が映し出される。魔法陣に組み込んだ空間転移の魔法譜によって、彼女の右手はいま、工場内部の天井から突き出ていた。そのまま手をゆっくり動かせば、工場の中を覗き見ることができる。
視界の先では、
テロメア社の社員たちが黙々と作業していた。
〈アリィス~? どんなかんじ~?〉
「ここじゃなさそう。たぶん、研究データって書物みたいなのに記録されてるんだよね。でっかい本棚がどっかにあるはずなんだけど……」
〈あの~、アリィスさん~? イフも詳しくは知らないけど、デジタルデータが保存されてる場所って、サーバーみたいな名前の箱じゃないかな~?〉
「サーバー? なにそれ」
アリィスは目を閉じたまま、首を傾げた。
〈やっぱりダメだ~!! この人、魔法に関しては天才なのに、科学になると急にアホになるんだった~!!〉
「アホ言うな、イフ。だって、アスハイロストじゃ、科学の知識なんてほとんど役に立たなかったし。それに、魔法のほうが面白いもん」
〈もん、じゃないよ~!! あんたは子供かぁ~!!〉
「――あ、もしかしてこれかな。さーばー」
いつものように、イフとくだらないやり取りを交わしながらも、アリィスの意識はきっちり仕事をしていた。右手の眼が捉えたのは、青いライトが無数に走る一室。
壁際まで、縦に細長い箱のような機械が整然と並んでいる。
脳内に記録した工場の全体図と、現在の視点位置を照らし合わせる。そして、このサーバー室が、中央のビル内部の一室であることを、アリィスはすぐに把握した。
右手に伝わってくる空気は、ひやりと冷たい。
「問題はどうやってデータを消すか、だけど――」
アリィスは頭の中でいくつかのプランを組み立てつつ、右手をゆっくりと天井伝いに滑らせていく。隙間なく並んだサーバー群は、番号ごとに列で管理されていた。その上を、彼女の右手が、まるで小さな生き物のように中央へ向かって泳いでいく。
――その次の瞬間だった。
右手の眼が、あるものを捉える。
「なにこれ……?」
サーバー室の中央。そこに、明らかに場違いな円柱状のポッドが一基、ぽつんと置かれていた。内部は白銀色の液体で満たされている。その中で、一人の少女が、胎児のように身を丸めて眠っていた。
長い赤髪。人間離れした美しさと、神秘を宿した顔。
口元からは、ときおり、ぽこりと小さな泡が浮かび上がる。
アリィスは息を呑んだ。
未知の存在が放つ、抗いがたい引力。
引き寄せられるように、
その少女へ右手を伸ばそうとした。
そのとき。
頭上から、突如としてプロペラ音が鳴り響いた。アリィスは反射的に魔法陣から右手を引き抜き、ばっと顔を上げる。そこには、いままさにアリィスのいるビルの屋上へ着陸しようとしている、一機の軍用エアクラフトがあった。
機首のサーチライトが、容赦なくアリィスを照らし出す。眩い白光が夜の屋上を切り裂き、回転するプロペラが叩きつける風で、アリィスの金髪が激しく煽られた。
置いていた道具が細かく震える。
もう、ここから逃げられる状況ではない。
アリィスは深く、長いため息を吐いた。
「はぁ……どうしてこうなるかな」
〈アリィス~、あのエアクラフトって、サナの鎮圧に来たのと同じじゃない?〉
「そうね。ていうか、でかでかとテロメア社のロゴが描かれてるじゃない。ああいう組織のやつらって、ほんと自己主張つよいよねぇ」
アリィスはとくに焦る様子もなく、床に座ったまま片脚を崩した。
やがて、軍用エアクラフトは重々しい音を立てながら屋上へ降り立つ。
吹き荒れる風の向こう。
貯水槽の陰では、サナが息を殺し、
身を縮めたままその光景を見守っていた。
◇ ◇
◆
屋上に着陸したエアクラフトのカーゴドアが、勢いよく跳ね上がる。その中から降りてきたのは、車椅子の若い男と、背の高いブロンドヘアの女だった。
重装甲を纏った兵士の姿は、一人もない。
出てきたのは、その二人だけだ。
アリィスは、ブロンドヘアの女を見て小さくつぶやく。
「――あいつ、写真の……」
クリニックで見た写真に写っていた、ウィンターの同僚。間違いなくその人物だ。ウィンターの話では、自我を失って兵器になったと聞いていた。だが、少なくとも、アリィスの目にはそうは見えない。
その女は、テロメア社のロゴが胸元に刻まれた、艶のある上質なスーツを隙なく着こなしていた。髪は丁寧に整えられ、メイクも完璧。どこにも異常は感じられない。
車椅子の若い男が、タイヤを静かに回しながら、
アリィスの前まで近づいてくる。
そして、楚々とした微笑みを浮かべた。
「はじめまして。色彩の魔序、アリィス・テレジアさんですね。お会いできて光栄です」
〈ねぇ、アリィス。きれいな人だね~〉
右眼の内側で、イフが思わず声を漏らす。
女性的でたおやかな美しさを纏った、端正な顔立ちをした男だ。絹のような、長い銀髪。淡い青の瞳と、やわらかな目元。質のいい無地の和装に身を包み、裾からわずかに覗く足先は、クリスタルのように変質している。
アリィスは相変わらず、ぺたんと床に座ったまま。
いつもの調子で、車椅子の男へ問いを投げた。
「お前ら、何者だ?」
車椅子の男は横目で女に視線を送り、
それからまた、静かな微笑みを浮かべる。
「失礼、自己紹介がまだでした。僕の名前は、サンフロゥ・ヴァイセイスカ。テロメア社の顧問魔序をしています」
「え、お前もしかして魔序なの?」
「えぇ。協会から正式に、『轍の魔序』の称号を授かりました。アリィスさんのことは魔法使いとして心から尊敬しています。あなたの魔法論文も、すべて読ませていただきましたよ」
〈すごぉ!! アリィスのファンだぁ~!!〉
サンフロゥの言葉には、
嘘とは思えない、本物の熱と敬意がこもっていた。
だが、それでもアリィスは警戒を解かない。
今度は視線を、ブロンドヘアの女へ向ける。
「で、あんたは?」
「お前、その態度はどうかと思うが……ちっ、まあいい。私はキルキリカだ。警備部所属、現場指揮官をやっている。お前が妙な魔法を使って、うちの部下を勝手に現場から引かせたことは把握してるからな」
「勝手に? あんたの部下は指揮官の命令に従っただけだろ」
「だがら、その指揮官をお前が偽ったんだろうが!」
キルキリカが一歩踏み込み、声を荒げる。
サンフロゥは片手を上げて、その動きをやわらかく制した。
「まぁ、落ち着いてください。キルキリカ指揮官。僕たちは喧嘩をしにきたわけではない。……アリィスさんと、交渉をしに来たんだ」
「私と? 勝手に工場見学したことについてか?」
「そうですね。その件についてです。アリィスさん。あなたは、ウィンターに頼まれて、研究データを削除しようとした。そうでしょう?」
「……」
「さすがはプロの傭兵だ。依頼者については絶対に話さない。とても信頼できます。――ですが、そのうえで交渉を続けますね」
サンフロゥは、穏やかな声のまま言った。
「アリィスさん。今回の依頼は、諦めてください」
そう言って、彼は静かに頭を下げる。
だが、アリィスは沈黙を崩さなかった。
そのときだった。
夜の屋上を、何かが飛んだ。
一瞬。
目では追えない速度で、暗闇の中を何かが横切ったかと思うと――直後、アリィスの右眼の視界が、突然、布で覆われたみたいに真っ黒に染まった。
〈アリィス、大丈夫……? なにも見えないけど……〉
イフの不安げな声が、ナスタルギアの奥から響く。
「くそっ。何をされたのかわかんねぇけど、右眼が使えない。やっぱり、お前みたいな顔だけイケメン野郎は、端っから信用すべきじゃなかったんだな」
「あなたの右眼のナスタルギアは厄介なので、しばらくのあいだだけ使えなくしました。壊してはいないので安心してください。では、もう一度言います」
サンフロゥは微笑みを崩さない。
「今回の依頼は、諦めてください」
「だから、任務は――」
アリィスが言い返そうと口を開いた、その瞬間。
また、何かが飛んだ。
今度は首筋に、ひやりとした線が走る。
次いで、ぬるりと血が流れた。
薄く切られたのだ。
アリィスは喉に力を入れて声を出そうとする。
だが、傷のせいでうまく言葉にならない。
「ぅあ……っ!」
その様子を見ていたサナが、貯水槽の陰から飛び出した。
「あなたたち、アリィスさんに何を……!」
サナはライフルを構える。
だがその刹那、銃身が、
まるで紙を裂くように容易く、真っ二つに裂けた。
何に斬られたのかは、見えない。
「えっ?」
サナが呆然と立ち尽くす。
そんな彼女に向かって、
サンフロゥは穏やかな口調のまま語りかけた。
「あなたは警備部のサナさんですね。ちょうど探していたんですよ。労災の補償手続きを進めたいので、また書類の提出をお願いします」
「え、あ、はい?」
サナは完全に、サンフロゥのペースに呑まれていた。
その一部始終を腕組みしたまま見ていたキルキリカは、腕時計をちらりと確認し、うんざりしたようにため息をつく。
「はぁ……もうこんな時間かよ」
そしてそのまま、首元から血を流しているアリィスへ歩み寄ると、小さなケースを放った。アリィスは反射的に、それを受け止める。
「そいつをウィンターに返しといてくれ。中身を見れば、まあ分かる」
アリィスはケースをそっと開く。
中に入っていたのは、
青い宝石がはめ込まれた指輪だった。
「私が自我を失って兵器になった。そういう話をウィンターから聞いたんだろ?」
キルキリカは、少しだけ視線を逸らしながら続ける。
「……たしかに私は、エクスマキナの拒否反応を起こして、一時的に自我を失った。けど、そうなる可能性を想定して、人格データをバックアップしてたんだ」
声が出せないアリィスは、黙って話を聞いている。
キルキリカは、低い声でさらに言葉を継いだ。
「そもそも、最初の被検体になったのは、私が志願したからだ。軍用エクスマキナに危険性はないって、自分の身で証明するつもりだった。でも、失敗した」
風が吹く。
キルキリカの金の髪が、夜の中でなびいた。
「……それからバックアップを使って治療して、自我が戻ったころには、もうウィンターは会社を辞めてた。逃げたんだって聞いた。……私は、ずっと信じてたのにさ」
そう言い残し、キルキリカは背を向ける。
エアクラフトへ戻っていく彼女のあとを、サンフロゥが追った。
深く、遠い夜空の向こう。
宇宙には、無数の星々が瞬いている。
サンフロゥは、エアクラフトに乗り込む前に振り返る。
「アリィスさん。我々テロメア社について、街なかでは悪い噂ばかり耳にするでしょう」
その声は、変わらず穏やかだった。
「ですが、テロメア社はこの竜理の国において、トップクラスの超巨大企業です。テロメアで働く人、その家族――この国には、テロメアに関わる人間が無数にいます。その数だけ、テロメアを見ている目と、聞いている耳があるということです」
夜風が、和装の袖を揺らす。
「それだけ多くの目と耳がありながら、なお巨大企業として存続しているのは、我々が掲げる倫理と理念、そのうえに築いた信頼ゆえです。人は光より、闇を知りたがる。……ですが、けっして惑わされないでください」
そして、ほんのわずかに微笑んだ。
「次に会うときは、お茶でも飲みながら、じっくり魔法について語り合いましょう。あなたの魔法論を、心から尊敬しています。アリィス・テレジア」
サンフロゥはそう言い残し、
静かにエアクラフトへ乗り込んだ。
◇
リューガローガのとある高層マンション。その最上階の一室に、アリィスとサナ、そしてウィンターが集まっていた。ここは、ウィンターの部屋である。
意外にも整えられた広いワンルームには、黒と白のモノクロを基調にしたモダンな家具が並んでいる。その中に、アコースティックギターやレコードプレーヤー、釣り竿、ゲーム機といった、ウィンターの趣味らしい品々が無造作に混ざっていた。
一面のガラス窓の向こうには、銀の煙が舞う、リューガローガの黒く輝く街並みが広がっている。夜はもう深い。それなのに明かりは多く、誰も彼も眠ることを忘れてしまったみたいだった。
色とりどりの料理が並ぶローテーブルに顎を乗せ、頬を膨らませているアリィスに、ウィンターが声をかける。
「アリィス? もう喋れそうか?」
「うぃー」
「右眼も痛くない?」
「眼も喉も痛くない。てか、おめぇーはママかよ」
「あたしゃ医者だよ。ドクター・ウィンターさ」
サナはそんな二人の会話を聞きながら、ピザを頬張っていた。
「そういえば……さ」
アリィスは少し言葉を詰まらせながら、
となりに座るウィンターの前へ小さなケースを置いた。
キルキリカから預かっていたものだ。
「仲のいい同僚って聞いてたけど。そういう、その……関係だったんだな」
「そうさね。アタシとキルキリカは当時、付き合っていた。お互い、どうもオトコは好きになれんでね。んで、自然とオンナ同士でくっついてた」
ウィンターは缶ビールを煽りながら、続きを話す。
「その日は、プロポーズするつもりだったんだ。指輪買って、仕事終わりに渡そうと思ってた。――待ってた。んで、自我を失って暴れているあいつと会った」
「その顔の傷はその時に?」
「ぴんぽん、正解。顔をずばぁっと切られて、血がいっぱい出て。アタシそれで、怖くなって、指輪のケースを落としたことにも気づかないまま、工場の外へ必死に走って逃げた。逃げて……逃げて、そのまま、会社からも逃げた」
缶ビールを片手に持ったまま、
ウィンターはテーブルにおでこをくっつけた。
サナはピザを一切れ、アリィスの口へぐいと突っ込みながら言う。
「仕方ないですよ。誰だって、そんな状況になったら怖くて逃げますって」
「もぎご、もぐごご……」
ウィンターはおでこをテーブルにくっつけたまま、独り言のように呟く。
「……ほんとーに、大好きだった……愛してた……」
そう呟きながら、またビールを飲む。
「なんで……アタシ、逃げちゃったんだろ……」
しばらく、部屋は静けさに包まれた。
ピザをようやく飲み込んだアリィスがテーブルから顔を上げると、いつの間にか外へ出ていたイフが、部屋の中に立っていた。
いや、正確には。
何かを指差していた。
それは、壁に貼られた一枚のポスターだった。
〈アリィス~!! ここ!! ここ行こうよっ!!〉
イフが大声で叫んでいる。
もちろん、サナにもウィンターにも聞こえないし、見えてもいない。
アリィスはポスターに書かれた文字を読み上げる。
「――魔法博物館“ライラック”。……魔法博物館っ!? え、行きたい!!」
突然、大声を出したアリィスに、
サナとウィンターの肩がびくっと跳ねた。
「どうしたんですか、アリィスさん?」
「いや、ほらあれ! あそこに行こう。サナとウィンターも一緒に!」
急に、魔法博物館に行くことになった二人。
ひどく酔ったウィンターは、勢いよく立ち上がって叫ぶ。
「いいにゃー!! アリィス、サナ、行こうぜ!! おらぁ!!」
それが、彼女なりの強がりだったのかどうかはわからない。だが、とにもかくにも、アリィスの次の寄り道は、魔法博物館『ライラック』に決まった。
イフは、楽しそうにその場でへんてこな踊りを踊っている。
アリィスの脳裏には、工場で見た、ポッドの中の少女の姿が一瞬よぎった。けれど、いま考えたところで答えは出ない。テロメアはいったい、光なのか、闇なのか。
その答えは、まだ見えない。
だから、いまはすべてをさておいて。
アリィスたちは、一晩中パーティーを楽しんだ。




