ケーキを崩さない飛び方
ダンの第三式を整備するのは、これで三度目だった。
「粉、入ってますよ」
「パン屋だからな」
「知ってますけど」
ミラは細い刷毛で関節の隙間を払った。白い粉が作業台へ落ちる。
「毎日拭いてるぞ」
「表面だけでしょう」
「水で洗ってる」
「それより刷毛で払ってください」
向かいに座ったダンが困ったような顔をした。
戦争が終わってから、もう九ヶ月ほどになる。
ダンの左腕に使われている第三式も、すっかりパン屋の腕になっていた。真鍮色の表面には細かな傷が増えた。手首の付け根にも小麦粉があり、親指の脇には薄い焦げ跡があった。
「これ何です?」
「天板だろ」
「熱いもの持つなって言いましたよね」
「布越しだ」
「じゃあ布をもっと厚くしてください」
ミラは指先へ魔力を流した。
金色の線が淡く光る。
人差し指を押す。
指先が少しへこみ、その奥で硬い骨格が支える。
半年前、卵を潰さないように作り直した部分だ。
「指先は問題なさそうですね」
「ああ」
「卵は?」
「もう割ってない」
「おお」
「何だ、その反応」
「いや。私の改造、半年もったんだなって。いや〜流石、私」
「そっちか」
ダンが呆れた。ミラは次に親指をチェックした。少し動きが鈍い。
「ここ、調整します」
「頼む」
「赤ちゃんは?」
何となく聞くと、ダンの顔が緩んだ。
「先月生まれた」
「あれ。もう生まれたんですか」
「言ってなかったか?」
「ニルから順調だとは聞きましたけど」
「女の子だ」
ダンが右手で、これくらいだ、と大きさを示した。どう考えても、そんなに小さくはない。
「抱けました?」
「ああ」
「左腕で?」
「左腕で」
それだけ言って、ダンは少し笑った。
「昨日、こいつの指を掴んだ」
「壊れませんでした?」
「……どっちが?」
「腕」
「赤ん坊の心配をしろ」
怒られたミラは笑いながら、親指の術式を少しだけ調整する。
そのときだった。
ゴオッ、と低い音がした。
店の窓が震えた。
作業台に置いていた小さなネジが少し転がる。
「うわ」
ミラは反射的に窓を見た。そこにはもう何もない。
「何?」
音はもう遠ざかっている。ダンは特に気にした様子もなく、ケロッとしていた。
「ああ。配達だろ」
「配達?」
ミラは椅子から立ち上がり、窓を開けた。空を見上げる。小さな飛行機械が、屋根の向こうへ消えていくところだった。
「……三三七式?」
見覚えがある。
細長い胴体に二枚の翼。
前線でも何度か見た、小型の無人偵察機だ。
敵地の上空を飛び、地形や部隊配置を記録して戻ってくる。ただし、今飛んでいった機体には軍の識別章がなかった。
代わりに腹の部分へ大きく文字が書かれている。
『西部急送』
「何あれ」
「だから配達だ」
「……偵察機ですよ?」
「今は配達してるぞ」
「いつから?」
「知らん。二ヶ月くらい前じゃないか」
知らなかった。
「ありゃあ早いぞ。昨日頼んだ道具が今日来た」
「そりゃ来るでしょうね」
敵地を偵察して帰ってくるための機械である。
隣町へ荷物を届けるくらいなら、朝飯前だろう。
「……何運んでるんだろ」
「何でも運んでるらしいぞ」
「へえ」
ミラは窓を閉めた。
「まあ、武装外してあるならいいか」
「武装あったのか?」
「一応」
「今の話、聞かなかったことにする」
「そうしてください」
ミラは再び第三式へ向き直った。
親指の調整を終え、腕をダンへ返す。
「はい。これで大丈夫」
「助かる」
ダンが第三式を左肩へ接続する。
真鍮色の塊が形を変えた。肩から腕へ。腕から手首へ。最後に五本の指が形を作る。
ダンは何度か手を握った。
「軽いな」
「粉詰まってましたからね」
「そんなにか」
「次はもうちょっと早く持ってきてください。あと日々のお手入れも忘れずに」
「へいへい」
***
その日の夕方。
店のベルが鳴った。
「はーい」
店へ出る。
作業着姿の男が立っていた。胸元には見覚えのある文字が刺繍されている。
『西部急送』
ミラは男を見た。
「…………」
「こちら、軍用機械も見てもらえると聞いたんですが」
嫌な予感がした。
「何が壊れました?」
「ケーキです」
「…………」
ミラは少し考えた。
「うちは菓子屋じゃないですよ」
「知ってます」
***
翌日。
ミラは西部急送の配送所にいた。
街の外れにある大きな倉庫だった。荷馬車が何台も並び、その奥に三機の飛行機械が置かれている。
「本当に三三七式だ」
ミラは一機の周囲を歩いた。
正式名称は第三三七式無人偵察飛行機。
戦争中、前線のさらに向こうへ飛ばすために作られたものだ。
地上から設定した地点まで自動で飛行し、偵察記録を持ち帰る。
機体の下部を見る。
「偵察器は?」
「外しました」
「通信器は?」
「それも」
「武装は?」
「払い下げの時点で外されてました」
それなら何の問題もない。
偵察器のあった場所には、四角い荷箱が取り付けられていた。
「これ、そちらで?」
「うちの整備士が付けました」
「へえ」
悪くない。
荷箱は機体の重心近くに取り付けられている。
多少荷物の重さが変わっても飛行に影響しないよう、固定術式も調整されていた。
「普通に使えてるじゃないですか」
「普通の荷物なら」
昨日の男が木箱を持ってきた。
蓋を開ける。
「…………」
ミラは中を見た。ぐちゃぐちゃの何かがそこにはあった。
「ケーキです」
「だったものでは?」
赤い果実。
白いクリーム。
薄い焼き菓子。
それらが箱の片側へ寄り、ひとつの塊になっていた。
「出発したときは綺麗だったんですよ」
「でしょうね」
そうでなければ苦情にはならない。
「毎回です?」
「いえ。三回に一回くらい」
「他の荷物は?」
「特には。瓶も割れたことないです」
「瓶が無事でケーキだけ死ぬの?」
ミラはうーんと考えてから言った。
「とりあえず飛ばしてください」
***
一回目。
飛行機械は何事もなく戻ってきた。
荷箱を開ける。
試験用のケーキも無事だった。
二回目。
同じだった。
「……壊れてないんじゃないです?」
「壊れますって」
「ケーキ屋さんのせいじゃなく?」
「最初はうちもそう思いました」
配送所の男が困った顔をした。
「だから積む直前にも確認してるんです」
「なるほど」
ミラはもう一度機体を調べた。
飛行術式。高度維持。方向制御。帰還術式。障害物検知。
異常はない。
「……最近こんなのばっかりだなあ」
壊れていないものばかり持ち込まれる。
「もう一回」
「まだやります?」
「壊れるまでやります」
「壊れてもらっても困るんですけどねぇ……ケーキ、高いんですよ」
「そっちが依頼したんでしょう」
三回目。
飛行機械が離陸した。
上昇。
旋回。
問題ない。
ミラは空を見上げる。
そのとき、屋根の向こうから鳥が飛んできた。
一羽。
機体の進路を横切る。
次の瞬間。
飛行機械が跳ねた。
「うわっ!」
急上昇。
機体を大きく傾け、一気に旋回する。
鳥の上を通り過ぎる。
急降下。
姿勢を戻す。
何事もなかったように元の航路へ戻った。
「…………」
ミラは黙った。
配送所の男も黙った。
「……あれです」
「あれですね」
戻ってきた機体から荷箱を外す。
蓋を開ける。
ケーキは壁に張り付いていた。
「死んでますね」
原因は分かった。
回避術式だ。
「これ、残してたんですね」
「飛ぶのに必要なのかと」
「飛ぶのには要りませんよ」
ミラは機体側面の点検口を開ける。
いくつもの魔法陣が重なっている。
その中から回避術式を探した。
「あった」
戦場では必要なものだった。
敵の魔導弾や砲撃。他の飛行機械。
高速で接近するものを検知すれば、即座に最大出力で回避する。鳥かどうかを確かめる必要などない。
「これ切ればいいんじゃないですか?」
「大丈夫なんですか?」
配送所の男に聞かれて、ミラは黙った。
「…………」
「大丈夫なんですか?」
「鳥にはぶつかるかもしれません」
「駄目じゃないですか」
「ですよね」
術式から手を離した。
回避しなければ荷物は守れる。
しかし、機体が鳥や建物にぶつかっては意味がない。
「これ、私じゃ無理ですね」
「直せないんですか?」
「壊れてないですし。飛行術式は専門じゃないんですよ」
ミラは点検口を閉じた。
「三三七式に詳しい人、いません?」
「……一人、心当たりがあります」
***
二日後。
「誰がこんなことした」
配送所に着くなり、男は言った。
ジンという名前だった。
四十代くらいの痩せた男で、軍人ではないという。
戦争中は軍に雇われ、三三七式をはじめとする飛行機械の整備と調整を担当していたらしい。
今は民間の工房で飛行術式を扱っているという。
「うちです」
西部急送の整備士がおそるおそる手を挙げた。
ジンは三三七式の腹に付いた荷箱を見ている。
「偵察器は」
「外しました」
「通信器は」
「外しました」
「武装は」
「払い下げ前に軍が」
「そうか」
少し安心したらしい。
次に荷箱を叩く。
「これは」
「荷物を入れます」
「見れば分かる」
ジンが嫌そうな顔をした。
「三三七式だぞ」
「今は配送機です」
ミラが言った。
「お前は誰だ」
「修理屋です」
「これを弄ったのか?」
「まだ何も」
「ならいい」
感じが悪い。ミラは回避術式の図面を見せた。
「鳥一羽でこれ、やりすぎじゃないです?」
「当たり前だろ」
「当たり前なんですか?」
「敵弾か鳥か確認してから避けてたら落とされる」
ジンは即答した。
「飛んできたものは全部避ける。三三七式はそういう魔導機器だ」
「でも今、運んでるのはケーキです」
「知るか。偵察機だぞ」
「今は配送機です」
ジンが頭を抱えた。
「回避術式を弱くしたいんです」
「……どれくらい」
「ケーキが崩れないくらい」
「分かるか! なんだその基準!?」
怒られた。
「じゃあどうすればいいんです?」
「知らん。俺はケーキを飛ばしたことがない」
「私もないですよ」
二人で三三七式の点検口を覗き込む。
飛行術式の細部は、ミラには分からなかった。
魔力がどこから入り、どこへ流れ、何を動かしているか。
そこまでは追える。
しかし、翼をどの角度まで傾けていいのか。どの速度なら失速しないのか。どれほど急に高度を変えられるのか。
そこから先はジンの領分だった。
「ここは?」
「触るな」
「何で?」
「姿勢制御」
「これは?」
「高度維持」
「これは?」
「それ切ったら落ちる」
「先に言ってくださいよ」
ジンがミラを見る。
「お前、本当に整備士か?」
「魔義肢が専門です」
「全然違うじゃないか」
「だから呼んだんでしょう」
しばらくして、ミラは回避術式の一部を指した。
「これ、反応が一種類しかないんですね」
「ああ」
「何か来たら全部最大回避?」
「一定距離に入ればな」
「遠くても?」
「距離に入れば」
「鳥でも?」
「鳥でも」
「雑だなあ」
「戦争中にそんな細かい注文する奴はいない」
ミラは紙を引き寄せた。
「……三つくらいに分けられません?」
「何を」
「回避」
紙に三本の線を引く。
「遠くに何かいたら、少し進路を変える」
「それで」
「近づいてきたら、大きく避ける」
「それで」
「本当にぶつかりそうなら」
ミラは元の回避術式を指した。
「これ」
「最大回避か」
「そのときはケーキも諦めます」
「諦めるのか」
「墜落するよりいいでしょう」
ジンが紙を見る。
しばらく黙ってから、ミラの鉛筆を取った。
「距離だけじゃ駄目だ」
「何で?」
「相対速度も見る」
「相対速度?」
「こっちへ向かってくるなら早く避ける。離れていくなら放っておけばいい」
紙に線が増える。
「あと旋回角。通常回避ならここまで。高度変更も抑える」
「それならケーキ大丈夫です?」
「知らん」
「専門家でしょう」
「飛行機の専門家だ。菓子屋じゃない」
また怒られた。
***
最初の調整では、まだ回避が急すぎた。
ケーキの上から果実が二つ落ちた。
「惜しい」
「これくらい良くないか?」
「売り物ですよ」
「戦場なら機体が戻っただけで合格だぞ」
「今は戦争じゃないです」
ジンが何か言い返しかけて、やめた。
二度目。
回避を始める距離を伸ばす。
危険を検知したらすぐに急旋回するのではなく、早い段階から少しずつ進路をずらす。
飛行機械が離陸した。
しばらくして、鳥が二羽飛んできた。
三三七式が少しだけ翼を傾ける。
急上昇しない。
急旋回もしない。
大きな弧を描いて、鳥の後ろを通る。
そのままゆっくり元の航路へ戻った。
「……遅いな」
ジンが言った。
「いいじゃないですか」
「三三七式なのに」
「配送機ですから」
機体が着地する。
荷箱を開けた。
白いクリーム。
赤い果実。
薄い焼き菓子。
全部、出発したときの場所にあった。
「ケーキですね」
ジンが言った。
「ケーキですね」
「やっとか」
「二回ですけどね」
「十分だろ」
配送所の男が横から覗き込む。
「これなら運べます」
「そうですか」
ミラはほっとした。
ジンはまだケーキを見ていた。
「……もう一回飛ばすぞ」
「十分なんじゃないんですか?」
「確認だ」
実験に使ったケーキは、商品にはせずに最後に皆で食べることになっている。
「……もう一回?」
「確認だ」
気に入ったな、このおっさん。
***
帰り際。
ジンが三三七式の横で煙草に火をつけた。
ミラも一本取り出す。
「俺は飛ぶものを直してた」
「私も似たようなものですよ」
「飛ぶものを?」
「壊れたものを」
ジンが少しだけ笑った。
「次に飛行機を弄るときは、先に呼べ」
「次がある前提なんです?」
「お前、さっき高度維持切ろうとしただろ」
「切ってませんよ」
「触ろうとはした」
「だから聞いたじゃないですか」
ジンは答えず、紙切れに工房の住所を書いた。
「持ってくるな。呼べ」
「最近は大抵持っていけませんよ」
三三七式を店へ運ぶところを想像して、ミラは笑った。
***
それからしばらくして。
ミラは昼飯を食べに、向かいの食堂へ向かっていた。空は晴れていた。通りへ出ると、頭上から低い飛行音が聞こえてくる。
ふっと、通りに影が落ちた。
見上げる。
『西部急送』
三三七式だった。
以前より随分ゆっくり飛んでいる。
腹には四角い荷箱。
向こうから鳥が一羽飛んできた。
ミラは足を止めた。
飛行機械が少しだけ翼を傾ける。
すうっと横へ逸れる。
鳥が通り過ぎる。
機体は大きな弧を描き、元の進路へ戻った。
「あ、ケーキ!」
近くにいた子供が空を指差した。
「ケーキだ!」
もう一人が走り出す。
二人で飛行機械を追いかけていく。
「全部ケーキじゃないと思うけど」
誰に言うでもなく呟く。
飛行機械は急ぐ様子もなく、街の屋根の向こうへ消えていった。
食堂の扉を開ける。
「いらっしゃい」
ニルの父親の声が飛んでくる。
今日も花柄の前掛けをしていた。
「まだ空いてる?」
「いつものとこ」
「はーい」




